ラックランドジョン!欠地王と呼ばれたイギリス史上最悪の暗君ジョン

イギリスの歴史を見ると、中国やローマ帝国と比べても名君が少ない代わりに暗君や暴君も少ないと言える。

それは議会が発展していたので国王の権力がそこまで強くなかったということもあろう。

イギリスではアングロサクソン七王国の時代から賢人会議という議会が存在していたが、イギリス国内の諸侯の集まりである議会の力が強まったのはジョン王の時代のことである。

イギリスで最も暗愚と呼ばれ、以降ジョンの名を語る王がいなくなるほどの大失態を犯したプランタジネット朝ジョン王について見て行こう。

 

ラックランドジョン

ジョンはプランタジネット朝創始者であるヘンリー二世とアリエノールの末弟として生まれた。

二人の間には8人の子供が生まれたが、ヘンリー二世はジョンを特に寵愛していたという。

イングランドはわが国日本と同様に長子相続の伝統があったため、ジョンには告げる土地がなかった。このため彼は「ラックランドジョン」という「土地なしジョン」という意味のあだ名がつけられることになる。

ヘンリー二世はこのことを不憫に思い、ジョンにアンジューの土地を継承させようとしたが、これを不満に思った次男、三男、四男および妻がフランス王とスコットランド王の協力のもとにヘンリー二世のもとに襲い掛かった。

広大な土地と軍事力を持つヘンリー二世はそれでも勝利をするが、次男と四男が立て続けに病死してしまい、三男のリチャードにまたもジョンに土地を分けてやらないかと相談したところ、リチャードはフランス国王フィリップ二世と組んでヘンリー二世を強襲し、ヘンリー二世は息子との戦争中に亡くなってしまう。

フィリップ二世に唆される

 ヘンリー二世が亡くなるとイングランドを始めとした広大な土地を三男のリチャード一世が継ぐことになった。

しかしその即位とほぼ同時に第三回十字軍が結成され、リチャード一世は遠くシリアの地に旅立ってしまう。フランス王フィリップ二世もこれに参加していたのだが、リチャード一世との折り合いが悪く途中で帰国すると、ジョンを唆してイングランド王が持つフランスの領土をわがものにしてしまう。

この時ジョンは自ら王位に就こうとするが、イングランド内のあらゆる勢力に反対されて王にはなれなかった。ロビンフットの伝説に出てくる簒奪を狙う「悪い王」とはジョンのことである。

帰国したリチャード一世は激怒し、フィリップ二世から奪われた土地を取り戻す者の戦で負った傷がもとでこの世を去ってしまう。

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リチャード一世亡き後のイングランド王に誰がなるべきかは揉めた。

リチャードの弟でありジョンの兄でもあるジェフリの息子アーサーが継承権としては上であったが、まだ12歳という年齢であったため、後継者はジョンに決まった。

ジョンが即位した後もアーサーを推す一派のとの抗争が繰り広げられたが、最終的に内戦は終わり、ジョンは伝統に従ってウエストミンスター寺院で戴冠式を行った。

 相次ぐ失政と諸侯の不満~欠地王ジョン~

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ジョンが即位してまずやったことはフランス王フィリップ二世への土地の割譲であった。ヴェクサンとエブルーという土地を割譲した。これは即位の際にフランス王フィリップ二世の後押しがあったからであると言われている。

次にやったことが妃であった前妻と別れアンキテーヌ地方に広大な土地を持つイサベラと結婚したことであったが、この結婚にはイングランド諸侯が反対したばかりかイサベラには既に婚約者がおり、この結婚を不当としてフランス王に訴えられてしまう。

ジョンはアンジュー伯としての地位を受け継いでいるため、フランス王には臣従の礼をとっており、フランス王からの召喚に応じる義務があったがこれを無視、フィリップ二世との戦争に突入してしまう。

フィリップ二世はジョンの即位そのものを不当とし、アーサーこそが正当な王だと主張。するとジョンはアーサーの軍を打ち破り、彼の身柄を幽閉、しかしその後すぐにアーサーが死んでしまう。

まだ幼きアーサーの死にイングランド諸侯を始めあらゆる勢力が反発、ジョンはイングランドに帰らざるを得ず、その隙にフィリップ二世はノルマンディを始めとしたジョンの領地への侵攻を開始する。

尊厳王(オーギュスト)の名を持つフィリップ二世の前に、ジョンは次々とヨーロッパ大陸における領土を失っていく。

1204年には先祖伝来ともいえる旧ノルマンディ公国領の全てがフランス王の軍門に降り、ジョンのもつ「ラックランド」の意味は土地を継承できないという意味から土地を失った者「欠地王」という意味に転じていくことになる。

彼は「欠地王(ラックランド)」の他にも「甥の殺害者」「腰抜け王(ソフトソード)」「ノルマンディの喪失者」などのあだ名がつけられることになっていく。

ローマ教皇との対立~イングランド王破門される~

フィリップ二世にも天敵がいた。最強のローマ教皇と呼ばれるようになり「教皇は太陽、皇帝は月」という言葉を遺したインノケンティウス三世である。

インノケンティウス三世は離婚問題においてフィリップ二世に波紋を言い渡し、フィリップ二世は結局ローマ教皇に屈服することになるのだが、それはさておきイングランド王とローマ教皇は伝統的に司祭への叙任権について王権と教皇権のどちらが優位かで争っていた。

