数多の英雄が活躍し、そして散っていった三国志の舞台は大体184年の黄巾の乱から始まり234年に諸葛亮孔明が亡くなる間の50年間の話だ。
その後の展開を知っている人は少ないと思うが、曹操が必死になって基礎を作った魏と言う国は司馬懿とその子孫によって滅ぼされ、司馬氏の支配する晋の国が建国され、蜀も呉も晋によって統一されることになる。
漢帝国以来中華を統一した晋であったが、司馬氏一族同士の内乱が続き、中国は三国志時代以上の混乱期を迎える。
そこを突いてきたのが五胡と言われる5つの異民族たちだった。
彼らは中国の北半分である河北を占拠し、次々と国を建てて行った。晋は東方の都建業(現在の南京)に東晋を建国し、時代は「五胡十六国時代」に突入していく。
そんな混乱の時代に久しぶりに表れた英雄と言えるのが五胡の一つチベット系氐(てい)族の苻堅という人物だ。
一視同仁
苻堅は長安を都とする前秦という国の第三代目の君主で、建国の祖苻建の甥として生を受けた。苻建の後を継いだ二代目の苻生は暴虐の限りを尽くしており、酒色女色の耽り政治を行わず、疑心暗鬼になって恐怖政治を行っていた。
苻堅自体も幾度となく殺されそうになったが、左衛将軍であった李威という人物の活躍もありなんとか生き延びていた。
ある時二代目君主は酔った勢いで苻法(苻堅の兄)を殺害する旨を女官にもらしてしまう。それを聞いた女官は苻法にそのことを報告、弟と共に二代目君主を排除した。
苻法は自らの意思で弟に君主になることを勧め、苻堅はこれを固辞したが、結局母の勧めもあり大秦天王に即位することとなる。
その後は人事を固め、漢民族出身である王猛を重用し、治安の回復、街道の整備、不要な官職の統廃合、神祇の祭祀、農業の奨励、学校の設立など内政を固め、貧民あらば積極的に助け、この時代には珍しい善政を行うようになる。
善政は国力の充実を招き、苻堅率いる前秦は鮮卑族の支配する前燕や代国を始め五胡および漢民族の諸国家を統合し、華北の覇者となる。
苻堅には夢があった。
それは「一視同仁」と言って、あらゆる民族が差別なく平等に、幸せに暮らしていく社会を作り上げることだった。
その実現に向け苻堅は多少無茶な政策を行う。
民族融和のためにと首都長安の近くに鮮卑族や羌族を住まわせ、自らの出自である氐族を長安から離れた場所に移住させた。
さらに漢民族の官僚や鮮卑族や羌族の将軍を重く用い、やはり氐族を優遇しないという姿勢を貫き、これが後にアキレス腱となっていく。
これらの代表が漢人の王猛と鮮卑族の慕容垂の2人であった。
これらの将軍は軍事的才能および政治的才能に恵まれており、前秦の発展に大いに寄与した。その反面氐族からの反発は強く、特に苻堅の親族たちからは反感を買った。
苻堅は決断力に富む君主であったが、それゆえに部下の反対意見などは聞かないところがあった。
彼は夢の実現のために中華帝国を統一すべく東晋との決戦を決意するのであった。
淝水の戦い
世界史には、歴史を決める戦いというものがいくつかある。日本なら関ケ原、ローマならファルサロス、オスマン帝国ならモハーチの戦いといったように、ただ一つの戦いの成果が国の行く末を変えてしまう。
中国の歴史を見た時に、383年に起きた淝水の戦いは大きく中国の歴史を変えたであろう。
前秦の苻堅は河北を統一すると荊州の最重要都市である襄陽をも攻め落とし、東晋の首都建康へと軍を進めた。
その兵力は100万を号し、五胡に加え漢人もそこに加わっていた。
まさに一視同仁の夢を体現した部隊である。
対する東晋の兵力は6万程度であったと言われている。
*手元の資料によれば前秦の兵力は870000、東晋の兵力は80000となっている。これは恐らくは誇張で、前秦の兵力はその半分未満だと思われる。それでも前秦が兵力において東晋を圧倒的に上回っていたのは確かであろう。
4世紀最大の戦いを制したのはだが、圧倒的に不利なはずの東晋であった。
一体なのが起こったのか?
