世界の歴史に大きな影響を与える人物がいる。
父チンギス・ハーンは間違いなくその種類の人物であるが、その跡をついだオゴタイもまた大きく世界史に影響を与えた人物であろう。
チンギス・ハーンの3男
オゴタイが生まれた年も、他のモンゴル民族同様定かではない。
モンゴル民族にとっていつ生まれたかはそれほど重要ではない。歴史を遺すこともまた重要ではなく、そもそもそのような概念もなかった。
オゴタイが歴史に登場し始めるのは、父チンギス・ハーンが西夏や金に対して大規模な攻勢をかけた頃である。
チンギス・ハーンは、モンゴルよりも東側をカサル、カチウン、オッチギンといった3人の弟達(母ホエルン)、西側を4人の息子達に任せるという構想をもっていたようで、金の遠征から戻ると4人の息子達と共に西へと兵を進めていった。
オゴタイはイスラム国家ホラズム・シャー国を攻めた際に功績をあげ、小さいながらもモンゴル高原の一部を所領とするオゴタイ・ウルスを形成したという。
チンギス・ハーンの後継者問題
長男ジュチと次男チャガタイは非常に仲が悪かった。お互いがお互いをカンに相応しくないと罵り、結局後継者はオゴタイに決まる。
これは次男のチャガタイがオゴタイと仲が良かったからであると言われている。
しかしこのことが、ジョチ一家とチャガタイ、オゴタイ両一家の対立を招き、さらにトゥルイ家も加わることで巨大なモンゴル帝国が分裂瓦解してしまう原因となってしまう。
第2代目大モンゴル帝国(イェケ・モンゴル・ウルス)のカンに就任
1227年、偉大なる征服王チンギス・ハーンが死んだ。
オゴタイはクリルタイ(会議)を開き、正式にモンゴル帝国のカンに就任することになる。
そして、オゴタイはカンの中のカンという意味で「カーン」の尊称を使うことになる。
これに伴いジョチの跡を継いだバトゥやチャガタイも「カン」の名称が使えるようになった。
なお父テムジンは正確にはチンギス・カンだが、唯一の存在であるためチンギス・ハーンと呼ばれることが多い。カーンは「khaan」と表記され、現在ではkの文字は読まないようになっているので当サイトではハーンで表記統一している。
さらに、オゴタイは最近オゴデイと読むことが多いので、以下オゴタイのことをオゴデイ・ハーンと表記したいと思う。
第二次金遠征
モンゴル統一、西夏、西遼、ホラズムと多くの戦功のあるチンギス・ハーンだったが、中華王朝である金を滅ぼす前に死んでしまった。
オゴデイ・ハーンは弟のトゥルイと共に金を攻めることになる。
トゥルイの戦闘の才はすさまじく、モンゴルを相手に善戦していた完顔陳和尚を撃破し1234年には金を滅亡させることに成功する。
翌年、オゴデイ・ハーンはモンゴル高原にカラコルムの都を建設し、クリルタイを開いて南宋とロシア、ヨーロッパ方面への遠征を決議する。
モンゴル帝国の拡充
オゴデイ・ハーンのもと、モンゴル帝国は一気にその領土を増やした。
華北を支配する金を併合したのはもちろん、ロシア、ポーランド、ハンガリーなども占領、そして内政面で言えばヤワラチやチンカイと言ったウイグル人や遼の王族である耶律楚材などを積極的に登用し国内をさせていく。貨幣ではなくお札である「交鈔」が採用されたのもオゴデイ・ハーンの時代のことであるという。
おそるべきモンゴル帝国というイメージの一方で、各国からの施設がカラコルムの都に集まるようになり、モンゴル帝国は国際色豊かな国になっていく。
オゴタイの死と帝国
1241年、 オゴデイ・ハーンは死んだ。
これによって各地に遠征中であった一族はクリルタイのためにモンゴルに集結することになる。
そのため、特にヨーロッパ方面はモンゴル軍のこれ以上の侵略を受けなくて済むようになる。もしもオゴタイの死が後数年遅ければ、ドイツやフランスさえもモンゴル帝国の領地になっていたかも知れない。
歴史にifはないが、そうなれば世界の歴史は大きくかわっていたことだろう。
オゴタイの死後、一族で内紛が起きた。
オゴタイ自体は息子のグユクが気に入っていなかったらしいが、生母であるドレゲネの工作の結果3代目はオゴタイの息子グユクとなる。
しかしグユクはその1年半後に亡くなることになる。
古来より、トゥルイの妻ソルコクタニの関与を疑う声は絶えない。
グユクの死後、オゴタイ家は粛正の対象となり、大ハーンは完全に4男のトゥルイ家のものとなる。
南宋を滅ぼしたフビライもイル・ハン国を建てたフレグもトゥルイの子供である。
栄枯盛衰、栄えれば滅びるのは歴史の常であるのだろう。