超閲覧注意!世界史に名を轟かせる暴君・悪漢ランキングトップ100!~ヤバイ奴らのオールスター~

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今回の記事は前回の記事に寄せられた「女性ばっかり悪く書かれるのはおかしい!!」というコメントから始まった。

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他にも「暴君のランキングはないの?」みたいなコメントもいただいたし、確かに女性のランキングだけだと男女平等に反するのかも知れない。ということで今回の記事を書き始めた訳だが、とにもかくにもエライことになったなという感想である。

前回の記事もある意味狂気に彩られていたが、今回の記事はもはや狂気そのものと言って良く、前回みたいにこの記事の感じを簡単に書くと以下のようになるだろうか。

前半:暴君というより「暴君的な人物」
中盤:完全なる暴君(悪漢)、段々と感覚がおかしくなってくる
後半:酷すぎて同じ人類として生まれたことを恥じるレベル

特に後半は人類の狂気が集まっている。タイトルにもあるように超閲覧注意である。

全部書き終えてからこの前文を書いているのだけれど、そんな狂気に向き合いながらこの記事の作成にはおおよそ100時間以上はかかってしまった。調べるのにひたすら時間がかかり、書くのに時間がかかり、文章を削るのに最も時間がかかったかも知れない。途中何度も一体自分は何をやっているのだろうという思いに駆られたが、なぜか書くのを辞めようとは1度も思わず、気が付いたら80000字を越えてしまっていた。長い文章の多い当ブログでも歴代最長の長さである。

という訳でただですら長い記事の全文をこれ以上長くする訳にもいかないので前文はこれぐらいにしておこうと思う。

 なので「暴君とは何か?」「どのな基準でランク付けしているのか」とかは真ん中あたりに記述しておいた。

また、今回もシリアルキラーなどは対象外で、皇帝や王と言った君主やそれに類する地位、あるいはそれなりに力を持った地方領主や宰相などに限定しようと思う。とはいえそういった人間達以外を入れてもこのランキングはほとんど変わらないかも知れないが…

なお、閲覧注意なこの記事の中で特に閲覧注意な人物には赤字をつけておいた。主に残虐な行為が書かれているのでご覧になる時は十分にご注意ください。

第100位:日本の英雄世界の暴君「豊臣秀吉」

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戦国の覇者である秀吉には暴君的な要素があると言える。

朝鮮出兵の是非は脇においても千利休や甥の秀次一家への切腹など晩年はそういった面が非常に目立つようになる。

特に秀次殺害は中々凄惨で、その首は晒され秀次だけではなく秀次の子供たちや侍女まで殺害されたおり、これは一人息子の秀頼の安息を願っての行動であったかも知れないが、結局秀頼に政権運営能力はなく徳川家にその地位を簒奪されたのはある意味皮肉でしかない。

また、秀吉はバテレン追放令やサン・フェリペ号事件でキリスト教徒26名を殺害しており、西欧からの評判もすこぶる悪かったりする。イエズス会の宣教師ルイス・フロイスからは「極度に淫蕩で、悪徳に汚れ、獣欲に耽溺していた」と評されたほどで、朝鮮侵略も重なって、日本以外からはかなり評判の悪い人物である。

他にも自分を批判する落書きをした人物たちを鼻削ぎ耳切の刑に処したり見せしめとして女性、子供200人を串刺しにしたりと戦国の世であることを差し引いても残虐な面がある。

第99位:暗君的暴君「ホノリウス」

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暗君ランキングならトップ5には入る人物だが、暴君ランキングとなるとかなり下位になる。

暗君と暴君はやはり大分違う。暗君は政治に無関心であるが故に国を傾けてしまう場合が多いが、暴君は政治に関心がありすぎて強引な手法を取る傾向にある。

ホノリウスはキリスト教をローマの国教としたテオドシウス帝の息子で、東西に分割されたローマ帝国の西側を統治していた皇帝であるが、あまりにも暗君過ぎて以下のようなエピソードが出来上がったほどである。

「ホノリウス帝の治世時、ローマはゲルマン人による略奪を受けた。部下はホノリウス帝にローマが奪われましたというと、飼っていた鳥にローマと名付けていたホノリウスは鳥が足元に留まっているのを見てそれを不思議に思った。ローマはここにおるではないかと」

これは恐らく後年の創作であろうが、歴史家はこの話の真偽はさておきホノリウスがそれぐらい愚かであったという点では一致している。ちょうどマリー・アントワネットが飢えた民衆を見て「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」と言った逸話に似ていて、マリーは本当はこんなことは言っていないらしいが、本当に言ったかどうかよりもそれぐらい言いそうな人物であるという点に重要性があると言える。

ホノリウスの愚かさを利用した悪辣な官僚たちは権力闘争を繰り返し領内はゲルマン人に凌辱され続けるという状態だったが、ホノリウス自体は本当に何もしなかった。滅びゆくローマ帝国に対し彼は何の興味も持たなかったと言ってよいだろう。

彼がしたことと言えば唯一ゲルマン人相手に戦えたスティリコという名称を処刑したことだけである。

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スティリコの処刑によってローマには戦える将軍がいなくなり、先述したようにゲルマン人のアラリック1世にローマを奪われるなど完全に機能不全になっていき、偉大な歴史を紡いだローマ帝国は転がる石のように滅びの道を下っていくようになる。

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第98位:世界No.1ベストセラーの悪役「ネブカドネザル2世」

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元祖バビロン捕囚の首謀者。バビロンの空中庭園やバベルの塔のモデルとなった巨大なジッグラト(塔)の建設者としても有名。

新バビロニアの王としてヘブライ人の王国ユダ王国を滅ぼしソロモン神殿を破壊、多数のユダヤ人を首都のバビロンに強制連行したことからその名は悪名として残ってしまうことになる。

その後バビロンを占領したペルシャ王キュロス2世によってヘブライ人は解放される訳だが、このヘブライ人が後にユダヤ人になり旧約聖書を遺し、その後ユダヤ人の中からイエス・キリストが生まれると新約と旧約は共に聖典となって世界で最も読まれた本となり、2019年現在でも世界断トツのベストセラーとなっている関係である意味ハリー・ポッターのヴォルデモートよりも名の知れた悪役になってしまったのである。

バビロン捕囚はある意味世界史第一統のエピソードであるから仕方がないのかもしれない。聖書では神に逆らったことから最期発狂して死んだことになっているが、ネブガドネザルの治世については分かっていないことが多く、実際に暴君であったかどうかは難しいところである。もしも血も涙もない暴君であったらバビロンに連れて行かずに虐殺したのではないだろうかとも思うし、その治世下でもヘブライ人達が信仰を守り続けられたことから当記事的には暴君度はかなり低めになる。 

それでもイメージが悪いのは聖書の影響もさることながらサダム・フセインが「現代のネブガドネザル2世」を自称したことも大きいのかもしれない。

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第97位:敬虔な無慈悲王「アショーカ王」

仏教を保護した敬虔な王という印象が強いアショーカ王だが、仏教に改宗する前は非情な暴君で、王が通った後は全てが焼き払われて草木の一本も映えなかったと言われ、伝説によれば99人の兄弟を殺害し、500人の大臣を処刑したという。

そんな人物もお釈迦様の教えを受け入れて名君になった訳だが、これは仏教説話のある意味定型にあてはめたとも言え、実際にはアショーカ王の兄弟は王族として要職に就いていたという記録もあり、仏教説話に出てくるほどには残酷ではなかったであろうとも言われている。

アショーカ王に限った話ではないが、宗教が絡むとどうしても必要以上に善性や悪性が強調されてしまう面はあると思う。

とはいえ戦争で多くの人を殺したことや兄弟を殺害して王位に就いたのはどうにも本当らしいので、暴君的な要素を持った人物の1人ではあるのだろう。

暴君というのはある意味作られているという面もあるので、実際にそうであったかどうかは判断が難しいところではある。

第96位:恐怖の魔王「アッティラ」

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ヨーロッパを恐怖のどん底に突き落としたフン族の王。

恐らくは中華文明を散々苦しめた匈奴の一派と見られており、我々日本人と同じモンゴロイドであると思われる。

ある時ローマからの使節を前にアッティラは脱走兵の処刑を行った。これが結構強烈であったらしく、以下のような様であったという。

「脱走兵たちは地にひれ伏す体制にされ、そこに布をかけさせられるとその上を馬に乗ったフン族の兵士たちが歓声を上げながらなんども往復したのであった。」

アッティラも後のチンギス・ハーンがそうであったように、兵力を現地調達しており、その際征服地で家族を人質にとって征服民を戦わせるという手法をとっていたようで、これがヨーロッパの人々から恐怖された理由であろうと思われる。

ロシア平原を通って今のヨーロッパへ侵攻してきたアッティラはついにローマの都にまで侵攻してきてしまいそこで暴虐の限りを尽くすのだが、その時アッティラの前にローマ教皇レオ1世が立ちふさがり、聖なる神の力によって追い返したという話が残っている。

実際には略奪しつくしたので引き上げたらしいが、この話によって教皇はローマを救ったことになり、その権威は何もしなかったローマ皇帝を越えるようになったのである。アショーカ王の時と言い、宗教説話にはしばしば暴君を改心させたり追い払ったりするものが多い。

己が正統性を主張するのに一番良いのは悪辣なるものを制することであると言え、アテッティラもそれに利用されたのかも知れない。

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第95位:元老院から嫌われた賢帝「ハドリアヌス帝」

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五賢帝の1人。映画テルマエロマエにも出てくるので日本では少し有名。

日本では名君のイメージが強いが、その治世時には暴君として扱われており、その死後ローマの国会である元老院はハドリアヌス帝の神格化を許さずその記録をローマの公式記録から消す記録抹消刑に処そうとしたぐらいである。

どうしてそこまで嫌われたのかというと、ローマ皇帝なのに元老院にはほとんど出席せず諸国を渡り歩いた(愛人と一緒に、しかも男)ことに加え、皇帝就任時に前代の皇帝であり養父でもあったトラヤヌス帝の4人の側近たちを暗殺した(可能性が非常に高い)ことも大きい。

実はトラヤヌスがハドリアヌスを後継者として指名したというのも自己申告であるために正直怪しく、その4人については口封じ及び自分が帝位に就くために殺害したのではないかという噂は当代から現在まで消えておらず、またその可能性は非常に高いのである。

他にもキリストの墓の上にローマの神々を祀る神殿を建てさせ、ローマの神々の優越性を示したことで後のキリスト教史観においては悪帝とされることもある。

とはいえハドリアヌス帝はローマ法の大規模な編纂など功績が非常に大きく、ハドリアヌス長城の建設やハドリアノポリス(アドリアノープル)なども建設しており、世界史上最も繁栄し、現在に影響を与えている国家ローマの最盛期を現出した皇帝であり、暴君とするのは無理があるだろう(じゃあ入れるなよ)。

正直に言おう、後半兎に角凶悪になってくるためランキング前半は比較的マイルドにしようと思って入れた。後悔はしていない。

とはいえハドリアヌスを賢帝とした歴史家エドワード・ギボンも「対象によってハドリアヌスは優れた君主にも、滑稽なソフィストにも、また嫉妬深い暴君ともなった」と評しており、そういう面があったことは否めないであろう。

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第94位:甥殺しのイギリス王「リチャード3世」

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ウィリアム・シェイクスピアの劇で有名なイギリスきっての暴君。

シェイクスピアの台本では狡猾、残忍、豪胆な詭弁家として書かれ、その狡猾さで政敵を次々と暗殺し女性たちを篭絡、王位に就くも最後はヘンリー・チューダーによって倒されることになっている。

実際のリチャード3世は兄であるエドワード4世の死後その息子のエドワード5世の摂政に就くと王妃の一族を次々と処刑していき、エドワード5世とその弟をロンドン塔に幽閉し自ら王となるも最後は劇同様にヘンリー・チューダーによって倒されその遺体はさらし者になったという。

2人の甥はリチャード3世によって殺されたとされており、リチャード3世は甥殺しの名を背負う訳であるが、シェイクスピアの過ごした時代の王家がチューダー家のエリザベス女王の時代であったことから意図的に悪く書かれている可能性は昔から指摘されていて、近年でもリチャード3世の汚名を晴らそうとする動きは根強い。

ジョセフィンティという人物が書いた「時の娘」という本では甥殺しの事実などなかったとしていて、私もこの本を昔読んだのだが、「歴史がいかにして作られるか」「歴史が如何にねつ造されやすいか」ということをテーマにしている名作で、以前に書いた「小説ベスト100」の中に入れようかどうか最後まで迷った本でもあるので機会があったら読んで欲しいと思う。

実際問題甥2人をリチャード3世が殺したという証拠はなく、事実は闇の中であろうと思うが、実はリチャード3世は議会の承認を得て王になっており(兄エドワード4世と妃の結婚を無効化しエドワード5世の即位を無効とした。この当時庶子は王にはなれなかった)、暴君ではなかった可能性は十分にあると思われるが、殺していないという証拠もない上にある意味王位を簒奪したことも確かなのでこの順位にした。

幼い甥を殺してしまうって相当ひどい暴君なのだけど、ここから上は平然と家族を殺すような連中ばかりだしなぁ…

議会があるせいか、イギリスには暴君は少ないような気がする。

第93位:冷酷王と呼ばれた最強のスルタン「セリム1世」

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オスマン帝国第9代スルタン。

イェニチェリと呼ばれるオスマン帝国内の軍隊を掌握しその武力を背景に父であるバヤジット2世を廃位して自らスルタンに就任した人物で、最終的には父のことも暗殺した。セリム一世の家族殺しはそれだけにとどまらず即位に際して7人いた兄や弟を全員、さらには先王の側近や他の王子たちの側近のこともまとめて処刑し、その後も気に入らなければ帝国No.2の大宰相であろうと迷わず処刑した。

オスマン帝国の歴史の中でも特に武断的な暴君と言えるが、オスマン帝国はセリム1世の時代にその領土を2.5倍にしており、その規模はコンスタンティノープルを陥落させたかの征服王メフメト2世の時代よりもさらに大きい。

軍事的に言えば世界史上でも指折りの強さを誇り、イランに広く領土を持つサファビー朝との間に起こったチャルデランの戦いでは快勝、長篠の戦いよりも60年も前に銃火器を本格的に導入して勝利しており、長くイスラム世界を主導してきたマムルーク朝をも滅ぼすなどオスマン帝国をイスラム世界のみならず全世界で最強国家にした人物でもあり、セリム1世が軍制を整備したために息子のスレイマン大帝はヨーロッパの軍団を散々に打ち破ることができたという側面もある。

セリム1世は冷酷王を表すヤブズの名で呼ばれたが、領民に対して虐殺を行った訳ではなく、その治世は非常に安定しており、その冷酷さが向いたのは王位を簒奪する可能性のある者に限られた。

総じていえばオスマン帝国屈指の名君との評価が妥当であろうが、それでもやはり暴君的な側面を持つことも否定できないであろう。

総じて名君と暴君は紙一重である。

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第92位:腹心殺しの英雄「アレキサンダー大王」

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英雄も、見方を変えると暴君になる。

大王も日本の織田信長のように自分に逆らった人間には容赦がなかった人物で、敵対したコリントやフェニキア人都市ティルスでは指導者層を全員処刑した上に生き残った市民を奴隷にして売り払うなどしてアテネの指導者デモステネスからはティラノス(暴君)との批判を受けている。

しかしそれらはある意味敵対する人間達への行為であって、それだけなら暴君とは言えない。

問題なのはアレキサンダー大王が身内である有力者を殺害したことであろう。

大王は自身の暗殺計画を知りながらそれを報告しなかったフィロータスという実質帝国No.3の有力者をまず処刑した。フィロータスが暗殺計画を立てた訳では全くないのだが、報告を怠ったというのがその処刑の理由である。そしてそれだけにとどまらずその父親で、大王の父フィリッポス2世の代から仕えてきた帝国No.2の重臣パルメニオンのこともフィロータスの父親であるというだけの理由で処刑した。

当然の如く反発は強く、その後継となった自身の右腕クレイトスがある日酔って大王に対しパルメニオン親子の処刑を咎めると、それを聞いて怒り狂った大王は手にした槍でクレイトスを一突きにしてしまうのであった。クレイトスは大王の乳母の弟で、文字通り兄弟のように育った人物である。さすがの大王もこの件に対しては罪の意識を抱えて数日部屋から出てこなかったらしいが、激情家で短気な彼の性格が出てしまった事件と言えるだろう。

アレキサンダー大王は戦闘において最も犠牲の少ない勝ち方をした世界史きっての英雄だが、自身が死んだ後にディアドコイと呼ばれる後継者戦争が起こり巨大な帝国は分割されてしまう。

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そうなってしまったのは大王自身が優秀な臣下を次々と殺してしまったからというのが最も大きな理由であろう。せめてフィロータスかクレイトスが存命なら話が違ったかも知れない。

英雄と暴君もまた紙一重だと言える。

第91位:ネパールの不人気王「ギャネンドラ・ビール・ビクラム・シャハ」

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ネパール最後の王にして最後の暴君。

2001年にディペンドラ皇太子が銃を乱射して一族を殺害しつくすというネパール王族一家殺害事件が起こった際、ギャンドラは王族としてはただ1人生き残りそのまま王となった。

国王となったギャネンドラは民主主義を否定し王権の強化を図り議会を停止、首相を含めた全閣僚を解任すると後任に自らの傀儡を設置してしまう。このことによって立憲君主制だったネパールの政治は大混乱に陥る。

ギャネンドラは兎に角民主制とか人権とかいう言葉が嫌いで、ネパールの伝統ともなっていたチベットからの移民受け入れを拒否し難民事務所を閉鎖、中国から弾圧され続けているチベット人は亡命先を失しなってしまい、ネパール国内は王党派と民主派の間で内戦状態となってしまう。

国際世論を受けてアメリカやイギリスなどはネパールへの援助を打ち切る方針をとったのだが、ギャネンドラは今度は中国からの軍事援助を受けて民衆の弾圧を続行、これに反発した民衆は国内で数十万規模のデモを敢行し、これにはさすがのギャネンドラも議会を復活させざるを得ず、2008年には王政が廃止されるに至った。

ちなみにクーデターが起こった訳でもないのでギャネンドラは未だにネパールにおり、権力こそ失ったものの現在では多数の不動産やホテルを経営するネパール1の大富豪として悠々自適の生活を送っているという。、

ちなみにネパール王族殺害事件の主犯はギャネンドラであったという噂は当時から現在まで根強いが、事件に関わったという証拠もなければ本人も否定しており、事実は闇の中である。

今回の評価はギャネンドラが国王一家殺害とは無関係という前提でつけているが、もしギャネンドラが主犯であれば順位は上がることになるだろう。

第90位:イギリスで最も強かった王「ヘンリー8世」

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6度離婚したイギリス王。

自身の離婚問題でローマ教皇の不興をかい、破門を言い渡されるとイングランド王が首長の英国国教会を設立、この際に改革に反対したカンタベリー大司教のトマス・モアを処刑してしまう。

その後は妻であったスペイン王女キャサリンと離婚し愛人であったアン・ブーリンと結婚する。そして生まれたのが後にエリザベス女王となる女の子であったが、後継者として男の子を望んだヘンリー8世はアン・ブーリンと離婚しそのまま一族もろとも処刑を言い渡してしまう。

処刑の理由は姦通罪であったが、それは完全にでっち上げで、ヘンリー8世が新たな妃を迎える口実に過ぎなかったのだからかなりの暴君と言える。アンはどうしても男の子を産まなければならないというプレッシャーから精神に異常をきたし、恐らくはストレスによる流産を続けてしまい、最後は想像妊娠までしてしまったというのだから気の毒である。

ヘンリー8世は豪奢な生活を好み、800以上もあった各地の修道院を解散させるとその財産を没収、一時的に国庫は潤ったのだがヘンリー8世の浪費によってすぐに国庫は空になってしまったというのだからその浪費ぶりが知られるところであり、それをなんとかしようとして貨幣を悪貨にして流通させインフレを招いたのだから相当のものである。

後にトーマス・グレシャムがエリザベス女王時代に有名な「悪貨は良貨を駆逐する」という言葉を遺すが、この悪貨を作り出したのがヘンリー8世なのであった。

とはいえヘンリー8世単体で考えると決して暗君とは言えず、英語、フランス語、ラテン語を自在に操れたと言い、地方分権的な性格の強かったイングランドの中央集権化を成功させ王権を強化、後のイギリス一強時代の基礎を築いたイギリスきっての強い王でもあった。

ウェールズの併合もこの時代に行われており、ヘンリー8世がいなければ後の大英帝国やアメリカ合衆国の成立もなかった可能性もあり、総合的に言えば暴君どころか名君の部類に入る人物であろう。

名君と暴君もまた紙一重である(二度目)。

 

第89位:半端な独裁者「ベニート・ムッソリーニ」

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 ヒトラーよりも前に登場したファシストの元祖とも言える人物。ファシズムは「ムッソリーニが現像し、ヒトラーが複写し、ゲッベルスが拡大した」と言われる。

一次大戦後に起こったローマ進軍をきっかけに国王に組閣を命じられたムッソリーニは史上最年少でイタリア首相になると実質的に議会を形骸化し独裁体制を確立した上でドイツ、日本と共に第二次世界大戦を引き起こして世界中の国々との戦争を敢行した。

ムッソリーニはドーチェ(総統)と呼ばれイタリアの街にはいたるところに「信じるべし、従うべし、戦うべし」、「危険な生き方をせよ」「ムッソリーニはつねに正しい」と言ったことをペンキで書かかせていたと言い、国内のメディアはムッソリーニの演説や行動を賛美する記事を書かなければならず、言論は激しく統制されていたという。

ちなみにムッソリーニはヒトラーと違って虐殺などは行っておらず、ナチスドイツがポーランドに侵攻した当初は中立を宣言していた(後にドイツ有利となると参戦、その後は連戦連敗して最後は共産主義者によって処刑された)。

第88位:日本史上最悪の暴君「足利義教」

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日本史上最悪の暴君と呼ばれる人物。

実質的な前代の将軍足利義持が後継者を決めずに亡くなったためにくじ引きで将軍になってしまった。

前代未聞の方法で将軍になったのが良くなかったのかその政治は「万人恐怖」と言われるほど苛烈なもので、従わない諸侯やライヴァルになりそうな人物を次々と暗殺し、酒を飲んでは侍女たちに乱暴し、自分を笑った、料理が不味いなどのささいなことで人々を罰し、最終的には播磨の大名赤松満祐に暗殺されてしまった。

第87位:殺戮のユダヤ王「ヘロデ大王」

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新約聖書マタイ伝によれば、イエスが生まれた時、エルサレムを治めていたユダヤの王ヘロデは占星術師から「ユダヤの王が生まれた」と聞かされた。自らの地位が脅かされることを恐れた王は国中の赤子を殺すように命じ1人残らず殺してしまったという。

果たしてこれは実話であろうか?

