チンギス・ハーンの4男トゥルイ!フビライ・ハーンの父親というだけじゃないその能力の高さを見よ

トゥルイの名は、その重要性を考えると恐ろしいほどに日本での知名度が低い。

日本の歴史教科書において名前が載っているのはチンギス・ハーンとオゴデイ・ハーンとフビライ・ハーン、あるいはフレグぐらいのものだろう。

トゥルイと聞いてピンと来る人がどれぐらいいるだろうか?

フビライ・ハーンとフレグの父親と聞けばピンと来るかも知れない。

フビライ・ハーンは漢民族の南宋を滅ぼし日本侵略である元寇を行った人物で、我々にもなじみが深い。

今回はチンギス・ハーンの息子達の中でも特に才能に恵まれていたトゥルイについて見て行こう!

 チンギス・ハーンの末子

チンギス・ハーンには5人の妃と数百人の愛人がいたが、後継者となりうるのは正妻ボルテの息子達だけだった。

長男ジョチ、次男チャガタイ、三男オゴタイ、そして末子のトゥルイ。

トゥルイは1192年に生まれたとみられ、父テムジンがチンギス・カンになった際には14歳であったとみられる。1212年から始まる金遠征においては父に従いまだ年若いのに数々の功績を挙げた。

その後は父と共にモンゴル高原に戻り、1219年から始まるホラズム遠征にも随行、ブハラやサマルカンドなど重要拠点の制圧に成功する。

その後も功績を挙げ続け、殊軍事においてはチンギス・ハーンの息子達の中でも群を抜く存在になる。

チンギス・ハーンの死と後継者問題

まだチンギス・ハーンが存命中だったころ、誰がその後継者に相応しいか話し合いが行われたという。

モンゴルの制度では、千戸制が採用されており、まずは10人を10人長がまとめ、それを10隊、つまり100人を100人長が、それを10、つまり1000人を1000人長がまとめるという方式であった。

1000人隊長の数は129、その内の101はトゥルイが率いることに決まった。

どうしてそうなかったは諸説あるが、元々モンゴルの風習では末子相続が基本であったこと、そしてトゥルイの軍事的才能が図抜けていたことが理由であろう。

しかし後継者争いは揉めた。特に長男のジョチと次男のチャガタイが揉め、チャガタイは自分が本当の長男だと主張する始末であった。

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結論から言えば3男のオゴタイがチンギス・ハーンの後継者になった。

チンギス・ハーンが選んだというが、その真意は彼のみぞ知る所であったかも知れない。トゥルイも他の子供たちも、その決定を尊重することにした。

1227年、チンギス・ハーンが死んだ。

ジョチは既に亡くなっていたのでその息子のバトゥがジョチウルスを、チャガタイもチャガタイウルスを建てたが、トゥルイはオゴデイ・ハーンと共にモンゴル軍(イェケ・モンゴル・ウルス)として中華王朝金の制圧に乗り出すことになる。

突然の死とその後

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モンゴル軍と金との争いは長期に渡った。

4駿4狗の代表とも言えるムカリですら金は制圧できず、あまつさえ金の名将完顔陳和尚によって撃退されたりもした。

モンゴル主力軍を率いるトゥルイはこの名将を破り、金の軍団を事実上壊滅することに成功した。

しかしその直後1232年、トゥルイは急死する。

歴史書によれば、オゴタイの代わりに呪いのかかった酒を飲んだことが原因だとされる。

この不可解な死に様から、古来よりオゴデイ・ハーンによる暗殺説は絶えない。

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トゥルイの死は、帝国に暗い影を落とした。

モンゴル帝国内の中枢はチャガタイおよびオゴデイ・ハーンの勢力が有力となり、トゥルイ家はその中枢から外されていた。

それが逆転するのがオゴデイ・ハーンとチャガタイが相次いで亡くなった時、さらにオゴデイ・ハーンの息子グユクが3代目に就任してわずか1年半後に亡くなってからで、4代目はトゥルイの息子モンケになってからであった。

あまりにもトゥルイの息子達に都合がいいグユクの死に、当時から現在までトゥルイの正妻であるソルコクタニによるグユク暗殺の噂は絶えない。

グユク亡き後はやはりトゥルイの息子フビライが大ハーンとなり、弟のフレグはアラブ世界に攻め入りイル・ハンとなった。

その後モンゴル帝国はお互いのウルスを攻撃するようになり、静かに衰退していってしまう。

栄枯盛衰

奢れるものも久しからずである