黄忠のイメージは一言でいうと老いてるのに強い!に集約されるだろう。
「老当益荘(おいてますますさかん)」の言葉通り登場した時には老人で、でも蜀が建国された時には五虎将軍に任命されて、曹操の従弟である魏の名将夏侯淵を打ち取る活躍を見せている。
関羽と互角に戦う
黄忠が登場するのは赤壁の戦いが終わったのち、劉備玄徳が荊州の南4州を攻めている時のことだ。
長沙の太守韓玄を関羽が攻めている際、打って出たのがすでに60を過ぎていた老将黄忠だった。
曹操軍を大いに苦しめた豪傑顔良、文醜を一刀のもとに切り捨てた関羽の青龍偃月刀を苦も無く打ち払い反撃に転じる老将軍。
立ち上がり関羽が油断したことは否めないが、それでも体制を立て直した関羽が攻め切れない。どれだけ斬っても水のように受け流されてしまう。
しかし攻め続ける関羽にチャンスが到来した。黄忠の乗る馬が転んで脚をくじいてしまったのだ。
絶体絶命のピンチに陥った黄忠だったが、関羽は何もせずに引き返した。プライドの高い関羽はそのような相手のスキを突くやり方は好まなかったのだ。
あくる日戦場で再び見える2人の武将、黄忠は弓を構えると関羽に向かって打ち放った。矢は関羽の兜に当たり、「これで借りは返しましたぞ」と渋い言葉を残して長沙の城へ帰っていった。
関羽は黄忠のことを大変気に入ったが、それを見ていた韓玄は黄忠が敵と通じていると勘違いして牢に閉じ込めてしまう。
それを見ていた魏延が韓玄を斬り、劉備軍に向けて城を解放したので黄忠もそれに従って劉備の陣営に加わったのであった。
その後は劉章の治める益州攻略に随行し、常に敵陣に切り込む役を買って出、その活躍は張飛や諸葛孔明も認めるところとなった。
漢中争奪戦
黄忠が最も活躍したのが漢中争奪戦だと言える。
漢中の地は漢の高祖が力を蓄えた土地で、劉備にとって最重要地点と言えた。
この地は五斗米道の張魯が支配していたが、曹操に降伏すると曹操軍の中でも勇将として知られる張郃および夏侯淵がその守りに就いた。
黄忠は最近仲間になった老将軍厳顔とコンビを組み、歴戦の名将張郃を大いに後退させる活躍をし、援軍に来た夏侯尚と韓浩も蹴散らしている。
韓浩は夏侯惇が人質に取られた際に迷わず敵兵を切り殺し見事夏侯惇を救い出した人物であったが、今回は相手が悪かった。
なにせ漢中攻略戦に出る際、孔明は黄忠に向かってこんなことを言っていたのだ。
「黄将軍は年です。もう戦場は厳しいでしょう。」
これを聞いた黄忠は憤慨した。わしらを年寄りだと思ってバカにしておる!と同じく老人である厳顔とタッグを組んで暴走気味に大活躍、定山軍の戦いでは曹操の従弟である夏侯淵を打ち取る大活躍、劉備の漢中攻略に大いに貢献した。
その功をもって黄忠は蜀の後将軍に任命し、関羽や馬超とともに蜀の五虎将軍に抜擢したのであった。
最後の活躍と死
関羽を殺され頭に血が上った劉備は、呉の討伐に向かう。
途中張飛を失い、関羽、張飛の息子である関興、張苞を引き連れて行ったのだが、これらの若い武将たちが開けてはいけない扉を開いてしまう。
「あんな老いぼれが戦力になるのですか?」
頭に血の昇った黄忠はやをら敵陣に切り込んで行き、敵将である潘璋を打ち取り、そのまま暴れまわるが、敵将馬忠の放った矢が肩にあたってしまい、それが許で無くなってしまう。
享年は75歳、中国では老いても元気な人を「まるで黄忠のようだ」と評するのだという。
正史での黄忠
というのは正史をベースにした三国志演義の話。
実際の黄忠はどのようだったかというと、やはり劉備が韓玄を攻めた際に初登場していて、黄忠を韓玄の下に配置していたのは意外にも曹操であることが分かる。
残念ながら関羽と一騎打ちしたエピソードは創作で、益州攻略に功があったのは本当、漢中争奪戦で夏侯淵を打ち取ったのも本当で、その活躍で後将軍に任命されている。
この地位は軍事的には蜀の最高位で、関羽、馬超、張飛と並ぶ地位となる。
張飛や馬超はともに漢中争奪戦に参加していたため異論はなかったようだが、関羽がこれに不平を言い、部下に諫められる描写が存在している。
関羽からすると神威将軍として恐れられていた馬超ならいざ知らずどこの馬の骨ともわからない老将軍と同列なのは嫌だったようだ。
黄忠がいつ生まれたのかは不明だが、220年に亡くなっているため、劉備が呉に大敗した夷陵の戦いには参加していない。
なお、五虎将軍というのは演義の創作で、実際にはそのような称号はない。
演義を知ってから正史を知ると、どうしても寂しい思いを味わうことになってしまうなぁ。。
個人的な黄忠の評価
黄忠に関する情報は少ない。どこで生まれたかどのように過ごしていたかも書かれておらず、その強さと老人であることだけが書かれている。
劉備陣営では配下になるのが遅く、魏延と同じぐらいの時期に加入しているのに趙雲よりも高い地位に就いていることから軍事的な才能は確かなものがあり、強敵である夏侯淵を打ち取った功績は大きく、最終的に漢中を劉備が手に入れられることが出来たのは黄忠の活躍があったからであろう。
失策もない三国志の中でも屈指の名将であると言えよう。