実際にヘロデがこのような虐殺を行ったというローマ側の資料は存在していない。ローマ人はかなり詳細な歴史を記述しており、ヘロデについてもかなり多くの資料があるのだが、ヘロデがこのようなことを行ったという記録はない。

実際のヘロデはアントニウス、アウグストゥス、ティベリウスといったローマの有力者の間を巧く渡り歩きながらユダヤの覇権を握った人物で、幼児殺しの逸話はアショーカ王やアッティラの話同様宗教的説話の部類である可能性が非常に高い。

ちなみにヘロデの息子ヘロデ・アンティパスの姪が悪女の項でも出てきたサロメで、ヘロデにしてもサロメにしてもイエス・キリストの神姓を認めずイエスを処刑させたユダヤ人を意図的に悪く書こうとした描写の一環である可能性が非常に高い(ヘロデ自身は実はユダヤ人ではなくアラブ人だが)。

伝承によればダビデ王の墓を暴いたりとかなり悪辣な人物として描写されるヘロデだが、実際に暴君でないかというとこれまた微妙で、猜疑心が非常に強く身内や重臣などを多数殺害している。

ヘロデはローマの助けも借りて王位につくと前王朝であるハスモン朝の面々を殺害し、ハスモン朝の血を引く妻の弟、母、そして妻マリアムネのことも処刑していて、それだけに飽き足らずその妻との間に生まれた自分の2人の子供のことも殺害しており、ある意味国中の幼児を殺害したことに匹敵するぐらい悪いことをしていると言える。

 とはいえヘロデはエルサレムの神殿の改築を行うなど領民に対しては善政を敷いたと言い、その暴君ぶりは身内にだけ及んだと言え、ヘロデが暴君なのかどうかは大いに議論の余地があるだろう。

これは則天武后を名君とするか暴君とするかに似た問題で、多分未来永劫この議論は続くんだろうなぁと思う。

第86位:不名誉な名の残り方「ファラリス」

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アイアンメイデン(鉄の処女)が作られる前までは最悪の処刑方法であったファラリスの雄牛の由来となった人物。

ファラリスの雄牛は真鍮で作った牛の中に人を入れてそれを熱するという残酷極まりない拷問器具で、シチリア島アグリジェンドの僭主であったファラリスはその製作者であるペリロスに対して自身で試させたという。

このエピソードが示すようにファラリスは残酷な人物で、その圧倒的な力でシチリア島の全権を掌握することに成功した後乳児殺しなどを繰り返したが反乱によって失脚し、最後は自らの名を冠したファラリスの雄牛によって処刑されたという。

しかし一方でファラリスは英明な君主として評価もされており、暴君でありながら名君でもあった人物と言えるかも知れない。

なお、ハドリアヌス帝やディオクレティアヌス帝はファラリスの雄牛によってキリスト教徒たちを処刑したというが、現在ではこの器具では人を殺傷するほどの効果は発揮できないという実験結果も出ており、それらのエピソードはローマ皇帝の残虐性の脚色に使われている可能性が高い。

第85位:歴史家に嫌われたイングランド君主「エゼルレッド無思慮王」

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イギリスの王は同じ名前が続くので、「〇〇3世」という正式名称の他にあだながつけられることが多い。例えばリチャード1世ならリチャード獅子心王だし、エドワード証聖王なんていう格好いい綽名をつけられた人物もいるのだが、エゼルレッドに関してはunready(「無思慮王」あるいは「無策王」と訳される)というあだながつけられている。

紀元前1000年ごろのイギリスはデンマークからやってくるデーン人に苦しめられていた。イギリスというと西欧というイメージが強いが、その文化圏はどちらかというと北欧に近く、デーン人の来襲からイングランドを守ったアルフレッド大王からイギリスの歴史が始まるとさえ言われるほどなのだが、アルフレッド大王の系譜を継いだエゼルレッドはイギリス内に住むデーン人達への虐殺を敢行、これにはデンマーク王も大激怒でかえって大軍の侵攻を招いてしまった。

あせったエゼルレッドはフランス北部にあったノルマンディ公の妹と結婚することで同盟を結び対抗しただが、このことによって今度はノルマンディー公の介入を受けることになり、イングランド国内はデーン人、イングランド王、ノルマンディー公による3つ巴の戦いに突入してしまう。

デーン人憎しのエゼルレッドはイギリスにいるデーン人の皆殺しを敢行、デーン人が教会に逃げるとその教会ごと焼き討ちにしてしまったために国内のキリスト教勢力を敵に回してしまう。しかも怒ったデンマーク王はオックスフォードの街をまるごと焼くことでこれに対抗し、エゼルレッドは結局デンマーク王に多額の平和金を払うことになる。

国このことはイングランド人の不興を買いエゼルレッドはそのまま妻の実家であるノルマンディーに亡命、その後は帰国して大軍を率いてきたデーン人クヌートの大軍を前に死亡してしまう。

エゼルレッドは常日頃から議会への出席を嫌っていたこともあって歴史家からの評判が頗る悪く、イギリスではジョン失地王と並んで嫌われている存在である。

第84位:最強の名君にして最強の暴君「始皇帝」

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世界史にはその評価が極端なほど上下する人物がいて、日本だと徳川慶喜などがそうで、以前は二顔将軍などと歴史的な裏切り者として糾弾されることが多かったのが現在ではむしろ国力を消耗させなかったから日本は植民地にならずに済んだ偉い!みたいな評価が主流になっている。

そのような人物の世界史代表が始皇帝と言え、古代から現在までその評価は完全に二分されている。

始皇帝の功績はあまりに大きく、世界史上でも5本の指に入るほど大きなものであるが、やはり暴君としての性格も大きく始皇帝が死んでわずか15年ほどで秦は滅びてしまっている。統一前の秦は500年以上続いてきただけに始皇帝が暴君であるという評価は未来永劫消えないであろう。

始皇帝が暴君と言われる所以は大規模な土木工事や焚書坑儒に代表されるような思想統制があったからで、更にその治世下は非常に住みにくかったことも影響している。

住みにくかった原因は主にその刑罰の重さと執行の厳格さにあり、秦では商鞅という人物以降法を厳格に適用するようになり、商鞅自身も自ら定めた法により首を絞められるという皮肉な結果ともなっているのだが、ちょっとしたことですぐに死刑になってしまったりする上に万里の長城の建設などに強制的に駆り出されるなど国民の負担はかなり大きかったようだ。

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さらに極端な中央集権化をしたために反発も大きく、書き言葉や度量衡などを統一しそれを強制したことで自分たちの伝統や風習を汚されたと思う人も多く、そのことで恨みを買っていたのも事実である。さらに法家を推進するために対立する儒教の学者や儒教の書物を生き埋めにしたり焼いたりしたせいで後年支配的になった儒者からは非常に評判が悪い。

暴君の例にもれず豪華な宮殿阿房宮(すぐに燃えてなくなったために阿保の語源になったとも言われる)や自身の墓である兵馬俑などの建築工事で国政を圧迫したあたりも暴君ポイントは高く、実際に少なくとも3回は始皇帝暗殺が実行されている。

それでも為した業績の高さから、個人的には総合して始皇帝は名君の部類に入ると思っている。始皇帝がいなければ中華文化圏は存在しなかったであろうし、恐らく日本で漢字を使うことは出来ず、下手をすれば文字の使用さえできておらず、できたとしても識字率は低いままで、幕末に起きた明治維新など起きようもなかったであろう。

今後の歴史において始皇帝の評価は上がるのではないだろうかとも思ってい、現在の経済大国第1位はアメリカだが2位は中国、3位は日本と続いている。始皇帝がいなければ現在のこの結果は絶対になかったであろうし、トップ10まで欧米が占めていたのではないだろうかとさえ思う。

第83位:血で血を洗おうとした暴君「アンドロニコス1世コムネノス」

1000年続いたけれど日本では「ビザンツ帝国って何?」状態なほど影の薄い東ローマ帝国の皇帝だった人物で、コムネノス朝と呼ばれる政権のオオトリを飾った人物である。

皇帝アレクシオス1世の息子として生まれたが皇位には遠く、若い頃から放蕩で女性癖が悪く、諸国を旅しては愛人を作るような生活をしていたというが、12歳の皇帝が誕生したと聞いてビザンツ帝国に戻り、摂政となっていたその母親を殺害し続いて皇帝も殺害、その後は自ら皇帝となる。この時殺害した皇帝アレクシオス2世の妻を無理矢理自らの皇后として建てたというのからこの人物相当だ。

それでもこの人物なりにいい政治を行おうとしたらしく、当初は

  • 官職売買の禁止
  • 汚職の摘発
  • 課税の減免
  • 貧民の保護

という中々立派なことをしようとしている。

しかしこれには特権階級が猛反発、それでも改革を断行しようとしたのだが、次第に本性を表し始めると暴君化し、特権階級たちに対し「不正をやめるか生きるのをやめるか選べ」と言った高圧的な態度を取り始め、それでもうまく行かないとなるや「もはや一部の有益な人間を遺して殺してしまおう」と宣言。

その宣言通り自分の意に沿わない人物たちを次々と弾圧して行き、イタリアに侵攻しては教会を焼き、老人や病人を中心に虐殺し、ローマ教皇の使節などを捕えて奴隷として売るなどの蛮行を繰り返して教皇庁と対立、ひいては西ヨーロッパとの全面戦争を敢行し、その結果ハンガリー、セルビア、シチリアなどの総攻撃に遭い領土は大幅に縮小、これに怒ったコンスタンティノープルの民衆は雪崩を打って宮殿に攻め込み、アンドロニコス1世は捕まってなぶり殺しにされたという。

ちなみに完全なる余談だがこのアンドロニコス1世の子孫はビザンツ帝国から逃げ出して現在のトルコの辺りにトレビゾンド帝国というのを建てる。この帝国はこの後250年もの間存続し、なんと本家のビザンツ帝国よりも後に滅亡している。なのでローマ帝国がいつ滅びたかという議論になる時、半ばネタ的にトレビゾンド帝国滅亡の年が出てくることがある。

第82位:反動的な英雄「ナポレオン・ボナパルト」

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ナポレオンもまた暴君的なエピソードを持った英雄である。

ナポレオンの皇帝就任を知ったヴェートーベンが怒って彼の為に作った楽曲の表紙を破ったのは有名なエピソードだが、ナポレオンがイギリスの通商を妨げる目的でオスマントルコ領で行った虐殺などは日本ではあまり知られていない。

反仏運動が続くエジプトにおいてナポレオンは見せしめのため運動参加者を毎日30人ずつを公開処刑にしていくという残虐な方法も採用しており、反乱鎮圧の際には死体をナイル河に投げ捨てたために河は赤く染まったという。

その後もシリアでは虐殺と掠奪を繰り返し、相手が助命嘆願しようが降伏しようが片っ端から処刑していき、それに異を唱えた将軍に対しナポレオンは寺院を指し「そこに入ってはどうかね?」と言い放ったというエピソードも残っている。

さらにはシリアの地でペストにかかったフランス兵たちを見捨て、自分はさっさと本国に帰ってしまうということもしており、そういったことは巧みにマスコミを操作したおかげでフランス国民にはほとんど知らされていなかったという。

また、ナポレオンは自国の兵士が死ぬことには完全に無頓着であった。ナポレオンがアレクサンダー大王と違うところはそういった点で、アレクサンダー大王は犠牲者を最小で済ませる戦いをしたのに対しナポレオンにはそのようなことはなく、大王が兵士を仲間だと思っていたのとは対照的にナポレオンは兵士を完全に消耗品として見ていた節がある。

さらに植民地に対しては苛烈な政策も行っており、ハイチの独立運動を潰そうとした上に奴隷制の復活を唱えるなど反動的な面もあり、スペインの画家ゴヤなどはナポレオンの占領に反対した画を遺していたりする。

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第81位:元祖暴君「ヒッピアス」

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日本語で「暴君」を表す言葉は英語では「tyrant(タイラント)」と表されるが、これはギリシャ語の「tyrannos(ティラノス)」に由来がある。

ティラノサウルスの語源ともなったこの言葉は、当初必ずしも暴君を表した言葉ではなかったのだが、ヒッピアスの登場によりそれは暴君としての意味合いが強くなった。

ティラノスは元々僭主を表す言葉で、ヒッピアスの父親ペイシストラトスは貧民救済や公共事業などを行いアテネの基礎を作り世界史にも名を残した僭主であったが、その息子はその地位を受け継いで暴君化してしまった。

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ヒッピアスが暴君化したのは弟のヒッパルコスが暗殺されたことがきっかけだったと言い、弟を殺した実行犯ハルモディウスとアリストゲイトンを処刑すると無関係の者まで処刑し始めてしまい、さらにはアテネに重税をかけ始めたという。そしてアテネ市民の間に不信感が広まると敵国であるペルシャ帝国と組んでアテネ市民を弾圧し始めた。

ヒッピアスがあまりにもひどかったためにアテネは彼を追放するために不倶戴天の仇であるライヴァル国スパルタと手を組んだのだが、それを恨みに思ったヒッピアスは遠くペルシャに渡り、あろうことかペルシャ軍がギリシャに入るのを案内したという。

暴君的であるという以上に国を敵国に売ったという部分が特に評価を落とした理由だろうと思う。

第80位:公式記録から抹消された皇帝「ドミティアヌス」

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古代ローマには「ダムナティオ・メモリアエ」と呼ばれる記録抹消刑が存在した。

これは文字通り適用されるとローマの公式の記録からその名前が完全に抹消されるというもので、長いローマの歴史でもわずか3人しか処されていない。そしてそのうちの1人がこのドミティアヌス帝である。

彼の記録に関しては文字通りかなり抹消されているので実際どこまで酷かったのかは正確には分からないが、ドミティアヌスが暴君とされているのはどうにも以下の理由らしい。

・兄を暗殺した
・男色家であった
・ローマ市民を度々処刑した
・浪費をして国家財政を破綻させた
・ローマの捕虜に身代金を払った

この中で恐らく兄を暗殺した件はでっちあげで、男色家はハドリアヌス帝を始めローマ人には多かった。問題だったのはデラトールと呼ばれる秘密警察を使って反対派を次々と処刑していったことであろう。

ドミティアヌス帝はこのデラトールの制度を使って元老院議員を8人処刑、5人を追放刑にしている。

浪費に関して言うと確かにドミティアヌスは皇帝の邸宅を改装しているが、それは彼の個人資産という訳でもなく、彼の時代に完成したコロッセオはウェスパシアヌス帝の時代に着工したものであり、国家財政を圧迫したのはドミティアヌスが兵士たちの給与を上げたからであり、実は私利私欲のために贅沢をしたわけではなかった。

そのためドミティアヌスは兵士たちからは好かれ元老院からは嫌われてしまい、死後は元老院によって暴君のレッテルを張られたのではないかと思っている。実際軍事面での功績は大きく、五賢帝最強の男トラヤヌスを見出したのはこのドミティアヌスであり、彼の築いた「リメス・ゲルマニクス」は数百年に渡ってローマを守る防衛線として機能することになる。

とはいえダキアでの戦いで効果をあげられず、捕虜となっていたローマ兵を身代金を払ってしまった点は伝統的な身代金を払って解放されるぐらいなら潔く死を選ぶというローマの精神を汚した行為と言え、妻と浮気をしたという噂の人物をよく確かめもせずに処刑してしまったなどの行為は弁護の余地もない訳だが…

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第79位:神聖な血を流した罪人「ヤズィード1世」

ウマイヤ朝の創始者ムアーウィアの息子で第二代カリフ。カルバラーの悲劇を起こした張本人。

イスラム教の創始者マホメットが亡くなるとその友であったアブー・バクル、ウマル、オスマン、アリーの4人が次々と後継者となり、彼らはマホメットの意思を継いだ正当な後継者という意味で正統カリフと呼ばれた訳だが、その次のカリフが誰であるか?という問題は大いに揉め、この問題は1000年以上が経った現在でもイスラム世界では最大の問題として存在しているほどである。

ヨーロッパではサラセン帝国とも言われるイスラム帝国において、圧倒的な力を持っていたクライシュ族のムアーウィアは自らをカリフの後継者と宣言しウマイヤ朝を建てたが、一部の人間は預言者マホメットの子孫こそが正統なカリフであると主張する。そんな中、ムアーウィアの息子であるヤズィード1世はマホメットの子孫を虐殺してしまう。

カルバラーの悲劇と呼ばれたこの事件は、わずか70人の一行で聖地メッカを訪問しようとしたマホメッドの孫のフサインを3000もの兵を持ってウマイヤ朝が虐殺した事件であり、このことに反発した一派はウマイヤ朝を認めずシーア派と呼ばれるようになり、スンニ派とシーア派による対立は21世紀現在でも全く解決されていない。

ちなみにヤズィード1世はシーア派はもちろんスンニ派からも評判が悪く、カルバラーの悲劇後ヤズィードに対しての反乱が起こった結果メッカのカーヴァ神殿は炎上、その後ヤズィードは急死してしまう。

預言者の末裔を殺した罪によってヤズィード1世は最も地獄に落ちるべき人物であると考えられていて、派閥を問わずイスラム世界からの評判はすこぶる悪い。 暴君というより悪漢という意味でランクイン。ヤズィード1世の行ったことは日本で言えば皇室御一家を虐殺するようなものである。

第78位:中央アフリカの悪帝「ボガサ」

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中央アフリカ共和国という国をご存知だろうか?

文字通りアフリカ大陸の中央に位置する国で、日本ではエボラ出血熱が流行しててやばい!というニュースが流れたことで有名になった感がある国な訳だが、そんな国にアフリカでもワーストクラスの暴君が存在していたことはあまり知られていない。

クーデターにより大統領になったボガサは16の省庁のうち14の大臣を兼務するという無茶苦茶な独裁を開始、大統領なのにわざわざ刑務所に行って囚人を嬲り殺したり収監されていた小学生を自ら拷問するなどどこ突っ込んでいいかわからない奇行を繰り返す。

かなり本能に忠実な人物らしく目に付いた女性は無理矢理我がものとし、できた子供は100人以上、大学では憲法や政治学の講義は中止、30歳未満の国民は自身の政党に無理矢理入党させるなど滅茶苦茶なことばっかりをした。

こんな暴政が許された背景には金山やウラン鉱山の採掘権のを盾にフランスから援助金を受けていたことがあり、ボガサは後年フランス大統領ジスカール・デスタンに多額の賄賂を贈っていたことを暴露している。

そんな状態で調子にのったのか1972年には終身大統領に就任、そして1976年には何を血迷ったか中央アフリカ帝国の建国を宣言して勝手に皇帝に就任してしまう。しかもその就任式には国家予算の2倍にあたる2500万ドルという飛んでもない額をかけて行い(なお中央アフリカの国民平均所得は年400ドル前後で世界ワースト4位)、本人はナポレオンの戴冠式を再現するつもりでローマ教皇を招待したが当然のように断られた。日本の天皇陛下も招待されたがお断りになられたようである。

こんな状態で国民が耐えられる訳もなく、反ボガベの大規模な反乱が起こり始めるとさすがのフランスもボガサを見捨てることにして経済支援を打ち切り、それどころかフランスはクーデターを画策してボガサを失脚させてしまう。

その後ボガサはフランスに亡命しようとして断られ、コートジボワールに亡命した後フランスに移住、そして何を血迷ったのか再び中央アフリカに帰国し逮捕、投獄、最終的には釈放されてフランスからもらっていた年金で生活しながら1996年に死亡した。

かなりめちくちゃな暴君だったが、それでも大規模な虐殺などを行っていないし閣僚の処刑などを行っていないだけ他の暴君よりマシ…か?

第77位:愚かなる暴君「フォカス」

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西ローマ帝国が滅びてから1000年近くも続いたというのになぜか世界史上では影の薄い東ローマ帝国ことビザンツ帝国髄一の暴君。

一介の下士官から混乱に乗じてビザンツ帝国の皇帝にまで成り上がった人物だが、その手法は完全に暴力的で時の皇帝を殺害し権力を掌握。当然他の人物はそんな簒奪を認めない訳だが、彼は要職にあった人物たちを次々と処刑して行き、空いたポストに自分の家族をつけるという暴君お決まりのコースを歩む。当然のように国中から反フォカスの火の手があがり、そこにアヴァール人やスラブ人達の侵攻、および隣国のササン朝ペルシャまで襲ってくる始末。

フォカスも方々手を尽くすが最後は首都コンスタンティノープルの人々が反フォカス軍を率いてきたカルタゴ総督のヘラクレイオスと内通し開門、フォカスは捕えられてあっさり処刑されるのであった。

第76位:中国史上最低の暗君「徽宗」

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ローマのホノリウスと並ぶ歴史的な暗君。

こちらも暗君ランキングなら5本の指に入っただろうが、暴君ランキングではこの順位。

暴君は積極的に政治に参加して国をダメにする人物が多い一方で暗君は政治に無関心過ぎて国をダメにする人物が多い。

徽宗なんかは後者の典型で、この人物は芸術家として活動していればその面で最高の芸術家として歴史に名を遺せたかも知れないが、誰にとっても不幸なのことに彼は皇帝になってしまった。

暗君的な面は宋江の乱や方臘の乱が起こり靖康の変で女親族に国を奪われて国を滅ぼしたことで十分すぎるが、暴君的な面は芸術のための「御筆手詔」と呼ばれる勅令を出し民に重税を課したことに尽きるであろう。

芸術には金がかかる。特に当時は「花石鋼」と呼ばれる変わった石が芸術的ポイントが高く、徽宗はこれを中国各地から取り寄せていた。

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この珍しい石は中国でも南のほうでとれたためにその運搬業務は広大な中華を縦断することになり、途中邪魔になった民家などは保証もなく取り壊されていたそうだ。

考えても見て欲しい、ある日突然家が壊されるんだ。

そしてこの石が少しでも欠けたらその責任者は最悪死刑になってしまう。宋江の乱や方臘の乱もこれが原因だったという話もあるぐらい酷い政策であった。

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第75位:太鼓腹の悪行王「プトレマイオス8世エウェルゲテス」

王家の血筋を重要視したことから極端な近親婚を繰り返したプトレマイオス王朝では、その影響からか虚弱児や天才、そして暴君などを生み出した。悪女の記事でも紹介したクレオパトラ7世などは天才型の代表であるが、今回紹介するプトレマイオス8世は暴君型の代表であろう。

兄であるプトレマイオス6世がアンティゴノス朝シリアの捕虜になったのをいいことに自身を王と宣言し首都アレクサンドリアを手に入れたのち兄の死により全エジプトを制圧。その際息子を王位に就けるという約束で兄の妻であった(かつ自分の妹でもあった)クレオパトラ2世と結婚し、さらにその娘である(自分の姪であり義理の娘)クレオパトラ3世とも同時に結婚したあげくにプトレマイオス7世(自身の甥であり義理の息子、実にややこしいな)を殺害、その後も何度か反乱を起こされたり亡命したりするもローマの援助を受けて王位は存続、重税などの圧制で人々を苦しめた。

知の都として名高いアレキサンドリアにおいては学者たちを弾圧した結果知識の海外流出が起こったが、それにより各国にアリストテレスなど優れた知識が伝播し地中海世界のさらなる発展をもたらしたのは歴史の皮肉というべきなのかも知れない。

第74位:邪智暴虐の王「ディオニュシオス1世」

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「メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した。」

太宰治の走れメロスの冒頭にはシラクスに住むデュオニス王という邪知暴虐の王が出てくるが、そのモデルとなったのがシラクサの僭主デュオニュシオス1世である。

権力の座についたディオニュシオスは常に誰かが自分の座を狙っているのではないかという猜疑心に囚われるようになってしまい、自らの部下を国中に配置し住民を監視させ、少しでも怪しい動きがあれば逮捕させていた。

デュオニュシオスの怯えようは異常で、寝室は毎日変え、寝る時にも甲冑を身に着け、髪を切る際には娘にやらせており、その娘も信用できないのかはさみなどは一切持たせずにクルミの殻で自らの髪を削がせたという。

基本的には民主制を尊ぶギリシャ世界にあってそのような振る舞いは基本的に許されないのだが、彼はペロポネソス戦争においてスパルタに協力したためにその軍事的背景から独裁を敷き、自身の才覚もあって領土を広げていく。

その間も常に怯えており、牢獄を作らせた際にはその声が聞こえるように設計させたというのだから何か病気のようなものだったのかも知れない。

その病的な臆病さが功を奏したのか僭主の座には40年弱の間居座り続けることが出来たのだが、どうやら最後は息子に買収された侍医によって毒殺されたらしい。彼の心配は決して杞憂ではなかったということだろうか。

第73位:中華発展の基礎を築いた暴君「煬帝」

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悪女の記事に出てきた独孤伽羅の息子にして隋の二代目皇帝にして最後の皇帝。

聖徳太子が遣隋使を派遣した時の日没する国の天子。

世界史上有数の暴君と言われており、3度に渡る朝鮮出兵と大運河の建設で国民を使役し最後は自身の親衛隊に殺されてしまった人物。中国では夏桀殷紂に並ぶ暴君の代名詞として知られており、「煬帝」という字からして「民を苦しめた皇帝」という意味である(本名は楊広)。しかしこの廟号は後代の唐王朝がつけた名前でもあり、前王朝のことをボロクソに言う中国歴代王朝の伝統に沿って必要以上に悪く言われている可能性も否めない。

実際煬帝の悪行とされている高句麗遠征については唐の太宗も実行して失敗しているし、大運河の工事は長江と黄河を繋げる運河で後の中華文明の発展に大いに寄与し、宋の時代などはこの運河沿いの街である開封が首都となっているほどである。

さらに兄を殺して煬帝は帝についたことになっているが、煬帝が兄を殺したという証拠はなく、煬帝を後継者に指名したのは母である独孤伽羅であると言われており、兄殺しで言えばそれこそ唐の太宗がしたことである。

とはいえ、暴君らしく豪華な宮殿や宮廷などを作らせており、豪奢な生活をしていたのも確かで、その治世には反乱が頻発し、無理な出費によって隋を滅亡に導いたのはやはり煬帝なので仮に唐王朝によってねつ造されたであろう部分を差し引いたとしても総合的には暴君の評価という評価は覆らない。

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第72位:世界最悪の独裁者と言われた男「ロバート・ムガベ」

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アフリカが発展しないのは白人が黒人をいつまでも搾取し続けるせいだ!

