歴史的無能!楊国忠の生きざまに見る現代日本の危うい状況について

「傾国の美女」として世界的にその名を知らぬ者の方が少ない楊貴妃であるが、実際に国を傾けたのは彼女ではない。

調べれば調べるほど、実は楊貴妃というのは何もしてないということが分かる。

ではなぜ彼女が国を傾けたと言われるのか?

それは彼女の親戚である楊国忠に原因があった。

 張易之の甥

 張易之と聞いてピンと来る人は皆無であろう。相当の中国史マニアでも知らない名前であると思う。

 張易之則天武后の時代に一際目立つ美貌で知られた青年で、則天武后をたぶらかしたと言われる人物である。

その寵愛をいいことに政治を己がものとして取り仕切ったが、宰相の張柬之に処刑され、そのことによって則天武后はその地位を失った。

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中国を代表する佞臣の一人であると言えよう。

楊国忠の母親はその張易之の妹であった。

そのせいで一族を始め唐帝国全体から蔑視され、一族は没落、極貧の中でその青春時代を過ごすことになる。

そのような中で真面目に生きろという方が難しいであろう。楊国忠は酒や博打に溺れ、身を持ち崩した生活を送るようになる。

しかし何がきっかけになったのか30歳の時に一念発起して軍隊に入り、現在の四川省あたりの勤務になった。

そしてこの頃一族の中では中心的な人物であった楊玄琰が亡くなるという事件が起こる。楊国忠はこれを幸いと思ったのか、楊家に入り浸るようになり、その長女である虢国夫人とねんごろになったという。虢国夫人はやがて別の人物に嫁ぐことになるが、この時の関係が後に大事件を引き起こすことになる。

楊貴妃誕生

中国というと一族間の関係が強く、大家族のイメージがあるが、これは一族の誰かが出世すると一族全体が繁栄する傾向にあるだろう。

楊玄琰の娘にして虢国夫人の妹が楊貴妃として玄宗皇帝の寵愛を受けることになった。

そうなると現金なもので、今まで楊国忠を嫌っていた人々が露骨にご機嫌取りに走ったという。

節度使の一人であるという人物はこれ幸いと楊貴妃一族へのコンタクトをはかり、楊国忠のもとへ使いをや章仇兼瓊り、自らの幕僚に迎えた。章仇兼瓊は中央政府に楊一族との関係をアピールするため楊国忠を都長安に使いに出し、虢国夫人を通じて楊貴妃に、その伝手でついに玄宗皇帝に謁見する機会を得た。

この手の人物にありがちなように、楊国忠は口だけは達者であった。中身のない人物ほど口が達者なのは今の情報商材界隈や自称インフルエンサー界隈でもそうであるが、耄碌した玄宗はこの手のおべっかに極度に弱くなっており、楊貴妃の親戚ということも手伝って楊国忠を大変に気に入ってしまう。

楊国忠は監察御史という要職に任じられたのを契機に実に15の要職を兼任するまでになる。

この時期宰相として専横を行っていた歴史的佞臣李林甫と手を結び反対派を次々と粛正、一方で玄宗のご機嫌取りには精を出し続け、宮中での存在感を増していった。

それにしても「類は友を呼ぶ」という言葉を初めに言った人物は天才であると思う。

李林甫にしても楊国忠にしてもどうしようもないという点で非常に似ている。両者とも世界史上でも稀に見る悪臣であるが、こういう人物たちは結託しあうらしい。これは人類普遍の原理なのか、今でもSNS界隈でインフルエンサーを名乗る詐欺師もどきたちがお互いを褒めあっているのを見ると歴史は繰り返すのだなと思う。

楊国忠が玄宗に気に入られたのは、博打が巧かったのと、税金を集めるのがうまかったことの二点による。

玄宗は若いころは真面目であった。しかし若いころ真面目な人間ほど老いた時に狂う傾向がある。真面目な玄宗にとって遊び上手な楊国忠はさぞ魅力的にうつったことだろう。そしてその遊興費を楊国忠はどこかから集めてくる。これは当然権力をかさにきて取り立てた税金であるが、玄宗はもはやそのようなことにはお構いなしであった。

