始皇帝が初めて皇帝を名乗ってからラストエンペラー溥儀が退位するまでの間約2000年間、女帝はたった一人しか誕生しなかった。
これは中華文明及び儒教が徹底的な男尊女卑であるためで、女王陛下の国とさえ言われるイギリスの歴史とは対照的であると言ってよいだろう。
たった一人の女帝が誕生したのは唐の時代。
その評価は常に揺れ続けている。
太宗の後宮に
則天武后の父親は材木商を営む財産家で、唐の建国時に太宗に協力したことから貴族に取り立てられたと言われている。
東洋文化圏において特に顕著であるが、新興勢力ほど子弟の教育には熱心である。則天武后は当時としては珍しくかなり高度な教育を受けており、読み書きはもちろん歴史などにも詳しかったのだが、当時はそのような女性の教養は全く評価されなかったため、太宗の後宮に入った時もその地位は最下級であったようである。なお、女性には珍しくこの頃から彼女には武照という名前があったようだ。
具体的な時期は不明だが、この頃に則天武后は皇太子の李治と知り合っており、李治は父の妃の一人である則天武后に横恋慕していたようだ。
皇后に
太宗が死ぬと李治が高宗として即位した。
則天武后は太宗の崩御後には寺に入ったと言われていて、仏教ではなく道教の寺に入ったようだ。
そんな則天武后が皇后になるまでの道のりはややこしい。
高宗の皇后には名門である王家の王氏が取り立てられたが、高宗はこの王氏にはあまり興味がなかったようで、側室の蕭淑妃を寵愛していた。
嫉妬にかられた王氏ではあったが、自分ではどうすることもできないと悟ったのか、どうしても高宗の蕭淑妃への寵愛だけは奪いたいと則天武后の後宮入りを高宗に提案したのだ。
女心は難しい。
かくして高宗は喜んで則天武后を側室に迎え、蕭淑妃への愛は冷め、その寵愛は則天武后に注がれた。
勿論、高宗の愛が王氏に向かうことはなく、それどころか高宗は則天武后を皇后にしたい旨を明らかにする。
皇帝が何人側室を迎えようがそれは問題なかったが、正妻である皇后を変えるとなるともはやそれは政治の問題であった。高宗の臣下はこぞってこれに反対し、上奏文までだしたが、ただ一人則天武后の皇后就任に賛成した人物がいた。
その人物の名は李勣。
元々の名は徐世勣と言ったが、唐の建国者李淵に気に入られて李姓を与えられたというエピソードを持ち、凌煙閣二十四功臣という唐建国における功臣に名を連ねる人物であったので、誰も李勣の言うことには逆らえなかった。
この頃は唐が建国されてから結構な月日が経っていて、建国の祖たちはほとんど残っておらず、現在の有力者達たるやその二世三世であったのだから、李勣には頭が上がらない。
かくして王氏は皇后の地位を廃され、ライバルの蕭淑妃と共に親族もろとも庶民の位にまで落とされてしまった。
強欲は身を亡ぼすという良い例だね。
ただ、則天武后はこれに飽き足らず、二人を百叩きにした上で処刑している。則天武后にとっては王氏は恩人であるはずだが、こういう部分も則天武后が後に悪評をつけられる由縁であると思われる。
則天武后、垂簾政治を行う
垂簾政治と言う言葉がある。
これは中国特有の文化という訳ではなく、トルコや日本などでも見られるが、君主の母や妻が行う政治のことで、皇后が垂簾の中から政治を行うことを指す。
高宗が病気がちだったということもあっただろうが、高宗は基本的に則天武后のいいなりであった。則天武后は高宗の5歳上、幼き日より憧れの存在であったのかも知れない。遥か遠くローマでも有力者アントニウスがクレオパトラにメロメロになったことがあるが、高宗もほとんど同じレベルであろう。
クレオパトラと異なるのは、則天武后は政治的に恐ろしく有能であったことだ。
皇后に即位するや則天武后は自分の皇后即位に反対した重臣たちを粛正した。ここまではよくあることだが、則天武后の凄いところはその穴埋めに科挙合格者を採用したところだろう。
この部分の世界史的意義は非常に大きい。
中華文明は恐ろしいほどの貴族社会である。
「上品に寒門なく下品に勢族無し」
これは陳羣が提言し、魏の初代皇帝曹丕が採用した九品官人制を最も的確に言い表した言葉だが、優秀な人物であっても貴族でなければ要職には就けなかったということを表している。
世界史的に見て、優秀な君主に共通しているのは優秀な人物であれば門地に関係なく実力主義的に採用している点であろう。日本で言えば織田信長がそれにあたる。
則天武后はそういった伝統的な貴族社会にメスを入れたと言える。これ以降、科挙の地位は飛躍的にアップすることになる。
しかも則天武后の人材登用能力は確かであった。則天武后が専横的な政治を行ったにも関わらず、この時代大規模な反乱は起きていない。単発のものはいくつも起こったが、それらは民衆の支持を得られずにすぐに鎮圧されている。玄宗皇帝の時代に大規模な反乱が多発し、民衆がそれに賛同したのとは対照的である。