そう考えたジンバブエの首相ロバート・ムガベは黒人のみで結成された特殊部隊に命じて国中にある白人の農園を襲撃させた。

その暴挙に米英は激怒しジンバブエへの支援を打ち切り、国内産業は壊滅、その結果前代未聞の大インフレが起き続け、2009年には100兆ジンブブエドル紙幣が発行されるなどもはや漫画でもあり得ないような展開となり、国民の失業率は80%を越えてしまった。

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当然のように国民は飢えて1日1食も確保できない状態であったにも関わらず、当のムガベは自身の誕生パーティに120万アメリカドルをかけたり香港に580万アメリカドルもする豪邸を建てていたのだから暴君ここに極まれりと言える。ちなみにその金は国内の白人からぶんどったものであった。

憎まれっ子世にはばかるという言葉の通り、ムガベは2019年4月にその95年にも及ぶ長き生涯を閉じた。

後年はその暴政が目立ったが、首相になった当初は白人と黒人の融和を目指し、ジンバブエをアフリカ一の教育国家かつ最も幼児死亡率の低い医療国家への引き上げており、1980年代後半にはジンバブエの奇跡と称賛されてもいたのも確かで、ムガベは疑いのない暴君ではあるが、その存在はアフリカがどうしても白人、およびその背後にいるヨーロッパや先進国と言われる諸国家の支配からどうしても抜け出せない現状をも表している。

第71位:アテネを代表するティラノス「クリティアス」

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民主政を完成させたアテネは、ペロポネソス戦争に負けてからは突然世界史の教科書から姿を消す。なのでアテネに「30人僭主時代」と呼ばれた寡頭政治期があったことは日本ではほぼ知られていない。

先述したように「僭主」はティラノスを日本語に訳した言葉で、この時代にはもはや暴君の意味として使われていた。つまり文字通り受け取ればアテネには30人の暴君が治めていた時代があるということになる。クリティアスはその筆頭で、根っからの反民主政主義者として活動しておりアテネを追放、ペロポネソス戦争の際にはアテネの敵国スパルタに味方していた。

戦争で負けたアテネはスパルタの要求を呑まざるを得なくなり、クリティアスを始めとした反民主主義的な僭主たちが治めることになった訳だが、ティラノサウルスの語源にもなったティラノスの名が示す通り、クリティアスは恐怖政治によってアテネを支配し、反対派を悉く処刑、味方であっても意見を違えると処刑し、その数は1500人を超すしたという。

しかしさすがにやりすぎたのか他のティラノスからの反発を受け、反対派が隣国のテーベと共にアテネに進軍してきてしまう。焦ったクリティアスはスパルタに助けを求めたが、スパルタ王パウサニアスは軍を率いてアテネ近郊まで来たものの戦闘することなしに引き返し、そのままクリティアスは反対派との戦いで戦死、暴君はあっけなく死んでしまうのであった。

ちなみにクリティアスはソクラテスの弟子であり、このあまりにもひどい暴君を育てたという理由でソクラテスはアテネから死刑を宣告されてしまった。まさに不肖の弟子である。

第70位:史上最悪のローマ教皇「アレクサンデル6世」

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史上最悪のローマ教皇。

悪女の記事でも出てきたルクレツィア・ボルジアの父親。彼女が悪女にされてしまうのもこの父親のせいでもあると思う。

そちらでも書いたのだけれど西洋では「ボルジアめ!」というのが相手への最悪のけなし言葉で、日本語で言えば鬼、悪魔、鬼畜!と言った感じに相当するだろうか。

ボルジア家は元々はスペインの小領主だったのだがイスラム教徒との戦いであるレコンキスタ運動で活躍した功績で当時の先進地だったイタリアに領土を得るとローマ教皇カリトゥス3世を輩出するなど名門貴族となる。

彼にはロドリゴという名の男の子がいて、この人物は父親のもと出世を重ねていき、教皇の最高顧問である枢機卿に就任。ここでひたすら賄賂を受け取りまくって資金をため込むとコンクラーベ(教皇選挙)に出馬、今度はため込んだ資金をばら撒くことでローマ教皇に昇り詰める。

教皇となったロドリゴはアレクサンデル6世と名を変えてライヴァルを次々と毒殺、所謂聖職者は子供を作ってはいけないという決まりがあるのだがそんなことはお構いなしに愛人と庶子をどんどん作り、娘のルクレツィアを始め子供たちは影響拡大の道具として扱い、教皇庁の主要な役職には一族を配置し始める。

さすがにボルジア家の教会の私物化には反発が強く、フィレンツェのサボナローラなど批判的な人間もいたが、当然のようにこう言った人物は処刑、その様子は「鉄面皮な悪の三位一体」と評された。

彼が教皇にあった時期にコロンブスが新大陸に到着した訳だが、その際アメリカ大陸をスペインとポルトガルで領有する秘密条約トリデシャリス条約を結んで勝手に教皇子午線を設定してしまうなどかなり強引な手法で政治を進めていく。

まさに絵にかいたような暴君だが、それが故にアレクサンデル6世が死ぬとともにボルジア家は急速に没落していき、以後ボルジアの名前が世界史の表舞台にでることはなくなり、その悪辣な部分だけが残ることになった。

世界史上のロクでなし代表みたいな教皇だが、ルネサンスの推進者としても知られており、ミケランジェロやラファエルと言った芸術家を保護した功績もある。

とはいえ元々腐敗し始めていた教皇庁を堕落の底に落とした人物であり、彼の存在によりローマ教皇の権威は失墜、その死後わずか14年後にマルティン・ルターによる教会批判が行われ、宗教改革が起こる訳である。

第69位:倭の五王の一人「雄略天皇」

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天皇家を崇拝してやまない大和国家の歴史書日本書紀において「大悪天皇」と記載された人物。

大王の地位に就くために肉親やライヴァルたちを次々と殺害し、大王になった後も反抗的な豪族たちを殺害し続けた。ささいなことで人々を処刑し、冤罪も非常に多かったという。

暴君的な振る舞いの多い一方でその武力により急速に周辺諸部族をまとめ上げたのも確かで、世界中で最も続いている王朝である現在の天皇家の基礎を創り上げた人物とも言える。

第68位:ルネサンスに咲いた惡の華「チェーザレ・ボルジア」

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アレクサンデル6世の息子にしてルクレツィア・ボルジアの兄。一家三人で悪女と暴君にランクインしたのはボルジア家の面々だけ!

西洋で暴君と言ったら真っ先に名が挙がるボルジア家だが、その中でも最も邪悪な存在と言えるのがチェーザレであろう。

父アレクサンデル6世によって16歳で大司教の任命されたチェーザレは父の邪魔になるような人物をカンタリスと呼ばれるボルジア家の人間以外製法を知らない毒で次々と殺害していき、死んだ人間の財産を悉く没収いった。

反対派のいなくなった親子はやりたい放題好き放題で、バチカンの地で乱交パーティを開いたり、教皇庁内に50人の売春婦を読んでストリップをさせたという記録が残っているから恐ろしい。

チェーザレについては弟のホアン・ボルジアと美貌の妹ルクレツィア・ボルジアを取り合ったあげくに毒殺したという話も残っていて、ホアン殺しの犯人が本当にチェーザレかどうかは現在では分かっていないが、その犯人がチェーザレかどうかはあまり問題にされていない。なぜならチェーザレならたとえやっていなくてもそれぐらいのことはやりかねない人物であると誰もが周知していたからだ。

とはいえ父もチェーザレもただ悪徳なだけでなく、フランス王ルイ12世と組んでイタリアの諸都市を攻略して我が物にしたり傭兵隊長がボルジア家に刃を向けた時も彼らを赦すふりをして宮殿に招き入れて悉く誅殺しており、このような虎狼の心を持ったチェーザレのことを君主論の作者マキャッベリは礼賛している。

しかし最大の後ろ盾である父アレクサンデル6世が死ぬと反ボルジアの火が上がり、チェーザレは一族の出身地スペインに逃れわずか31歳でその生涯を終えた。おそらくはマラリアだったのではないかと言われている。

短いが激烈な人生を送ったチェーザレは、ルネッサンスに咲いた惡の華と言えるかも知れない。

第67位:典型的なアフリカ型独裁者「モブツ」

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モブツはあらゆる面でアフリカの典型的な独裁者であると言える。反共を掲げてアメリカCIAの後押しを受けてクーデターで政権を奪取したこと、政敵を次々と処刑したこと、援助金を国庫に入れずに自らの懐に入れてしまったこと、国から白人を追い出した結果産業が崩壊してしまったことなど、他のアフリカ独裁者と似たようなことをして似たような結果をもたらしている。

例によってモブツ政権下のコンゴ(途中でザイールに改名)も国民は飢えていたのだがモブツ自身は鉱山の権利を独占してその利益をタックスヘイブンであるケイマン諸島やスイスの隠し口座に隠しており、年間で約7000万ドル(現在レートで約300億円ぐらい)の浪費をしていたといい、それでもモブツの個人資産は50億ドルにも及んだという。

モブツもまた冷戦が作り出してしまった独裁者の1人であると言えるだろう。

第66位:最後のローマ王「尊大なるタルクィニウス」

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悪女ランキングに登場したトゥーリアの夫。

ローマは元々王政とした発足し、6人目までは名君が続いていたのだが、最後の王である尊大なるタルクィウスがあまりにも酷すぎたために以降二度と王政が復活することはなかった。

タルクィウスは妻と共謀して義父であったローマ王を殺害することで王座についた。その際義理の父でもあった先王の葬式さえも禁じたというのだからかなり酷い。しかし当然のように元老院はこれに反発、するとタルクィウスは反対派を誅殺し始め、その後も自分の意に沿わない元老院議員も次々と殺害してローマに恐怖政治をもたらした。

 結果的に元老院議員は彼の言いなりになる人物しか残らなかったのだが、それでも元老院の決定もなく王に勝手に就任、議会である元老院を蔑ろにして政治を進めた。

ハドリアヌス帝の時でも少し触れたように、ローマでは元老院を無視すると暴君と認定される節があって、イギリスの歴史なんかもこの評価に近い。だから議会を無視しようとしたジェームズ1世2世やチャールズ1世2世、エゼルレッドなどは非常に評判が悪い。ついでに言うと後のローマ皇帝も元老院が認めたからローマ皇帝に成り得たのである。これは現代の内閣総理大臣の大元であると言って良い。タルクィウスは言うなれば国会の承認を受けずに勝手に総理大臣の座についてしまったようなものなのだ。

そしてタルクィウスの悪評を決定づけたのはルクレツィア事件であった。

これはタルクィウス本人が起こした事件ではなく息子が人妻であるルクレツィアを強姦しそれを恥じた彼女が自殺をした事件なのだが、この事件によりローマ市民の怒りは頂点に達し、尊大なるタルクィウスに対して反乱を起こすことになった。

長期にわたる戦いの末ローマ市民達はこの尊大なる王を追い出すことに成功し、ここに王を戴かない古代国家共和政ローマが誕生したのであった。

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第65位:堕落した救国の英雄「ジル・ド・レ」

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ヨーロッパには「青髭伝説」なるものが存在している。

青い髭を生やした大金持ちの妻が次々と失踪し、その秘密を暴いた新妻が殺されそうになるというペロー原作の童話だが、その青髭のモデルになったのがジル・ド・レである。

ジル・ド・レはフランス王国軍の元帥を務めた人物でもあり、あのジャンヌ・ダルクと100年戦争を戦い「救国の英雄」としてその尊敬を集めていた。しかし2人は別々の軍を率いることになり、ジャンヌがイングランド軍に捕まってしまう。それを聞いたとジル・ド・レはジャンヌを救いに行くためにイングランドに対して攻撃をしかける。映画や小説であればここでジャンヌは助かりハッピーエンドとなるところだが、現実とは非情なものでジル・ド・レは敗れジャンヌ救出に失敗、イングランド軍によってジャンヌ・ダルクの処刑は決行されてしまう。

ジル・ド・レはジャンヌを尊敬し、その様は信仰と言っても良いほどであったらしく、ジャンヌを救えなかったことへの悔恨からかあるいは逃避行動だったのか、ジル・ド・レは夜ごと派手なパーティを開き酒浸りになり、狂ったような浪費行動を続けるようになる。

さらにジ・ル・ドレは少年殺しを止められなかったようで、その居城からは数百に及ぶ子供の骨が見つかった。ジャンヌが死んだことによって精神が錯乱してしまったのであろう、他にもジャンヌを復活させようとしたのか黒魔術にも昏倒していたようで、裁判の場では黒魔術への昏倒、司祭への拉致監禁、少年たちへの虐殺を泣きながら白状したという。

裁判の結果は死刑となったが、ジル・ド・レが火刑に処されている際、人々はジル・ド・レの魂が救われるように祈りを捧げていたという。

第64位:北欧最悪の暴君「クリスチャン2世

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若い頃から乱暴者で、女性と見るや有無を言わさず襲っていたというデンマーク王。

ノルウェーを侵攻した際には従わなかったノルウェーの民を虐殺し、遺体の手足はバラバラにし血の海を作って楽しんだという。

このように残酷で血が好きな性格だったクリスチャン2世の悪評を決定づけたのは1520年に彼が起こしたストックホルムの血浴事件であろう。

これは圧倒的な武力を背景にデンマーク王クリスチャン2世が和解を条件に招いたスウェーデン人たちをだまし討ちで捕え、形式的な裁判で片っ端から処刑したという事件である。処刑は即座に行われ、ストックホルムの大広場は処刑された人々の血で海のようになっていたという。

第63位:醜聞皇帝「カリギュラ」

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カリギュラが皇帝になった時、ローマ中が喜び包まれ、それを祝う祭りが半年間も続いたという。

前皇帝のティベリウスが民衆から人気がなかったこと、カリギュラが初代皇帝アウグストゥスの血を引いていること、年齢が若く容姿に優れていたこと、そしてローマで大人気であった英雄ゲルマニクスの実子であることなどがその理由で、カリギュラはそんなローマ市民たちに気前よく金をばら撒いたり祖父を祀る神殿を建てたり水道工事を行ったり劇場を造るなどローマ市民のために様々なことを行った。

そしてすぐに財政が尽きた。

お金が無くなるとカリギュラは資産家に対して無実の罪を着せてその財産を没収するという飛んでもないことを行うようになる。

その化けの皮がはがれ始めると、ローマ市民たちにも次第にカリギュラが調子がいいだけの暴君であるということが分かっていった。そしてそれはやがて恐怖へと変わるようになっていく。

カリギュラの行ったことの中で信憑性の高いものだけを抜粋すると以下のようになる。

  • 自分を神だとして全人類にあがめるように言った
  • 各地に自らの像を作り信仰するように言った
  • エルサレムにあったユダヤの大神殿に自らの像を祀らせるように言った(シリア総督ペトロニウスの策により像の建造は遅れ実際には建造されなかった)
  • カリグラの病気の回復のためなら命もいらないと言っていた者を回復したのちに「約束を守ってもらおうか」と言って崖から突き落とした
  • 妻を追放しその父シラヌスと従弟であり養子であるゲメッルスに自殺を強要した
  • 自分の実の妹をも神格化させた
  • 元老院議員を次々に処刑した
  • 財政難になると無実の人間の罪をでっちあげその財産を没収した
  • 自分の暗殺を謀っているとする人物を次々と処刑した

さらに信憑性の低いものを入れると「自分の馬を神として崇めさせた」「妹たちとの近親相姦にはげんだ」など枚挙にいとまがなくなるほどである。

誰よりも歓迎されて皇帝となったカリギュラは最後には親衛隊長であったカシウス・ケレアによって殺害された。まだ28歳であった。

ケレアは犯行を認め静かにあの世へ旅立っていたという。もはや暗殺するより他に方法がないと思ったのであろう。ローマ皇帝を退位させる手段はなく、これ以降ローマ皇帝の暗殺事件が多発することになっていく。

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第62位:失敗国家の節操なき国家元首「モハメド・シアド・バーレ」

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2019年現在、最悪の失敗国家と言われているのがソマリアで、そうなってしまったのは独裁的共産主義者モハメド・シアド・バーレによるところが大きいだろう。

ソマリアでは当初民主政治が採用されていたが、その情勢は非常に不安定で1969年には大統領だったシェルマルケが暗殺されるという事件が起きてしまう。

軍部の実力者だったシアドは大統領暗殺の混乱に乗じてクーデターを起こし自身を議長とする最高革命評議会を設立、独裁国家のお決まりとも言える憲法の停止を宣言してしまう。あまりにも準備が良すぎることからシアドが画策した暗殺事件だという説もある。真偽は不明だが、シアドならやりかねないであろう。

それでも最初は真面目に改革しようと頑張っていたのだが結局改革はことごとく失敗。その上反対派から何度も暗殺されそうになったシアドはいつしか猜疑心の塊になってしまい、暴君にありがちなように秘密警察を設置し反対派を次々に処刑していくと、要職は自分の縁故で占めるようになる。

シアドは元々ソ連寄りの政策をとっていたのだが、隣国エチオピアとの戦争に負けるとそのバックについているソ連に対抗すべくアメリカ合衆国に接近、空港と基地の使用を許可することで約1億ドルにも及ぶ経済援助を受けることに成功する。それを国民のために使えばいいのだがこれまたありがちな援助金を懐にいれるという行動に出てしまう。あらゆる意味で節操がなく、主義も主張もあったもんじゃない人物である。

そんな状態なので当然のように反シアド派が増大し、ソマリアは内戦状態になってしまう。そこに疫病の流行が重なったこともあって産業が壊滅し経済的には極度のインフレが進み国民は明日どころか今日食べるものもない始末。

そんな状態で持てる力を反対派を殺害し続けることに費やしていたシアドであったが、首都モガディシュで反政府活動家2000人を逮捕したことが世界中に報道されたことにより激しい国際世論の批判にさらされることになり、1990年には海外からの援助は完全に凍結、最終的にはナイジェリアに亡命し1995年に死亡した。

ソマリアではその後も内戦が続き、国民は常時飢餓状態、2019年現在でもそれが終わる気配はなく、現在でも統一的な政府は存在しない。犯罪をしてもそれを逮捕する者も裁く者もいないので文字通りの無政府状態が続いているのである。

アフリカや南米の諸国家をみるに、民主主義がいかに成立し難いかということがよく分かる。そういった面で言えば日本など奇跡のような存在なのだろう。

第61位:暴虐なる征服王「アーガー・モハンマド・シャー」

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カージャール朝イランの創始者。

その圧倒的な武力と軍才によりかつて世界の半分とまで言われたイスファハーンや重要都市テヘランを攻略すると勢いにのってザンド朝を滅ぼしそのままロシアの南進を牽制すべくグルジアやアゼルバイジャン、アルメニアに侵攻しアフシャール朝を滅亡させた。

その圧倒的な強さから「シャー・ハン・シャー(王の中の王)」の異名をとる世界史上でも屈指の軍才の持ち主ではあるが、その一方でザンド朝を滅ぼす際に男子2万人の目を潰し、グルジアでは数千人の捕虜を奴隷にするなど残虐性も目立ち、現在のイランではカージャール朝は黒歴史扱いとなっているほどである。

そのような背景にはアーガーが暴虐を多数行った以外にも出自がペルシャ人ではなくトルコ人であったり幼い頃に去勢されていたりと言った理由もあるかも知れない。

アーガーは幼い頃アフシャール朝の捕虜となったことがあり、その時に去勢されてしまっており、数々の残虐行為はその時の恨みを晴らすための行為であるという側面もあったのだと思われる。

気持ちはわからないでもないが、そのために無関係の人々に復讐するのは暴君としか言いようがないであろう。

なお、アーガーは暴君らしく最期は自らの召使によって殺害されている。

第60位:ローマを代表する悪帝「コンモドゥス」

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擁護のしようもないほどの悪帝で、ラッセル・クロウ主演の映画「グラディエイター」ではすさまじいほどの悪役となっている。

映画はほぼ創作であるが、実際のコンモドゥスも非常に評判が悪く、そのの悪評は側近であるクレアンドロスという佞臣の讒言を聞いてしまったところにあると言える。

クレアンドロスはどの会社にもいる金魚の糞みたいな人間で、皇帝に讒言してライヴァルだったペニンレスとその妻子を含む一族を皆殺しにした後は意に沿わない近衛隊長などを殺害し自分の意にままに操れる人物を据えた。中には最短6時間で殺害された近衛隊長もいたようで、ついには自分が近衛隊長となり軍事権を掌握、その武力を背景に元老院を私物化し、自らを元老院の父と呼ばせると官職を競売にかけて私腹を肥やすなどやりたい放題やっていた。

そんな時コンモドゥスはどうしていたかというと、ヘラクロスの恰好をしてひたすらコロッセオで剣闘士として戦っていたという。

政治にはとことん興味がなかったようで、皇帝からの書類には常に「ヴァーレ(ごきげんよう)」とだけ書かれていたという。

そんな皇帝のもとでクレアンドロスは好き勝手やっていた訳だが、国民に配給するための小麦を横流ししてしまったことでケチがついた(ローマ帝国では小麦が無償で配給されていた)。胃袋を満たせないと人は怒りやすくなる。怒れる群集は宮殿に乗り込みたちまちのうちにクレアンドロスを捕え処刑してしまう。

コンモドゥスは意外と人気があったためこの件は民衆には不問とされたのだが、結局ある日コンモドゥスは暗殺されてしまう。現代でもその犯人は分からず仕舞いなのだが、恐らくは近衛隊と結びついた元老院によるものだろうと言われている。

カエサル、ネロ、カリギュラ、元老院は自らの障害となるような人物たちをよく暗殺した。

元老院はコンモドゥスの死後ダムナティオ・メモリアエ(記録抹消刑)に処したが、特になにもしていなかったため抹消すべき記録がなかったという。

ローマ皇帝の中ではネロと同じレベルで酷いが、それでも後世の人物からネロほど非難されなかったのはキリスト教徒を弾圧しなかったからであろう。

コンモドゥスに関しては紛れもなく暴君なのだが、恐らく父マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝と共同皇帝をやっていた時にはそこまで酷くなく、悪女の時にも出てきた姉のルッチラが弟の暗殺計画を立ててからおかしくなった面があり、その悪政も大体は佞臣クレアンドロスによるものであったりする。

とはいえパクス・ロマーナと言われたローマの全盛期は終わり、コンモドゥス以降ローマ帝国は転がる石のように没落の道を歩んでいくようになっていくためその責任は大きかったと言える。

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第59位:暴虐の覇帝「漢の武帝」

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漢の武帝は漢帝国の領土を最大限まで広め、始皇帝が作り出した中華文明圏をさらに拡大させたいわば歴史上の偉人だが、始皇帝同様、あるいはそれ以上にプラス面とマイナス面が激しい人物でもある。

プラスの面は世界史の教科書にあるように官僚制度を整備して中央集権化を果たし、衛青や霍去病などの優れた将軍にモンゴル系騎馬民族を駆逐させ中央アジアまで漢帝国の領土を拡大し、儒教を保護し官吏登用制度も整備するなどその後の中華文明の基礎を築いた点にある。

マイナス面で言えば敗将を弁護した司馬遷を宦官に貶めた事件を筆頭にすぐに部下を処刑しようとしたり塩と鉄を専売にして国民の生活を圧迫したり官職を金で売ったりとまさに暴君と呼ぶにふさわしい行動も多数とっている。

塩の専売はピンとこない人が多いが、塩などは文字通りの生命線で、武帝は粗悪な品を高く売ることで宮廷に莫大な利益をもたらした訳で、これはかなりの悪政であり、塩の密売人が跋扈するきっかけとなった。

さらに武帝は気に入らないことがあるとすぐに部下を死刑にしたのだが、仮に死刑を宣告されても金を払えば減刑あるいは無罪となったのである。まさに地獄の沙汰も金次第。

西域派遣で有名な張騫なんかは死刑を宣告されたがため込んだ資産を支払うことでなんとか助かったのだが、史記の作者司馬遷などのように金が足りなくて宮刑になってしまった人や実際に死刑になった人も多数存在していたぐらいで、実際に衛氏朝鮮を滅ぼした2人の将軍は死罪になり、歴代の宰相は皆自殺をするか死罪になったほどである。この背景には暴政によって空になった国庫の補充のために罪をでっち上げていたというのだからまさに暴君である。

これだけでも十分暴君なのだが、武帝を暴君たらしめたのは悪名高き「巫蠱の獄(ふこのごく)」であろう。

この事件は複雑で長いので別記事をご覧いただくとして、この事件によって嫡子を含む多くの者が処刑された。

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物凄く簡単に説明すると人形を使って武帝を呪おうとした人物を片っ端から死罪にしたのだが、死刑にした人物の内ほぼ全員が無罪であったというからもはや歴史的な悲劇と言える。なにせ卑弥呼様が生まれるよりも200年以上も前なので呪術的なものが広く信じられていたのは致し方のないことなのかも知れない。

武帝の治世の前半は漢の黄金時代と言えるが、晩年は反乱が多発し、その晩年以降漢帝国は転がる石のように衰退していった。

個人的に、始皇帝は功績が上回るが、武帝はマイナス面の方が大きいと思う。

第58位:第六天の魔王「織田信長」

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日本史上最高の英雄と言われる織田信長だが、自ら第六天魔王を自称しているくらい暴君的要素の強い人物である。

「鳴かぬなら、殺してしまえ ホトトギス」の句にも代表されるように、信長は自らに従わない者を次々と殺害していった。中でも長島一向一揆では降伏しようとした敵を虐殺、女子供を含む20000人を焼き殺すなどをしている。

親や兄弟での殺し合いも常な時代において信長も弟を殺害しており、部下に対しても激しく接していたようで、そのことが松永久秀、別所長治、荒木村重の反乱を招いたとも言われ、最終的には部下の明智光秀によって殺されている。

日本史を語る上では決して外せない織田信長だが、かなりの暴君であったこともまた確かであろう。

第57位:典型的な独裁者「アルフレド・ストロエスネル・マティアウダ」

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ある意味典型的な発展途上国の独裁者。

反共産主義を掲げてアメリカの支援を取り付け、その圧倒的な武力を背景に35年間パラグアイの大統領として君臨し続けた。

当然のように大統領へのなり方も民主的ではなく、当時軍部中将だったストロエスネルは反対派を次々と粛正し大統領選では対立候補不在の選挙を行い権力の座についた。その政権下において反対派の知識人階級が次々に亡命し産業は空洞化、国民の実に3人に1人が貧困にあえぐようになった。水道などのインフラは整備されず、秘密警察を通じて国民を監視し、ナチスの国際戦犯たちを自国に匿い、その政権下では当然のように汚職が蔓延していたという。

さらにはインディオに対しての虐殺も行い、まさに暴虐の限りを尽くした。

しかしその一方でアメリカや日本からの借款で世界最大の水力発電所を作り電力を他国に売るなどパラグアイの近代化も推し進め、現在でもその評価は二分される。

最終的にはクーデターで国を終われるも亡命先のブラジルで家族に看取られながら93年の生涯を静かに終えたという。

裁判所の私物化、秘密警察の設立、個人崇拝の強要、政敵への拷問、選挙結果のねつ造などアルフレド・ストロエスネル・マティアウダは20世紀型独裁者の典型とも言って良い存在であろう。

