第二次ウィーン包囲とカルロヴィッツ条約、ゼンタの戦いによる敗北について解説

16世紀半ば、スレイマン大帝はヨーロッパ最強貴族ハプスブルク家の本拠であるウィーンを包囲したが、冬の厳しい寒さなどを理由に撤退した。

それから150年の時が過ぎ、オスマン帝国は再びウィーンを目指した。

オスマン帝国が最大版図を実現する

その国家がいつ最盛期を迎えたかは難しい問題だ。

オスマン帝国の最盛期はスレイマン大帝の時代であるという意見は、研究家の中では比較的少数派であるようで、最大版図を実現したメフメト4世および大宰相ファズール・アフメト・パシャの時代こそが最盛期とする意見が多数派であったりもする。

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古代ローマの全盛期を考えた時、やはり最大版図を実現したトラヤヌス帝の時代とするのが一般的であるし、オスマン帝国の最盛期はこの時代であったと言っても良いであろう。

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1676年、ファズール・アフメト・パシャが死んだ。

跡を継いで大宰相となったのはアフメトの娘婿のメルジフォンル・カラ・ムスタファ・パシャ。

彼は1683年になるとウィーン侵攻を決意する。

オスマン帝国が長年夢見てきた、唯一の世界帝国を実現する時がやってきたのだ。

カラは20万人にも及ぶ大兵団を組織し、オーストリアの首都ウィーンへの進軍を開始した。これを投じハプスブルク家に敵対していたフランス王ルイ14世も支援する。

ハプスブルク家はこの時も大規模な会戦は避け、150年前同様に籠城作戦に出た。ドイツの30年戦争にて国力を使い果たしていたという事情もある。オスマン帝国はまさにこのような隙をついて進軍したと言えるだろう。他にもテケレ・イムレの蜂起などに見られるハンガリーのオーストリアへの反発などもあり、情勢はオスマン帝国に有利であったと言える。

オスマン帝国側は大軍にてウィーンを包囲するもその堅牢さを破ることができず、城壁の破壊を諦め地下を掘って城壁を破壊する作戦に出た。

その隙をついてやってきたのが当時最強と名高かったポーランド騎兵を率いたヤン・ソビエスキーであった。

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やがて30年戦争で荒廃したドイツの諸侯もこれに加わり、オスマン帝国の軍団は壊滅した。

ソビエスキーは潰走するオスマン帝国を見て、古代の英雄ユリウス・カエサルの有名なセリフになぞらえこういったという。

「来た、見た、神は勝利した」

敗戦後のオスマントルコ

敗戦に激怒したメフメト4世は戦犯としてメルジフォンル・カラ・ムスタファ・パシャを処刑した。一説には喉を弓の弦で締めて処刑したという。

一方のキリスト教勢力はこれを好機とみて、ローマ教皇インノケンティウス11世は対オスマン帝国のための同盟である神聖同盟の結成を呼び掛け、神聖ローマ帝国、ポーランド、リトアニア、ヴェネツィア、ロシアがこれに賛同した。

指導者を欠いたオスマン帝国はこれに対抗する術を持たず、ハンガリー、アテネ、ベオグラードなどの重要拠点を次々に失ってしまう。

この間に失政の責任を取ってメフメト4世は退位、弟のスレイマン2世、それに続くアフメト2世が病死するとスルタンはムスタファ2世となった。

ムスタファ2世は大宰相に再びキョプリュリュ家のキョプリュリュ・ムスタファ・パシャ(ファズールの弟)を据え、ある程度の反抗を試みるも、1691年にはキョプリュリュが戦死する。

その後はフランスブルボン家のルイ14世とハプスブルク家の戦いが激化したため膠着状態に陥り、神聖同盟側の不和も目立つようになった。

ゼンタの戦いとカルロヴィッツ条約

そのような背景もあり、オスマン帝国スルタンであるムスタファ2世は再び攻勢に出る。彼はオスマン帝国歴代スルタンに倣って「ガーズィー(信仰の戦士)」を名乗り、聖戦の開始を宣言した。

ムスタファ2世はベオグラードより北上しハンガリーを再び自国の領土とする作戦を立てた。

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 神聖ローマ帝国軍とハンガリー王国軍がこれに対し応戦、オイゲン・フォン・サヴォイエンに率いられたオーストリア帝国軍はチサ河を横断するオスマン帝国軍を強襲し、船を破壊、オスマン軍を分断すると87門の大砲、6000頭のラクダ、スルタンの宝箱などを奪取、オスマン側は大敗北を喫した。

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1699年、イギリスの仲介もあり、ベオグラード近郊のカルロヴィッツにて神聖同盟とオスマントルコの間に条約が結ばれた。内容は以下の通りである。

  • ハンガリー、トランシルヴェニア、クロアニアをオーストリア領とする
  • ペロポネソス半島とクロアニアの沿岸の一部(ダルマチア)をヴェネツィア領とする
  • ポドリア(ウクライナ)はポーランドが領有することとする

これによってオスマントルコの領土は大幅に減り、1402年のアンカラの戦い以来の領土縮小を余儀なくされた一方ハプスブルク家の力は強大となり、ヨーロッパの東方をその勢力圏とすることに成功。

オスマン帝国は続く1700年にロシアとの間にイスタンブル条約を結び、黒海沿岸の要所アゾフを割譲することにもなる。

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ゼンタの戦いを含めた一連の戦いの傷は、1561年のレパントの海戦による敗北の何千倍ものダメージをオスマン帝国に与えた。

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この条約の締結はオスマン帝国のヨーロッパにおける影響力の低下を表しており、以降、オスマン帝国がヨーロッパのキリスト教国に対して優位に立つことはなかった。

最盛期を経験した国家を待っているのは没落である。

栄枯盛衰

強大な力を誇ったローマ帝国ですらもその流れには逆らえなかった。

カルロヴィッツ条約以降、オスマン帝国は急速に没落していくことになる。