長い中国の歴史において、武力的に見れば最盛期は漢の武帝の時代、文化的に見れば明代がその最盛期であったと言えるだろう。
四代奇書と言われる三国志演義、水滸伝、金瓶梅、西遊記もこの時代に花開き、書、絵画、戯曲など現在にも伝わる傑作が数多くこの時代に生まれて行った。
中でも湯顕祖の書いた戯曲「牡丹亭」は同時代のシェイクスピアに劣らぬ傑作であると言えるだろう。
牡丹亭還魂記
時は南宋の時代、北方の土地は女真族の金王朝が支配しており、漢民族は江南の地に移り住んでいた。
広州に住む柳夢梅はある夜夢を見る。花園の梅の下に見たこともないような美少女は経ち、恋に落ちるという夢であった。
同じころ南安の太守の一人娘である杜麗娘もまた柳夢梅と夢の中で恋に落ちていた。二人は夢の中で度々逢瀬し、太湖石の陰で結ばれる。
しかし夢の中で逢瀬を重ねれば重ねるほど、杜麗娘は衰弱していく。自分の余命を悟った杜麗娘は母に自分の亡骸を花園の梅の下に葬って欲しいと頼み、自分の自画像を太湖石の下に埋めるように頼んでから死んだ。
彼女の父はその後南下する金軍と戦うために北方へ移住、娘の供養のために「梅下庵観」なる寺を建ててその住職にその任を託す。
杜麗娘の死から三年後、科挙試験の道中であった柳夢梅は南安を通った際に熱を出して前後不覚となってしまう。そこにたまたま居合わせたのが梅下庵観の住職であった陳最良であった。彼は病人を寺に連れて行き熱心に看病する。
熱病に冒された柳夢梅はその日夢を見る。杜麗娘が出てきて太湖石の下を掘るように言うのだ。
翌日熱の引いた柳夢梅が太湖石を見つけると下から杜麗娘の自画像がでてくる。夢の中で出会った二人はここで初めて会うことができたのである。
柳夢梅が杜麗娘に会いたくて会いたくて震えていると目の前に杜麗娘が現れた。二人はこの日を境に逢瀬を重ねるが、ある日柳夢梅は杜麗娘が自分は幽霊であることを告げられる。
杜麗娘は柳夢梅は会いたくて衰弱して死んでしまった訳だが、ことのなりゆきを説明したところエンマ大王がこれを憐れんでこの世に戻してくれたのだが、自分には肉体がないので墓にある自分の身体を掘り起こしてほしいと告げる。
恋にほだされた柳夢梅はルパン三世もビックリの速さで墓を暴き杜麗娘の亡骸を発見する。
杜麗娘の亡骸と魂は融合し、再び杜麗娘はこの世に蘇ることに成功したのである。
二人は急ぎ臨安(現在の南京)に行き祝言をあげるも柳夢梅は墓暴きの罪によって逮捕投獄されてしまう。杜麗娘は父を説得し、柳夢梅を牢屋から出そうとするもうまく行かず、途方に暮れていたところに柳夢梅の受けた科挙試験の結果が届いた。結果は合格。
それにより柳夢梅は晴れて解放され、結婚も許され、高級官僚になって幸せに暮らしましたとさ、チャンチャン。
という話である。
この「牡丹亭」には三国志演義同様沢山のパターンがあり、場合によっては皇帝が出てきて一件落着となることもある。
そもそもの原義が唐代に詩人元稹の書いた「鶯鶯伝」であり、それを見事に脚色したのが牡丹亭な訳である。
明代においては三国志演義を始めこのような原題のある話を戯曲に昇華させる文学が流行り、同じころイギリスのシェークスピアも「クレオパトラとアンソニー」のように歴史を題材にしたり「マクベス」や「ハムレット」のように幽霊を登場させていたりするのは興味深い。
これらの何が凄いかと言うと、今までのお約束や制約を一気にとっぱらった表現をしたことであろう。
合理的に考えればありえないことのオンパレードだが、そういった制約をものともせずにその殻を見事に破ってしまった。
この背景には作者湯顕祖の反骨心に満ちた性格と生きざまが良く出ていると思う。
反逆の翼!湯顕祖の人生を見よ
個人的には、「牡丹亭」以上に湯顕祖の生きざまは劇的に思える。
この時代、牡丹亭の戯曲に見られるように「科挙」に合格するかどうかが人々の全てであった。現代で言えば国家公務員試験と司法試験と医師国家試験と国会議員当選が合体したようなものであり、上海の有名な観光地「豫園」に見られるように科挙の合格は絶対的な成功の証であった。
科挙は明代には地方の一次試験である郷試、中央で行われる会試、皇帝が直々に試験する殿試の3段階に分かれていた。
湯顕祖の父も祖父も科挙には何度も挑戦したが受からなかったものの、湯顕祖自体はかなり高度な教育をほどこされていたようで、21歳で郷試するも会試には3度落選してしまう。
実はこの湯顕祖には裏があった。
科挙は誰にでも合格が可能な試験であったはずだが、その結果はある人物によって操作されていたのだ。
その男の名は張居正。
世界史にも出てくるような大人物だが、やっていることは大分県の教育者と大して変わらない。