第56位:残虐無慈悲な王朝の創始者「文宣帝」

ほぼ100%の人が誰?となっていると思うが、隋の前身北周に滅ぼされた北斉の創始者である。

北魏が分裂した後東魏と西魏に分かれた訳だが、文宣帝は東魏の重臣だった高歓の息子で、その性格は残虐にして無慈悲、まさに暴君の名にふさわしい人物である。

東魏の実権は実質的に高歓が握っており、皇帝はもはや飾りでしかなかった。高歓の地位を引き継いだ文宣帝は東魏の皇帝を脅して帝位を簒奪すると皇帝とその一族を1人残らず地上から消し去ってしまう。

それでも最初のうちは官僚の削減などに成功し、富国強兵策を推進し北斉を強国にまで押し上げ、周辺の国家をうまく吸収しつつ成長させることに成功していた。

しかし鮮卑族の生まれであった彼は漢民族に対し多大なるコンプレックスをもっていたようで、数は不明だが漢民族たちを大量に虐殺し鮮卑族を優遇する政治を行い人材の流出を招いたあげく、豪華な宮殿の建設など国の規模に似合わない贅沢をするようになり、酒色にふけり、放蕩な生活を送った挙句の果てに34歳で死んでしまった。

「快刀乱麻」の故事のもとになったように文宣帝はある面では有能な君主と言えるのだが、元々の性質が残虐極まりなく、常にのこぎりを携帯しており、酒に酔ってはそれを使って戯れに人を処刑したという。

お気に入りの寵姫が浮気したと聞いてその姉と浮気相手を処刑した挙句その寵姫のことも処刑しその骨で琵琶を作ったという話も残っており、その存在はまごうことなき暴君である。

ちなみに中国の歴史の中でも黄巾の乱から隋の建国までの約400年間にはこの手の暴君が多く、恐ろしいことにこれだけの暴君である文宣帝でさえまだ有能な部分があるだけマシというレベルである。

これよりひどいのがもっといるのかよ状態だが、もっといるのが人類の歴史の恐ろしいところだと言える。

第55位:インドの暴君「アラー・ウッディーン・ハルジー」

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モンゴル軍によるインド襲撃を5度に渡って退けた民族的英雄で、インド南部にまでイスラム教を広めた人物なのだが、妻の父であるジャラー・ルッディーンを殺害して王座に就いた点や重税を課した点などが嫌われて暴君とされている場合がある。

殺害の理由も手にした金銀財宝を献上せずにそれがバレるのを恐れたための犯行であり、もはや普通に殺人事件である。

そんな王座の就き方をしたものだから基盤が弱く、手にした財宝をばら撒くという方法で周辺有力者の人気をとったわけだが、段々力がついてくるとそういった貴族たちを粛正し始め、モンゴル側の外交使節を象に踏みつぶさせるなどの残虐性も目立つようになる。

とはいえ圧倒的に戦闘には強く、モンゴル軍を撃退してからは周辺国の救援要請にこたえるなど積極的に戦闘に乗り出し、反乱を鎮圧してはそこに参加した者を妻子ごと血祭りにあげるなど強いけれども残虐な性質を見せつけることとなる。この点においては当時から反乱を起こした男と妻子は別の問題だろう!という批判が成されており、そういったことは一般常識では決してなかった点には注意したい。

晩年は酒におぼれてロクに政治をしなくなり、佞臣の言うことを聞いて妻と離縁するとその兄弟を殺害し、後継者である息子まで投獄するようになっていく。さらに政権を維持するために各地に秘密警察を配しており、準備も出来ないほどの重税を課せば反乱はなくなるという理論のもと領民にかなりの重税を課していった。

虐殺、家族殺し、重税、秘密警察とまさに暴君の見本市のような人物で、アラー・ウッディーン亡き後のデリー・スルタン朝ハルジー政権は急速に没落し、その死後わずか4年で滅ぶことになる。

第54位:暴君の代名詞「桀(ケツ)」

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夏王朝最後の王。悪女の記事にも登場した末喜を愛しすぎた故に国を滅ぼした人物で、何をしても笑わない愛妃末喜を喜ばせるために人々を残虐な刑で殺害し豪華な宮殿を建て、そこに酒の池と肉の林を作りそれを諫めた賢臣を処刑した。

その結果夏王朝は殷の湯王によって倒されることになる。

第53位:殷の紂王「帝辛(テイシン)」

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殷王朝最後の王。日本では封神演義でお馴染みかも知れない。

伝承によれば帝辛のもとにある日妲己という美女が献上されたが、この妲己は何があっても全く笑わない。彼女を笑わせようと帝辛は国中から珍品逸品を集めさせてプレゼントするのが喜ぶ様子はない。

豪華な宮殿を建造し酒の池と肉の林を作るもまるで笑わなかった妲己だが、ある時炮烙という残虐な刑罰の執行を見た妲己は無邪気に笑い始めたので、それを見た帝辛は妲己を喜ばせるために罪のない人々を捕えてはこの残虐な刑罰で次々に殺害していくようになる。

それを見た賢臣が帝辛を諫めると妲己は「聖人の心臓には7つの穴があると聞きます。私はそれを見とうございます」と言うので帝辛はさっそくその者を処刑し心臓を取り出すとそれを見た妲己は大喜び、2人は大満足したという。

しかしそのような暴政が続く訳もなく、周の武王は太公望と共に殷王朝を倒し中国には平和が戻ったという。

さて、ご覧いただいたように桀と紂王のエピソードは非常に似ている。似ているというよりもほぼ同じである。悪女の項でも述べた通り、これは中国の歴代王朝が伝説的な3皇5帝の系譜を引き継いだ政権であることを主張するためであろうと思う。5帝の時代のように禅譲で政権が移譲されるのが理想だが、そうでない場合は放伐により政権交代をすることになり、その正当性を主張するためには前王朝を徹底的に悪くする必要があった。つまりは悪政を覆すために新政権を作ったとする大義名分が必要だったわけだ。そしてそのためには酒と女性に溺れて悪政を行った悪王を倒したことにするのが良い。そういった考えのもと王朝最後の君主は新王朝にはボロクソに言われることが多いのである。

「夏桀殷紂」と言えば中国における暴君の代名詞となっているが、桀に関しては帝辛のエピソードを流用した可能性が高い。

2つの王朝末期者を暴君とすることで周を、さらにその後継である秦、そして漢を3皇5帝の正当な後継者とする必要があったのであろう。

ちなみに考古学的には殷王朝の存在はその遺跡殷墟が発見されており認められているが、夏王朝の存在をしめす遺跡などは見つかっておらず、歴史学的には存在が実証されていないため、桀王に関しては今回のランキングにおいて唯一その実存が実証されていない人物でもある。

ちなみに殷墟から見つかった記録には帝辛に関する記述はあるが妲己に関する記録はないという。

なので帝辛が実際にどれくらい暴君でったのかはよくわからないが、なにせ卑弥呼様よりも1400年ぐらい前の人物なので、その存在が現代に伝わっているだけでも物凄いことではあると思う。

第52位:ベトナム史上最悪の暴君 レ・ロン・ディン

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紀元1000年頃に存在したベトナム黎朝の第3代皇帝。ベトナム史上最悪の暴君と言われる人物。

黎朝の創始者黎桓の5番目の子供として生まれるが一族を悉く誅殺して自ら皇帝の地位に就くとその本性を爆発させた。

黎龍鋌(レ・ロン・ディン)は好色で残虐な人間として知られており、以下のような所業が記録されている。

  • 罪人に油を染み込ませた藁を巻き付けた上、火を放って焼き殺した。
  • わざと切れ味を鈍らせた刃物で罪人を凌遅刑に処し、死にきれず呻く姿に大笑いしていた。
  • 異民族の捕虜を波打ち際に作った牢に閉じ込め、満潮で徐々に水中に没して溺死する様を見ては喜んだ。
  • 山の崖際に生えた木に罪人を登らせた上で、その木を切り倒した。そして墜落死するさまを眺めて楽しんだ。
  • 宴に人々を招待し、皆がその料理を食べ終えた後で猫の頭を持ってきて皆にそれを見せて大爆笑した
  • 最後は酒の飲み過ぎで死んだ

ここまで来ると暴君というよりも狂人の域で、ロンディンの政治があまりにも酷すぎたためその死後すぐに親衛隊長だった李公蘊が黎朝を滅ぼし李朝ベトナムを建国している。

かなりとんでもない暴君なのだが、王朝末期の君主は意図的に悪く書かれる傾向にあるので、その暴虐は誇張されている可能性も否めない。

黎龍鋌は残虐この上ない人物だがその暴虐は主に罪人に対する残虐刑に出ており、これ以降の暴君に見られるような大量虐殺などは行っていないため順位は真ん中より下とした。

なにせ人類の歴史には、この人物さえまだマシだと言えるほどの暴君が山のようにいるのだから…

第51位:三国志最後の暴帝「孫皓

三国志好きにはお馴染み呉の建国者孫権の孫にして呉の最終皇帝。

当初は蔵を開いて貧民を救うなど善政を行っていたらしいが、段々と酒や美女に溺れていくようになる。ある日孫晧のあまりにひどい言動を咎めた部下を処刑すると歯止めがかからなくなり、自分の邪魔になりそうな部下や親族を次々に処刑していくようになっていった。

その性格は非常に残虐で、部下を無理矢理酔わせては自分の悪口を言わせて処刑した、自分の意に添わなかった女性の顔の皮を剥いでそのまま河に捨てたなどの話も残っている。

始皇帝や煬帝よろしく宮廷の造営で国庫が亡くなると民衆に重税を課し、苦しむ民衆を背に後宮には数千人の美女をかこっていたという。

そんな暴政が続く訳もなく呉は最終的に晋に滅ぼされて三国時代は終わりを迎える。

諸葛亮孔明が死んだ後の三国志は人気がない訳だが、その一因がこの孫晧が呉滅亡後も悠々自適な生活を満喫したことにも原因があるような気がする。

孫晧の暴政は中華全土に知れ渡っており、晋の皇帝司馬炎はある時孫晧に「なぜ女官の顔の皮を剥いだのですかな?」と質問した。すると孫晧は「皇帝の意に添わぬ臣下に罰を下すのも帝の役目です」と悪びれもせずに言ったという。

晋の人は孫晧が少しでも動くと恐れを感じたといい、三国志の著者である陳寿は孫晧に対し「度し難い悪人。腰と首を斬ってさらし者にすべきだった」と怒りを露わにしている。陳寿がここまで悪辣に批判しているのも珍しい。

 世の中に、悪の栄えた試しなしというが、実際には悪ほど栄えやすいものである。

第50位:反共の独裁者「アウグスト・ピノチェト」

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南米チリの軍事独裁者。

軍事クーデターによって社会主義政権であるアジェンデ政権を打倒すると議会制民主主義を否定し言論統制を強め、秘密警察を使ってビジャ・グリマルディと呼ばれる秘密収容所に連行し拷問の末に多くの人間を殺害した。

殺害した人数についてはチリ政府の公式発表では約3000人とされるが、実数は10万を超えるのではないかという意見が強く、チリから外国への難民は100万を超えるという。

このような横暴が許された背景には共産主義よりも独裁者の方がマシと考えるアメリカCIAの支援があり、他の南米やアフリカの独裁者同様ピノチェトもアメリカが作り出した側面が強い。

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右がニクソン政権の国務長官だったヘンリー・キッシンジャーで左がピノチェト。

 冷戦時のアメリカは共産主義化を防ぐためにひたすら独裁者を増やしたが、そのせいで負った傷跡から世界は未だ立ち直れていない。

閑話休題:暴君とは何か

本来なら冒頭に書くべきかも知れないが、この問題は実際にどういった人物たちが暴君と言われてきたのかを見てもらってからの方が良いと思い記事の真ん中でこの問題について書きたいと思う。

暴君と言っても悪女と同じぐらいのレパートリーがあってその内容は様々なのだけれど、以下のようにある程度の類型があると思う。

  1. 大規模な虐殺
  2. 国を亡ぼすレベルの暴政
  3. 不当な逮捕、投獄、処刑
  4. 残虐な刑罰の実施
  5. 文化的な破壊、抹消
  6. 国民生活を圧迫するほどの重税
  7. 秘密警察を使って国民生活を監視
  8. 簒奪を恐れて身内を処刑
  9. 身内を殺して王位を簒奪
  10. 議会の停止、あるいは無視
  11. 言論統制
  12. 無謀な土木工事
  13. 無謀な外征
  14. 現政権の正当性を主張するために意図的に悪く書かれている

暴君度が高い順番に並べるとこんな感じであろうか。

基本的に当記事はこの基準でランク付けをすることにしていて、南米でも中国でもヨーロッパでも古代でも現代でも暴君たちのやっていることは大体この辺りに集約されているんじゃないかと思う。

世界史は紀元前2000年ごろから現在までのおおよそ4000年ぐらいの期間がその対象なのだけれど、科学技術の発展に対して人間のやっていること自体はほとんど発展していない気がする。

歴史というものの厄介なところは容易にねつ造が可能であるという点で、後に支配的になった何かによって意図的に暴君とされている例もかなり多いように思う。中国なんかでは前王朝の体制を引き継いで政治を行うので新王朝を建てる際には前王朝の最期の君主が暴君だったとするのが一番早いし、キリスト教が支配的になるとキリスト教を弾圧した人間が、自由主義が支配的になると自由主義を弾圧した人物が暴君の認定を受けやすい。

勝てば官軍という言葉の通り、歴史というのは勝者の歴史なので、負けた者は正当性を失ってしまう訳なんだけど、そういう意味で勝者の側に立ってさえなお暴君とされるボルジア家なんかは相当ヤバイ存在だなと思う。なにせローマ法王庁は現在でも世界三大権力者と言われるほどの勢力を持っている訳で、そんな権威者なのに悪党の代名詞的な名称になっているのは凄まじい。

ちなみに虐殺に関しては通常の戦闘行為における殺害ではなく戦闘以外で行ったものを悪質としていて、例えば捕虜を虐殺したとか降伏した住民を虐殺したとか一般人を虐殺したなどは特に暴君度が高くなるようになっている。

ということは、このランキングは上に行くにしたがってその悪質度や数が多くなっていくということでもある…

 

第49位:アフリカの北朝鮮を建国した男「イサイアス・アフェウェルキ」

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1991年という比較的最近できた国エリトリアの大統領。そしてエリトリアは建国以来現在までイサイアス・アフェウェルキがずっとトップに君臨し続けている国でもある。

一応形として議会は存在しているのだが、建国以来一度も選挙が行われておらず、150人の議員は大統領が任命した者たちで、政党は大統領が率いる民主正義人民戦線という政党以外が存在していない。

報道の自由度は北朝鮮に次いで世界ワースト2位、国際連合人権理事会の調査によればデモや集会などはその目的に関わらず全面禁止、兵役義務は強制かつ無期限で、国民はナショナルサービスと呼ばれる奉仕活動という名の強制労働に従事しなければならないという。

国民の生活は秘密警察によって常時監視されており、許可なく移住することはもちろん旅行もダメで、令状なしの逮捕、裁判なしの処刑が横行、外国人メディアの入国は禁止され、国内には独立メディアが存在していない。そのためジャーナリスト保護委員会という組織はエルトリアを検閲国家ワースト1に選出し、毎年5000人以上が国外へ逃亡しているという。近年では国民が国境に近づいただけで射殺されると言われているが、それでも難民の数は減らず、旧宗主国のイタリアめがけて地中海を泳いで渡ろうとする者さえおり、溺死者が後を絶たないという。

イサイアス・アフェウェルキはこの記事を書いている現在でも存命中で、このような状態は現在でも全く改善されていない。

「暴君」は決して歴史的過去の話ではなく、現在進行形で続いている存在なのである。

第48位:典型的な中国の暴君「赫連勃勃(カクレンボツボツ)

大夏という国の建国者。暴君揃いの五胡十六国時代の中でもかなりランクの高い暴君である。

モンゴル系騎馬民族匈奴族の出身で、残虐で血を好んだ快楽殺人者であったという。

こういう人物でも腕っぷしで権力者に成り上がれてしまうのが乱世の恐ろしいところで、「晋書」には「城上に居る時は常に弓と剣を側に置き、気に障ることがあればその者を殺した。群臣に忤視する者がいればその目を壊し、笑う者がいればその唇を裂き、諫言をする者がいれば誹謗であると言ってその舌を切り落とし、それから斬り殺した」という記述があり、別の仏教説話では仏教徒を大量に虐殺したという記録がある。

まさに典型的な暴君と言え、その治世があまりにも酷すぎたため彼の建てた大夏は建国からわずか24年で滅びてしまった。

第47位:南米のネロと呼ばれた男「フアン・マヌエル・デ・ロサス」

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遺体の入国を100年間以上母国アルゼンチンから拒否され続けてきた南米の暴君。

1835年からはアルゼンチンの首都ブエノスアイレス州知事を17年間勤め、秘密警察を使って市民数千人を処刑、荒野の征服作戦では約6000人のインディオを虐殺し、ムッソリーニよりも遥かに速い段階で全体主義(ファシズム)を導入していた。

国民生活をあらゆる面で制約し、選挙は当然のように形骸化され、その様は「独裁王」「暴君」などと呼ばれ暴虐の限りを尽くした。最後は腹心の裏切りによって起こった反乱から逃げるようにイギリスに亡命、そのままイギリスの地で生涯を終えた。長らく遺体の入国は拒否され続け、イギリスとのマルビナス戦争後にようやくその遺体は母国に返されたという。

本家ネロにも再評価の動きがあるが、フアン・マヌエル・デ・ロサスはそれ以上に再評価の流れが激しく、ウルグアイや英仏との間に起こったウルグアイ大戦争で英仏を撤退させているなど功績の面も評価され始めており、現在の20ペソ紙幣にはマヌエルの肖像画使われている。

彼は血にまみれた独裁者なのか外国からの侵略を撃退した愛国者なのか、その評価は今後も上下することであろう。

第46位:狂った時代の狂った君主「蕭宝巻(ショウホウカン)」

暴君だらけの魏晋南北朝の中でも特に酷い暴君。

こちらは南朝2番目の国斉の6代目の皇帝で、この人物もさることながら父親の明帝もかなり酷く、自身の王座を確固たるものにするためにライバルになりそうな自分の一族を虐殺しまくった人物であり、自分で殺しておきながら葬儀の際には本気で悲しんで涙するというかなりの人格破綻者で、ついたあだ名が「悪童太子」「殺戮王」だった訳だが、息子の蕭宝巻にいたってはさらにひどい。

蕭宝巻は父親の葬儀の際父の亡骸から頭巾がずれてその禿げ頭が見えてしまったために爆笑したことが歴史書に残されてしまっている人物で、部下からどうか悲しんでくださいと言われても全然悲しくないから無理!と平然と言ってのける有様。

南朝の斉と梁は同じ一族の蕭氏が王族な訳だが、そろいもそろってこんな連中ばかりで、斉と梁の歴史は読んでいるだけで頭が痛くなってくるレベルである。

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父親の明帝は殺戮王と言われてもその対象は王族に限られた訳だが、息子の方はもはや悪意が服を着ているレベルで全方位に殺意をまき散らし、皇帝になった瞬間に父が自分につけた補佐役6人を虐殺すると暴君お決まりの豪華な宮殿設営ととんでもない重税を民衆に課すというコンボを決めてしまう。

さらにこの人物には街に出ては馬で住民を踏みつぶすという悪癖があり、その対象は妊婦にさえも及んだというのだから完全に狂人である。

流石にこれを諫める者もいたのだが、蕭宝巻は自分に対して耳障りの悪い意見は聞きたくない性分だったようで自分に諫言をした人物を片っ端から処刑してしまう(こんな人物もう何度目だ?)。

そんな暴君に対し民衆は反乱を起こす訳だが、そんな反乱も一族の蕭懿のおかげで鎮圧される。そしてそこで素直に感謝するようなら蕭宝巻はこの順位にはいない。蕭宝巻は自分よりも強くて人気のある蕭懿に対して嫉妬と恐怖の感情以外は感じなかったようで、あろうことか国を救った蕭懿に対して自死を言い渡す。

この様を見た別の王族蕭衍は蕭宝巻の弟を和帝として担ぎ出して挙兵、それを知った宮中の衛兵は蕭宝巻を殺して蕭衍を受け入れてしまう。こうして蕭衍は新たに梁の国を建国する訳だが、蕭宝巻は蕭衍の挙兵を聞いてもひたすら飲めや歌えやしていたというのだから相当なものであった。

蕭宝巻は死後にその皇位をはく奪され、最終的には東昏侯という廟号を与えられることになる。意味は無理矢理訳すなら東の馬鹿野郎とでもなるだろうか。

この記事には様々な暴君が出てくるが、中には国を良くしようとして暴君になってしまった人物も多い。しかし蕭宝巻に関してはそのような気持ちは一切なく、ただただ暴君なだけであった。

人類の長い歴史においても、ここまで純然たる暴君は珍しい。

第45位:宇宙大将軍を名乗った男「侯景(コウケイ)

宇宙大将軍という小学生でも恥ずかしくて名乗らないような称号を、実際に自称した人物がいる。

中国史上最悪の乱の1つに数えられる侯景の乱の首謀者である侯景その人である

184年に起きた黄巾の乱から始まる中華帝国の混乱は侯景の乱でピークになったと言って良く、北朝と南朝の政府は機能せず、この乱がおきた当時の建康(現在の南京)は食べるものがなく雀や鼠、その辺りに転がっている死んだ人々をも食べたというから文字通りの地獄絵図であったことだろう。

南朝梁は一族同士の足の引っ張り合いがすさまじく、将軍であった侯景が都で反乱を起こした際一族の誰も都への援軍を派遣しなかった。このことで反乱を起こした侯景はあっさりと都を陥落させてしまう。

都を占領した侯景は皇帝一族とその近親や従者約2000人を虐殺すると部下たちは略奪を開始する。食料はもちろん家々を壊して薪にしていたというからその暴虐ぶりはすさまじい。その結果街には食料が無くなり先述した通りになっていたという。

為政者は民を守ることが責務であるが、自身の都合が良い傀儡政権を建て相国(総理大臣のようなもの)に就任した侯景は軍部を掌握し自ら宇宙大将軍を名乗る。そして都合が悪くなると皇帝を殺害し新帝を建て無理矢理帝位を自分に禅譲させ、ついにみずから皇帝を名乗り始める。

しかし侯景そのものは戦闘に強かった訳でもなく、梁王朝の残党に敗北し、裏切った部下によって殺害され、その首はさらし者になり最後は飢えた民衆によって食われたという。

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第44位:吸血鬼伝説のモデルとなった串刺し公「ヴラド・ツェペシュ

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ブラム・ストーカーが作り出した吸血鬼伝説「ドラキュラ」には2人のモデルがいる。

1人は悪女ランキングにも出てきたハンガリー貴族エリザベス・バートリーで、もう1人はワラキア公国のブラド3世である。

現在のルーマニアにあたるワラキア公国の君主ブラド3世は、ある面から見れば強大なオスマン帝国の侵攻を撃退したルーマニアの歴史的英雄である。

なにせ当時のオスマントルコはヨーロッパ諸国に対して無敵を誇っており、ハンガリーやセルビアはもちろんオーストリアやローマ教皇を中心とした十字軍、スペインなどの強国でもまるで歯が立たなかったのだ。

そんな中ワラキア公国のブラド3世は10万を誇るオスマン帝国の軍隊を撃退し、その多くを捕虜とすることに成功した。

そこまではある意味良かったのだが、ブラド3世はオスマン帝国への見せしめとして捕えた捕虜を串刺しにして荒野に晒すという暴挙に出た。

古今東西捕虜への虐殺はその人物の評価を圧倒的に貶める。

その事件以降ブラド3世は串刺し公を意味する「ツェペシュ」の名前を付けて呼ばれ、現在では「ブラド・ツェペシュ」としてその悪名を轟かすことになってしまった。

これよりも300年ほどさかのぼった時代のイスラム君主サラディンは、捕虜となったキリスト教徒を処刑はもちろん虐待もせずに解放したことでイスラムの英雄と呼ばれるようになったが、ルーマニアのブラド・ツェペシュは捕虜を虐殺し暴君となってしまった。

いつの時代も非戦闘員への殺害は非難されるべきである。

ちなみにブラド3世が行ったとされる「ヴラドは人を無差別に殺し血肉を食らって晩餐を開いた」「ヴラドは田畑を燃やして農民を飢えさせた」と言った悪評は敵国であったハンガリーが意図的に流した情報である可能性が高く、酒宴を開いて油断した貴族を殺害したりジプシーや貧困層に対して行った虐殺もどこまでが本当かは分からないので今回はそれらの異常行動は差し引いて考えることにした。

なお、ドラキュラというネーミングはブラド3世がドラゴンの息子(父がドラコと呼ばれていたため)という意味で使っていたのが元であるらしい。

第43位:アメリカの英雄的虐殺王「アンドリュー・ジャクソン

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アメリカの歴史はどこまで行っても過去のネイティブアメリカンの虐殺と奴隷貿易および奴隷使役からは逃れられない。

第7代アメリカ大統領であったアンドリュー・ジャクソンはその2つの負の側面を抱えた人物で、彼は100名を超える黒人奴隷を使役したプランテーションを経営し、軍人としてネイティブアメリカンに対して殺戮の限りを尽くした人物である。

