北宋時代に改革を断行した王安石は中国史を代表する名宰相である

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中国4000年の歴史の中で、最も有名な宰相は誰であろうと考えた時、世界史の教科書にも載っている王安石の名がまずは浮かぶ。

北宋は神宗の時代に活躍した宰相王安石について見てみよう。

 経済大国北宋

中国の歴史は基本、洛陽や長安などの黄河流域の中原を中心とした統一王朝が作られ、北方の騎馬民族などに圧迫されるということを繰り返してきた。

それらの異民族に対する中華王朝の対応は様々で、秦の始皇帝のように万里の長城を築いた君主もいれば漢の武帝のように大々的に討伐軍を差し向けた皇帝もいた。

北宋においては北方民族契丹族が建国した遼に対して毎年絹20万匹、銀10万両を支払うという澶淵の盟を1004年に結び、1024年にはさらに絹10万匹銀10万両が追加され、1044年には西夏相手に絹13万匹銀5万両を差し出すことも決定した。

王安石が科挙試験に合格したのがこの頃で、王安石自体は中央ではなく地方での任官を希望した。

王安石が地方での勤務を希望した理由については諸説あるが、当時の宋においては中央官僚よりも地方官僚の方が収入が良かったからであるというのが定説で、王安石の家はそれほど豊かではなかったのである。あるいは王安石は自分の目で地方の実情を知りたかったのかも知れない。

歴代中国王朝の中で、最も官僚に対する歳費が多かったのは宋王朝であると言われている。官吏の俸給はもちろんだが、退職後にも「祠禄」と呼ばれる多額の年金が支給され、その一門は免税になるという特権ぶりだったため、宋の在籍は常に逼迫していたのである。

王安石はそのような実情を鑑み、「新法」と呼ばれる改革を行うことになる。

青苗法

王安石は1074年になると改革に着手し始めた。その背景には宋代一の名君と名高い神宗の協力があった。

王安石の新法の根幹となるのが「青苗法」で、これは国民に対して安い金利で貸し出しをするという法律である。

当時の宋の農民は食料や作物の苗などを購入する資金を地主や商人などから借り、収穫期に返済するという生活をしている者が大半であった。この際の利息は平均すると7割ほどであったと言われ、10割を超えることも珍しくなかったという。王安石はこの貸し出しを国家が推進することにし、その利息を2割と定めた。

これには地主階級であった各地の豪族たちが大反発することになる。

市易法

青苗法が農民への救済策なら商人には市易法での救済を実行した。

政府の物資購入の際には支配的であった大商人たちが支配する「行」を通さずに行うと決めたのである。

当時の大商人たちは宦官や後宮と結びついていたため、王安石はこれらの勢力を敵に回すことになった。

にしても、この状況は現代日本と似通っているよなぁ…

募役法

形成戸という言葉を世界史で習った人も多いと思うが、これは宋が国民をその資産によって5つの等級に分けており、一等と二等階級のことを呼んだ用語で、これらの等級に分類されると役人の接待、政府物資の輸送や保管など公用を無償でやらねばならなかった。このため所得隠しや労働意欲の低下などの弊害が起きており、王安石はこれらの業務に対し金銭を支払うと決めたのであった。それだけなら問題はなかったのだが、王安石は科挙合格者を出した一族からも「助役銭」を出すことを要求し、高級官僚の反発を招くことになってしまった。

守旧派の大反発

幼いころ、どうしてこの国の政治がよくならないのか不思議だった。大人になった今、それは特権階級が特権を離さないからであるというのがよく分かった訳であるが、王安石の新法に対し、特権階級たちが反発した。

その代表が中国きっての歴史書「資治通鑑」の著者司馬光である。

彼は貧民を大変嫌っており、助けを与えるべきでない存在と考え、王安石に反発して官職を辞して洛陽にこもって「資治通鑑」の作成を始めた。

その他にも「赤壁賦」で有名な蘇軾なども守旧派で、王朝内のほとんどが敵に回ったと言っても良いだろう。

それでも面白いことに、王安石自体は司馬光や蘇軾とは個人的には仲が良かったらしく、書簡のやりとりなどをしている。

皮肉なことだが、王安石の本当の敵は守旧派ではなく共に新法を推進していた仲間であった。

ナポレオンは真に恐ろしいのは有能な敵の将軍ではなく無能な味方であると言ったが、新法が台無しになったのは味方の無策からであった。

あまりにも反発が大きくなってしまったため、神宗は王安石を江寧府(現在の南京)に左遷させた。その間新法を推し進めたのが呂恵卿という人物だった訳だが、この人物が俗物で、新法推進などそっちのけで、地位を利用して私腹を肥やすなどして王安石の改革を台無しにしてしまう。そればかりか王安石が中央政府に戻るのをあの手この手で妨害し始める始末。

ようやく中央に復帰した王安石であったが、復帰してすぐに寵愛していた長男を亡くしてしまう。24歳で科挙試験に合格した自慢の息子であったが、わずか33歳という若さでこの世を去ってしまう。

このためなのか王安石は勢いを無くしてしまい、復帰の翌年であった1076年には辞任を願い出て、自らの領地を寺に寄進して隠遁生活に入る。

名宰相の最期

1085年、北宋きっての名君と言われた神宗が崩御した。そうすると常々新法を疎ましく思っていた皇后によって司馬光が宰相になり、王安石の新法を悉く覆した。そのような状況に失意を覚えたかは定かでないが、まるで神宗の後を追うように1086年、歴史に残る名宰相は静かに息を引き取ったのであった。

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個人的な王安石の評価

王安石はもちろん文天祥のような人物も輩出しており、文官の質で言えば、宋は歴代王朝の中でもトップであろう。宋王朝は良くも悪くも文民国家で、それゆえに戦争を回避する傾向にあった。

そのため人民は平和を享受できた面があったが、北宋の後半、特に徽宗皇帝の時代は水滸伝の舞台になったように混迷を極めた。徽宗の時代に大きく国力を落とした遠因は、新法と守旧派の闘争にあるという見方もある。

中国史において、改革を行った人物は多い。

しかしそれらの改革が合理的であったためしがなく、煬帝や王莽のように無理な改革をして人民を疲弊させた人物が多いのに対し、王安石の改革は非常に理にかなったものであったと言える。

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それでもうまくいかなかったのは、人の持つ醜さであり性であり不合理性というものであろう。

人は社会を形成するが、皆利己的である。

王安石のように自らの特権を捨ててまで天下の為に働ける人物は少ない。

結果的には覆ってしまったが、それでも改革を断行した王安石は中国史を代表する名宰相であるし、それを後押しした神宗もまた中国史きっての名君であるというべきであろう。

名君の影に名宰相あり。

苻堅と王猛、神宗と王安石、この2組は中国史を代表する名コンビである。

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