ちなみにこの時反乱軍の檄文を書いた詩人の駱賓王の才能を絶賛したというエピソードもあり、袁紹軍の檄文を書いて敵である曹操にそれを褒められた陳琳という人物を思い起こさせる。敵であっても評価するというのは古来より優れた為政者の特質でもある。
さらに則天武后は隋滅亡原因ともなり、太宗ですら失敗した高句麗遠征にまで成功している。
この時の将軍は誰であろう自分の即位に唯一賛成していた李勣その人であった。
しかし当時の朝鮮半島は日本・百済の連合軍を白村江の戦いで破った新羅のもとなっており、唐はすみやかに撤退した。
個人的にはこの部分は評価したいと思う。なにせ、煬帝は三度も高句麗遠征をおこない、これに失敗したことで失墜し、滅亡した。漢の武帝は大規模な遠征をおこない続けた結果、領土は拡大したもののその戦費調達のために重税を課した。
適度な外征は国を潤すが、過度な外征は国を亡ぼす。
高句麗を滅ぼして面目躍如した唐が、無理して朝鮮半島に侵攻していたら、滅亡を速める結果になっていたかも知れない。
史上初の女帝
やがて高宗が亡くなると息子の中宗が即位したのだが、中宗の妃韋后の政治関与に激怒した則天武后は中宗を廃し弟の睿宗を皇帝位に就けてこれを傀儡とした。
690年、権力の絶頂を極めた則天武后は中国初の女帝に就任する。
国号は唐から周に改められ、自らを聖神皇帝とし睿宗は皇太子に格下げ、後の世ではこれを「武周」と呼ぶ。
皇帝となった則天武后は新しい漢字の開発や地名の変更などを行い、この部分は現代でも賛否両論あって評価が中々難しい。
同じく周の政治を理想とした簒奪者王莽とは違って大規模な反乱が起きた訳でもなく、その政治が時代錯誤であったとする人もいれば理にかなった政治であると評価する人もいる。
則天武后は北魏以来の伝統であった仏教を保護し、各地に自らを弥勒菩薩の生まれ変わりとする「大雲経」を治めた寺を建立させる。
西遊記でも有名な玄奘三蔵は太宗の時代にインドへ生き、高宗に対して仏教の寺の建立を提言したことで有名で、「大雲経」の内容はともかく文化を振興させたと見ても良いであろう。則天武后が唐で仏教を保護したことが、後に日本で仏教が発展することにつながる。
唐招提寺で有名な鑑真などはこの大雲経のおさめられた大雲経寺で仏教を学んだと言われているぐらいだ。
引き続き人材のリクルートには余念がなく、宰相の狄仁傑(てきじんけつ)を始め姚崇(ようすう)・宋璟(そうけい)と言った官吏を登用し、これらの人物は後に玄宗の時代に開元の治と呼ばれる唐の全盛期を創出することになる。
706年、中国唯一の女帝はこの世を去った。
300人はいると言われている歴代皇帝の中でも、特に異質な皇帝と言えるだろう。
個人的な則天武后の評価
さて、この記事の本番ともいえる則天武后の評価であるが、これは実に難しい。これまでは良い部分を抜粋してきたが、失政と呼べる部分も多い。
晩年は張易之・張昌宗といった佞臣も採用しており、張柬之はこの兄弟を斬り、則天武后に退位を迫った。則天武后もこれに応じ最後は退位して中宗が復帰している。なお中宗が復帰すると則天武后の読み通り韋后が政治を握り、後の歴史では則天武后と韋后の字を取って「武韋の禍」と呼ぶようになり、これを廃した玄宗を英雄として称える傾向にある。
しかしこれも難しいのである。玄宗は最初こそ良かったが、晩年は国を亡ぼす一歩手前レベルにまで衰退させているし、大規模な反乱も起きている。
則天武后の治世時は実は民衆のレベルでは大きな混乱は起きていない。混乱していたのは宮中だけだったという説が現在では強い。
中国の歴史を見ると、秦における陳勝・呉広の乱、王莽の時代の赤眉の乱、霊帝の時代の黄巾の乱、玄宗の時の安禄山の乱など悪政が起ると大規模な反乱が起きている。
この部分と科挙の重視、高句麗遠征の成功などを考えるに中国歴代でもトップクラスの功績があると言える。
反面、皇帝を廃したり元号や地名を変えたりと悪政も目に付く。
もっとも、武帝のように庶民に重税を重税を課した訳でもないので、暴君ともいえない。
多少の失敗はあっても人材登用の目は確かで、玄宗皇帝の時代に開元の治と呼ばれるような全盛期が来るのも則天武后時代の遺産でもある。
自らを聖神皇帝とするなど馬鹿馬鹿しい部分もあるが、全体としては名君としての評価が妥当であろうと思われる。
気に入らない人物をすぐに処刑するなど暴君的要素もあり、さすがに趙匡胤や康熙帝のような掛け値なしの名君という訳ではないが、その功績はやはり大きい。特に則天武后以来科挙が重視されるようになり、実力のある者が官吏になれるようになったのは歴史的意義が非常に大きいと思われる。
「武韋の禍」とは言われるが、まったくもって何の功績もなかった韋后と同等の評価というのは少なくとも不当だと思う。
曹操や信長に近い、時代の変革者であったとさえ言えるだろう。
「刑賞の柄を挟み手以て賀御し、政は己より出で、明察善断、故に当時の英賢また基礎いて之がために用う」
資治通鑑における司馬光の則天武后に対する評価である。
「明察善断」
観察が明快で決断に迷いがないという意味である。