人材コレクターの異名をとる曹操配下の中でも、張遼や張郃と共に5将軍と言われるほどの活躍をしたのが徐晃という人物だ。
大斧を持ちて曹操の前に立ちはだかる
荀彧の進言に従って漢の献帝を保護した曹操の前に、車騎将軍であった楊奉の軍勢が立ちはだかる。
「待てい曹操、天子様を連れてどこへ行く気だ?」
手には大きな斧を持ち、威風堂々たる威容で曹操に迫ったのはまだ若き日の徐晃だった。
気迫と共に曹操に突っ込んでいく徐晃を、親衛隊長であった許褚が止める。
打ち合うこと50合、両者譲らぬ打ち合いの末徐晃は本陣へと帰っていった。
許褚と互角に打ち合えるほどの武将を、曹操が欲しがらない訳がない。
「誰かあの武将を口説ける者はおるか?」
その問いに満寵という人物が答えた。かくして満寵はこっそりと楊奉の陣営に忍び込み、徐晃のもとへとやってきた。
最初は頑なに申し出を断っていた徐晃だったが、満寵の言った一言に心を動かされた。
「良き林檎は木を選び、賢臣は主を選ぶ」
徐晃は悩んだ。楊奉が果たしてこの乱世を治められるほどの器であろうか?
では曹操は?
呂布軍・袁紹軍との戦い
曹操配下となった徐晃はさっそく呂布との戦いにおいて趙庶・李鄒の2人の将軍を降伏させる活躍を見せた。
続く袁紹との戦いにも参戦するが、白馬の戦いにおいては袁紹軍最強の武将顔良の前にあわやあと一歩というところまで追い込まれてしまう。
もはやこれまでと思った徐晃を救ったのは当時曹操のもとにいた関羽であった。
続く官途の戦いでは荀攸の進言に従って敵軍の兵糧輸送車を焼き払う軍功をあげ、曹操軍の勝利に貢献した。
袁紹が病死をすると徐晃は残党を次々と降伏させ、後を継いだ袁譚軍との戦いでも大活躍、袁家の残党と手を組んだ異民族烏桓の盟主(大人)蹋頓攻めにも参加。
歴戦の勇士
人材豊富な曹操軍の中でも、楽進や于禁、張遼、張郃、そして徐晃は主要な戦いには常に参加していた。
曹操軍の戦いにおいて、5人のうち誰かが先鋒になり、撤退する際には最も重要な殿(しんがり)を徐晃が守ったという。
曹操がこれほどまでの短期間の間に中国の半分を制圧できたのは、人材の選択と集中が巧かったからであろう。
重要な戦いには勝率の高い将軍を投入する。
後に5将軍と呼ばれる5人の将軍は、曹操軍の中でも特に勝率の高い将軍であった。
徐晃は曹操軍において重要な戦いには大体参加している。
劉表を攻めた荊州攻めの際には満寵と組んで関羽の軍を退け、周瑜の軍を攻撃し、反乱が起これば鎮圧に向かい、馬超が侵攻してきた時にはこれを向かい討ち、北方異民族である氐族も討伐し、涼州の軍閥であった梁興を斬り、漢中に根を張る張魯の攻略戦にも参加した。
これでよく過労死しなかったなと思うぐらいの奮闘ぶりである。
時は219年、曹操の従弟である曹仁が樊城にて関羽の軍に包囲されていた。
5将軍の1人である于禁はすでに関羽に降伏し、荊州は劉備軍のものにならんとしていた。
徐晃は関羽軍の包囲網に疾風の如く突撃を敢行し、関羽の息子である関平、次いで歴戦の名将である廖化を蹴散らすと関羽と対峙した。
徐晃の姿を見ると関羽はなつかしさからか声をかけた。
徐晃の側も関羽になつかしさを感じたのか、2人はしばしば歓談にふける。
しかし徐晃は突然厳しい表情になり、「これは国家の大事、私情を以て公事をおろそかにはできぬ!」と言ったかと思うと、部下に向かって大声で叫んだ。
「雲長の首をあげしものには金貨1000枚の褒章をとらせる!」
そしてその勢いで関羽に向かって打ちかかった。
関羽はこの時腕に傷を負っており、これはたまらんと兵を引き払って退却していった。
やがて諸葛孔明が北伐を開始すると司馬懿に従って徐晃も参戦。
その際、蜀の孟達が魏の軍に降伏してきたのでこれを受け入れた訳だが、これが孔明の罠だった。
孟達は徐晃の額に矢を放ち、そのまま絶命してしまう。
長年魏を支えてきた名将の最期にしてはあわれすぎる・・・
正史での徐晃
と、いうのは演義の創作である。
実際の徐晃は孔明が北伐を開始したその年にまさに病死しており、孟達のような小物に殺されたという事実はない。
三国志演義は蜀の面々を主人公とした創作であり、魏の面々は敵役として実際よりかなり貶められてしまっている。徐晃はその最たる例の1人であろう。
演義において孟達のような小物に殺されたのは、ひとえにこの意図的な「貶め」によるものである。
実際の徐晃はまず、楊奉を裏切ってはいない。楊奉に対し曹操軍に降伏した方が良いと進言はしたが、楊奉は曹操との闘いを決意し、そして負けた。徐晃はその際曹操に降伏している。
次に、徐晃は顔良には負けていない。
「正史三国志」では、実は誰が顔良に勝ったのかは判然としない。荀攸の記録にも関羽の記録にも、徐晃の記録にも顔良に勝ったという記録がある。多分何人かの軍団で顔良に勝利したのであろう。
ついでに徐晃は文醜に勝利した旨の記録もあり、それ以前には劉備の軍も破ったという記録もある。演義よりも正史の方が戦上手であったようだ。
各地を転戦したのも本当だし、樊城にて関羽の包囲網を破ったのも史実に残っている。
包囲網を破る際の突撃は曹操が大いに評価しており、「長駆直入」の故事のもとになったほどである。
「長駆直入」というのは、遠方から一気に突っ込むことを意味する四字熟語で、曹操は「孫武・司馬穰苴にも勝るものであろう」と言って徐晃の功績を称えた。
曹操が死に、曹丕の時代になると徐晃は前将軍に任命され、魏が建国されると領土を得た。
その後も劉備軍を破り、曹仁とともに呉に奪われていた襄陽を奪還するなど活躍を見せ、227年に永眠した。
後に魏建国の功臣20人が選ばれた際、徐晃の名前もそこに列挙された。
個人的な徐晃の評価
このような部下がいればなぁと全国の社長さんがうらやみそうな人物だと思う。
なにせ強い。
演義では負け役になってしまっているが、史実ではほぼ負けなしで、三国志全体でも最強クラスの指揮官であると言えるだろう。
宋の時代、張預という人物が中国の名将100選を選んだ際にも徐晃の名があがっており、後代の評価も非常に高く、陳寿は徐晃を曹操陣営で最も功績のあった武将の1人として評価した。
人格的にも清廉潔白であったようで、武功を挙げても決して奢る素振りは見せず、常に「昔の人はよく明君に出会えぬことを嘆いたものだが、わしは幸運にもその明君にお会いすることができた。だから、功績を挙げてこの幸運に答えなければならぬ。個人の功名など何程のこともない」と言い、最後まで私的な交際をしなかったという。
徐晃こそまことの名将である。