「テロリズム」というと現在ではイスラム過激派を思い浮かべる人が多いし、ロシアで横行した手法、あるいは南米で繰り返される凶行を想像する人も多いことと思う。しかしその発端はフランス革命期にロベスピエール率いるジャコバン派が扇動した「恐怖政治」にある。
ジロンド派とジャコバン派の戦い
フランス革命は当初はイギリスの名誉革命のような穏健な革命が期待されていた。
しかし国民会議軍がヴァスティーユ牢獄を襲撃して武器を奪い、その管理者であったローネーを処刑すると血が流れた。
これによって王侯貴族たちは国外に逃げ出し、その後国王はヴェルサイユ宮殿からティイリュリー宮殿に移設され、ついにヴァレンヌ逃亡事件を起こす。
それでもさすがに国王の処刑まではいたらず、1791年には国民公会によって立憲君主制を旨とした1791年憲法が発布され、フランスは立憲君主制の国家として生まれ変わった。
本来ここで革命は終了するはずであった。
しかし対外戦争が激化する中、国王一家が敵国のオーストリアと通じているということが判明し、国家の敵となった国王ルイ16世は裁判にかけられ、わずか1票差で処刑されることが決定する。
なおルイ16世の弟は国王の死刑に1票入れている。
これによって立憲君主制を支持していたフイヤン派は失脚、国民公会の主導権はジロンド派とジャコバン派による激しい争いのもととなっていた。
国民公会は本来立法府なので行政権はないが、行政権を行使していた国王が処刑されたために国民公会は行政権と立法権を兼ねるようになり、その権限は大幅に強化された。
内側ではジロンド派とジャコバン派の内戦、対外的にはオーストリアやプロイセンとの戦いとこの時期のフランスはまさに内憂外患の状態であった。
両党はまさに全てが対照的で、ジロンド派が地方に基盤を持っているのに対しジャコバン派はパリに基盤を持ち、ジロンド派が富裕層に基盤を持っているのに対しジャコバン派は民衆に基盤を持っていた。実際に優位なのは実はジロンド派であった。
趨勢を決めたのはまたしても民衆であった。1793年6月2日、民衆がパリで蜂起をし、ジロンド派の議員の追放を決めた。
これにより国民公会はジャコバン派が握ることになり、その行政はジャコバン派の議員で形成された公安委員会によって執行されることとなった。
恐怖政治(terreur)
ジャコバン派は、ジャコバン・クラブに所属する者たちの総称で、議会の高い部分の座席を占めていたことから別名「山岳派」とも呼ばれ、国民公会では左側に坐したことから「左翼」という呼ばれ方もする。
その中心人物はマクシミリアン・ロベスピエールであり、ジャコバン派の行動はほぼ全てロベスピエールの意思によってなされたと言ってよいであろう。
この人物は元々弁護士で、しかも人権派弁護士であり、かつてはただ1人死刑制度廃止論を唱えるような人物であった。それがどうして人を恐怖で縛るような政治を行うようになったのか?
これは本来の法律的な意味での「確信犯」であろうと思う。現代的な意味は無視すると確信犯とは本来宗教などの確信的な意思のもと罪の意識なしに犯罪を遂行するものであり、熱心なカトリック教徒であったロベスピエールは本人の中では神の敵を排除していったに過ぎないのかも知れない。
ロベスピエールは強い信仰心を持っており、「決して腐敗し得ぬ男」と呼ばれた。そのあまりの意志の強さにおいてその考え方を変えることもましてや買収することも不可能とされた。
恐怖政治の始まりは明確にマリー・アントワネットの処刑であった。
マリー・アントワネットは実家であるハプスブルク家率いるオーストリアに軍事上の機密を含む情報を流しており、その裁判の結果処刑された。
「美徳無き恐怖政治は忌むべきものである。恐怖政治なき美徳は無力である。恐怖政治とは、迅速にして厳しくゆるぎない正義に他ならない。それゆえ、恐怖政治とは美徳の発露である」
これはロベスピエールの言葉だが、ある種何かに憑りつかれていたと言える。
くしくも当時医師であったギョタンによりギロチンが発明され、より短時間により大量の処刑が可能となった。
ロベスピエールはジャコバン派を強化するためにライバルのジロンド派の議員達を処刑し始めた。罪状は王党派と結んで国家転覆を狙った罪。
裁判はジャコバン派が主導する革命裁判所で行われた。裁判の結果はほぼ死刑。もはやモンテスキューの提唱した三権分立は影もなく、すべての権力はロベスピエールに集中した。
