いぶし銀!魏の功臣「夏侯淵」の魅力について語る!

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三国志にはド派手な人物が多い。

劉備達桃園3兄弟をはじめとして曹操、呂布、孫策、董卓etc

みなある種の魅力に溢れ、目の離せない存在だ。

そんな中、どうにも目立たないけど優秀な人物というのがいる。魏の名将「夏侯淵」なんかはその代表だろう。

今回は曹操の腹心として魏の礎を作った夏侯淵についてくわしく見て行こう!

 曹操の親戚にして四天王

夏侯淵が活躍する話と言えば「蒼天航路」である。

横山光輝三国志や吉川英治の三国志が劉備主人公であるのに対し蒼天航路は曹操が主人公の漫画なので夏侯淵の活躍する場も多い。初っ端から夏侯惇や曹洪、曹仁とともに四天王として活躍してくれる。夏侯淵好きは蒼天航路を読もう!

歴史と言うのは書かれ方でもある。

歴史家がどう描くかによってその人物の後世は決まる。

三国志を書いた陳寿は蜀の人だったので、魏の人物の評価は自然低くなるという話もあるが、正史を読んでいる感じそんな気はしない。明代に成立したという三国志演義はもろに蜀びいきだけれども(^^;)

夏侯淵は夏侯惇の従弟であるということ以外は出自は明らかにされていないけれども、夏侯氏出身の曹操の一族であることは確かだろう。

一応補足しておくと曹操は元々夏侯氏の出身で、漢建国の功臣である夏侯嬰の子孫であるとされる。残念ながら夏侯氏は全体的に没落してしまっていたようで、曹操の父曹嵩は時の大宦官曹騰の養子に入ったので曹氏の姓を名乗るようになっていたのだ。

魏書においては「曹操が若い時に重い罪を受けた際に代わりにそれを被った」という記述があるが、それがどんな罪なのかは全く記述がないのでわかっていない。

いずれにしても曹操が夏侯淵を信頼していたのは確かで、挙兵するとすぐに要職に就けたり重要拠点の太守に任命されていたりする。

黄巾賊の残党との闘いや各地の反乱軍との闘いの中で功績を挙げ、異民族である氐族を打ち破ったり涼州軍閥の1人であった梁興を打破するなど正直地味だけれど重要な活躍をする。まさにいぶし銀と言ったところだろう。

残念ながら馬超が攻めてくると敗北してしまったようだが、韓遂には勝利をしたようだ。その後も涼州戦線では無類の強さを誇り、氐族や羌族は夏侯淵の名前を聞いただけでビビってしまうほどで、曹操はこれらの諸部族との交渉の際にはよく夏侯淵の名前を出したという。

夏侯淵はそのまま漢中の守りを任される。

漢中は漢の高祖が再起を図った場所で、蜀のある益州から長安および当時の中国の中心地とも言える中原にでるためには必要となる土地であるため、劉備の軍が虎視眈々と狙っている土地でもあった。

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画像引用元:http://blog.livedoor.jp/jominian/archives/805528.html

蜀と魏における最重要要所と言ってもよいだろう。

残念ながら夏侯淵は漢中の防衛に失敗し定軍山にて戦死してしまう。

夏侯淵を破ったのは蜀の後将軍黄忠で、夏侯淵はどうしても強い奴には勝てないが弱い奴には徹底的に強いという雑魚専のイメージがついてしまっている。

曹操からは常々「指揮官たるもの臆病な時のなければならない。勇気だけを頼みにしてはならない。指揮官は当然勇気を基本とすべきだが、行動に移す時は知略を用いよ。勇気に任せるしか知らにないならば、一人の男の相手にしかなれぬ」と夏侯淵に言っていたというから猪突猛進な性格であったのだろう。

夏侯淵の評価

夏侯淵は直接戦闘をすることよりも兵站に向いていたのではないかと思う。もちろん戦闘においても無類の強さを発揮していたが、兵糧の大切さを認識していたようで、夏侯淵のおかげで軍は飢えずに済んだという記述もあり、涼州においても自ら兵糧庫の守りを固めるなど当時から兵站を重視していた。この辺りは戦国時代の石田三成や秀吉とも共通しているかも知れない。

曹操が指摘するように実際に戦に出ると暴れまわる癖があるようで、最終的に深入りしてしまい命を落とすことになってしまった。

黄忠がそれだけ強かったということでもあるが、実に惜しい最後である。

彼は死後、曹芳の時代において定められた曹家の功臣20選に選ばれている。名実ともに魏の功臣であったであろう。

三国志演義の夏侯淵

魏の武将であるためか史実との差はあまりない。ただ、馬超や黄忠の引き立て役になっている感は否めないけれど・・・

その辺りは史実なので仕方がないかも知れない。その他の魏の武将が不当ともいえるような低い扱いを受けているのに比べたらマシだろう。

演義ではなぜか弓の名手ということになり、銅雀台落成の余興においては見事な腕前を披露している。

最期は黄忠に切られており、史実との差はあまりない。

ただ、なぜか夏侯惇の従弟ではなく弟ということになっている。ところどころなんでろうと思う改変が多い。

夏侯淵とその家族

夏侯淵が死んだ際、張飛の妻が願い出て彼を埋葬したという記述がある。

張飛の妻はどうやら夏侯氏の出身であったらしく、一説では夏侯淵の娘だったのではないかという話さえあるぐらいだ。正史には夏侯覇の従妹という記述があるくらいで真偽のほどはわからないが、張飛の娘は劉禅の妻でもあったので、夏侯淵の次男である夏侯覇は司馬懿のクーデーターの際にその縁を頼って蜀に亡命している。

夏侯覇は蜀を父の仇と憎み後に征蜀将軍にまでなったのに、その蜀に頼らざるを得なかった心情は一体どのようなものであっただろうか?

夏侯淵には他にも結構子供がいて、早死にした子供が多かったようだ。夏侯淵の跡は長男の夏侯衝が継ぎ、その後も続いたようである。

ちなみに夏侯淵の奥さんは曹操の妻の妹であったというが、それが丁夫人の妹なのか劉夫人の妹なのかはわかっていない。

どちらにせよ曹操が夏侯淵との血のつながりを重視し、誰よりも信頼していたのは確かだろう。