春秋の五覇筆頭!斉の桓公(姜小白)に見る国の盛衰について

春秋時代には、五覇と呼ばれた5人の有力君主がいた訳だが、困ったことに五覇の候補は8人もいる。

三皇五帝などもそうなのだが、中国の歴史というのは数が最初に来てしまう傾向にあるらしい。

そんな沢山いる候補の中でも、斉の桓公の筆頭として絶対に入ることになっている。

春秋時代における覇者とはどのような存在だったのか?

かなり中国史に詳しい人でも、「覇者」と王と皇帝の違いを分かる人と言うのは多くないと思う。

まず皇帝だが、これは春秋時代には存在していない概念で、春秋時代に続く戦国時代を終わらせた秦王政が王よりも上の概念として考案したのが皇帝位の始まりである。

次に王の称号であるが、春秋時代においては基本的には周の王だけが正当な王となる。

日本の戦国時代を考えた時に、天皇を名乗れるのは天皇家の人間だけ、将軍を名乗れるのは足利家だけ、でも大名を名乗れる人間は沢山いるという感じで、周の王は天皇家や足利家を考えると少しわかりやすいかもしれない。

なので、斉の桓公という呼び名でわかるように、周以外の国の最高位は「公」なのである。

だが、春秋五覇の中には越王勾践のように思い切り「王」を名乗っている者もいる。

これは周の権威が地に落ちたことを意味しており、さらに越や楚と言った国は中原から遠く、元々周の影響が少なかった国と言える。

そんなこんなで王や公が結構いる訳だが、それらの諸侯は定期的に会議のような寄り合いを開いていた。そのまとめ役がその当代において最強の力をもった存在覇者であり、春秋時代の中でも特に有力だった覇者を五覇としている訳である。

太公望建てた国

中国の伝説的な軍師である太公望は、周の文王と武王の親子を補佐して殷周革命を成功に導いた人物で、周が中華帝国となると斉の公の地位をもらうことが出来た。

太公望の本名は姜子牙と言い、斉の桓公の本名は姜小白と言い、要は斉の桓公は太公望の子孫な訳である。

元々斉の国は桓公の兄である襄公が王座に就いていたのだが、これが大変な暴君であったらしい。本当かどうかは確かめようがないが、襄公は魯の国に嫁いだはずの妹とも男女の仲にあり、そのことをとがめた魯の君主を臣下であった彭生に殺させ、魯の国から抗議を受けると彭生をさっさと殺してしまうというような人物であったという。

襄公は中国の歴代王朝にはありがちな暴君の典型例みたいな人物で、気に入らないことがあるとすぐに部下を殺してしまうため桓公も命の危険を感じて他国へと亡命することにした。

同じころ桓公のもう一人の兄である糾は母が魯の国の公女であったために魯に亡命しており、この頃に中国の歴史に名を残す名宰相管仲と知り合いになる。

紀元前686年、襄公が暴虐の結果従弟の公孫無知という人物によって殺害されるという事件が起こる。この人物も常に虐待を加えていた雍廩という人物に殺されてしまい、大国斉の公の地位は桓公と糾のどちらかが継ぐことになった。

年功序列で言えば糾が有利であったが、先に斉の国に入ったのは桓公であった。魯の国の支援を受けた糾であったが、桓公の軍団にあえなく敗北し、最後は魯の国の人たちによって殺されてしまうという最期を迎えた。

この時糾の部下であった管仲が降伏するも、桓公は管仲に殺されかかったことがあったため、処刑をしようとする。それを諫めたのが桓公の腹心ともいえる鮑叔という人物で、「天下の覇者たらんとするならば管仲の才は必ず必要となります。もし斉の公で満足するのならば私で十分でしょう。しかし天下を治めるつもりなら私では不十分です」と説き伏せ、桓公も鮑叔が言うならと管仲を赦し、自らの部下とした。

この二人の関係は「管鮑の交わり」として故事成語になっている。

斉の強大化

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管仲は中国の歴史においてもトップクラスの宰相として後代の評価を受けるほど有能で、彼の手動のもと斉と言う国は急速に強大化していった。

管仲はまず内政改革に着手し、周伝来の公田制を廃止し塩や漁業などの斉の地にあった産業を振興し、商業を発展させ、税収を飛躍的に増やすとそれをもとでに軍備を拡大していき、その威容によって諸侯は周王朝に代わって桓公を覇者として認めるようになっていった。

桓公は9回ほど諸侯会議を開いたと言われており、その際において管仲のいうことをよく聞いて盟約などを違えることは決してせず、もめごとには公明正大にのぞんだという。

管仲に関しては後代の孔子や司馬遷、諸葛亮孔明などが絶賛しており、中国の歴史上でも最高の宰相であると言われている。

晩年

覇者として他国を圧倒していた斉の桓公であるが、管仲が死んでしまうとそれまでの名君ぶりがウソのように乱れてしまった。

特に管仲が絶対に信用するなと言っていた佞臣たちを重んじるようになり、病気になるとその佞臣たちが桓公を閉じ込めてしまい、食料を与えられず、葬式さえ挙げてもらえなかったという。

桓公が死んでしまった後の斉は急速に勢力が衰え、春秋の覇者の地位は別の国の君主に移っていくことになる。

個人的な斉の桓公の評価

春秋時代を代表する名君なはずだが、本当に優れていたのは管仲という人物であったというべきであろう。

富国強兵策などを推進したのは管仲であり、桓公はそれに従ったまでである。

もっとも、優秀な臣下のいうことを素直に聞くのも君主に必要な要素であり、その面で考えればやはり桓公は名君と評価すべきであろう。

 彼にとって不幸だったのは先に管仲が死んでしまったことであろう。

 春秋時代のこのころ、まだまだシステムが完成される前の話で、優秀な人材がたえるとすぐに国が衰退してしまう時代であった。郷挙里選や九品官人制、科挙と言った官吏登用制度が如何に重要かわかる話である。

ただ、それゆえに春秋戦国時代は個人が輝ける時代でもあったのは確かで、優秀な人物たちが次々に出てくる魅力的な時代でもある。