当時の正式文書はラテン語であり、ラテン語を操れるのは司祭階級のみであったため、司祭階級においては単なる精神的支柱以上の役割を果たしていたのだ。賢人議会を始めとした議会においても司祭階級の議席は多く、その叙任権は非常に重要であった。

ことの発端はリチャード一世時代からの腹心であるカンタベリー大司教のハルバート・ウォルターの死去による後継者任命問題で、ローマ教皇は後継者にスティーブン・ラングトンという人物を推薦してきた。この人物は長い間フランス王に仕えていた人物でもあったため、ジョンはこの叙任を拒否、するとローマ教皇はジョンに対し破門を言い渡し、「聖務停止(インターディテクト)」を宣言した。

ジョンはこれに対し司祭階級の土地を没収し、巨額の地代をせしめることにした。

この資金をもってジョンはノルマンディ奪還を目論んだが、ジョンに従う諸侯は誰もいなくなっていた。

困り果てたジョンはローマ教皇インノケンティウス三世に屈服し、自らスティーブン・ラングトンのイングランド上陸を迎えたという。

もっとも、これ以降インノケンティウス三世はジョンの庇護者となり、こののちジョンがイギリス諸侯の全てを敵に回した時でもジョンの味方となっている。

マグナカルタ(大憲章)

中学生の教科書の、憲法の歴史は「マグナカルタ(大憲章)」から始まる。世界史というよりも政治経済や公民という教科における最重要項目であるが、そのマグナカルタが出されたのがジョン王の時だということはあまり知られていない。

さらにマグナカルタがあまりにもジョンが酷かったために出されたのだということも知られてはいないだろう。

ことの発端はジョンがフランス侵攻をするための課税であった。アメリカ独立の契機ともなったのが印紙法などの課税に関する法律であったが、イギリスでは戦争をするたびに議会で課税をするための法案を出すのが伝統的であった。

ジョンはローマ教皇インノケンティウスを後ろ盾に、神聖ローマ皇帝オットー四世やフランス貴族などとも手を結び、フランス侵攻への準備を着々と進めていたのだが、明らかに軍費用が足りなかった。

そこで父ヘンリー二世が始めた「軍役代納金」の制度を悪用し、諸侯の反発を招いた。

参考までにヘンリー二世は38年間の治世時に8回、リチャード一世は10年の治世の間4度、ジョンは16年の治世で11回と圧倒的に多い。

さらにジョンの取り巻きは兄や父同様英語を話すイギリス人ではなくフランス語を話すフランス人であったのだ。

英語を話すイングランド貴族たちは我慢の限界であった。

思い起こせば1066年にノルマンディ公ウィリアムがイングランド王になって以来、宮廷では英語ではなくフランス語が飛び交い、イングランドの地はフランスの属国と言っても良い扱いを受けていた。

1215年、怒れる貴族たちは祖法の順守をジョンに求めた。

具体的には「エドワード証聖王の法」や「ヘンリー一世の戴冠憲章」などである。ジョンはこれを拒否し、イングランド王とイングランド諸侯との間で内戦が勃発することになった。

この時イングランド諸侯が出したのが「マグナカルタ(大憲章)」である。内容は課税をする際には王の独断では決めず、司祭や貴族、騎士会階級や市民階級からの代表者を招いた議会の承認を必要とするものであった。

ジョンは一度はこれを承認するも翌年に拒否、再び内戦状態になった1216年、突然死んでしまう。

マグナカルタを突き付けられたのはジョンであったが、その実現は次のヘンリー三世の時代に持ち越されることになる。

個人的なジョンの評価

ここまでいいところのない王も珍しい。

どんな暴君や暗君でも一つぐらいは功績があるものだが、ジョンには全くない。清々しいほどない。

近年ではジョンへの再評価の動きもあるようで、実はジョンは優れた行政権を持っているという評価もあるのだが、かなり苦しい。

もっとも、民主政治や憲法の歴史を見るに、マグナカルタはその発端となっており、非常に重要な役割を持っている。それはある意味ジョンの無能さから来ているので、そういう意味ではどんな名君よりも功績は大きいのかも知れない。

現在の議会制民主主義の歴史はジョンから始まるのである。

それにさ、ローマの皇帝や中国の皇帝に比べたらまだマシじゃないか。北宋を滅亡させた徽宗皇帝や劉備や孔明が必至こいて建国した蜀を滅亡させた劉禅に比べたら、政治に興味があるだけまだマシだし、アントニヌス勅令みたいな長期間にわたってローマを衰退させるような悪法を出したカラカラ帝に比べれば、イングランドなんてこれ以降発展した訳だし。

議会に支えられたという点もあるけれど、ジョンぐらいで歴代最低なんだから、イギリスの王は優秀な人物が多かったと思う。

 特出した名君やカリスマもいない代わりに特出した暗君もいない。

良くも悪くもそれがイギリスの歴史と言う気がする。

個人のカリスマがものを言う中国やローマとはその辺りが大きく異なるんだけど、その分歴史としてはやっぱりダイナミックさに欠けてしまうのも確かである。