ロベスピエールは古代ローマや中国の暴君よりもたちが悪かったかも知れない。暴君たちはある意味個人の癇癪や私欲のために暴君化するが、ロベスピエールは一切の私腹を肥やさず、ただ淡々と虐殺を遂行していった。
このようなジャコバン派が民衆の支持を得たのは主に「最高価格令」によるもので、当時は当然のように物価が激しく上がっており、商人などの買い占めなどにより物資がまわっていかなかった。民衆が当時多数派だったジロンド派に対して不満をもっていたのはこのためで、ジャコバン派は物品の最高価格を決めることでインフレを抑制しようとしたのだ。
もはやジャコバン派を止める勢力は存在しなかった。ジャコバン派は「疑わしい者たちに関する法令」を定め、ロベスピエールは自由に人に死を与えることが出来た。
もはや狂気であった。
革命に関係ある人物もない人物も片っ端から処刑していった。中には王妹エリザベートに代表されるように裁判の前から死刑執行書にサインされている例もあった。
ジャコバン派は軍備を固め、40万の兵士を集め、大いなる武力を手に入れた。
ジロンド派の女王と言われたロラン夫人も処刑された。バルナーブも処刑された。ルイ15世の公式寵姫デュバリー夫人も処刑された。歴史に名を残す科学者ラボアジェも処刑された。処刑された者たちにもはや共通項などなくなっていた。
革命から、正義は失われた。
テルミドール9日のクーデーター
歴史において、恐怖政治が破綻しなかった例はなかった。
1794年、恐怖政治は終わりを迎える。
テロリズムはこれ以後もそうだが、確実に同士討ちをするようになる。恐怖が伝染し、内側に広まるのかも知れない。
恐怖政治の対象はもはやジャコバン派内部にも及ぶようになっていたのだ。ロベスピエールはあまりにも人を殺し過ぎて疑心暗鬼になっていた。周りが皆的に見えた。ダントン派やエベール派と言った革命の中心的な派閥にも恐怖政治が及ぶにつれてジャコバン派は崩壊していった。
革命の有力者であったダントンは、その死に際してこう言った。
「ロベスピエール、お前も必ずこうなる」
ダントンの言った通りになった。
恐怖は伝染し、人々は互いに疑心暗鬼になった。次は自分の番かも知れない。やられる前に、やれ!
ロベスピエールは益々狂気に憑りつかれるようになり、処刑者の数を日々増やし続けた。
そしてクーデターは意外なところから、そして意外な動機から起こった。
クーデターを推進したのはバラス、フーシェ、タリアンと言った人物であった。彼らが恐怖政治に不満を抱いた理由は私腹が肥やせないことであった。ロベスピエールは自身の理想の為に革命を推進していたが、この者たちは自身が甘い汁を吸うために革命に参加していた。理想や理念などどうでもよかった。このままロベスピエールと一緒にいても甘い汁は吸えない。そう判断した彼らは、「処刑リスト」なるものを議員たちに見せて仲間を募った。見せられた議員たちは自分の名前を見て恐怖する訳だ。
ロベスピエールの与え続けた恐怖が対に自身に跳ね返ってくる時がやってきた。
革命暦テルミドール9日、議会においてジャコバン派を代表するサン・ジュストの演説中、タリアンがそれを遮ってロベスピエール弾劾の演説を始めた。
タリアンは愛人のテレジア・カバリュスが革命裁判にかけられることになり焦っていた。
タリアンはロベスピエールを弾劾し続けた。
ロベスピエールは挙手をし、反論しようとしたがそれは認められなかった。議長であるコロー・デルボアも既に反ロベスピエールに傾いていたからだ。
国民公会はロベスピールらジャコバン派の中心人物の逮捕を決めた。
実はロベスピエールら5人は1度その身柄を国民衛兵軍によって救出されている。それでも厳格な革命の志士であるロベスピエールは軍隊を率いて議会に乗り込むことはできなかったという。ロベスピエールは決して神聖な何かを犯さない。
やがてバラスが軍隊を率いてロベスピエールらの身柄を再び確保した。
翌日、裁判もなくロベスピエールは処刑された。その一味も翌日、そしてその次の日までには処刑されつくした。3日間でジャコバン派100人以上が処刑されたという。
総裁政府の誕生、そしてナポレオンへ
テルミドールのクーデター後、バラスら5人の総裁による総裁政府が誕生し、フランスを支配するようになった。
総裁政府はひたすら汚職にまみれた政府で、民衆は総裁政府に失望し続けることになる。
そのような中に1人の英雄が登場し、国民は熱狂することになる。
その英雄の名はナポレオン。
フランス革命を終焉に導く人物である。