あろうことか張居正は公正なはずの科挙試験の結果を操作したのだ。
湯顕祖が受験した年、張居正の次男も科挙を受験していた。そこで張居正は会試の受験者を自ら主宰する宴に招待した。それを湯顕祖は断ったのだ。
結果、一位合格はその宴に行った者、二位は張居正の次男、湯顕祖の名はそこにはなかった。
4度目の挑戦では第一位合格は張居正の三男で、湯顕祖の名前はまたもそこにはなかったのだ。
5回目の試験では受かった。なぜなら張居正が失脚していたからだ。
国家官吏試験においては、大分県の例を見ても明らかなように不正が起こりやすい。そしてその不正は発覚しにくい。
湯顕祖がそこまでして張居正に反目していたのには理由があった。湯顕祖は以前羅汝芳という人物に師事していたのだが、張居正はこの羅汝芳を追放していたのだ。他にも多くの者を逮捕・処刑しており、湯顕祖は張居正にだけは屈するまいと思っていたのであろう。
このエピソード一つとっても湯顕祖が反骨心に満ちた人物であることが分かる。
科挙に合格した湯顕祖は南京に赴任となり、多くの文化人と交流をするようになる。当時の南京は首都北京以上に文人が多く、これらの人物との交わりを通じて本業よりも詩や歌などの創作に多く時間を割いたという。
この際、明の方針に疑問を呈していたようで、当時南京での最有力者であった王世貞という人物に対し真っ向から楯突き交際を一切断っていた。湯顕祖から見ると大した信念もなく明王朝に尻尾を振ることしか能のない王世貞はつまらぬ人物だと思われたのであろう。王世貞はいかにも官僚的な人物で、独自の発想などはなく、現状に疑問をもたずにただ決まり事を延々と施行していく人物であった。
後年「牡丹亭」のようなぶっとんだ発想をするような湯顕祖とは気が合う訳がない。この南京時代にはされど弾圧されることもなく、デビュー作である「紫釵記」を発表している。
僻地に飛ばされる
時は万暦帝の時代、不正を犯した官吏を厳罰に処するという詔が発令された。義侠心に溢れる湯顕祖はこれとばかりに意気揚々と「論輔臣化臣疏」と題する上奏分を皇帝に送った。内容は科挙において不正を行う重臣たちへの糾弾であった。
しかしそこは世界史上でも指折りの暗君と呼ばれる万暦帝、上奏分は皇帝に届くこともなく、糾弾された重臣たちの手に渡る。
投獄にこそならなかったが、湯顕祖はこれを契機に僻地へと飛ばされ、出世コースを完全に外れてしまった。
いつの世も「正しいこと」を行った者は弾圧される。不正をただす者は不正を為す者によって駆逐される。
しばらくは僻地の暮らしを謳歌していたが、やがて国家官僚の職を辞し、故郷へと帰って創作活動に専念する。
ちなみに職を辞したのは僻地に飛ばされたからではなく、「鉱山に対する税金問題」だったようである。
生まれつきの皇帝である万暦帝にとって、富は無限大であった。もちろんそれは万暦帝の頭の中だけの話で、実際には明王朝は経済的に破綻していた。
現在の破綻国家がするように、この時の明もまた庶民に重税を課すという愚かな行動をとる。もう何がなんでも税金だけはとってやるぞと言った感じで、新たに鉱山開発をし、重税をかけた訳であるが、これが無茶苦茶で、例え金などが出ても出なくても出たことになって税金を徴収していたので湯顕祖はこれに抗議する形で職を辞したのだという。
この「鉱税」の主導者は宮中に巣食う宦官たちで、湯顕祖は悪事の片棒を担ぐのはごめんだったのであろう。
故郷に帰った湯顕祖は先ほどの「牡丹亭還魂記」や「邯鄲記」などの傑作を次々と発表。
ここで評価されたと言いたいところだが、湯顕祖は読むと(レーゼドラマとしては)素晴らしいが曲に合わせづらいという欠点があったようで、評判は必ずしもよくなったようである。そこで戯曲用の改訂版が実際には上演されたりもするのだが、湯顕祖はこれを聞くと激怒し、内容は変えるな、世の中の人の喉がひん曲がってもそのまま演じよ!と言ったと伝えられる。
良くも悪くも剛直な性格である。1616年、湯顕祖は66歳で天寿を全うした。
個人的な湯顕祖への評価
俺はこういう人物が好きでしょうがない。
世の中には組織に向かない人物と言うのがいて、俺も性格的にそういうタイプなのでよく分かる。悲しいのは俺の場合はそれで身を立てる才能などには恵まれなかった点だが、それはさておきこういう義侠心に満ちた不器用な人間は好きであるとともに、こういう人物を使いこなせなかった明という国が滅びの道を歩むのは必然であったと思う。
おかしいことをおかしいと言えない社会は必ず滅ぶ。
ナチスドイツやスターリン下のソ連が今現在残っていないのが良い例であろう。