後にリンカーンは「人民の人民による人民のための政治」を目指したが、ジャクソンは徹底して「白人の白人による白人のための政治」を目指し続け、戦闘に参加したネイティブアメリカンは非戦闘員であろうが子供であろうが女性であろうが徹底的に殺しつくした。

ジャクソンの命令で殺されたネイティブアメリカンは死体から鼻を削がれその肉で馬用の手綱が作られたという。ジャクソンはこの世から白人以外を消し去りたかったようで、特に子供を産む可能性のある女性を重点的に殺戮させたという。

それらの行為はアメリカでは称賛され現在でもジャクソンはアメリカで英雄として称えられている。

さらに逃亡した黒人奴隷に対しても苛烈で、逃亡黒人をかくまったイギリス人やスペイン人を処刑しており、追い詰められた逃亡黒人とネイティブアメリカンが連合するとこれを討ち破りこれらの人物も悉く虐殺した。

白人から見ればアンドリュー・ジャクソンは英雄である。そしてそれ以外から見ればただの虐殺者である。

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第42位:恐怖そのものと言われた皇帝「イヴァン雷帝」

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グラズヌイ(恐怖を与える者)と恐れられたロシアの皇帝。

正式名称はイヴァン4世と言い、画にあるように短気過ぎて息子を杖で殴り殺してしまった逸話は有名。

かなり支配的な父親であったらしく、息子の嫁が気に入らないと言っては2人離婚させ、3人目には暴力をふるい、妻への暴力が酷すぎると抗議した息子のことをを杖で叩いて頭蓋骨を粉砕して死亡させた。それでも怒りは収まらなかったのか妊娠中だった息子の妻もイヴァン雷帝の暴力によって流産したのち死亡、さすがの雷帝もこのことを気に病み晩年は精神を害したというが、若い頃からその残虐な性格は知られており、幼い頃は宮殿から犬や猫を突き落とすことに喜びを感じたり、処刑や拷問には自ら加わりそれを楽しみにしていたという逸話も残っている。

暴君にふさわしく自身を諫めた部下を処刑したエピソードもしっかりあり、オプリーチニキという街の住民約3万人を虐殺したなどどの方向から見ても立派な暴君なのであるが、一方で貴族たちの力を抑え、官僚制を推進しロシアの中央集権化に成功した結果、ロシアを強国に押し上げたのもまた歴史的な事実である。

とはいえその結果経済の停滞を招いてしまい、農地を放棄する者が続出、その対策のため農民の移動を制限し農奴制を強化するなどその政策もまた苛烈で、なんだかんだ罪の意識があったのかイヴァン雷帝は生涯不眠症に悩まされ続けたという。

優秀な後継者を自ら殺害してしまったことによりイヴァン雷帝の死後リューリク朝はすぐに滅亡、代わりに古代ローマの後継を称するロマノフ朝が台頭することになった。ロマノフ朝はイヴァン雷帝の遺産を引き継いで発展したとも言えるかも知れない。

イヴァン雷帝は血縁者の殺害、市民の虐殺、臣下の処刑、暴政による国の滅亡など暴君的の要素をコンプリートしており、ロシアの歴史における最悪の暴君と言ってさしつかえないであろう。

悪女の記事にも出てきたロシア史上最悪の悪女と呼ばれたダリヤ・サルトゥイコヴァの殺害者数が136人、イヴァン雷帝はその数百倍、数の問題ではないとはいえあまりにも規模が違いすぎる…

ちなみにイヴァン雷帝はその生涯で7回結婚しており、ヘンリー8世の6回を上回っている。

第41位:朝鮮史上最悪の暴君「燕山君」

悪女の項目にも出てきた張緑水の夫。朝鮮史上最悪の暴君と言われる。

最初の方は女真族相手に防備を固めるなどまともな政治を行っていたらしいが、亡き母親の不名誉を挽回しようとしたあたりからおかしくなっていった。

燕山君の母親は父の顔に傷をつけたことから廃妃になった人物で、燕山君は皇帝に就任すると流罪になっていた母方の一族を釈放しその名誉の回復をしようとしたのだが、士林派と呼ばれる官僚たちに阻まれて失敗してしまう。

それを恨みに思った燕山君は官僚たちに対して士禍と呼ばれる大規模な虐殺を行った。犠牲者の数は具体的には不明だが、かなり多くの者が逮捕し処刑されたという。

そして母を貶めた女官たちを次々と処刑して行き、母に対して斉献王后の廟号を贈ろうとするのだが生き残った官僚たちがこれに反対、今度は役所そのものを小さくすることでこれに対抗した。

そして廃止した役所を遊び場に変え、全国から無理矢理連れて来た美女たちをそこに囲うと放蕩三昧、悪女の時にも出てきた張緑水と共に暴政を開始する。時には張緑水の悪口を言った女官を処刑してその遺体を宮廷内につるし、また別の時には張緑水のすそを踏んだというだけで処刑したという。

そうした行動を諫める者あればその者も処刑するというこの記事ではもはやお決まりの暴君ぶりで、国中のいたるところに燕山君の悪口が書かれると今度はハングル文字そのものの使用を禁止してしまうという暴挙に出る。

こうなるともう誰にも燕山君を止められなくなりご先祖様が建てた寺や最高学府であった成均館を乱交騒ぎの場に変えてしまう。

 こうした暴政に民衆の怒りはたまり、クーデターが起こるとあっけなく失脚、最後は江華島にながされてその31年に及ぶ人生の幕を閉じた。最後は恐らく暗殺であったであろうと言われており、死後に王位ははく奪された上に無効化され、燕山君としての名だけが残ることになった。

第40位:母殺しの暴君「ネロ」

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「暴君」と聞いて最初にネロの名前を思い浮かべる人も多いと思う。

ネロは皇帝となった当初はまともな政治をしていた。もちろん完璧な政治ではなかったが、自身の家庭教師だった哲学者のセネカや軍事力に優れた将軍ブルスなども力添えもあって広大なローマ帝国を治めるに足る君主ではあったのだ。

それが崩れだしたのはやはり母親であるアグリッピーナに結婚を反対されたころからだろうか。ネロは母が決めた結婚相手オクタヴィア(初代皇帝アウグストゥスの血縁)と離婚した後不倫の罪で死刑にするとポッパエという女性と結婚してしまう。これにアグリッピーナが切れてしまったというのだ。

悪女ランキングにも出てきたアグリッピーナ(ちなみにカリギュラの妹)であるが、その政治能力は高く評価されており、ネロに優秀な家庭教師をつけたのも彼女であったし、最初の何年間かの善政はネロでなくアグリッピーナが行った結果であるという話もあるぐらいなのだが、20歳を超えてネロも反抗期がやってきたのだろう。

反抗期は遅ければ遅いほど質が悪くなるというが、ネロに関してはその度合いが蒸気を逸していて、ついには母親を暗殺するに至ってしまう。

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世界広しと言えども母親を殺した例はなく、人類史上の悪党を集めたこのランキングですら実の母親を殺したのはネロだけである。

そして母親が死んだネロの暴走はもはやとどまることを知らず、母が選んだ家庭教師であったブルスを暗殺しセネカに愛想をつかされてしまう。

これだけでも十分に暴君なのだが、ネロにそのイメージを定着させてしまったのが64年に起きたローマ大火であろう。

これはいわば完全な事故なのだが、ネロは家事で焼けた場所に黄金宮殿を意味するドムス・アウレリアを建設し始めてしまう。

これにはローマ市民も開いた口がふさがらず、そもそも火事自体もネロが行ったことなのではないかと噂しあうようになる。現代でも嫌われ者ほどエゴサーチをするというが、ネロは夜な夜な外出するクセがあったため自分の悪評が耳に入ったのかも知れない。そこでネロはローマの大火はキリスト教徒がやったことにしてしまったのである。それも逮捕、投獄ぐらいならここまでヒドイ評判にはならなかったかも知れないが、ネロはキリスト教徒たちをコロッセオで猛獣に食べさせたり磔にしたり生きたまま火をつけたりと残虐極まる刑罰を適用し、この時にイエスの1番弟子であるペテロも殉教したという。このことが原因で後にキリスト教が天下の覇権を握った際には史上最悪の悪帝というレッテルを張られることになるのである。

ちなみにネロの治世中はネロ暗殺計画が幾度か持ち上がっており、その中でも最大のピソの陰謀事件ではその賛同者の中にセネカの名前もあったという。

この事件に連座してセネカは処刑、そして次に起こった暗殺計画であるヴェネベントの陰謀事件によってローマの最高司令官であったコルブロも連座して処刑になってしまう。コルブロは事件には一切関わっていなかったが、コルブロの娘婿がその首謀者であり、疑心暗鬼に駆られたネロはコルブロを含め3人の司令官たちを処刑する。

これがきっかけとなり各地で総督が反ネロを掲げて蜂起、もはや逃げ場を失ったネロはついに自ら命を絶つに至る。ネロ30歳。決して長いとは言えない生涯であった。

これほどの暴君ではあったのだが、オリンピックをローマに輸入したり自ら詩作をし劇場で歌ったりと憎めない面もあり、ネロが死ぬとその墓前には献花が絶えなかったという。

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第39位:色欲の暴君「海陵王」

暴君の多い歴代中国王朝でも特にとんでもない暴君。

1149年当時、金王朝は熙宗というとんでもない暴君が治めていた。熙宗は酒に酔っては重臣や一族、果ては皇后まで殺してしまうという有様で、この人物もこのランキングに入る資格は十分にあるのだが、それはさておき熙宗の従弟であった海陵王は部下と謀って熙宗を殺害し自ら皇帝に即位する。

海陵王は幼い頃から英明で知られ、彼が即位した当時は悪帝を殺した英雄として大いに期待されていた。

しかしそんな人々の期待とは裏腹に海陵王は王位継承の可能性のある一族を悉く誅殺し、挙句その妻たちを自らの後宮に入れるという暴挙に出た。これは儒教的価値観としてはとんでもないことであったが、金王朝を建てた完顔氏は女親族であったために少し価値観が違ったのかも知れない。

とはいえ海陵王の色欲は兎に角図抜けていて、領内にいる契丹人の王族耶律氏(遼の王族)や漢民族の趙氏(宋の王族)を探し出しては惨殺しその妻たちをやはり後宮に入れるという暴挙を行っている。

余りにも酷い行いに海陵王の育ての親である徒単氏がその行いを諫めると怒った海陵王は育ての親である徒単氏のことも処刑してしまう。

実の母親を殺害したのはネロだけだが、育ての母親を処刑したのは海陵王だけである。しかもその遺体を埋葬することもなく川に捨て彼女に仕えていた女官たちも皆殺しにしたというから質が悪い。

 しかし南宋への侵攻が失敗すると従弟の世宗を中心に勢力が形成され、最後は部下の完顔元宜によってあっけなく殺害されてしまった。

あまりにもひどいその治世はなかったことになっており、次代の皇帝となった世宗からは皇帝ではなかったという意味の「海陵王」の名を贈られ、金王朝の歴史書である「金書」からは「廃帝海陵庶人」というもはや王族ですらないという意味の名が与えられている。

海陵王に関しては他に幼女を好んだとか姉妹を同時に強姦することを好んだとか宮廷のいたるところ布を敷き詰めて宮女と交わったとか既に妊娠している女性を中絶させて強姦したとかおよそ人とは思えないようなエピソードが山のように残っているが、これは皇位を簒奪した世宗の陣営が自己の正当性のために海陵王を意図的に貶めた可能性も現在では指摘されている。

海陵王に関して言えば色欲の部分だけは誇張されている可能性はあるが育ての親や一族、異民族を悉く誅殺したのは本当であろうから、どちらにしても暴君としての評価は変わらないであろう。

第38位:世界史上最低の君主「ヘリオ・ガバルス」

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東洋の色欲代表が海陵王なら西洋の代表はヘリオ・ガバルスである。

海陵王の悪行はまだここに書けるレベルだがヘリオ・ガバルスの悪行はここには書けないレベルである。主に下の方面で。

ヘリオ・ガバルスは20歳になる前に死んでいるのだが、その間に4度結婚しており、中には結婚していたにも関わらず夫を処刑されて無理矢理結婚させられた者やウェヌスの巫女と言ってローマの祭祀上ヴァージンでいることが必要とされた者もいるのだから暴君ここに極まれりである。ついでに言うとヘリオ・ガバルスは同性愛者でもあり、夜な夜な化粧をして出かけ酒場で同性を宮殿に誘って情事に耽り、宮殿を売春婦宿として使ったという。

ちなみにヘリオガバルス(エラガバルス)というのは太陽神エル・ガバルを崇拝していたことからついたあだ名で、謎の黒い石をその信仰の対象としており、悪女の時にも出てきた祖母のユリア・メサと共に元老院の真ん中にその石を設置して崇拝させたりといった暴挙にも出ている。

「良き皇帝になるように」と言った家庭教師をその場で殺害したり先帝であるマクリアヌス帝を殺害した挙句元老院の承認もなく勝手にローマ皇帝として即位したりおおよそローマが尊んできた民主制を真っ向から否定するような行動をとっており、人類を代表するローマ史家のエドワード・ギボンはヘリオ・ガバルスをして「ヘリオガバルスの伝承はある程度脚色された部分を持つだろう。しかしそれを前提にしてもヘリオガバルスは全ての点においてローマ史上最悪の皇帝であった」と評している。

なお、上の画は有名な「ヘリオ・ガバルスの薔薇」と題された画で、優雅に薔薇を見ているように見えるが、これはヘリオ・ガバルスが客人を薔薇で窒息させようとしている場面だという。

ヘリオ・ガバルスを制御できなくなった祖母ユリア・メサは、ヘリオ・ガバルスを親衛隊に暗殺させ従弟であったアレクサンデル・セヴェルスを皇帝に据えている。この時ヘリオ・ガバルスはわずか18歳、その遺体は市中を引き釣りまわされたあげくさらし者になり墓も作られず河にそのまま流されたという。

ヘリオ・ガバルスはあらゆる角度から見ても暴君であったが、祖母によってわずか14歳で帝位に据えられており、そういった意味では利用されただけという面もあり、少し可哀そうな面もあるかも知れない。

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第37位:冷静な虐殺王「ティムール」

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世界史上でも指折りの軍才で広大なモンゴル帝国の半分ほどの大きさの大帝国をわずか1代で作り上げた世界史上最強の英雄の1人。

後にヨーロッパ諸国がまるで歯が立たなかったオスマントルコに対し一方的な勝利をおさめ生涯敗戦がないなどその強さはレジェンド級だが、数多くの大規模な虐殺を行ったジェノサイダーでもある。

ティムールは征服地での略奪や強姦などは禁じていたが、少しでも抵抗の意思を見せた場合には徹底的にその民族に対する虐殺を行った。その対象は幼き子供であろうとおかまいなしで、ある時ティムールに攻撃された町の人たちが同情を誘うために子供たちに合唱させたところティムールはまるで意味介さずこどもたちごとその街の人々を虐殺したという。また別の街では10000人の子供を捕虜にし、泣き叫んでその解放を懇願した親の目の前で子供たちを虐殺したという。

ちなみに虐殺を行う際には知識人階級は意図的に外しており、モンゴル軍と違ってその土地の文化を保護している。

ティムールに関して言えば、暴君というよりも虐殺者という感じなので悪漢の部類に入るかも知れない。

第36位:人類共通の敵とさえ言われた暴帝「カラカラ帝」

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暴君の評価に後世への悪影響を考慮すべきかどうかは非常に難しい問題であると言え、それを考慮した場合カラカラ帝は世界史上でも最悪クラスの暴君になるだろう。

正式名称はインペラトール・カエサル・マルクス・アウレリウス・セヴェルス・アントニヌス・ピウス・アウグストゥスという長い名前のカラカラ帝だが、彼は皇帝に就任すると母親の前で弟のゲタを殺害しダムナティオ・メモリアエ(記録抹消刑)に処して国中からその存在を消してしまった。

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これはカラカラ帝一家の画だが、弟の顔だけが削り取られている。

カラカラ帝は何か気に入らないことがあればすぐに処刑を敢行する人物で、ゲタと仲が良かったというだけで処刑された人物もおり、エジプトのアレキサンドリアでは自身の悪口が聞こえたという理由で街の住民数千人を虐殺したりしている。

これだけでも十分酷いのだが、ローマ全体で考えるとカラカラ帝の出した「アントニヌス勅令」が一番暴君度が高いポイントかも知れない。これは全領土内に住む人間にローマ市民権を与えるというものだが、この勅令によってローマ帝国の衰退は決定づけられてしまった。そのことまで語ると長くなるので詳細は別記事に回すが、これはカラカラ帝が何も考えず人気取りのためだけに出した勅令であり、他にも金もないのに大規模なカラカラ浴場を建てたりと無理な土木工事も行い最後には暴君らしく部下に殺されており、まるで褒めるべき点のないその暴政は歴史家エドワード・ギボンから「人類共通の敵」とまで言われている。

ヘリオガバルスの方が派手だが、暴君度で言えばカラカラ帝の方が上であろう。

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第35位:謎多き中東の独裁者「サダム・フセイン」

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アメリカによって作られアメリカによって殺害された独裁者。

サダム・フセインがやったことを並べると以下のようになる。

  • 秘密警察を組織して国民の監視を行った
  • 各地の空港や病院に自分の名前をつけた
  • 国中に自らの肖像を掲げさせた
  • イラン=イラク戦争を起こした
  • クウェートに侵攻し湾岸戦争を引き起こした
  • 大量破壊兵器を保持してイラク戦争を引き起こした(ただし大量破壊兵器は見つかっていない)
  • クルド人に対して虐殺行為を行った
  • シーア派イスラム教徒に対する虐殺を行った

 まさに悪逆非道な行為のオンパレードなのだが、これらの悪行はアメリカがバックにいたから可能になったという面もある。

1979年に起きたイラン革命はアメリカにとって最悪だった。元々イランを支配していたパフレヴィー朝はアメリカと強い癒着関係にあり、事実上アメリカの傀儡政権と言ってもよかったのだが、それがホメイニ率いるイスラム勢力によって倒されてしまったのだ。

アメリカはイランに対するけん制として隣国イラクのサダム・フセインに肩入れすることにした。サダムは大統領就任と同時に反対派を次々と処刑していくような人物だったのだが、アメリカからすれば自分たちの言うことを聞かないホメイニよりはマシだったのかも知れない。

イラン革命が起こった翌年に起きたイラン=イラク戦争ではアメリカ合衆国はイラクのサダムに対し武器及び資金の援助をした。あるいは事実は逆で、アメリカの支援があるからこそイランに対して攻撃を仕掛けたというのが正しいのかも知れない。

湾岸戦争の際にもサダムは事前にアメリカの了承を得てクウェートに侵攻したとも言われており、実際に湾岸戦争では実はイラク本土への攻撃は行われずにサダム政権も維持されたままであった。サダムからすれば湾岸戦争は完全に予想外のことだった可能性はある。

そう考えると、最終的にサダムが処刑されたのはその存在が邪魔になったからなのだろう。

サダム・フセインが歴史に残る暴君であることに異論はないが、世界にはもっと恐ろしいものがあるのかも知れない。

サダム・フセインの死は、暴走する正義が力を持てば誰もそれを止められなくなるということを教えてくれる。なにせアメリカがイラク戦争を起こした際に大義名分としていた大量破壊兵器などなかったのだから…

第34位:悪の帝国を倒した世界的英雄「ハリー・S・トルーマン」

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人類の歴史においてただ一人原子力爆弾を人類に向けて使ったアメリカの大統領。

本記事においてランクインさせるかどうか最も迷った人物。

トルーマンは世界史的に見れば悪の帝国を滅ぼした大英雄である。ナチスドイツと共に世界を大混乱に陥らせた大日本帝国に打ち勝ち人類の歴史上最悪の戦争であった第二次地世界大戦を終わらせたのは他ならぬトルーマンであり、アメリカの歴代大統領の中でも特に評価の高い人物でもある。

トルーマンは独裁をしたわけでもなければ秘密警察を作った訳でも重税を課すような悪政を行った訳でもない。先ほど掲げた暴君の条件で言えば②以下の要素をただの1つも満たしていない(マッカーシズムという共産党狩りは起こったり朝鮮戦争への関与はあったが)。

問題なのは広島と長崎への原子力爆弾の投下である。

小学生の時にはだしのゲンを読み中学生の時に広島の原爆博物館を訪れた人間としてはやはりそのようなことを実行した人物は悪魔であるように思う。

トルーマンが行った新型爆弾の投下の犠牲になったのは一般市民であり、その儀性となった人数は10万を超えた。生き延びた者の中にはその子孫が白血病になった者もいる。

その人々は兵士でもなければ罪人でもなかった。

つまりトルーマンが行ったのは大量虐殺以外の何でもない。

すでに敗北濃厚だった大日本帝国に対して原子力爆弾を投下しなければならなかったのだろうか?戦後世界のイニシアティブをとるために広島と長崎を実験台にしたのではないだろうか?

個人的に大量破壊兵器である原爆の投下は「戦闘行為」の域を明らかに超えていると考える。

本当はもっと上位にしたのだが、戦争中であったことや日本軍が中々降伏しなかったこと、別に私腹を肥やした訳ではなくむしろアメリカ国内では最低賃金の引き上げや社会保障の充実に努めるなど国内に対しては暴君どころか名君的であるためこの順位にした。

人1人を殺せば殺人者だが100万人を殺せば英雄になれる。

トルーマンについて考える時、チャップリンが映画「独裁者」で述べたこのセリフについて考えさせられる。

第33位:ただ1人覇王と呼ばれた男「項羽」

秦に滅ぼされた楚の国の大将軍項燕の孫。項羽はあだ名で本名は項籍(正確には項籍羽で羽はあざな)。

あれだけ権勢を誇っていた秦を滅ぼした人物で、その戦の才能は圧倒的、たった1人で100人以上の部隊を全滅させたという記録も残っており、漢の高祖こと劉邦は何度も項羽と戦っているが、結局最後の1回を除いてボロ負けしている。中には20倍の兵力で戦って負けたこともあり、その強さは中国史上はもちろん世界史上でも最強クラスであろう。

中国の歴史ではその数が盛られることも多く、意図的に敵が強く書かれることも多いが、それを差し引いても項羽の強さは異常で、秦軍と戦った鉅鹿の戦いの戦いにおいては項羽軍5万秦軍30万の圧倒的劣勢であったにも関わらず結果圧勝して20万人の兵士を捕虜にした。そこまでは良いのだが、項羽はこれらの捕虜を皆殺しにしてしまう。

数は盛られているだろうが膨大な数の秦の兵士達を虐殺したのは確かであろう。秦の国の戸籍はかなりしっかりしており、あるいは数の誇張などはなかったかも知れない。そうなると項羽は20万人の降伏した兵士たちを殺した虐殺王となる。

秦の都咸陽を征服すると再び虐殺を行い皇帝以下政府の要職にあったものは悉く処刑、金銀財宝を掠奪してさっさと故郷の楚に帰ってしまう。

この時人から咸陽を本拠地にして政治を行うように言われるが「富貴を得て故郷に帰らずは錦を着て夜出歩くことと同じである」と返したことは有名で、「故郷に錦を飾る」の語源にもなっている。ついでにこの人物はそれを聞いて「人は『楚人は猿が冠をつけているのと同じ』と言っているが、まさにその通りだな」とさらに返し、怒った項羽はこの人物を釜茹でにして処刑したという。

このエピソードがどこまで本当かは分からないが、マリー・アントワネットの「お菓子がなければパンを食べればいいじゃない」というエピソードと同じレベルで項羽の人柄を表している。マリーはそんなことは言っていないらしいが、マリーとはそんな人物であり、例え項羽のエピソードが嘘であったも項羽はそういう人物なのである。ついでに秀吉の墨俣一夜城も草履の話も実際はなかったらしいが、それもそのエピソードがあったかどうかよりも秀吉とはそういう人物だと表現することが非常に重要なのである(二度目)。

このエピソードの真偽に関わらず、項羽はこのように短気で乱暴、政治力に欠け自己の欲求を抑えることが出来ない人物であった。そのため論功行賞が独善的になり、功績よりも血縁を重要視したために1人また1人と人材が劉邦の側に流れて行ってしまう。英布や彭越、3傑の1人でもある大将軍韓信でさえも元々は項羽の部下であった人物達だった。

それでもひたすら局地的な戦闘には勝ってしまうのだから恐ろしい。かつてブラジルの監督はワールドカップの戦略を聞かれて「戦略ロナウド」と答えていたが、項羽1人いればどうにかなってしまうどうしようもなさがある。その強さは三国志最強の男呂布ですら遠く及ばないほどであろう。

まさに「覇王」の名にふさわしい人物である。

暴君の列には並べているが、私はかなりの項羽フリークで、歴史上の人物の中でも指折りの好きな人物だったりする。司馬遼太郎もその著書「項羽と劉邦」のあとがきで日本人はついに覇王に比肩する英雄を持ちえなかったと書いているほどである。

史記の著書司馬遷もそんな人間の1人だったのか、項羽をあろうことか漢の建国者劉邦と同じ列に並べてその本紀を置いている。

最終的には「四面楚歌」の故事にあるように自身の暴君ぶりから味方さえも敵になってしまった訳だが、項羽にはそんじょそこいらの人物にはない魅力が存在している。

第32位:虐殺の護国卿「オリバー・クロムウェル」

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 オリバー・クロムウェルは清教徒革命を主導した人物として中学生の歴史の教科書にさえ載っている超有名人だが、王を処刑して議会を解散し自らをロードオブプロテクトとして独裁政を敷いた暴君でもあり、アイルランドでは一般市民を含む数万人から数十万人に及ぶ人々を虐殺した虐殺者でもある(町や田畑を焼き尽くしたためにその規模は60万人に及ぶとする説もある)。

