中国史上の名君を五人選べと言われたら、宋の太祖こと趙匡胤は確実にその候補にあがるであろう。
今回は唐以来の統一王朝を作り上げた英雄の人生を見て行こう。
救国の英雄
朱全忠が唐を滅ぼしてからというもの、中国は分裂し、非常に短命でかつ粗暴な王朝が興っては滅び、滅びては建国されていた。
為政者は己の利益と権力のみを追い求め、人民のことを考える者は皆無になり、国は荒れ果てていくばかり。そんな時代にあって一筋の光が差した。英雄の登場である。
英雄の名は柴栄。後に後周の世宗と呼ばれることになる人物である。
柴栄が即位してすぐに、北方の異民族契丹族の国遼と北漢の連合軍が後周を襲った。
兵力では比べるべくもなく、後周もまた他の王朝と同様滅びの危機にあった。
そんな状態で臨んだ高平の戦いにおいて、後周側からは次々と敵方に寝返る兵が出てくる始末。そのような状態を見て、最重要部隊を任されていた部隊は戦線離脱。もはや後周の滅亡は免れないかと思われた。
しかしそこにもう一人の英雄が現れた。名を趙匡胤という。
敗北必至の後周にあって、わずかな兵力で敵を次々に撃破していく。予想外の反撃に遼・北漢の連合軍はひるみ、趙匡胤はそのわずかな隙をついて敵軍を大いに打ち破っていった。
終わってみれば敵国は撤退し、高平の戦いは後周の大勝利に終わった。
この功によって趙匡胤は殿前軍という皇帝直属部隊の副司令官への出世を果たす。
高平の戦いに勝利し、財政改革に成功した後周は荒れ果てた国に平穏をもたらすべく中華統一戦争に乗り出していく。趙匡胤は柴栄に従い各地で転戦をかさね、南の大国南唐を滅ぼすことに成功する。
この際、南唐の李璟という武将の策によって趙匡胤と柴栄の仲を裂こうとする離間の計が発動するが、趙匡胤は普段から私欲がなく、李璟から贈られた財宝と手紙をそのまま柴栄へと献上、かえって結束は強くなった。
この頃に趙匡胤は後の右腕になる趙普と出会った。趙普は宋の基礎を作った男と言われており、武人肌だった趙匡胤をサポートし、後に国造りを大いに助けることになる。
中国の南部を征した後周は宿敵であった北漢と遼を打倒すべく北へ軍を向けた。柴栄自らの親政であったが、志半ばに柴栄は病没してしまう。
跡を継いだのはわずか7歳の恭帝であった。
中華帝国最後の禅譲
「禅譲」というのは、武力によらず政権を譲り渡すことであり、古代の堯舜禹の時代を理想とする儒教の主上の概念である。王権が交替する際には禅譲に拠らねばならない。その原則において中国では数多くの「禅譲の儀」が行われてきた訳であるが、実際には武力による脅迫が多く、王莽のようにその実と離れた禅譲もどきが横行していた。
趙匡胤は公平無私な性格で、戦国の世にあるにも関わらず無益な殺生を嫌う性格で、唯一の欠点と言えば大酒飲みであったことぐらいであった。
強烈なカリスマ性をもった世宗という君主が亡くなり、国中が不安に包まれた。後を継いだ7歳の恭帝に政権運営能力がないのは明らかだ。
そんな状態を見計らったかのように契丹族の国家である遼が攻めてきた。趙匡胤はこれを向かい討つ姿勢で軍を率いて行軍中であったという。
趙匡胤は寝る前にいつものように大酒を飲んで寝た訳だが、朝起きたら皇帝のみが着用できる黄色い着物を着せられていた。部下たちが眼前に並び何かを言いながら跪いている。
これが世に言う「陳橋の変」である。
趙匡胤はそのまま一度首都開封に引き返し、恭帝より皇帝位の継承を受けた。
ここに後周は滅び、宋という国が生まれた。
宋が今までの五代十国の国々と異なったのは、政権交代に際して一切の略奪を行わなかったことである。
五代十国の国々は自らの国の領民に対して略奪を加え、その武力をもって圧制を強いていたが、趙匡胤はそのようなことは一切行わなかった。
