ピュロスの勝利で有名なエピロス王「ピュロス」の波乱万丈な生涯について

カルタゴの名将ハンニバルとローマの英雄スキピオは敵同士であったが一緒にお茶をしたことがあった。

スキピオは聞いた。史上最高の指揮官とは?

ハンニバルは迷うこともなく3人の名前を挙げた。

「1位はアレクサンダー大王、2位はピュロス、3位は私だな」

今回は天才ハンニバルが自分以上と評したピュロスの話。

 ピュロスの勝利

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ローマは当時「イタリア統一戦争」の最中であった。

山岳民族であるサムニウム人との実に40年にわたる戦いに勝利したローマは「マグナグレキア」と呼ばれる南イタリアに勢力を持つギリシャ諸都市との戦闘に乗り出すことでイタリア半島を統一しようとしたのだ。

ローマは建国時、小さな都市国家でしかなかった。北にはエルトリアという強大な王国、南にはギリシャ人諸都市、この2つの大きな勢力に挟まれていたのがローマという国だったのだ。

いつのまにかローマは強くなっていた。遥か格上だったギリシャ人に対抗できるほどに。

現在ではターラントと呼ばれ、当時はタレンティウムと呼ばれていた都市があった。軍事国家として有名なスパルタ人がイタリアの南部に建てたこの都市とローマは戦うことになった。

ローマ側の船がタレンティウムに不時着をしたのだが、これを協定違反として攻撃を開始したのだ。10隻のうち5隻はタレンティウム側に捕えられ乗組員は皆殺しにされた。

ローマはこれに反発し両者は戦争状態になった。

タレンティウムはスパルタ人が建てたポリスであるにも関わらず戦争には傭兵を用いていた。今回白羽の矢を立てた人物がマケドニアから王位を負われたピュロスであった。

ピュロスはアレクサンダー大王亡き後の後継者戦争(ディアドコイ)の結果一度はマケドニア王になるのだが、トラキア王であったリュシュマコスによって国を追われてしまったのであった。

ピュロスは当時アレクサンダーの再来とさえ言われていた人物で、タレンティウム側は破格の条件で彼を迎え入れたという。

時は紀元前280年、アレクサンダー大王が死んでから40年が経とうとしていた。

タレンティウムに着いたピュロスは呆れた。これから戦争だというのにタレンティウムの人々が浮かれていたからである。しかも兵士も用意していない。彼は劇場などの遊戯施設の閉鎖をまず命じた。タレンティウムの人々はこのことにかなり不満だったらしい。

 結局ピュロスは兵士が用意されていないので自分が連れてきた兵士だけで戦うことになった。その中には象も含まれていたという。ローマの人間は象を見るのは初めてであった。

初めて象を見たローマ人はそりゃあ驚いただろうな。あんなでっかいのにどうやって勝てっていうんだよ状態だったはずだ。

象の話はさておいても、古代世界においてギリシャのファランクス戦法とローマのレギオンはよく比較される。

両方とも重装歩兵と密集を戦法としており、事実上これが初の会戦となる。

ローマ側の陣営を見たピュロスは「あの蛮族は陣形を見る限り野蛮ではないようだ。どういう結果になるかは明日見てみることにしよう」と感想を述べたという。

ギリシャは当時ペルシャに勝ち、史上空前の大帝国を築いたアレクサンダー大王に率いられていた民族であり、世界の覇者であった。一方ローマはただの田舎軍団である。

それをなめなかったピュロスはやはりただものではないだろう。

結果を言えばローマの敗北になった。ピュロスも無傷では済まなかったようだが、圧倒的にピュロス陣営が有利なままに最初の戦闘は終わった。

後世においてヘラクレアの戦いと言われる闘いである。

ローマ側は講和には応じず、捕虜の身代金を持ってピュロスの元へ参じた。

ピュロスは「私は商売に来たのではない」と言って身代金を受け取らずに無償で捕虜を解放したのだという。

ローマ側も講和が成立しなかったら捕虜は返すと言って講和が成立しなかったために再び捕虜を返したという逸話が残っている。

その後ローマ側にピュロスの侍医が毒殺を提案したがローマ側はそれをピュロスに知らせ感謝したピュロスは先の捕虜をローマに帰し、ローマもピュロスの捕虜を解放したという話がある。

ピュロスはその後再びローマとの会戦に突入する。結果はピュロス側の勝利に終わるも被害が大きく、「もう一度戦ってローマ軍に勝ったとしても、我々は全く壊滅するだろう」と述べたピュロスは深追いをせずに陣地へと戻っていったという。

これ以降勝っても損害が大きく割に合わない勝利を「ピュロスの勝利」と呼ぶようになった。

こちらは後世においてアスクルムの戦いと呼ばれている。

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そしてシチリアへ

当時シチリア東部のシラクサはギリシャ人植民市だった。フェニキア人の国でありシチリア西部を支配していた

シラクサからの要求を受けピュロスはシラクサに行った。

ローマ側は安どしたことだろう。ピュロスはカルタゴを相手に重要拠点エリクスを落とすなど大いに勝利したが、シラクサの内紛をもろに受けて3年ほどでタレンティウムに戻ることとなった。

再びローマとの闘いに戻ったピュロスだったが、今度はローマに手痛い敗北を味あわされることとなる。

会戦前からすでにピュロスは劣勢に立たされていた。そりゃそうだ、ずっと闘い詰めだったんだから。

対してローマは準備万端。

不利を察したピュロスはローマへの夜襲を決行するがローマ側はそれを見抜いていたのだ。

この時の戦場は元々マルウェントゥムと呼ばれていたが、この勝利によってローマ側は「良き風」という意味のベネウェントゥムという名前に変えることにした。

この戦いはこうして後年「ベネントゥムの戦い」と呼ばれるようになった訳である。

ピュロスはこれ以上の損害を出さないように巧妙に撤退をし、故郷エピロスへと戻った。

ピュロスにとっての本当の戦いはこれから始まるのである。

ちなみにタレンティウムはピュロスがいなくなるとあっけなくローマの支配下となり、ローマはイタリア半島の統一に成功することになる

ローマを最も苦しめた将軍としてローマ史にピュロスの名は刻まれたのであった。

マケドニア王ピュロス

ピュロスの本当の敵はマケドニアにいるアンティゴノス2世である。

ピュロスはマケドニアの民の要請でアンティゴノス2世を追い出すことに成功。再びマケドニアの王になることに成功した訳である。

その後はペロポネソス半島に行ってスパルタとの闘いに明け暮れるが、追放したアンティゴノス2世からは常にマケドニアを脅かされ、ついには撤退。アルゴスの政治闘争に介入している際に命を落とした。

死因については定かではないが毒殺とも女性に虚を突かれて殺害されたとも言われている。

個人的なピュロスの評価

アレクサンダー大王の再来と言われながらついにギリシャを統一することなく終わってしまった。

ピュロス自体は優れた将軍であったが、恐らくは各地を転戦しているうちに兵力を消耗してしまったのであろう。いざギリシャに帰った際には十分な活躍が出来なくなってしまっていた。

軍神とさえ呼ばれるハンニバルがその戦法を真似たと言われるほどの戦術家で、条件がそろえば再びギリシャ世界を盛り上げる人物であったかも知れない。そうすれば日本の世界史の教科書にも名前が載っただろうに。

幸運が味方をしなかった英雄だと言えるだろう。

色々と惜しい人物であった。