クロムウェルの行った独裁があまりにも酷すぎたため彼亡き後イギリス国民は王政の復古を望み、今でもイギリスの王室は存続しているほどであり、世界史を代表する啓蒙思想家ジョン・ロックはクロムウェルの行った国王処刑を「貪欲な暴徒によって起きた不名誉な事件」として非難している。

ただ、今回のランキングにおいて多いのだが、クロムウェルは暴君である一方でイギリスという国を発展させた第一級の人物でもあり、特にユダヤ人追放令を解除したことは大きく、その結果ロスチャイルドを始めとしたユダヤ資本が流入してくるようになり、イギリスは金融大国として世界を支配していくようになるのである。

そういった意味で、ヨーロッパ的視点に立てばその功績は始皇帝並に大きいと言えるかも知れない。 

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第31位:狂騒の反共主義者「李承晩」

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徹底的な反共産主義を掲げ、自身の反対派を次々と暗殺し、聞慶虐殺事件では非武装の住民88人を、済州島四・三事件では数万人規模の住民を虐殺、その他にも多数の虐殺事件に関与しており、アメリカ版のウィキペディアによればその数は最低でも1万4000人以上、日本版ウィキペディアによれば数十万人規模の人間を虐殺しているという。

実際にどの程度の規模だったのかは不明だが、最低でも万単位の人間を虐殺したことは確かであろう。

しかしその一方で朝鮮戦争を戦い抜いたことから韓国建国の父であるという評価もあり、韓国内でも恐怖の暴君という評価と偉大な建国者という評価で二分されるという。スターリンもそうであるように、二次大戦が生み出した独裁者はこのように評価が二分されることが多い。

第30位:中華史最強の一角「白起(ハクキ)」

中国4000年の歴史の中で最強の将軍の一角として知られる人物であるが、韓との戦いにおいては24万人を斬首刑に処し、趙との戦いでは20万人もの捕虜を生き埋めにしたという。

中国の歴史書では数は盛られる傾向にあるので実際にはもう少し少なかったであろうが、他にも韓・魏・趙連合軍13万人を斬首、趙との戦いで捕虜にした2万の兵を黄河で溺死させるなど情け容赦のない処遇が「史記」に記載されており、最後はその軍才を恐れた秦の昭襄王(始皇帝の祖父)から自害を申し渡された。

実際に虐殺した数がどの程度だったかは不明で知る由もないが、現代のように兵器で10万人殺害するのと古代において万単位の人間を殺害するのでは訳が違う。

相当な手間をかけなければそれは可能とはならないが、白起がそれを行ったということは相当な手間をかけたということだろう。

何度も繰り返すが戦闘で戦死者を出すのと既に捕虜になった人たちを殺害するのは訳が違う。そういう意味で白起は中国きっての暴漢だと言える。

第29位:紅き流血の皇帝「アブデュル・ハミト2世」

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2006年10月、フランスの国民議会(下院)で「アルメニア人虐殺否定禁止法」が可決された。その内容は今後フランス国内でオスマントルコのアルメニア人に対する虐殺事件を否定するような発言をした場合に刑罰を課すというものであり、結局上院で否決されて法律とはならなかったが、この件に代表されるように今なおアルメニア人虐殺事件については欧州における歴史的事件として関心が高い。

ヨーロッパにおけるユダヤ人、日本における在日朝鮮人と同様トルコ領内に住むアルメニア人たちは金融業を営んでおり、社会的にスケープ・ゴートになりやすく、また実際に虐殺の対象とされてしまった過去を持つ。

アルメニア人虐殺については一度や二度ではなく何度も断続的に行われており、その数は少なく見積もっても数十万、あるいは100万人の単位に及ぶと言われており、現在でもトルコ政府が否定し続けていることもありその実態は闇に包まれていて、トルコがEU入りできない最大の理由であると指摘する者もいる。

虐殺は19世紀から20世紀にかけて行われたと言われているが、アブデュル・ハミト2世が行った虐殺は過去最大規模で悪質性が高く欧州のメディアからは「血好きのスルタン」「地獄堕ちのアブデュル」などの見出しで非難されており、国内的にはハフィエと呼ばれる秘密警察を組織しオスマン帝国を密告社会に仕立て上げ、軍部の力を持って民衆を弾圧した。

「瀕死の重病人」と言われたオスマン帝国の滅亡を決定づけ、その治世中に青年トルコ革命が起き、最終的には退位に追い込まれている。

アブデュル・ハミト2世が例え名君であったとしてもオスマントルコの滅亡は避けられなかったであろうが、暴君であったためにとどめを刺してしまった感じがある。せっかく近代化し始めたトルコにおいて憲法を停止したり、ロシアとの戦争に負けてセルビア、モンテネグロ、ルーマニア、ブルガリアを失うなど内政、外征ともにいいところがなく、擁護すべき点がまるで見当たらない人物である。

大体明治維新と同じころを生きた人物であり、もし日本の徳川慶喜がこのような暴君であったら日本の歴史は大きく変わっていたであろうなと、アブドゥル・ハミト2世を見ていると思ってしまう。

第28位:死神を自称したカリブ海の独裁者「フランソワ・デュヴァリエ」

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若き日のフランソワ・デュバリエはチフスやマラリアに完全と立ち向かう立派な医師であり、人々はその徳を称え彼を「パパ・ドク」と呼んで尊敬していた。

しかし反共産主義を掲げ大統領になったデュヴァリエはその本性を現したのか恐ろしい暴君へと変貌してしまう。

彼はトントン・マクートと呼ばれる秘密警察を作り国民生活を監視し続けた訳だが、恐るべきはその規模の大きさで、その構成員数はハイチ軍の2倍という規模であった。世界広しと言えども常備軍の数を秘密警察の数が上回った例は他にはない。

デュバリエはトントン・マクートを使って国中の反対派を次々と逮捕、投獄したため国中の知識人階級は国外に逃亡してしまう。アフリカや東南アジアなどでもそうであるが、知識人階級が国外逃亡すると国内の政治、産業発展などが絶望的に衰退し国そのものが貧しくなってしまう。それらの地域が貧しさから立ち直れないのはそういった階層が育たないか育っても海外に流出してしまうことも大きい。

 IMF(国際通貨基金)によればハイチは世界最貧国ランキングワースト19位、失業率は70%以上、平均寿命は50歳未満となっており、国中の富の50%以上がわずか0.1%ほどの富裕層によって独占されている状態が今でも続いているという。

ハイチの誰よりも有力な知識人であったデュバリエがそのようなことを知らない訳がないはずなのだが、デュバリエは国力を充実させるよりも秘密警察を使って反対派を粛正することに熱心になり、処刑された人間は3万人以上にのぼる。中にはトントン・マクートのトップも含まれていたのだから国中安全なところなどなかったであろう。

しかもデュバリエはブードゥ教に昏倒していたようで反逆者の首を持ってこさせて怪しげな儀式を行って対話しようとしたりなど奇行も目立ち、ブードゥ教の死神ゲーデの恰好を好んでし、デュバリエの部屋の棚には自分のライヴァルたちの頭蓋骨が並べられていたという。

このような人間にありがちなように一応選挙は行うのだが、行った選挙の結果は賛成:132万票:反対0票というインチキこの上ないものとなり、候補者はデュバリエ1人、投票用紙には「YES」しか書かれていなかったという。

このような滅茶苦茶が許された背景にはまたもや反共産主義者ならどんな悪党でも支援するアメリカの存在があり、アメリカはハイチに対して年150万ドルもの経済援助を行っていた。もちろん他の例にもれずデュバリエはこれを国庫に入れずに自分の懐に入れてしまう。もうこれも何度目だよ…

デュバリエに関しては国民から搾取した税金を私用に流用してしまうという有様だったのでさすがに怒ったジョン・F・ケネディ大統領から経済援助を打ち切られてしまう。反共勢力ならどんな奴でも経済援助をするアメリカにしては珍しいのだが、ケネディが暗殺されると次のリンドン・ジョンソン大統領はハイチへの支援を復活させた。デュバリエがケネディは自分が呪い殺したと主張しているにも関わらずである。こういった面を含めてケネディ暗殺は謎が多いよなぁ。

 ちなみに息子のジャン・クロード・デュバリエも父の跡を継いで大統領となり、IMFから借りた2000万ドルにもおよぶ借入金をそっくりネコババするという信じがたい行いをしている。

これにはローマ教皇を始め世界中の有力者たちが大激怒、アメリカはCIAを通じてハイチ国軍を掌握し、ついにはアメリカの用意した飛行機に乗ってフランスに亡命することとなった。

デュバリエ親子の独裁はこれで終わったが、先述したようにハイチという国はまるで立ち直っていない。

ハイチはナポレオン戦争の時にフランスから独立した世界初の黒人国家だった訳だが、それがこのようなことになってしまったのは人類の歴史において深くて大きな問題であると言える。

第27位:悪名高い簒奪者「王莽」

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 一説には、王莽がもたらした混乱により4000万人の命が失われたという。

漢帝国はかなり戸籍制度がしっかりしており、統計によれば帝国内の人口は6000万人ほどであったというが、王莽のもたらした混乱を収めた光武帝が戸籍調査を実施したところ人口は2000万人になっていたという。王莽が直接殺した訳ではないが、王莽が引き起こした混乱はそれほどまでに大きなものであったのだ。

王莽は叔母が皇后になったことを利用して宮中でのし上がり、漢王朝を滅ぼして自らを皇帝とし国号を新とした。

その政策は実情に全くあっていないもので、孔子の遺した儒教をそのまま政治に当てはめて(例えば土地所有の禁止)大混乱をもたらし、終始一貫性がなかった。例えば泣き声が大きい者を集めて要職につけたり生きたまま人を解剖させたりといったようにその内容は無茶苦茶で、対外的にも高句麗に対し名前が生意気だと言っては下句麗にしろと言ったり匈奴を降奴と呼んだりなど周辺諸国との軋轢を生み、内政面では必要な土木工事を行わなかったために黄河が氾濫した。

元々何の正当性もなく勝手に国を建てたこともあり各地で豪族が挙兵、超大規模な反乱である赤眉の乱が起きるも王莽にそれを鎮圧する力はなく、最後は漢帝国の生き残りである劉秀(後の光武帝)との戦いに敗れて死亡した。

無茶苦茶な人間の多い中国の歴史においても「簒奪者」の代名詞として扱われ、日本の平家物語にも出てくるほど悪い意味で知名度が高く、歴史に悪名を残した人物でもある。

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第26位:ルーマニアの共産主義者「ニコラエ・チャウシェスク」

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悪女ランキングに出てきたエレナエ・チャウシェスクの夫。

ルーマニアの首相だったデジの跡を継いで独裁者となり、チャウシェスクマシーンと呼ばれる自身の取り巻き達とセクリタテアと呼ばれる秘密警察と共に国民を監視して政権の基盤を築き独裁体制を強化していった。その監視体制は強力で、時には幼稚園の先生が国民をスパイしていたというから恐ろしい。

少しでも反体制的なところがあると逮捕され、チャウシェスク政権では逮捕すなわち処刑を意味していた。

さらにチャウシェスクは個人崇拝を強め学校教育にチャウシェスク賛歌を取り入れるなど洗脳に近い教育を行い、人口増を狙って女性は45歳までに子供を最低5人は産まなければいけないと法で制定し中絶を禁止したが、ルーマニアの生活水準はまるで上がらなかったので街にはストレートチルドレンが溢れ、その子供たちは「チャウシェスクの落とし子」と呼ばれ多くは都市のマンホールの下に住むことになった。

ソ連や中国とは異なる独自路線の共産主義を掲げていたが、ベルリンの壁が崩壊した1989年、ハンガリーやポーランド同様にルーマニアでも反政府デモが頻発しチャウシェスク政権は崩壊、妻のエレノア共々捕えられて銃殺された。

最後は迫る民衆に対して軍に銃殺命令を出したものの軍はチャウシェスクの命令を拒否、怒れる群集を前にヘリコプターで逃げようとしたところを捕えられたという。

新政府によればチャウシェスクは6万人もの市民を処刑し8万人の住居を奪い1000億もの資産を形成したという。特にブカレストの高級住宅街にあるプリマベリイ・パレス(あるいは国民の館)と呼ばれる国会を兼ねた邸宅はまるで宮殿のようで、部屋数は3000を超し建築物としてはアメリカのペンタゴンに次ぐ第2位の広さとなっており、時期によっては一般公開されているようなのでルーマニアに行く機会があれば見るのも良いかも知れない。

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第25位:三国志一の悪い奴!暴虐の覇道「董卓

三国志ファンにはおなじみのスーパー暴君。

おおよそ人間の考え付く悪いことは全てやってのけたのではないかというほどの悪漢で、悪事をざっと並べるとこんな感じになる。

  • 数千人から万単位におよぶ異民族の捕虜を殺害した
  • 時の皇帝を弘農王に降格させその母親と共に殺害し陳留王を献帝として即位させた
  • 宮中にいる女性を毎日数人づつ強姦し続けた
  • 自分に反抗的な奴らは当然処刑
  • 村祭りに来ただけの男女を皆殺しにして財産を没収した
  • 自身に反抗的な態度をみせた人物の四肢を切り落とし目を潰し釜茹でにするのを見て笑いながら食事をとった
  • 袁紹や袁術の一族を皆殺しにした
  • 袁紹や曹操たちが攻めてくると住民おかまいなしに首都洛陽に火を放ち長安に遷都した

散々国を好き放題して混乱させた董卓だったが、最後は女性を取り合って義理の息子である呂布に殺されてしまうという実に悪党らしい最後を迎える。

通常、創作である「三国志演義」の方が歴史書である「正史」よりも悪く脚色して書かれるのだが、董卓に関して言えば「正史」の方が遥かに悪く、あまりにも酷すぎたのでマイルドにされたのだろうなと思う。こういうパターンは非常に珍しい。

黄巾の乱以降の混乱によって、光武帝以降5000万人ほどまでに復活していた後漢の人口が三国時代には500万人ほどまで減ってしまった。そのうち何割かは董卓が作り出した混迷に原因があると言え、総合的に見てもかなり暴君度は高いと思われる。

第24位:最も狂った時代に最も狂っていた皇帝「苻生(フセイ)

苻生は幼い頃からかなりイッテしまっている人物だった。生まれつき隻眼であった彼をからかう目的で祖父が近くの従者に「隻眼だと涙も片方しかでないのかね?」と尋ねた際、これを聞いた苻生は激怒し、そこにあった刀で自らの目を切り付け、祖父に向かって「これもまさか涙ですかな?」と問うたという。

成長した苻生は大酒飲みで残虐好きな性格を露わにして行ったが、軍事的な才能はあったことから手柄を立て、東晋の丞相桓温が大軍を率いてきた際もこれを撃退するなどの活躍を見せていた。

しかし父の死と共に前秦の帝位に就くと持っていた本性が爆発し、暴君にはありがちなように賢臣を次々と処刑し佞臣を重んじて悪政を行うようになる。

その治世はまさに恐怖政治と言ってもよく、以下のような理由で人々を処刑したという。

  • 父王が死んでから改元するまでに年をまたぐべきだと主張した人物が処刑された
  • 佞臣がでっち上げた讒言を信じて無実の人間を処刑した
  • 良い政治をして欲しいと懇願しただけの重臣を撲殺した
  • 苻生に対し良い政治を行っていると称賛した者を媚びを売ったとして処刑した
  • 道行く男女にここで性交して見せよと命じそれが断られるとその場で処刑した
  • 仕事が長引いたため酒宴の席に遅れた人物を処刑した
  • 隻眼を笑う奴はもちろん処刑した
  • 「不」や「無」と言った隻眼を思わせるような文字を使った人物も処刑した

苻生は常日頃から酒癖が悪く昼から晩まで酒を飲んでおり、宮中で乱交パーティを開催するなど風紀は乱れに乱れており、処刑した者の数は数千を超え、その方法は生きたまま皮を剥ぐなど残虐で、傍らには常に処刑のための用具が置いてあったという。

そのような状態が長く続く訳もなく、苻生はクーデターにより同じ一族の苻堅によってその生涯の幕を下ろされる。

この苻堅という人物、戦国の世にあって「一視同仁」、すなわちあらゆる民族が平等に暮らせる国を夢見て巨大な帝国を作ることになるのだが、それはまた別のお話。

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第23位:狂気に憑りつかれた確信犯「マクシミリアン・ロベスピエール」

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「確信犯」という言葉がある。

現在どういう意味で使われているかはさておき法律用語としての確信犯は罪の意識がない状態で罪を犯すことを指す。現代刑法で罰せられるのは反対動機の形成可能性があったかどうか、すなわち故意があったかどうかが重要なので、犯罪の意識のない犯罪を裁けるのかというのは刑法上の大きな問題なのであるが、それはそのまま暴君ランキングにも大きな問題となる。

このランキング内にも何人か本人は正しいことをしていると信じている確信犯的な人間が存在するが、ロベス・ピエールと毛沢東はその代表であろう。

1789年に起きたフランス革命は当初イギリスの名誉革命のように穏健に行われ、最終的には立憲君主制を目指すはずであった。しかし国王が処刑されるとフランス中に血の雨が降り、少しでも王党派であると疑われた人間は処刑された。

処刑を断行したのはジャコバン派と言われる過激派で、そのトップがマクシミリアン・ロベスピエールであった。

この人物は他の暴君とは毛色が違う。

なにせ自身は敬虔なカトリック信者で権力を握っても私腹を肥やすというようなことはなく、「決して腐敗せぬ男」と呼ばれ彼を買収することも彼の意見を変えることも出来なかったのだ。

ロベスピエールは革命の断行と完遂こそが神の意思だと信じていた。だからこそ革命を阻害するような人間は新しい処刑器具ギロチンで次々と処刑していった。神に背く者は死すべし。それがロベスピエールの何よりの矜持であったことであろう。

ギロチンが開発される前、人を処刑するのには大変な手間がかかった。剣では中々人は死なず、銃弾も込めなければならない。しかしギロチンならば移動も楽だし誰でも使える。

ロベスピエールはギロチンを使って次々と人を処刑していったが、その開発者ギョタンもまたこんな残酷な処刑器具を作ったとして処刑された。

「テロリズム」はイスラム教がその発祥と思っている人も多いかも知れないが、その起源はこのマクシミリアン・ロベスピエールにある。文字通り恐怖によって人を縛る政治手法で、手始めに悪女の時にも出てきたマリー・アントワネットの処刑を断行した。

次に最大のライバルであったジロンド派の面々を次々と処刑していった。中には天使のような性格をした王妹エリザベートに代表されるように裁判前から死刑執行書類が用意されている人もいた。

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ジロンド派の女王と言われたロラン夫人も処刑された。バルナーブも処刑された。ルイ15世の公式寵姫デュバリー夫人も処刑された。歴史に名を残す科学者ラボアジェも処刑された。初期の革命指導者はほとんどがロベスピエールによって処刑されたと言って良い。

処刑する相手がいなくなるとロベスピエールは同志であるジャコバン派の人々を処刑していった。

自身と並ぶジャコバン派の指導者ダントンも処刑した。

「ロベスピエール、お前もここに立つことになるぞ!」

ダントンはそう叫んで死んだ。

その言葉がさらにロベスピエールの恐怖心をあおったのか死刑執行の数はさらに増えて行った。1万人を越える人々を処刑したロベスピエールはもはや猜疑心と狂気に憑りつかれていた。

やらなければやられる。

もはや誰も彼を止められない。誰もがそう思った時恐怖政治は意外な終わり方を迎えた。

バラス、フーシェ、タリアンと言った面々が恐怖政治に不満を抱いたのだ。その理由は私腹が肥やせないから。

彼らは革命に旨味を求めていた。腐敗せぬ男ロベスピエールがいたのでは私腹が肥やせない。彼らはテルミドール9日のクーデターによってロベスピエールを捕えようとした。

一度は革命軍によって助けられたロベスピエールだが、彼は軍隊を率いてその3人の所には攻めていかなかった。厳粛な民主主義者である彼は武力で議会を潰すことなどできなかったのだ。

やがてロベスピエールは捕えらえ処刑された。

バラスたちはジャコバン派の面々を次々と処刑していき自分たちは総裁政府を樹立した。腐敗し、汚職まみれの総裁政府は国民から批判にさらされ続けた。バラスはそれをそらすように外征を行い、ある英雄を作って政府の支持を高めることにした。

英雄の名はナポレオン。彼はやがて総裁政府を打倒し皇帝になるのだが、それはまた別のお話である。

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第22位:100万の難民を生み出した独裁者「メンギスツ・ハイレ・マリアム」

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エチオピア人民共和国初代大統領でありエチオピアが生み出した人類最悪クラスの独裁者。

1974年にクーデターによって政権を奪取するとハイレ・セラシエ以下皇帝一族を悉く処刑、社会主義を標榜しソ連やキューバと連携しながらソマリアとのオガデン戦争、エリトリア独立戦争などを起こし100万を超す難民を生み出した。17年におよぶその治世下では秘密警察を通じて数十万人規模の人間を処刑したと言われており、1988年にはクーデターにより失脚。2008年にはエチオピア高等裁判所から人道に対する罪で死刑判決を下される。

しかしメンギスツ自体はジンバブエに亡命しており、2019年現在存命中である。

第21位:母国から死刑宣告を受けた英雄「フランシスコ・ピサロ」

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スペインを代表するコンキスタドレス(征服者)。

南米を蹂躙しつくした虐殺者で、インカ帝国で大規模な虐殺を行った後にだまし討ちで皇帝を処刑し、住民を奴隷にして強制労働に従事させた。この際財宝を集めたら皇帝を解放しようと言ったピサロは実際に財宝が集まったのに皇帝を解放せずに約束を反故にして皇帝を処刑しているからかなり質が悪い。

そしてその支配は苛烈を極め、むち打ちや食事をとらせないことは当然のように行われ、女性は強姦しつくされ少しでも反抗すればすぐに殺したという。

そのあまりのひどさを宣教師ラス・カサスは『インディアスの破壊についての簡潔な報告』において以下のように述べている。

1531年、例の札付きの無法者(ピサロのこと)は部下たちを率いてペルーの王国へ向かった。・・・彼の眼中には神も人もなく、ただひたすら彼は村々を破壊し、そこに暮らしていた人びとを破滅させ、殺害した。その結果、引きつづいてそれらの地方で甚だしい悪行が繰り返されることになったが、それは明らかにどんなに言葉をつくし強調しても、言いつくすことができないほどのものである。

ラス・カサスの報告に見られるようにピサロのようなコンキスタドレスたちの行いは当時の価値観においても当たり前のことではなく下劣極まりないものだったと言える。

虐殺には人名を奪う生命へのジェノサイドと文化的なジェノサイドの2つがあるが、コンキスタドレスたちは両方の意味で虐殺を行ったと言えるだろう。実に悪質である。

なおピサロ自身はインカ皇帝アタワルパを無実の罪で処刑した罪で有罪となりスペイン王室から死刑を宣告され、最後は仲間であったアルマグロという人物によって殺されている。

もはや人外と言っても良いほど卑劣極まりないピサロであるが、スペインでは英雄として称えられており、2002年までスペインではピサロの顔が紙幣に使われていた。

英雄か虐殺者か、それを決めるのは己の立っている立場に過ぎないのかも知れない。

第20位:世界史に悪名を刻んだ征服者「エルナン・コルテス」

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アステカ帝国を滅亡させたピサロと並ぶコンキスタドール(征服者)。

ラス・カサスによればコルテスはチョルーラという町で自分たちを歓迎した3万人のネイティブアメリカン達をその場で悉く虐殺し別の町では「悲しき夜」と呼ばれる虐殺事件を起こし、ラス・カサスはその様を

「数限りないインディオが殺され、多くの偉大な領主が火あぶりにされ、驚くべき前代未聞の害が加えられた」

と記述している。

コルテスのやったことはほとんどピサロと同様で、それもそのはずそもそもピサロに対し虐殺の方法を教えたのもコルテスであったのだ。その際コルテスはピサロに「まず王を殺せ、そうすればインディオどもは抵抗しなくなる」と伝えたという。

そんなコルテスの晩年は非常に不遇で、本国に帰ったものの冷遇されその挽回のためにオスマン帝国との間に起きたプレヴェザの海戦に参加するもスレイマン大帝の命を受けた海賊提督バルバロス・ハイレッディンの前に手も足も出ずに敗北。最後は失意のまま死んでいった。

典型的な弱い奴らには強いが強い奴には弱い人間であると言える。

暴虐無比な行いをしたエルナン・コルテスだが、スペインでは英雄として崇め奉られ、ピサロ同様2002年まで紙幣にその顔が使われていた。

第19位:中華史上最大の英雄にして最大の暴君「洪武帝」

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明王朝は極端に名君が少ない王朝で、その大半は暗君と言ってよいのだが、世界史に残るレベルで暴君と言えるのはその創業者である朱元璋こと洪武帝ぐらいのものであろう。

世界を恐怖のどん底に突き落としたモンゴル帝国を中国から追い出し漢民族中心の明王朝を建てた中国の歴史的英雄朱元璋には2つの肖像画が遺されている。

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2枚目の方がよ圧倒的に本人に似ているらしい。

中国の歴史上、平民から成り上がり統一王朝を創始した人間は2人いるが、2人とも統一後には大規模な粛正を行っている。漢王朝の創始者劉邦も粛正を行ったが、その範囲は元々項羽の部下だった韓信や英布と言った人物たちに限られ、張良や蕭何など昔からの重臣は生き残ったのに対し、朱元璋は自分の血縁以外の功績者をほぼ殺害している。

 特に「胡藍の獄」と言われる大粛清においては30000人が犠牲になったと言われ、その次の「藍玉の獄」においても15000人から30000人が処刑されたという。

朱元璋はこのような大規模な粛正の他に小規模な粛正を数え切れないほど行っており、言論の自由などは認める訳もなく「光」「禿」「僧」と言った文字を使っただけ(朱元璋は昔僧侶だった)で処刑、空印事件では官僚たちを処刑、郭桓の案と呼ばれる事件でも数万人が処刑されたという。

明王朝は極端な中央集権体制がとられたことから誰も皇帝に意見をすることが出来ず、その暴走は死ぬまで終わらなかった。

朱元璋は中国史はもちろん世界史でもトップクラスの暴君であるが、中華文明が最も発展したのは明王朝であったともいえ、中華における長い戦乱の世を終わらせた偉大なる建国者という側面もある。

 それゆえに世界の歴史の中でも最も評価のしにくい人物と言え、始皇帝以上に簡単には名君・暴君のレッテルを張れない人物でもある。

 朱元璋が粛正した人間の数と、朱元璋がいない世界で続いた戦乱で死んだであろう数と、一体どちらが多かったのか。それは誰にも分らないことであろう。

第18位:偉大な発見者か?ただの殺戮者か?「クリストファー・コロンブス」

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最近ではクリストバル・コロンと呼ばれる。

かつてクリストファー・コロンブスは新大陸を発見した偉人であった。しかし現在では死ぬまでアメリカをインドと思っていた間抜け野郎か、中南米の文明を破壊した恐ろしき虐殺者というイメージの方が強くなっている。

コロンブスという人物の全ては彼の書き残した以下の言葉に集約されているだろう。

「彼らは武器を持たないばかりかそれを知らない。私が彼らに刀を見せたところ、無知な彼らは刃を触って怪我をした。 彼らは鉄を全く持っていない。彼らの槍は草の茎で作られている。彼らはいい身体つきをしており、見栄えもよく均整がとれている。彼らは素晴らしい奴隷になるだろう。50人の男達と共に、私は彼らすべてを征服し、思うままに何でもさせることができた。」

ある種アメリカ大陸における奴隷の問題や人種差別の問題などはここから始まったと言って良いだろう。

コロンブスは到着したエスパニョーラ島で窃盗、殺人、強姦、放火、拷問をひたすら行い半年ほどの間に5万人ほどの住民がそのせいで死んだという。大半はコロンブスたちが持ち込んだ天然痘によるものであったらしいが、その後も非武装の原住民の村々を襲っては窃盗、殺人、強姦、放火、拷問をひたすら行い、少なくとも数千人を殺戮し、その富を奪いつくし、ピサロやコルテスなど後のコンキスタドレスたちのモデルケースとなった。

かつてコロンブスの新大陸発見は大航海時代の幕開けとして称賛されていたが、近年では大航海時代という言葉さえあまり使われなくなった。あまりにも西欧中心の史観すぎるというのがその理由である。

歴史とは果たして誰のものなのであろうか?