また、後周の一族は殺害されることなく終生厚遇された。中国の歴代王朝において、前王朝の王族は根絶やしにされるのが常であった。これは特に五代十国時代に顕著で、唐を滅ぼした朱全忠は唐の王族を根絶やしにしている。
趙匡胤はこのようなことを一切やらずに、主君であった後周の王族を代々保護し、北宋が滅び南宋の時代になってもそれは続いたという。
また、王朝の創始者は建国の功臣たちを粛正する傾向にあったが、趙匡胤はそのようなことは一切しなかった。
劉邦や朱元璋などは皇帝となってまず最初に武将たちを粛正したのだが、趙匡胤は武将たちを左遷こそしたものの、軍事的権力はないが旨味のある役職につけ、時折遊びや酒の席に誘いその功をねぎらったという。
大宋帝国初代皇帝
建国に伴い2件ほど反乱が起きたが、即座に鎮圧され国内には平和が訪れた。趙匡胤は趙普を宰相に任命し、国内の様々な制度を整備させると同時に、中華統一の準備を始めた。
各地の勢力を併合していき、残るは江南の呉越と長年の宿敵北漢だけとなった976年、突然死んでしまう。
享年50歳。後継者を決めずに崩御したため、帝位は弟の趙匡義が継いだ。
あまりにも突然の死であったため、古来より趙匡義による暗殺説が根強い。
一方で普段からの大酒がたたって脳梗塞や心臓発作を起こしたのではないかという説も根強く、その真相は闇の中である。
弟による暗殺説が根強い背景には、趙匡胤の子供たちは成人であったにも関わらず弟が兄の遺言と称して帝位に就いたことと、自分の後継者を息子とし、趙匡胤の子供たちや自分たちの弟を粛正したことにある。
そこまでして皇帝位につかせた息子は宋代三代皇帝真宗であり、この皇帝の時代に結ばれたのが「澶淵の盟」である。これは遼に対して毎年絹20万匹、銀10万両を支払うという宋の側からは屈辱的なものであった。
もっとも、その盟約のおかげで大規模な戦争をせずに済んだため、平和な時代を享受できたのも確かであり、その辺りは難しい問題である。
いずれにしても、趙匡胤が約300年続く宋を建国し、その基礎を作ったというのは確かであろう。
個人的な趙匡胤に対する評価
これほどケチをつけるのが難しい人物もいない。
乱世を平定し、平和な時代を創出したその功績は、後漢の創始者光武帝や唐の太宗、清の康熙帝などに並び、将軍としては三国志のどの英傑よりも優秀であった。
その人望は劉邦や劉備玄徳をもしのぎ、自ら滅ぼした王朝の王族を誰も殺さなかった仁徳は他喉の君主をも上回っていたと言えるだろう。
とにかく人の命を大事にした人物で、普段から部下に略奪だけは絶対にしないように厳命し、戦功があろうとも略奪や虐殺を行った人物は厳しく罰した。普段は質素倹約に励み、臣下や家族が病気になると自ら薬を煎じて看病したという。
「人命を視ること草芥の如し」
五代十国時代を最もよく表した言葉と言われているが、そんな時代に、いや、そんな時代だからこそ趙匡胤は人の命を誰よりも大事に思ったのかも知れない。
自ら政治的な能力は皆無とみて趙普に任せて口を出さなかった点も評価が高い部分であろう。
自らは生粋の武人でありながら、国の政治は文官にまかせるといういわばシビリアンコントロールのはしりのような制度を作った人物であり、子孫に向けて知識人を絶対に処刑しないことを家訓とした。それゆえに宋では言論の自由が守られ、朱子学を始めとした学問の発展、文人画などの絵画の発展、雑劇のような庶民文化、羅針盤・木版印刷・火薬と言った新技術の発明など文化が大いに発展していった。
柴栄は自ら全てを行おうとして結果的に無理が出てしまったが、趙匡胤は適度に部下に仕事を任せるということのできる人物であった。王朝の創始者として、これ以上の人物は望むべくもないであろう。
中国史に限らず、世界史的にみてもトップクラスの名君である。