中華史上最強の名君!唐の太宗(李世民)

中国史上最高の名君は誰か?

後漢の創始者光武帝、宋の創始者趙匡胤、清の康熙帝、そして唐を実質的に建国した二代目の太宗。どれだけ議論を尽くしても、結局はこの4人に絞られることだろう。

世界史レベルで見てもこの4人は10の指には入る。

正直この中で序列を決めるのは中々難しい。

今回はそんな唐の太宗こと李世民のお話。

隋の滅亡

三国志を終わらせた晋はあっけなく滅んだ。何一つ良いところもなく滅んだ。そして中国は五胡十六国時代、魏晋南北朝時代と華やかな暗黒時代と評される暗黒時代に突入していった。

6世紀の後半、ようやく隋という国が中国を統一し、人々は平和を享受できるはずだった。しかし二代目の煬帝は歴史的な暴君となって民衆を痛めつけ、その治世はわずか15年で終わりを迎える。

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後漢末期の三国志の如く、各地の群雄は独立し、天下の覇権を狙い始めた。劉武周、王世充、竇建徳と言った有力者が力を握り、さながら戦国時代の様相を呈し始めたが、三国と大きく異なる点があった。

それはある強大な力を持った英雄の存在である。

英雄の名は李世民。

後に唐の太宗と呼ばれる人物である。

武川鎮軍閥内の内戦

李世民は三国志で例えるなら劉備と曹操と孫権を合わせたような人物である。

戦闘には圧倒的に強く、敵であったはずの者たちは次々に仲間になっていく。政治力も抜群で、世界の歴史について教科書で、唐の太宗がいなければそれはもう無価値と呼べるレベル。

煬帝は各地で反乱が起こると揚州にあった別荘に逃げ込み、そこで親衛隊によって殺害された。皇帝を守るべき親衛隊が皇帝を暗殺することは、ローマではよくあることだが中国では非常に珍しい事案である。

煬帝亡き後最初に頭角を現したのは隋王朝の建国者同様武川鎮軍閥の李密という人物であった。

さて、隋と唐の歴史について語るには武川鎮軍閥について少し語らなければならないだろう。

鎮と呼ばれる軍閥が形成されたのは北魏の時代、北方の守りを固めるのに何人かの将軍に辺境の地を守らせていた。これらを「鎮」と呼んだ。

北魏は孝文帝の時代に極端な漢化政策を採用し、極度な文治主義を採用した。この辺りは武家の徳川家が文治主義を採用して江戸幕府を開いたことに近いかも知れない。

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しかし文治主義を採用する過程で将軍たちの間に不満がたまり、孝文帝亡き後には六鎮の乱と呼ばれる六つの鎮が相次いで反乱を起こす事態になってしまった。

その過程で北魏は東西に分裂し、やがて武川鎮が母体となった北周と懐朔鎮軍閥が母体となった北斉に分かれ、北周の外戚であった楊堅が隋を建て、北斉と南朝陳を滅亡させて中華統一を為した訳である。

そして隋亡き後の群雄割拠は、武川鎮軍閥内の内戦であるとも言える。

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圧倒的軍才と大徳

李密は優秀な右腕の李勣と共に勢力を拡大し続け、途中穀倉を解放して民衆に施しをすると瞬く間に民衆の支持を得て洛陽に進軍、しかし洛陽の守りは固く、また南側には有力者竇建徳が控えていた。

李密が洛陽攻略に手間取っている頃、李淵とその息子李世民は都長安に向かって進撃を開始した。

李淵は元々北周の有力者であり、北周八柱と呼ばれるうちが人柱であり、隋王朝のもとでは太原太守という現在の山西省一体の軍事・行政権を握っていた人物であり、太原を出発した時には3万ほどであった軍勢が次第に膨れ上がっていき、長安に到着する頃には20万人になっていたという。

これを見た長安の隋軍は戦わずして降伏、李淵親子は都長安を抑えることに成功した。

長安に入ると煬家の一人楊侑を擁立、恭帝として即位させると後に禅譲させ唐王朝を創始した。

実は李淵は当初挙兵には乗り気ではなかったが、李世民が説得し、さらに作戦を立案して長安侵攻を実現させたという。

三国志でも曹操が献帝を擁立したことが非常に大きかったが、この時代も同様、これで唐は他の軍閥に比べて優勢になった。

李世民は漢の高祖こと劉邦に倣って一切の略奪を禁じ、また配下に十分な恩賞も与えたので、長安の民はこれを歓迎し、部下も大いに満足であった。

しかし李蜜を始めとした群雄たちはこれに承服せず、煬帝が援軍として呼んだ西域の将軍王世充も到着しまさに群雄が割拠する状態であった。

唐は北西部にいた軍閥をまず統一することに成功する。はじめは李淵が指揮を執っていたのだが、時に敗北することもあり、中々統一は進まなかったが、李世民が指揮をしだすや一気に勝負はつき、唐は後顧の憂いを無くした状態で中原の軍閥と向き合うことになった。

