子龍は一身これ胆なり!趙雲子龍の虚像と実像について

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AKBみたいに三国志キャラクター人気総選挙をやったら趙雲はかなり上位に入るだろう。

女性人気なら周瑜、男性人気なら呂布、その両方に好かれるのが趙雲や諸葛亮と言う気がする。

子龍は一身これ胆なり

白馬将軍の名で呼ばれ、劉備玄徳と共に盧植に学んだ公孫瓚は危機に瀕していた。

名門袁家の当主である袁紹配下最強の将軍文醜の前にまるで歯が立たなかったからだ。

弓も兜も捨て、死に物狂いで逃げ延びるも馬が急な山道で足をくじいてしまい、もはやこれまでと死を覚悟した。

しかし襲い掛かる文醜の前に一人の若い武者が現れた。

突如現れた勇将は袁紹軍最強の戦士文醜と打ち合い、ついにこれを撃退することに成功した。名は趙雲子龍。

趙雲は公孫瓚のもとで獅子奮迅の活躍をし、最も天下に近い男袁紹の侵攻を見事に食い止める。

そこへ公孫瓚の弟弟子である劉備玄徳がやってきた。

劉備に会って公孫瓚に仕えたことを後悔した趙雲であったが、主君を軽々しく変えるのは義に反する。いつの日か再会できることを信じて2人は長い別れを享受した。

趙雲の活躍もむなしく公孫瓚は袁紹に敗れてしまう。

命からがら逃げ延びた趙雲は流浪の身となり、主君と決めた劉備玄徳を探す日々。武勇に優れた趙雲は行く先々で山賊や盗賊を討伐しながらそれらを部下にしていった。

やがて劉備が袁紹の許にいると聞き荒くれものどもを伴ってこれに同行、2人は涙を流し再会を喜んだ。

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劉備の行く先々でまるで影のように付き従う趙雲だったが、劉備は曹操の大軍に襲われ陣営は散り散りになってしまう。

戦乱のさなか劉備の婦人である糜夫人と嫡男である阿斗が行方不明となってしまう。途中七星の剣を持つ夏侯恩を倒し、戦場で2人を発見した趙雲だったが、糜夫人はすでに傷を負ってしまっていた。自分が足手まといになることを知っていた彼女は阿斗を趙雲に託し自らは井戸に身を投げて命を絶ってしまう。

幼き阿斗を胸にしまい込んだ趙雲は、劉備の許へ戻るために100万人の曹操軍の中を単騎で駆け抜けていくことになった。

修羅さながらに戦場を駆けるさまを見て、曹操の悪くせが出た。

「ぜひうちに欲しい」

曹操は趙雲を生け捕りにすること、しかも無傷でとらえることを全軍に命令する。これ幸いと趙雲は囲みを破り、愛馬白竜とともに戦場を駆け抜けていった。

一方そのころ劉備陣営では張飛が怒っていた。

「趙雲の野郎、姿が見えねぇ。もしかして敵に寝返ったんじゃねぇか?」

これを聞いた劉備は大激怒。張飛の頬を思い切り叩いた。

「子龍はそんな漢じゃない」

やがて趙雲が戻ってくると阿斗を受け取り、息子を思い切り地面に打ち付ける。

「お前のせいで大事な部下を失うところだったんだぞ!」

これを聞いた趙雲は感激の涙を流したという。

時は過ぎ、劉備と孫権の娘の間に婚礼の話が持ち上がる。

孫権はその儀の途中で劉備を亡き者にする予定であったが、事前にそれを察知した孔明によって趙雲が劉備を救い出すことに成功し、九死に一生を得た。

劉備が漢中王になると関羽や張飛と共に五虎将軍に任命される。

劉備亡き後は丞相となった諸葛亮孔明をよく支え、南蛮征伐や北伐にも参加し、陣中にて静かに息を引き取ったのであった。

劉備は生前趙雲の剛勇を評して「子龍は一身これ胆なり」と言ってこれを称えた。これは全身がまるで度胸の塊であるかのようだという意味で、生涯変わらぬ忠誠と信頼関係が2人の間には存在してたのであった。

正史での趙雲

というのが三国志演義での趙雲で、実際の歴史上の人物としての趙雲はというと、最初は公孫瓚の部下であったが、劉備が公孫瓚に身を寄せていた際劉備の部下になり共に公孫瓚陣営として戦い、そのまま部下になったようである。

やがて曹操が荊州にいた劉備を攻めると、劉備は妻子を捨てて自分だけ逃げてしまった。

趙雲は曹操軍5000の兵の中に突っ込んで行き、劉備の妻である甘婦人と阿斗を見つけ出し救いだすことに成功した。

劉備が劉章を攻めた時にも随行し、いくつかの戦功を挙げることに成功、劉備亡き後は諸葛孔明に従って北伐に参加、魏の将軍曹真と戦い、有利であったにも関わらず敗北を喫し、降格処分になっている。

229年、恐らくは北伐の際中に永遠の眠りにつく。

個人的な趙雲の評価

趙雲は幼い日の俺にとってヒーローだった。100万人の兵の中に恐れずに突っ込んで行き、主君に忠誠を誓い、幼き子供を助けるというのはまさにヒーローそのもので、光栄のゲーム三国志2でも関羽や張飛と並んで武力99だった。むしろその二人よりも強いんじゃないかとさえ思っていた。

だが実際の趙雲は全く活躍してなんていなかった。

ショックだった。

三国志演義好きは正史三国志を読まない方が良いと言われるが、それは魏の面々が大幅に下方修正されているのに対し蜀の面々があまりにも意図的に持ち上げられているからであろう。

最も持ち上げられたのは諸葛孔明と趙雲な訳である。

まず趙雲は文醜と戦っていない。

次に曹操軍は100万ではなく5000人だったしついでに劉備は妻子を置いて逃げ出している。

そして趙雲は五虎将軍には任命されていない。というか五虎将軍は創作で実際にはなかった。

五虎将軍は魏の五将軍から着想を得た創作で、実際には関羽が前将軍、張飛が右将軍、馬超が左将軍、黄忠が後将軍に任命され同格になっており、趙雲はずっと隠したの位で、魏延よりも実は格下だった。

馬超はともかく黄忠よりも隠しただったのはショックだったし、さらに魏延よりも下なのは・・・

最後に、勲功は特にないのに曹真というポッと出みたいな将軍に惨敗しているのもヒドイ。しかも趙雲陣営の方が兵が多かったのだから救いようがないのである。

とはいえ当代の人物からの評価は高かったようで、劉禅なども真っ先に蜀建国の功臣として名を挙げているし、陳寿も黄忠とともに武勇に優れた人物と評しており、漢の高祖に仕えた夏侯嬰に比する実力があると評価している。

なお、その夏侯嬰は曹操や夏侯惇などの先祖なのだが…

正直趙雲に関しては記事を書きたくないレベルであったのだが、やはり世界史ブログであるからには演義だけでなく正史も書かねばならないだろう。

でもやっぱり趙雲好きだぜ!