コロンブスについて考える時、その問題についても考えざるを得なくなる。

第17位:堯天舜徳至聖至神を自称した宦官「魏忠賢

史上最悪の宦官の1人。

天才的なおべっか使いで次々と人の心をつかんでは出世して行き、皇帝の乳母だった客氏と共謀して皇帝を傀儡にしてしまうとその暴虐なる本性を爆発させた。

権力を握った後は東廠(とうしょう)と呼ばれる秘密警察を組織し、そのスパイ網の広さは都から1000km離れた場所で言った悪口を聞き漏らさなかった例もあるほどで、これを使って政敵を次々と処刑、その方法も残虐で中には生きたまま顔の皮をはがされたり目をえぐり取られた人もいたという。

あらかたライバルを処刑し終えると中国全土に自分を祀る祠を作らせ宮中でも馬に乗り、自分の意見には必ず「九千歳」と言わせたという。皇帝に対して「万歳」なら自分は九千という意味らしく、それを言わなければ逮捕、投獄、そして処刑が待っていた。

最終的には「堯天舜徳至聖至神」を自称するにいたる。これは3皇5帝にも数えられる堯や舜をも超え神の域に達した人物であるという意味らしい。侯景の宇宙大将軍と並ぶ非常に恥ずかしい称号である。

しかし悪事は続かないもので自身の傀儡となっていた天啓帝が死ぬと流罪となり、自ら命を絶ったという。それでも人々の怒りは相当なもので、遺体は磔にさえ、その首は市中に晒されたという。

魏忠賢による暴政により明は既に破綻しており、その死後20年と持たずに世界最大の王朝である明王朝は滅亡してしまうことになった。

良い点は何もなく、ただただ悪辣なだけの人物である。

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第16位:暴君を越えた暴君「オマル・アル=バシール」

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1989年から2019年4月まで実に30年間スーダンの大統領に君臨した独裁者。

ワシントンポストが毎年発表している世界最悪の独裁者ランキングにおいて2005年から2007年までの間3連覇という誰も成し遂げたことのない偉業を達成した(ちなみに2008年の1位は金正日)。

独裁者のお決まりと言ってもよい秘密警察の設置、議会の解散、報道の自由の規制、虐殺をフルコンプリートした挙句に国民へのイスラム教の強制及びテロリストであるビン・ラディンの隠匿を行うなどその存在はまさに暴君を越えた暴君とも言える。

 特にダルフール紛争に際して行った虐殺では7万人を超す人物が犠牲になったと言われ、後にダルフールの虐殺と言わるこの事件の余波で2万人を超す難民が生まれ出てしまった。

2009年にはオランダにあるハーグ国際司法裁判所が人道に対する罪、ジェノサイド罪で起訴するにいたる。ハーグ裁判所が現職の国家元首を起訴したのはこれが初めてであるが、2019年現在でも裁判自体は行われていない。

IMF(国際通貨基金)の調査によればスーダンは最貧国ランキングワースト30に入る国家であるのが(IMFによれば国民の年間平均所得は1000ドル前後)、オマルの個人資産は現金だけで100000000ドルを超えるという。

世界の歴史に生まれ出た人物の中でも、ここまでパーフェクトな暴君は中々いない。まさに暴君の中の暴君と言えるだろう。

唯一の救いは、この人物がクーデターにより失脚し刑務所に入れられたことであろうか。

第15位:偉大なる将軍一家「金正日親子」

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この一家に関してはもはや言うべきことない。東京からわずか1000kmぐらいの所で今も人々が独裁に怯えている国家があり、周辺諸国はそれを見て見ぬふりをしているという現実があるだけだ。

一応は存在している朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法によれば金一族は「永遠の首席」であり未来永劫北朝鮮のトップに立ち続けるという。

秘密警察、不当逮捕、粛正、虐殺、言論の自由への弾圧、他国への武力的脅迫、重税、援助金の私的流用と現代型独裁者の見本市のような一族で、第二次世界大戦および冷戦の亡霊と言え、日本、ソ連、アメリカ、中国などがこの一族を作り出してしまった面は大きい。

 ある脱北者によれば、抗日の英雄である金日成の時代には民衆は飢えておらず、本格的に恐怖政治が行われるようになったのは息子の金正日の時代からであるという。つまりは恐るべきことだが代を経るごとにこの一族は凶悪化しているということである。そしてこの国家の内側にはその対抗組織が何一つなく、このままいけばこの支配体制は続くであろうということである。

 福岡から北朝鮮の首都ピョンヤンまでは約700km、福岡から札幌までは1400km。最初に述べた通り、これは決して遠い世界の地獄ではない。

第14位:疑惑の虐殺王「張献忠(チョウケンチュウ)

 蜀碧という本によれば、明末の混乱に乗じて蜀(現在の四川省)に入った張献忠は部下に対し人狩りを命じ、そのノルマを一人一日100人とした。そしてそれを達成した者は昇進させるという方式を採用した結果、兵士たちは嬉々として人狩りを敢行し、中には一兵卒から将校になった者もいたという。仮に張献忠に対し降伏したとして命は助からず、蜀にいた官僚たちを一列に並べて、犬が匂いを嗅いだ者から順に処刑をしていったという。

兵士は皆ノルマを達成するのに必死で、中には自分の家族を手にかける者もおり、やがて殺戮する対象がいなくなると今度は兵士同士を殺させ愛、あらかた住民を始末し終えた張献忠は「もう誰も殺す者はおらんのか?」と怒りはじめ、側近とその家族を殺害し、それさえいなくなると自分の妻や息子を殺害してしまったという。

しかし張献忠はそのことを忘れてしまったのか次の日に妻を呼ぶも出てこず、側近が「昨日殺害なさいました」というと「なぜわたしを止めなかったのだ!」と言って今度はその側近の殺害してしまう。人がいなくとなる最後には牛や馬などを殺して回ったという。

張献忠はある意味最後まで明王朝の側で戦った人間であるため、女真族国家である清王朝から事実をねつ造され悪く書かれた可能性はある。

しかしスペイン人宣教師マガリャンイス(張献忠のもとで布教活動を行った人物でなぜ生き延びたのかは不明)の遺した記録にも「まわりを囲むように流れていた河は朱く染められ、あたかも水ではなく血のようであった。」という記載があり、蜀碧はシェイクスピアなみに演出されてはいたが張献忠が蜀で大虐殺を行ったのは確かなようである。

それがどれくらいの規模であったかは史料によって異なるが、40万戸あった成都は20戸まで減った、300万人ほどの人口が8万人まで減った、600万人いた蜀の人口は2万人ほどまでに減ったといずれもとんでもない人数が蜀からいなくなったことを示す史料もあり、虐殺もしくは虐殺を恐れて蜀からは大量に人がいなくなったのは確かであろう。

その殺害方法も残酷でとてもここには書けないレベルであり、蜀碧の記載内容が正しいとすれば張献忠は人類最悪レベルの虐殺者であったと言えるだろう。

とはいえ個人的には張献忠は虐殺を行う理由が乏しく、清王朝が自らの正当性を主張するために事実をねつ造した可能性は捨てきれない。なにせ蜀碧については蜀の人口よりも張献忠が虐殺した人の方が多いというでたらめぶりで、あまり信憑性の高い記録とは言えないし、張献忠が虐殺を行う理由が乏しいのに対し清の側が張献忠を暴君とする理由は豊富である。なので蜀の虐殺は清が行ったのではないかという説も存在しており(そのような史料も存在している)、個人的にもそちらの方が納得がいく。

いつか科学技術が発展し、その謎が解ける時代がやってくるのだろうか。

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第13位:中米史上最悪の独裁者「ソモサ」

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選挙で選ばれるためか、アメリカ歴代大統領には驚くほど暴君が少ない。しかしその一方でアメリカは国外では多数の暴君を作っている。中米ニカラグアに存在したソモサという名の独裁者もそんな人物の1人であり、その中でも最悪の人物の1人である。

アメリカ大陸のことはアメリカで決めると言ったモンロー宣言以来、アメリカ合衆国はアメリカ大陸のことは自分で決めるというアメリカナイゼーションを至上の命題として掲げ、中米および南米の政治に介入し続けている。

中米ニカラグアに対しても勿論そうであったのだが、サンディーノという反米派の人物の抵抗にアメリカは手を焼いていた。時は第一次大戦と二次大戦の間にあたる戦間期、アメリカ発の世界恐慌などが起きていたものだからさすがのアメリカも他国に介入することは難しくなっていた。でもアメリカ大陸にある国家のことは全て親米派で埋め尽くしたい。そこで白羽の矢が立てられたのがアナスタシオ・ソモサ・ガルシアであった。

米軍は1933年にニカラグアから撤退するのだが、ソモサに対しサンディーノの暗殺を提案したと言われていて、実際にソモサはサンディーノを暗殺するとその家族はもちろんサンディーノ派の人間をその一族郎党にいたるまで皆殺しにし始めた。

その後は手下の秘密警察「青シャツ隊」を使って武力的に議会を停止すると自分とその腹心だけを候補者とした茶番的な大統領選挙を行い当選、それを知ったフランクリン・ルーズベルトは責めるどころか「ソモサは我々の子供だ」などと肯定的な発言している。この人物がもう少し長生きしていたらランクインしていたのはルーズベルトになっていたことだろう。

そんなアメリカの武力をバックにソモサはやりたい放題で、独裁政権のお決まりのように青シャツ隊を強化、日本という極東の国がアメリカ様に宣戦布告した際には悪の枢軸日本に対し宣戦布告、見事に忠犬としての役割を果たしアメリカから100万ドルの支援を受けることに成功した。もちろんその金は国庫には入れずにしっかり私腹を肥やす。さらにはニカラグアにいたドイツ人たちの資産も没収したためソモサはニカラグア1の大富豪となり、その資産は二次大戦終了後には1億2000万ドルにも達したという。ちなみにニカラグアの平均所得は年370ドルほどであったというからその格差ぶりは凄まじい。

しかし悪事は続かないもので、1950年には銃弾を撃ち込まれ死亡、これでソモサ政権も終わりかと思われたが、今度はアナスタシオの息子のルイス・ソモサが大統領に就任、ソモサ政権はそのまま存続した。

とはいえルイスは父親ほど強権的な人間ではなく、自らは大統領選に出馬せずに別の人物を大統領にしニカラグアには多少の民主化が図られるようになる。

そんな中ルイスは1967年に心臓麻痺で死んでしまい、これにてソモサの政権は終わりかと思われたが、実はこの項目ここからが本番である。

実に長い前置きになってしまったが、本当に暴君なのはルイスの弟で父親と全く同じ名前のアナスタシオ・ソモサ・デバイレである。

彼は中米のアミンと呼ばれた人物で、多少民主的だった兄とは違いバリバリの独裁者、父同様のインチキ選挙で大統領になると反ソモサ派を徹底的に弾圧、兄のこともデバイレが暗殺したという見方が強い。何度か書いているように、もはやここまで来ると本当に実行犯であったかどうかは関係ない。デバイレならそれをやりそうだということが重要なのだ。

デバイレが大統領になると6万人規模のデモが起こるが、軍部を手中に収めているデバイレはこれを一蹴、銃火器で武装させた兵士たちに国中の反ソモサ勢力を皆殺しにさせた。

そして暴君らしく議会の解散と憲法の停止を行い、軍部の要職などにソモサ一族を配置、そんな時にニカラグアで大地震が起きて2万人が犠牲になってしまうのだけれど、ニカラグアの軍隊は復興支援をするどころか火事場泥棒を繰り返す有様で、各国から集まった義援金もデバイレが懐に入れてしまう。

そんなやりたい放題のデバイレだったが、アメリカで人権外交を掲げるジミー・カーターが大統領になると風向きが変わる。そりゃそうだ、人権の欠片もないんだもの。

ニカラグア各地で反ソモサの声が上がり、ペドロ・ホアキン・チャモロが自社運営のマスコミを通じてソモサ一族の悪事を暴露、その内容はデバイレの息子ポルトカレーリョが兵士から募った献血をアメリカに売りさばいていたというもので、さらに趣味が赤子殺しであるということも暴露されていた。それにしてもこの一族は大を経るごとに凶悪さが増していくなぁ…

秘密を暴露されて怒ったポルトカレーリョはチャモロを殺害、これが引き金となってニカラグア中で反ソモサ運動が活発化する。

反対派の勢力が強まるとソモサ一族はもより一層弾圧の勢いを強め、時には虐殺しながら事態の鎮静化に乗り出したが反体制派の勢いを止められず次第に追い詰められていく。そして見境がなくなったデバイレは国内を爆撃するという飛んでもない行動に出て、4万人を超す死者を出してしまう。

これはもはや自爆というにふさわしく、結局共産主義を標榜するサンディニスタ解放戦線によって政権は奪取され、ソモサ一族はアメリカに逃亡、結局アメリカの一番恐れていたようにアメリカ大陸にまた一つ共産主義の国ができてしまうのであった。

かなり長く書いてしまったが、誰か1人が暴君なのではなく一族が大概暴君でしかも代を経るごとにひどくなっていくため一族でランクインさせた。本来ならソモサ一族の独裁は続かなかったはずだが、アメリカという権力維持装置により政体の循環が行われず泥沼化してしまった代表的な例であろう。

 

第12位:史上最悪の宦官「趙高」

史上最悪の宦官。中国4000年の歴史の中でもけた違いの悪党。

長きに渡る春秋戦国時代は始皇帝により終わりを迎えたが、その天下はわずか15年、始皇帝が死んでからはわずか4年しか続かなかった。その理由は趙高がメチャクチャやりすぎたからである。

始皇帝が死ぬと宦官であった趙高は秦の丞相であった李斯と共謀してその死を伏せ、まずは匈奴征伐に赴いていた太子扶蘇に対して始皇帝の名で死刑を言い渡す。扶蘇の傍らにいた蒙恬将軍はそれを偽ものだと見抜いていたが、厳格な法の執行者であった扶蘇はこれを受け入れて自ら命を絶った(蒙恬も後に処刑命令が出て自殺)。扶蘇は始皇帝の焚書坑儒を諫めるなどこの時代にしては奇跡的にまともな人物で、もし扶蘇が秦の二代目皇帝になっていれば中国の歴史は大きく変わったであろうと思われる。

しかしそれは趙高にとっては大変都合が悪かった。趙高が求めていたのは自分の言ったことをまるで疑わずに好き勝手に操れる人形のような皇帝だったのだ。扶蘇の弟胡亥はその点を完璧に満たしていた。

ある日胡亥は鹿を指して「あれは何という生き物じゃ?」と問うた。趙高は「あれは馬という生き物でございます」とウソを教えたが、趙高を恐れた臣下たちは誰もそれに逆らえなかったという。ご存知「馬鹿」の語源である。ちなみにこの時鹿を鹿と言った人物もいたが、当然のように趙高によって処刑されてしまった。

なお余談だが「阿保」の語源は始皇帝が民を強制労働させた作った阿房宮が作ってすぐに燃えて無駄になったからだという。馬鹿も阿保もこの時代の故事だったわけだ。

趙高を始め宦官が力を握ってしまう理由は以下の記事に書いたのでよかったら見て欲しいが、宰相の李斯ですら胡亥に何かを伝える際には趙高を通す必要があった。

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そのため趙高は自己に都合の悪いことは全て握りつぶし、大本営発表よろしく皇帝には嘘ばかり伝えていた。

その一方で宮中や国中にスパイを大量に放ち少しでも怪しい動きがあれば即座に処刑させ、秦の王族や有力な諸侯、蒙恬を始めとした優秀な将軍達を悉く誅殺してしまった。その範囲には例外がなく、趙高と組んで悪政を推進した宰相の李斯でさえもついには処刑してしまう。

中央政府がそんな有様であったことや始皇帝の時代から苛烈な政治が続いたことも加わって陳勝呉広の乱を始めとした反乱が各地で勃発するも趙高はそのことを皇帝の耳には入れず、秦の大将軍であった章邯が項羽に敗れた際にも援軍を送らずこれを罰しようとしたため秦軍20万人は項羽に降伏するしかなかった(先述したように項羽はこれを虐殺する)。

往生際の悪い趙高は項羽率いる楚の軍団が迫るのを見てもはや隠し切れないと思い胡亥に全ての罪をなすりつけて暗殺し子嬰を皇帝に据えようとするが、趙高を憎む子嬰は一族もろとも趙高を惨殺したのであった。

 これにより秦は滅び項羽と劉邦の時代に突入する訳だが、中国の歴史長しと言えどもここまで擁護の出来ない人物も珍しい。

第11位:黒いヒトラーと呼ばれた男「イディ・アミン

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「アフリカで最も血にまみれた男」と呼ばれたウガンダの独裁者。身長は190cmを越え、ボクシングヘビー級の東アフリカチャンピオンに輝いたこともある。

 「International observers」および「人権団体」によればアミンは少数民族や知識人を中心に10万人から50万人もの人々を虐殺したとされ、彼の部屋の棚には政敵の首が飾ってあったという。

 アミンの虐殺の対象になったのは人類だけではなく、彼の治世下のウガンダにおいてはゾウの75%サイの98%ワニの80%ライオンとヒョウの80%が命を失ったといい、主にインド系住民を対象にアジア人追放を法制化し、その結果5000を超す企業がウガンダから撤退することになった。そのためウガンダの産業は壊滅、ウガンダの平均賃金は90%ほど減少したという。

 その後内政の失敗を挽回すべく隣国のタンザニアに侵攻するも敗北、最後はクーデターによりサウジアラビアに亡命してその生涯を終えた。

ちなみにこんな男だが菜食主義者で肉は少量の鶏肉以外食さなかったという。

第10位:イルハン朝の創始者「フレグ」

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世界で最も繁栄していた都市が完全なる荒野になってしまう。現代で言えばニューヨークが地図から消え去るようなことが、世界史では実際に起こった。

8世紀から13世紀の間、世界で最も人口が多く最も繁栄していた都市はメソポタミアにあるバグダードの街であった。当時ロンドンの人口が数万人規模であった頃、バグダードには150万を超える人々が住んでいたが、チンギスハーンの孫にしてフビライハーンの弟でもあるフレグによって住民は虐殺され街は文字通りの灰となった。

同時代の歴史家ワッサーフによれば虐殺の規模は数十万人であったとし、その様子を以下のように記述している。

「モンゴル軍は鳩の飛行を攻撃する飢えたハヤブサのように都市を貫き、荒れ狂う狼が羊を襲うように市民を襲った。黄金づくりの宝石で覆われたベッドやクッションはナイフで破壊され、断片さえも粉砕された。ハーレムのベールに隠れる者は路地に引きずられ、陵辱された。殺戮によって市民は死に絶えた」

  イスラームの精神的支柱であったアッバース朝のカリフも殺害され、当時のバグダードにあったという人類の叡智を収めた数十万もの書物は燃やされ、あるいは河に捨てられてしまい、当時世界で最も優れていたイスラームの叡智の多くが抹消されてしまった。その損失をある歴史家はこう語る。

「想像してみて欲しい、ペリクレスとアリストテレスのいるアテネが核兵器によって消滅してしまう様を。それと同じことが起こったのだ」

第9位:世界史上最強の帝王「チンギス・ハーン」

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 基本的にこの記事に対してついたコメントは読んでいるし、よほど酷くない限り肯定的なものも批判的なものにも星4つつけることにしているのだが、前回の記事に対しての「チンギスハンを悪人とは呼ばないのにこの人たちを悪女と呼ぶのは男女差別以外の何ものでもない」というコメントには思わず首をかしげてしまった。

チンギス・ハーンが悪人と呼ばれない?

日本ではそうでもないが、チンギス・ハーンは世界中で「恐怖の象徴」として恐れられており、有名な「ジンギスカン」の歌などはチンギス・ハーンの恐ろしさについて歌った歌である。

 *チンギス・ハーンことテムジンの呼び方については成吉思汗、ジンギスカン、チンギス・カンなど色々あるが、当サイトではチンギス・ハーンの表記をさせてもらいます(なお本名はテムジン)。

特にロシアではモンゴル軍支配時期を「タタールのくびき」として暗黒時代としてとらえておりイスラム世界でもその一族であるフレグが大規模な文明破壊をしたため恐怖の破壊者として恐れられていた。

なにせチンギス・ハーンの率いたモンゴル帝国の破壊力たるやすさまじく、その死後も含めると西はポーランドから東は朝鮮まで空前絶後の大帝国を創り上げ、基本的にその支配下の文化は尊重されず中にはバグダードのように都市ごと消滅した例もある。

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 モンゴル帝国には農耕民族的な統治の概念はなく、また食料確保の方法が基本的には略奪であったため、占領した都市では基本的に略奪が行われ、男たちは兵士として駆り出された。

モンゴル軍といいつつ戦ったのは現地で徴用された人間達で、彼らの後ろではモンゴル族が自分たちに対して弓を構えており、さらに家族を人質にされていたために戦って勝つ以外の選択肢はなかったのである。勝っても別に解放される訳ではないのであるが。

アレクサンダー大王もそうであったが降伏した場合は何もしないが降伏せずに抵抗した場合はその都市の人間は見せしめのために皆殺しにされた。時には籠城した街に死体を次々と投げ込ませ疫病をはやらせたなど勝つためには手段を選ばず、世界中でモンゴル帝国に対抗できる戦力はほとんどなかった。中には文明ごと消滅した例もあり、その犠牲者数は測定不能の域に達している。

占領地の王族の女性などは基本的にチンギス・ハーンの妃となり、その数は数千にのぼったという。ケンブリッジ大学の研究では全世界中で現在3200万人がチンギス・ハーンの血を引いている可能性が高いという。

チンギス・ハーンにはかなり残酷なところがあり、以下のようなエピソードが現代まで伝わっている。

ある日チンギス・ハーンが部下のボオルチュに対し最大の悦楽とは何か尋ねた。ボオルチュは馬に乗って素晴らしい景色を見ることだと答えたのに対しチンギス・ハーンは「男たる者の最大の快楽は敵を撃滅し、これをまっしぐらに駆逐し、その所有する財物を奪い、その親しい人々が嘆き悲しむのを眺め、その馬に跨り、その敵の妻と娘を犯すことにある」と答えたという。

悪逆非道な暴君そのものだが、チンギス・ハーンは同胞であるモンゴル民族のことは優遇しており、自国民を虐殺することなどは敵対した人間以外にはしなかった。そのため恐ろしき侵略者ではあるが暴君かと言われると非常に難しい面がある。これはこのランキング全体に言えることであるが、自国民、あるいは自民族に対する虐殺と他民族に対する虐殺を分けて考えるかどうかは非常に難しい問題と言え、そう言ったことを勘案した結果この順位となった。

チンギス・ハーンもティムール同様暴君というよりも虐殺を行った悪漢という評価でランクインさせた。

なお虐殺総数で言えばチンギス・ハーンよりもその子孫達の方が多いが、特にすさまじかったフレグ以外はこの項目に含めたいと思う。

第8位:文化的ジェノサイダー「テオドシウス1世

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キリスト教をローマの国教としたテオドシウス1世はキリスト教史観において「テオドシウス大帝」と呼ばれ称賛され続けた。一方ディオクレティアヌス帝は最悪の悪魔的暴君として1000年以上にもわたって非難され続けた。

当サイトの評価はそれと真逆で、ディオクレティアヌス帝こそ最後にローマを復活させた英君であり、テオドシウス帝こそローマを滅亡させた暴君であると断ずる。

先述したように虐殺には2つある。1つは人命を奪う虐殺。もう1つは文化的な虐殺である。テオドシウス帝はローマ皇帝として過去に例のないレベルで文化的なジェノサイドを行った。

日本で最も有名なローマの専門家塩野七生氏は、一神教と多神教の違いについて「神が複数いるかどうかではなく、他の神を認めるか否かに違いがある」と述べているが、キリスト教を国教化したテオドシウス帝は唯一神YHVH(ヤーヴェ)以外の神を決して認めなかった。

日本の八百万の神よろしくローマにも元々30万もの神々がいたと言われ、歴代皇帝はその死後神格化されてその仲間入りを果たしていた。ハドリアヌスのように神格化しないと元老院が決めたケースもあったが、次代のアントニヌス・ピウスの尽力によって神格化されており、皇帝が死後神格化されないというのは当時最大の不名誉であったのだ。

しかしテオドシウスは歴代皇帝達の像を悉く破壊した。ユピテル(ゼウス)やミネルヴァなどローマの神々の像も徹底的に破壊された。そのテオドシウス帝は際ユピテルに対して裁判を行い有罪判決を下したというから徹底している。その暴挙に反対した人物は悉く処刑された。石像を破壊しなかった者も処刑された。もう誰も、ローマの神々を祀る者はいなかった。ローマは、死んでしまったのだ。

歴史上、ここまで自国の文化を破壊した人物もいない。

ローマは一体いつ滅んだのか?