李林甫の死と楊国忠の専横

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国政を我が物にしていた李林甫が死んだ。

李林甫が死ぬ前から楊国忠の仲は悪くなっており、楊国忠は李林甫の腹心たちを次々と逮捕・粛正していき、李林甫にもその毒牙をむけようとしていた。

それにしてもこういう人物たちは仲良くなるのも早いが仲間割れも早い。所詮己のことしか考えていない人物たちの末路などこのようなものであろう。

しかし李林甫もただでは死なない。ちょうど蜀で異民族の反乱が起きたので、李林甫は玄宗に楊国忠こそが討伐に適任と進言、玄宗もこれに賛同する。

しかし李林甫の抵抗もそこまで、既に重病であった李林甫は死に、唐の権力は事実上楊国忠が握ることとなった。

楊国忠の凄いところは完全なる無能であるのにどんどん出世していったことだ。

これは現代の大企業にもよく見られることだが、絶対的権力は腐敗するように、組織が末期的な状況になると国だけがうまい奴が出世していくようになる。もし自分の会社がそのような会社なら絶対に今すぐ転職をするべきだ。

楊国忠は蜀での反乱の鎮圧に大失敗する。指揮官として恐ろしく無能であったようで、討伐軍8万のうち6万を失うという大敗ぶりであったらしいが、楊国忠は玄宗には反乱は鎮圧されたと嘘をついていたらしい。

それでいて李林甫の一族に対しては生前に謀反を企んでいたとしてその一族の官職を全てはく奪、流刑に処した。

李林甫は悪辣な人物ではあったが有能な面もあった。しかし楊国忠はただ悪辣なだけであった。

安禄山の乱と楊国忠の死

世界史の授業や漢文の授業でもよく出てくる安禄山の乱も、もとをただせば楊国忠が原因である。

節度使の安禄山と楊国忠は非常に仲が悪かった。安禄山は李林甫に対しては多少敬意をもって接していたようだが、コネだけしかない楊国忠のことは常々馬鹿にした態度で接していたという。楊国忠はコンプレックスの塊みたいなもので、安禄山のこのような態度が兎に角気に入らなかったという。

楊国忠は玄宗に対し安禄山に謀反の疑いありと常に吹聴し続けた。しかし玄宗は安禄山を信頼しており取り合わない、ついには安禄山を宰相に任じようとさえする始末。それは楊国忠の根回しなどにより実現しなかったが、危機を感じた安禄山はついに本当に謀反を起こすことにした。

どうにも安禄山は玄宗の時代から反乱の準備はしていたようであるが、玄宗亡き後にそれを実行するつもりであったらしい。

しかし楊国忠は常に玄宗の近くにいる。いつ玄宗が自分から権力を取り上げるかわからない。ならば今がその時とばかりについに歴史に残る安禄山の乱が始まったのであった。

 安禄山の反乱のスローガンは「楊国忠の討伐」であった。決して玄宗へ向けて弓を引いているのではなく、その佞臣を打ち滅ぼそうというものである。この挙兵には多くの者が賛同し、その数は15万にも上ったという。

李林甫と楊国忠が有能な人物を排斥し続けた結果、唐には戦える人間がほとんど存在しなくなってしまっていた。それでもかろうじて残っていた高仙之と封常清の二人が頑張って戦っていたが、玄宗はこれらに猜疑心を持ち処刑、安禄山が長安に迫ってくると玄宗皇帝は一目散に逃げ出した。

蜀への逃避行の途中、ついに兵士たちが激怒した。

かの暴虐なる者を排除せねばならん。

こうして楊国忠は死に、楊貴妃とその一族は皆殺しとなったのであった。

楊国忠について思うこと

歴史に残る無能である。

そしてこの手のことは現在日本ではいたるところに見られる。

もはや生まれが何よりも優先し、無能であってもコネがあればよい地位につけてしまう。

公務員、大企業、あらゆる特権階級においてコネ採用がまかり通り、組織は硬直化、中身のない人間ばかりが利益を貪り食う事態。

玄宗皇帝の時代は佞臣が蔓延り、まともな人物は排斥される酷い時代であった。開元の治を行った前半の半生はどこへやら、後半は本当に救いようがないほどの無能になってしまった。

優秀な人物が老いて無能になってしまうことはよくある。

国民的グループを解散に追い込んだと思しき張本人も、若いころは非常に有能であったという。

楊国忠という人物の人生を見るにつけ、現在日本にも共通するところが多く、学ぶことも多いが、それと同時にため息が出てしまうのは自分だけではないであろう。

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