特に洛陽で争う李密と王世充は強力で、お互いが激しい闘争を繰り返していた。唐が北西部を平定できたのもこの両勢力が相争っていたからという面もある。

唐の軍が向かってくると知った李密は腹心の魏徴と共に降伏、さらにこの魏徴の勧めもあり李勣も李淵の部下となる。

李密はこの時李世民と対面して「まことの英主だ!」と叫んだという。

しかし李密はこの後唐に対して挙兵し、そのまま負死してしまう。

李世民はその後突厥と手を組んだ劉武周との戦いに臨み、さらにここに宋金剛という人物も劉武周陣営に加わる。

この宋金剛の軍隊は非常に強力で、中でも尉遲敬德は怪物じみた強さをもっており、唐の軍隊を何度も敗走させる活躍を見せた。

しかし劉武周の本陣を李世民が滅ぼすと降伏し、以後尉遲敬德は李世民の親衛隊長として生涯その身を守る立場となった。

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強敵が次々と味方になる展開は少年ジャンプのようだが、それだけ李世民が主人公体質であり、英雄の器であるということだろう。

後に「凌煙閣二十四功臣」と呼ばれる優秀な臣下のうち、多くが始めは李世民に敵対していた人物である。

いい君主っていうのは、優秀な連中に好かれちまうものなのさ。

天下統一

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敵と戦う毎に戦力を大幅に上げていく李世民の軍隊は、洛陽を根城にする王世充と結んだ竇建徳との戦いに臨んだ。

李世民は戦いにおいて辛抱強く持久戦の構えを取り、両軍は河を挟んで布陣をし、数十日間にらみ合いが続いた。

先にしびれを切らしたのは竇建徳の方であった。竇建徳の軍が退却をしたその瞬間を狙って怒涛の如く追撃し、ついには竇建徳を生け捕りにすることに成功、そのままの勢いで洛陽に進軍し王世充を捕縛、竇建徳は処刑され、王世充も恨みを抱く者によって殺害された。

その後も突厥族と結ぶ劉黒闥などを討伐し反対勢力を一掃、ここに隋末の混乱期を平定したのであった。

玄武門の変

歴史上の名君争いとなると、李世民は不利になる。その理由が玄武門の変である。

実質的に天下統一を果たしたのは李世民であったが、彼は次男であった。

李淵は皇太子には長男の李建成を建て、李世民にはその功績を称して天策上将という特殊な官位を設けて任命した。

しかし李世民の功績が圧倒的であることは皆知っている。李勣や尉遲敬德と言った武人に加え優秀な文人たちも多い李世民陣営はついに強硬手段に出る。

626年、李世民は父李淵に兄李建成、さらに弟の李元吉を呼び寄せ、宮中の入り口にある玄武門に伏兵を潜ませておき、李建成と李元吉を殺害してしまう。

さらに後日二人の子供たちを根絶やしにし、ここに歴史を変えたクーデターである「玄武門の変」は幕を閉じたのである。

李淵はこれによって李世民に皇帝位を譲渡、ここに二代目皇帝太宗が誕生したのであった。

貞観の治

唐の全盛期は太宗時代の貞観の治か玄宗皇帝の時代の開元の治のどちらかである。

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基礎を固めたという意味で歴史的に重要なのは貞観の治であろう。

この時期に唐という空前絶後の繁栄を体験した国家の基礎ができた。

有名な「三省六部」もこの時に整備されたし、顔師古や孔穎達と言った人物たちに「五経正義」と呼ばれる儒教の総合的な注釈書を編纂させたことや歴史書の編纂を国家事業にしたのも太宗である。

これまでは陳寿の三国志、司馬遷の史記などのように歴史事業は個人の事績であったが、唐の時代より国家事業となる。

しかし皮肉なもので、国家事業となった分信憑性は大分低くなってしまっている。なにせ国の恣意的な部分が入るので前王朝を酷く言い、現王朝を礼賛する傾向にあるためねつ造がされやすくなる。

この点、唐の太宗は自己の業績においてかなりのねつ造を行っていると言われている。特に玄武門の変においては兄や弟の無能や享楽ぶりが強調されており、李世民を意図的に正当化しようという部分が垣間見られる。

更に煬帝を初め隋王朝のことも必要以上に悪く書かれているのではないかという指摘もあり、以後の歴史書も含めて必ずしも事実ではないという評価になっている。

とはいえ太宗のそういった歴史に残る部分を意識した善政は本物であるという面もあり、房玄齢や杜如晦と言った有能な宰相を用いての貞観の治において経済・文化ともに大いに発展したことは事実であるし、この時代に西遊記のモデルともなった玄奘三蔵は仏教の経典をインドより持ち帰っている。