苻堅にとって不幸がいくつかあった。
東晋の宰相である謝安が有能であったことや、慕容垂以外の群臣の多くがこの遠征に反対していたこともそうだったが、その最たるは王猛が淝水の戦いの前に死去してしまっていたことであろう。
前秦の連勝は主に王猛の活躍によるところが大きく、混成民族部隊をよく指揮し、部内をよく統率していた。
その要を失った軍隊は脆かった。
前秦の軍内にいる漢民族は戦いの最中、多くが東晋に寝返ったのだった。それを見た匈奴族や鮮卑族などが早々に戦線から離脱、元々乗り気ではなかったこともあり兵士が次々と逃げ出していく始末。
対して国家存亡の危機にあたっての東晋は必死であった。部隊の統率は取れ、士気は非常に高かった。
戦況を左右するのは兵士の士気である。古代ギリシャが強大なペルシャ帝国に勝利できたのは国を守る意識と士気の高さがあったからである。
一視同仁は苻堅だけの夢であった。
前秦はこの戦いによってまとまりを失い、臣下は相次いで離反、もしくは前秦に対して反乱を起こした。
苻堅の最期は、自ら厚遇した羌族の将軍姚萇によるものであった。
苻堅亡き後の前秦は急速にその勢力を失い、華北は再び群雄の割拠する戦乱の時代へと突入していった。
苻堅と仏教保護
苻堅の名はあまり高校の教科書には出てこないが、彼の保護した鳩摩羅什の名は世界史の教科書にも高い頻度で登場している。
苻堅は仏教の保護者であり、鳩摩羅什は前秦が西域の亀茲国(クチャ)を支配した時に保護した人物で、鳩摩羅什が中国に到着した時には既に苻堅は無くなっていたが、中国で仏教が発展する礎を築いた人物で、華北で発展した仏教はやがて日本やタイなどに広まり、現代でも強い影響力を持っている。
苻堅は襄陽を占拠した際にも道安という高名な仏教の僧侶を保護しており、「10万の兵をもって1人半を得た!」と言って大層喜んだという。
*半というのは弟子が一人ついてきたため。
苻堅という人物がいなければ華北で仏教が普及することはなかったであろうし、今日我が国に仏教が伝わることもなかったかも知れない。
文化的な面でも政治的な面でも苻堅という人物の影響は非常に大きかったと言えるだろう。
個人的な苻堅の評価
苻堅はドリーマーである。
五胡十国時代や魏晋南北朝時代、為政者にはロクな人間がいなかった。暴君暗君量産の時代と言え、華やかな六朝文化が花開いた影で血で血を洗う抗争がひたすら続いて行った。
その中で広大な理想を掲げ、富国強兵を実現し、その理想を叶えんとした苻堅はこの時代の数少ない英雄の1人だと言えるだろう。
彼の治世の成功は王猛という1人の有能な人物によるところが多く、彼が亡くなってしまってからは混成国家をまとめる人物がいなくなってしまった。
民族の出自に捕らわれず優秀な人物を採用した点において苻堅は優秀な君主だったと言える。
それは曹操や織田信長などにも共通していることであり、苻堅の持つ寛容さはローマ最大の英雄カエサルに通じるものがある。
これまでの常識にとらわれず政治を行った革新者であったはずなのだが、彼は最終的には失敗してしまった。
曹操もカエサルも織田信長も、ここ一番の戦いには勝利したが、苻堅は逆にここ一番の戦いに負けてしまったのが原因であると思われる。
淝水の戦いに仮に前秦が勝利していたら、中国の歴史は大きく変わっていたであろう。
苻堅は基本的には非常に優れた君主であったが、信長やカエサル同様急速な改革によって自ら厚遇した部下に殺害されてしまう点も共通している。
寛容さは時に仇となる。
夏目漱石の言ったように「知に働けば角が立つ,情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ、とかく人の世は住みにくい」
正義が勝つのではなく、勝った者が正義と歴史を作り上げていくのだ
中国が再び統一されるには、これ以降200年の時を要する。