教科書的に言えばオドアケルがロムルス・アウグストゥスに退位を迫った476年、あるいはオスマン帝国のメフメト2世がコンスタンティノープルを陥落させた1453年、またはナポレオンが神聖ローマ帝国を解体した1806年、別の見解ではロシアロマノフ朝が滅んだ1914年、あるいはローマとは元老院であり民主主義そのものなので今も滅んでいないという見解もあるが、当サイト的にはテオドシウス帝が文化的ジェノサイドを行った392年にローマは滅んだと思っている。

この点について語るとさらに数千文字必要になってしまうので別記事に回すが、キリスト教を国教化したテオドシウス帝は神の操り人形となり伝統的なローマの文化を徹底的に破壊しつくしてしまった。中にはアレキサンドリアのヒュパティアのようにキリスト教徒でないというだけの理由で生きたまま貝の殻でその肉をそぎ落とされるという残虐な事件も起きている。

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ちなみにテオドシウス帝は文化的なジェノサイドだけではなくテッサロニキという土地で裁判なしの虐殺も行っており、その数は7000を超え、記録によればまるで麦の穂のように次々と首が斬られていったという。

 彼の死後ローマは東と西に分かれ、東はアルカディウス、西はホノリウスという2人の息子が継いだ。

 このことによって西洋はギリシャ、ローマ時代の文化を失い暗黒時代と呼ばれる長い長い中世に突入するのであった。

第7位:忠実なる実行者「アドルフ・アイヒマンとナチスの高官たち

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本来1つの項目につき1人が鉄則だが、その鉄則に厳密に従うとナチス関連でランキングが埋め尽くされるためにひとまとめにした。

どの角度から見てもアドルフ・ヒトラーという男はイカレていて、特にユダヤ人に対する感情などは完全なる妄言で本来誰も相手にしなかったはずなのだが、それが実行されてしまったのは官僚的な高官たちが高い職務遂行能力でその妄想を実現させたからである。

金髪の野獣と言われたラインハルト・ハイドリヒ、国民を洗脳するようなプロパガンダの使い手ヨーゼフ・ゲッベルス、イェッケルン方式(あるいは缶詰イワシ方式)と呼ばれる処刑法を確立したフリードリヒ・イェッケルン、ベラルーシの虐殺王オスカル・ディルレヴァンガー、親衛隊の最高指導者ハインリヒ・ヒムラーなど1人1人がこのランキング上位に入るほどの破壊力をもった人物たちである。

この人物たちは忌まわしきユダヤ人虐殺を敢行しその犠牲者は600万人以上に及ぶ。彼らがどのような恐ろしいことをしたかはV・E・フランクリンの書いた「夜と霧」に詳しい。読むと2日ぐらいは立ち直れないが人類が最も後世に残すべき傑作である。

戦後ナチスの高官たちはニュルンベルク裁判にかけられほとんどが死刑となり、南米に逃げた高官たちもイスラエルの諜報機関モサドによって確保されて死刑となった。

死刑になる前、その中心人物とも言えるアイヒマンは以下の言葉を遺している。

「私の罪は従順だったことだ」

アイヒマンはまるで機械のように如何に効率的にユダヤ人を虐殺するかだけを考えていたという。そこに感情はなく、善悪の判断が入り込む余地もなく、ただひたすらに命令に従って最大限の効果を出せるようにしていたのだという。

恐ろしいのはこれが言い逃れでもなんでもなく本気でそう思って実行していたであろうことだ。まるで意思なき人形のように彼らは何百万人もの人を殺害し続けたのである。

「戦争中には、たった1つしか責任は問わない。命令に従う責任だ。もし命令に背けば軍法会議にかける。そういう中で命令に従う以外には何もできなかったし、自らの誓いによっても縛られていたのだ」

これだけのことをしたのに、アイヒマンには罪の意識はなかった。

それは以下の言葉に集約されている。

「人1人の死は悲しいことだが100万人の死は統計に過ぎない」

この言葉は、この記事に最も刺さる言葉である。

この記事を書いている間、私の頭からは常にこの言葉が離れない。

1人の殺人の生々しい描写は怒りや不快感をもたらすが「3万人を虐殺した」という文章はまさに統計的な何かにしか見えない。まるで昨日は100mlの雨が降りましたとでもいうような。

第6位:共産主義革命の実現者「毛沢東」

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今回最も順位に悩んだ人物。

統計によっても大きく異なるが、毛沢東が推進した「大躍進運動」によって2000万人から5000万人におよぶ餓死者が出てしまったという。

これは現実を無視した無理な改革が招いた結果で、農作物を食べる雀を駆除しつくした(その数約11億羽にのぼるという)ことからイナゴなどの害虫が発生し稲などが食い尽くされてしまったことから中国全土で食糧が足りなくなったことが原因であり、これは毛沢東が知識人階級を徹底的に粛正したことで正しい知識を持った人物が意見を言えるような状態になかったことから起きた人災であるという。

流石の毛沢東も一連の責任を取って国家主席を辞任したのだが、恐ろしいほどの権力欲の持ち主である毛沢東は、自身の権力を取り戻すために「文化大革命」を引き起こす。

これによって儒教を徹底的に批判、弾圧し、始皇帝の焚書坑儒にも似た大規模な言論統制を行った結果、現在でも文化大革命がどのようなものであったかという点についてはよく分かっていないことが多い。そのためその被害者の数も人によって統計によってかなりバラツキがあり、共産党によれば文化大革命による死者は40万人ほどとされているが、西側諸国ではその数を数十万から数百万単位であるとみている。

文化大革命の過程で妻の江青を始めとした4人組の暴挙も続き、それは毛沢東が死ぬ1976年まで続いた。

その犠牲者数で言えば人類史上最大であるのだが、毛沢東に関しては意図的に人々を殺害をしたわけではなく、失政の結果死者が出てしまったという点はどうしても考慮しなければならない。

先ほど現代刑法における「故意」について書いたが、毛沢東に関して言えば故意はなかったと言って良く、その辺りは他の虐殺者たちとは異なる点である。とはいえ規模が他の虐殺者たちと比べてもけた違いなので、総合的に考えた結果この順位になった。

この順位を高いとみるか低いとみるか…

第5位:忌まわしき民族浄化の実行者「スロボダン・ミロシェビッチ

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世の中にはイカレタ人間が山のようにいる。酔って女を殴る男、万引きが辞められない主婦、サイコパスな大量殺人犯。犯罪や悪事にはあらゆる類型があり、困ったことにそういう人間は度々出現してしまう。しかしその一方で地球上から特定の民族を完全に消しさろうと考えそれを実行した人間となると人類の長い歴史にさえもほとんどいない。そりゃそうだ、そんなこと普通は考えない。仮に考えたとしても実行はしない。

しかしユーゴスラヴィアの第三代大統領スロボダン・ミロシェビッチは本気で敵対する民族をこの世から消し去ろうと「エスニック・クレンジング(民族浄化)」と呼ばれるおぞましき政策を実行した。

ユーゴスラヴィアは元々複数の民族が入り組んだ国となっており「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家」がチトーという独裁者の力でなんとかまとまっていたのだが、チトーが死ぬとお互いの民族は殺し合いを始めるようになってしまった。

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セルビア人であったミロシェヴィッチはセルビア第一主義を掲げて他の民族を弾圧し続け、ユーゴスラヴィア内戦、ボスニア内戦、コソヴォ問題などを通じてクロアチア人やムスリム教徒などへの虐殺を繰り返した。

そのやり方は凄惨を極め、のちにオランダハーグにある国際司法裁判所で行われた裁判では以下のような証言が出ている。

「私は当時25歳。12歳の少女と一緒にアパートに監禁され、15人のセルビア人兵士に毎日レイプされた。部屋には『白鳥の湖』の曲がかかっていた」

「町中が銃撃され、住民は集合を命じられた。行った途端、目の前にいた男がのどを切って殺された」

 引用元:産経ニュース

セルビア第一主義を掲げるミロシェヴィッチは他の民族にセルビア人の血を入れることで「民族浄化」をしようと本気で考え実行していたのである。大規模な虐殺も幾度となく敢行しており、中でも「スレブレニツァの虐殺」においてはわずか10日間でムスリム教徒が少なくとも8000人以上は虐殺された。虐殺後に隠蔽工作が図られ遺体の多くは地中に埋められており、犠牲者の数はもっと多いというのが通説である。

その虐殺の仕方も残忍極まりなく、泣き叫ぶ母の目の前で子供を惨殺し、殺害した子供の内臓を抉り出しその祖父に食べることを強要するなど地獄の悪魔ですら行おうとしないことを平然と行って見せたのである。

2006年、ミロシェビッチはニュルンベルク裁判後初となる「人道に対する罪」で起訴され、その裁判中に死んだ。ちなみにミロシェビッチ本人は最後まで犯行を否認していたという。

悪意ある殺人よりも恐ろしいのは自分が正しいと信じて行う虐殺である。

民族主義、共産主義、そういった大義名分の下ミロシェビッチは残忍な大量虐殺を行った。おそらく彼は、死ぬまで自分のしたことを悪いことだとは思わなかったことだろう。

そうでなければ、このようなことは出来ない。

ミロシェビッチは政敵の暗殺、国費の私的流用、不正選挙なども平然とやってのけたが、民族浄化の悍ましさの前には全てが霞んで見えてしまうから恐ろしい。

まさに人間の悪意は底知れない。

第4位:紅き血の共産主義者「ポル・ポト

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歴史上最も人を殺したのはカール・マルクスであるという言説がある。

共産主義者たちと、またその反対者たちが起こした虐殺事件は数えきれないほどあり、主義の違いから多くの人がお互いに殺しあった。

カール・マルクス自体は人々が平等に暮らせる社会を願っただけなのだが、それを実践した者の多くが暴君、独裁者となって人々を苦しめる結果になってしまった。

中でもカンボジアに存在したポル・ポトはけた違いの結果をもたらした暴君である。

歴史を紐解いて見れば、持つものと持たざる者は常に争いをしている。持つ者は特権階級的地位を維持しようと持たざる者を排除し、持たざる者はそこにどうにか食い込もうとする。マルクス主義者の中には持つ者を排除すればそのような階級闘争は無くなると信じる者が存在した。ポル・ポトがそうである。

1975年、カンボジア共産党の指導者ポル・ポトは内戦により権力を掌握すると国内にいる資本家、知識人階級を一掃し、農業主体の共同社会を建設し、通貨を廃止、学校教育の否定などを主張すると極端な原始共産制を強行した。

彼の理想の実行方法は、無垢な少年兵を洗脳し武装化させ大人たちを強制収容所に送還し殺させるというもので、資本家、知識人のレッテルが貼られれば誰であっても殺害された。中には眼鏡をかけているというだけの理由で殺害された者もいるらしい。

フランス革命などもそうであるが、こうした流れは一度始まると止まることを知らない。ポル・ポトは自身が暗殺されかけたこともあり猜疑心の塊となり、その恐怖政治的政権下のカンボジアでは文字通りの血の雨が降るようになった。

その虐殺数は100万から200万人に及ぶとも言われており、その内容は以下のように残虐そのものであった。

高校の校舎を改造したこの刑務所には、記録が残っている二年八ヶ月間だけで約二万人が投獄され、電気ショック、ムチ打ち、水責め、宙づり、生づめはがしなどの拷問を受けた。女性の場合は全裸でベッドに縛り付けたうえ、真っ赤に焼いたペンチで乳首をつまんだり、毒サソリを体にはわせるといった性的な拷問も加えられた

引用元:冨山泰『カンボジア戦記』 中公新書

その治世下ではあらゆる自由が否定され、言論の自由も経済活動の自由も結婚の自由もおおよそ自由と呼ばれる権利はなにもなく、幼き子供は親元から離され洗脳教育を施され、それはベトナム軍が侵攻するまで続いた。

そしてベトナム軍がカンボジアに入った時に見たものは、数え切れないほどの白骨の山であったという。

第3位:ヨーロッパ最悪の宗主「レオポルド2世

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先ほども出てきたコンゴの独裁者モブツには、自身が暴君であるという自覚はあったようだ。そしてそんなモブツはある時こう言った。

「俺なんかレオポルド2世に比べたら全然マシだ!」

モブツがレオポルド2世よりマシかはさておいて、ベルギー2代目国王レオポルド2世が行った所業は世界史上でも特筆に値するほど酷いものである。

ベルギーはご存知の通りオランダから独立した国で、国王レオポルド2世はオランダがインドネシアに広大な植民地を持っているのに対抗してなんとか植民地を確保できないか躍起になっていた。そこで彼はアメリカ人探検家であるスタンリーを雇って暗黒大陸と言われたアフリカ大陸を探検させるのだが、これが悲劇の始まりだった。

レオポルド2世はさっそくコンゴの地を植民地化しようとするのだが、国民と議会の反対にあってしまってうまくいかない。そこで王はコンゴ国際協会という謎の組織を作って事実上コンゴを私有地とすることした。

イギリスとフランスはこれに抗議したのだが、自らもアフリカに進出したいビスマルクの仲介もあってベルリン会議においてレオポルド2世によるコンゴの領有が認められるようになる。人の国を一体何だと思っているんだ!という話であるが、レオポルド2世もそう言った批判をかわすために見かけはコンゴ自由国として独立国家の体裁を整えていた。

さて、ここからは閲覧注意である

コンゴでは天然ゴムや象牙がよく取れた。当時天然ゴムの需要は高まっておりレオポルド2世はコンゴでの生産量を飛躍的に高めることに成功し、1883年には年間250トンほどであった生産量が1903年には6000トンほどにもなっている。

それほど生産量が高まった背景にはレオポルド2世によって推進された現地人の強制労働があり、厳しいノルマのもと、もしノルマが達成できなければ片腕を切り落とすというとんでもない罰則があった。

レオポルド2世の統治は過酷を極め、当初2000万人ほどいたコンゴの人口は900万人まで激減してしまうほどであった。

このような行為はレオポルド2世の私設軍隊である公安軍によって行われ、抵抗すれば拷問を加えられた挙句に死刑となる。

このような残虐な圧制は国際世論を通じて広く知られるようになり、「金ぴかの時代」や「トムソーヤの冒険」で有名なアメリカのマークトウェインが「レオポルド王の独白」と題された小説を発表するなど内外から批判が続出した。

ベルギー議会はその動きを受けてレオポルド2世からコンゴの領有権をはく奪し、レオポルド2世はその残虐行為により国民や家族から蔑まれるようになり、最後は寂しく死んでいったという。彼の葬儀では国中からブーイングが起きたといい、中にはその棺に唾を吐きかけるものもいたという。

レオポルド2世がベルギー国民になにか圧制を行ったということはないが、白人以外には何をしても良いという意識が前面に出しており、その悪質度は高く、その実態は人類の歴史上最悪クラスの虐殺者であると言ってよいだろう。

第2位:独裁者の父「スターリン」

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スターリンの恐ろしさを示す2枚の写真がある。

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おわかりいただけるだろうか。1枚目と2枚目の写真は実は同じ写真で、2枚目からは共産党幹部であったエジョフと言われる人物が完全に抹消されている。

スターリンが秘密警察を使って反対派を粛正し続けたことはあまりにも有名な事実だが、他の独裁者よりも遥かに恐ろしいのはこのように念入りにその痕跡を消してしまったことにある。そのため現在に至るまでその粛正の犠牲になった人数は不明で、その数は100万人単位とするものから1000万人単位であるとするものまで様々である(公式にはその犠牲者数は786,098人となっているが間違いなくもっと多い)。

スターリンがどのように権力を握ったかはジョージ・オーウェルの傑作「動物農場」を読むとよく分かり、スターリンが何をしたかはソルジェニーツェンの「イワンデニーソヴィチ」の1日を読むとよく分かる。

秘密警察の運用、不当な逮捕投獄処刑、プロパガンダの活用、言論の統制など20世紀型独裁者の類型を生み出した人物でもあり、スターリンのやり方は兎に角人を恐怖で縛り、監視させ、報告させ、お互いを疑心暗鬼に陥らせることで反乱を抑制し自らの権力基盤を盤石なものとした。この記事に出てくる独裁者たちは皆スターリンのこのようなやり方を真似たとも言える。

日本との関係で言えばポツダム宣言を日本が受領した後に国際法を無視して攻撃を仕掛け北方4島などを奪い取っていったことも忘れてはいけない。

と、西側諸国からは恐怖の独裁者として知られるスターリンだが、現在ロシアにおいてはソ連をアメリカに並ぶ大国に押し上げた大人物という評価がされており、逆にゴルバチョフは国家衰退をもたらした最低な人間という評価がされている。

スターリン政権下でソ連が大国になったのもまた歴史的事実なのである。

第1位:人類の生み出した最悪の狂気「アドルフ・ヒトラー」

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 同じテーマで書いても100人いれば100通りのランキングが出来上がると思うが、100人いてもこのテーマなら大体アドルフ・ヒトラーが1位になるだろう。

ユダヤ人に対する虐殺だけでも十分1位に相応しいが、ヒトラーに関してはポーランドに侵攻し第二次世界大戦を引き起こしたという空前絶後の大悪事がここに加算される。

人類史上最悪のサイコパスは20世紀初頭に400人ほどを殺害した満月の狂人の異名をとったアルバート・フィッシャーというアメリカ人だと言われているが、ヒトラーに関してはそれと比肩することも不可能なレベルに達している。どんな狂った人間も、ここまでは出来ない。

ユダヤ人虐殺だけで600万人、第二次世界大戦で死んだ人数は世界中で5000万人を越えると言われる。

ヒトラーに関しては毛沢東と違って殺そうと思って殺しており、その実行方法も非人道的で、地獄の悪魔でさえもそのようなことは考えないであろうというレベルである。

先述したようにその悍ましき様はV・E・フランクリンの書いた「夜と霧」を読んでもらうのが一番良いだろう。

これだけ世界をかき回し数え切れぬほどの涙を生み出したのに自分はさっさと愛人と共に自殺してしまうという無責任ぶりもまた最悪である。

人類の歴史がどれだけ進んでも、ここまで恐ろしいことをできる人間はいないであろう。

このような人間が誕生してしまったことに恐怖を覚え、今後このような人間が誕生しないことを切に願う。

ランキングを終えて

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気分を浄化するためにとりあえず可愛い女性の写真を貼っておく。

正直疲れた。いや、疲れたという表現は生易しく、もっとこう、心身共に疲労を越えて衰弱の域に達しているんじゃないかという気分になっている。

かなり内容は削ったにも関わらず文字数は8万文字を越えてしまい、過去作り出した記事の中でもずば抜けて長く、書いている途中一体誰がこれを読むんだ?一体自分は何をしているんだ?という気持ちに幾度なったかわからない。

幽遊白書という漫画に人類の行った恐ろしいことが記された「黒の書」というものが出てくるが、この記事はもうそれに匹敵するかなんならもっと酷いんじゃないかってぐらいになってしまっていて、言うなればこの記事を書き続けた恐らく100時間を超える時間、人類の歴史の闇と向き合っていたことになる。

その間アイヒマンの遺した「100万人の死は統計である」という言葉がずっと頭から離れなかった。

人間の悪意というものはすさまじく、そして底知れぬものであり、書いているうちに段々と感覚がマヒしてきて、3万人虐殺ぐらいならランキング上位にはなれないななどと意味不明なことを考え始めたりして、何度かハッとなった訳だが、今回ランクインした暴君たちもそんな感じだったのかも知れない。彼らにとってその死は統計にすぎなかったのだろう。

それにしても20世紀を生きた人間と中国歴代皇帝およびローマ帝国皇帝関連がランクインしているケースが多い。

ローマ関連:11人

20世紀関連:24人

中国関連:22人

大分偏りのあるランキングになってしまったが、これらが多くランクインしている理由は記録として残っているものが多かったということもあるのだろう。

古代から中世において、地中海世界とインド洋世界以外には歴史を遺すという発想はなかった。日本やイギリス、ドイツなんかも歴史をしっかり残すようになったのは7世紀以降の話で、それ以前だと地中海世界と中国以外歴史をほとんど残していない。モンゴル帝国なんてあれだけ広大だったのに歴史を遺していないからその実態があまりつかめていなかったりする。

20世紀においては統計やマスコミ、国際世論などが確立していった影響でその悪事がバレやすくなったというのはあると思う。

実際に暴君というのは恐らくまだまだいて、記録されなかった暴君というのも多かっただろうなと思う。インカ帝国とかアステカ帝国にもとんでもない暴君とかいたと思うし、古代の世界なんてそれこそとんでもない君主が存在していたのだろうが、記録が残っていなければいないのと同じになってしまうのが歴史でもある。

それにしても規模において強烈だったのが共産主義者と反共産主義者の独裁者である。結局ランキングトップ5の内3人が共産主義者、1人が反共産主義者である。南米やアフリカではアメリカが反共産主義のために作り上げた独裁者が多くて、20世紀に暴君および独裁者が増えた大きな理由でもあるだろう。

通常あまりに酷すぎる政治は反対勢力によって打倒されるのだが、アメリカ軍が背後にいるため簡単に反体制が潰されて、冷戦の終結と同時にアメリカ軍が見放すとクーデターで失脚というパターンが非常に多かった。それでも失脚しないとサダム・フセインのようにアメリカ軍が介入することになる。

 

あとは中国の黄巾の乱から隋の間の時代に非常に暴君が多くて、実は今回記載しなかった連中にも酷いのはいる。あまりに数が多すぎる上に正直どれも似たような奴らなので特に酷い奴らに限定しておいた。実際ハドリアヌス帝よりも明らかに石虎とかの方が悪い奴なんだけど、どれも赫連勃勃と似たような描写になるし正直うんざりするランキングを作る訳にもいかないのでこのような形になった。この辺りは批判されてもしょうがないかなと思う。

この時代は漢民族だけじゃなくて匈奴などの五胡と言われる異民族も入ってきて民族同士の争いが激しかった。

ある意味共産主義と同じぐらい人を殺したのがこの「民族」という概念で、ジャクソンやアブドゥル・ハミト2世にミロシェビッチ、ヒトラーみたいな明らかな憎悪の念から異なる民族を地球から抹消する勢いで虐殺していった人間達も目立つ。

 これらはある意味人々の持っている意識を刺激して支持を得たという背景もあって、トランプ大統領なんかも根底は似たようなところがあるんだけど、それを実行したかどうかの違いが大きい。この問題はむしろ現代に近づくにつれて大きな問題となっているような気もする。ワールドカップが流行っているのだってナショナリズムの高揚な訳だし、民族主義の結果と言えなくもない訳で。

なんてことを語っていたら永遠に終わらなくなるのでこの記事はここまでにしたいと思う。こんなとんでもなく長い記事を読んでくれたありがとう。

せめて読まれたいのでもしよかったら何某かの方法で拡散してくれると嬉しい。

負の面ばかりだとあれだから、どちらかというと正の面のランキングも貼っておく。こっちも長いけれど良かったら読んでみてください。

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