天可汗と出自の秘密

李勣・李靖と言った有能な将軍を派遣し、太宗は突厥を壊滅させた。

それにより突厥部から天可汗の称号が送られ、唐の皇帝であると同時に突厥のトップにもなった訳である。

この位、後に「可汗(カーン)」としてチンギス・ハーンも掲げた称号であり、オスマントルコのスルタンもこの地位を称することがあったが、唐の太宗にはさらに上位の位が授けられたことになる。これは恐らく騎馬民族である突厥からの敬意をもって贈った称号だと考えられる。

実は李世民は漢民族ではなく鮮卑族の出身である。

実はもクソも北魏の名門の流れを組んでいるのだから当たり前なのだが、太宗に限らず唐はこの事実を隠蔽しようとした節がある。

というのも唐の「李姓」は出自を辿ると老子にたどり着くと主張しており、多数派である漢民族を束ねるには出自がバレるのは不利益であると考えたのであろう。

南宋の秦檜の例を見ればわかるように、漢民族は基本的に皇帝が漢民族でないことを嫌がる。

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唐王朝では皇族の血統を調べる行為は違法となっていた。書物などでこのことについて調べたら良くて流刑、最悪死罪もありえるほどの重罪であり、唐王朝内部における最大のタブーとなっていった。

あるいはこの部分をねつ造するための歴史編纂であったとさえ言われている。

魏徴の諫言

唐の太宗が名君たるゆえんは臣下のいうことをきちんと聞いたことであろう。

特に魏徴は太宗に還元を与える役割の「諫官」という役職に就いており、その言葉をよく聞いたという。

暗君や暴君はこれを許さない。現代のワンマン社長などもそうであるが、自分で功績を作った人間ほど人の意見を聞けなくなる。

劉邦や趙匡胤、李世民が優秀なのは優秀な部下に耳を貸すことが出来たからに他ならない。

あるいはそういう君主だったからこそ優秀な人物が集まってきたともいえる。

太宗と魏徴の問答は「貞観政要」に残っており、中でも有名なのは「創業は易く守成は難し」という言葉であろう。これは太宗が魏徴に向かって創業と守成ではどちらが難しいかと尋ねた際の答えである。

三国志で言えば孫堅や孫策よりも孫権の方が難しいことをしたと言えるかも知れない。

書家コレクター

そんな太宗の趣味は書を集めることであった。

特に南北朝時代の書聖と呼ばれる王義之の著作には目がなく、国中にある王義之の作品を片っ端から集めたという。その上王義之の作品のほとんどを自分の墓に埋めるよう遺言したため、現在でも王義之の最高傑作「蘭亭序」は太宗と共に眠っているという。

余談だが昔俺は「蘭亭序来たる!」という言葉につられて書家展に行ったことがあるが、当然のようにレプリカだったことがある。アレはズルいよな…

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太宗は王義之に限らず書には目がなく、国家を上げて書家を保護したため、この時代は欧陽詢、褚遂良、虞世南と言った書の達人が名をはせた時代でもあった。

芸術はやはり資本がそれを保護しないと発展しないという好例であろう。

皇帝の死

晩年の太宗は多少失政が目立った。

中でも高句麗遠征は自らが親政したにも関わらず結果は敗北となってしまった。この辺りは煬帝と同様である。

高句麗はその後も激しく唐に対し抵抗し、太宗の死後李勣の手によって滅ぼされることになる。

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その他にも自分の寿命を延ばすために怪しげな薬に手を出した結果、649年崩御した。

享年52歳。

個人的な李世民の評価

「中華史上最強の名君」

この言葉が唐の太宗にはしっくりくる。

最高の名君という称号はしっくりこないが、隋末期の混乱を鎮めたその手腕は最強と呼ぶに相応しいであろう。

太宗がいなければ隋滅亡後は再び戦乱の時代になっていたかも知れない。

それを鎮めて統一王朝を作り軌道に乗せたのは偏に李世民の優れた手腕によるもであったことだろう。

唐の都長安は7世紀、8世紀において世界で最も繁栄した国際都市となり、唐は大いに発展を遂げ、人口は100万を超えたという。参考までに同時代のロンドンは3万人ほどの人口であったという。両国の国力の差は歴然である。

玄武門の変については、儒教的観点からはよろしくないが、後継者争いで滅びた国は数えきれないほどある。あえて言うなら大体の国は後継者争いで滅び、大体の名家は後継者争いで衰退する。

もし玄武門の変がなければ唐は後に大混乱となり、国は分裂、あるいは衰退していたかも知れない。

太宗は自身の歴史においてねつ造を行ったと思しい。

しかしそれを差し引いても功績の方が遥かに大きいであろう。

多数の優秀な部下を厚遇し、安定した政権を築き、平和な時代を創出した。

やはり中国の歴史、あるいは世界の歴史においても有数の名君と呼ぶべき人物である。