三国志が終わり、晋の統一が崩れ、中国は五胡と呼ばれる5つの異民族と漢民族の国々が相争う五胡十六国時代へと突入した。
五胡の最初の覇者はチベット系民族である氐族であったが、その最盛期を極め、華北をほぼ統一した苻堅は東晋の首都である建康に向けて進軍するも383年に起きた淝水の戦いで大敗北を喫し、そのまま氐族は没落していってしまう。
代わりに華北の覇者となったのが鮮卑族の拓跋氏率いる北魏であった。
今回は高い頻度で世界史の教科書にも出てくる拓跋宏こと北魏6代目の君主である孝文帝のお話。
出生にまつわる秘密
孝文帝の親が誰であるか?という点については古来より論争の絶えない部分である。
公式的には父である献文帝が14歳の時に生まれた子供で、母親は李氏ということになっている。
北魏という国は、外戚の専横を防ぐために子供が君主となった際には母親が死ぬという風習があるため、この習いに従い李氏は自死を強要させられた訳なのだが、実は孝文帝の母親は祖母とされる馮太后こと文成文明皇后ではないかという説がこの時代からずっと言われ続けているのである。
その場合の父が誰であるかもまた問題になってくるわけだが、文成文明皇后と言う人物、出自を辿ると北燕という国の王族で、元々は鮮卑族に仕えていた漢民族が建てた国の末裔である。
彼女は北魏の皇帝文成帝の皇后となり、献文帝を皇帝に据えた。
幼い献文帝の時代に実権を握っていたのは母の文成文明皇后であり、権臣を排除し、所謂垂簾政治を行った。
垂簾政治において国が大いに乱れることはあるが、文成文明皇后はかなり能力のある女性で、確かな政治力と能力主義の人材登用を以て北魏の基礎を作り、漢人官僚の制度を整えて行った。
後に日本の政治に大きな影響をもたらす租庸調制や三長制を取り入れたのも彼女の時代であると言われている。
これらは周の時代の制度をもとに導入されたと言われており、文成文明皇后が自らの出自である漢民族の政治制度を踏襲したい旨が感じられる。
やがて文成文明皇后は献文帝を毒殺し、まだ5歳だった拓跋宏を帝位に就け、孝文帝として即位をさせる。
献文帝と文成文明皇后の間にはどうやら血のつながりはなかったようだ。それゆえに自分の血縁である孝文帝を皇帝にしたという説が根強い。
孝文帝の出生の秘密は未だに中国史に残る大きな謎の1つだと言える。
文成文明皇后の専横は490年まで続いた。
若き王の親政
孝文帝が24歳の時、祖母である文成文明皇后は死んだ。孝文帝は大いに嘆き、政務も食事も手に着かなかったという。
やはり孝文帝は文成文明皇后の息子であると考えた方が自然だ。
あるいは産みの親より育ての親という意見もあるが、生母を殺害した主犯であもある義理の祖母が死んだからと言ってそうなるだろうか?
なにはともあれ孝文帝は北魏の都を今迄の平城から歴代中華王朝が都とした洛陽に遷都している。
その後は大規模な漢化政策に乗り出し、先祖伝来の拓跋の姓は「元」に置き換えられ、鮮卑語は禁止、鮮卑族の衣装も禁止、漢民族風の貴族制度も導入した。
このような政策に対し、鮮卑族の反発は激しく、数多の反乱が発生するが、孝文帝はそれらの反乱を予期していたように簡単にひねりつぶした。
一連の流れを見るに、もしかしたら孝文帝には鮮卑族の血が流れていないのかも知れない。母が文成文明皇后であるならば母は漢民族であるし、父も漢民族なのかも知れない。すべては憶測にすぎないが。
孝文帝の行った極端な漢化政策はくすぶりの火を残し、彼の死後不満をため込んだ鮮卑族による「六鎮の乱」を引き起こし、北魏は東西に分かれ、その力を失ってしまうことになる。
とはいえ異民族による王朝において、どうしても多数派である漢民族を支配するためには漢化する必要は出てくる。後の金や元、清なども元々の部族の風習を一部捨て、漢民族の文化を大いに取り入れている。
もっとも、清などは女真族伝来の辮髪を漢民族にも強要し、そのアイデンティティは守ったとも言え、北魏の孝文帝ほど極端に漢化に踏み切った異民族の君主はいない。
魏晋南北朝きっての名君として評価されている孝文帝だが、実際に各政策を行ったのは祖母である文成文明皇后で、彼自身の実績としては洛陽への遷都を含めた極端な漢化政策ぐらいである。
彼の生涯は短く、499年33歳の若さでこの世を去っている。
親政が始まってから約9年、文成文明皇后は彼が5歳の時から24歳までの約19年。文成文明皇后が亡くなってから孝文帝はその路線を引き継いだのみである。
個人的な孝文帝の評価
孝文帝もまた評価の難しい人物だ。
彼が名君と言われるのはその評価者が漢民族であるからであろう。異民族でありながら漢民族の誇りを中華に取り戻した彼は漢民族から見れば英雄的名君であろう。
一方の鮮卑族から見れば自分たちの誇りを汚した許すまじき裏切り者である。
事実孝文帝の崩御後約25年後に六鎮の乱がおこっており、そこから約10年後に北魏は滅び、東西に分裂してしまう。
北魏の全盛期は間違いなく孝文帝の時代であろう。
全盛期後に国が衰退していくことは珍しくないし、滅びてしまうのは国家というものの定めなのかも知れない。
漢の武帝の大規模な外征が漢という国に打撃を与えたし、ルイ14世の外征がフランス革命の原因の一つとなったも確かだ。
それを考えても北魏の衰退速度はあまりに早すぎると言える。
元々短命国家の続いた時代であったが、極端な漢化政策が国の寿命を速めたのは確かであろう。
孝文帝は世界史の教科書に高い確率で載っている人物であるが、功績などを考えるに、もっと載せるべき人物はいるように思うし、個人的に孝文帝は、暴君でも暗君でもなかったが名君というほどでもない普通の君主だったように思う。
とはいえ孝文帝の行った漢化政策がやがて隋や唐に受け継がれたのも歴史的事実であるし、それが極東の我が国日本にも受け継がれた訳で、その源流であるという面では歴史的意義は大きいと言えるので、日本の歴史教科書に載っている意味はよく分かる。
名君だから教科書に載る訳ではない。世界史的に意義が大きいと編集者が判断するからこそ載るのである。
それにしても孝文帝について考える時、つくづく歴史とは評価なのだということを思い知らされる。