陸続きの国としては人類の歴史上最大版図を築いたモンゴル帝国。
その基礎を築いたチンギス・ハーンには4人の息子達がいた。
チャガタイはその次男で、後に中央アジアにチャガタイ・ハン国(チャガタイウルス)を建国することになる。
チンギス・ハーンの次男
チンギス・ハーンには5人の正妻と500人を超す妃がいたとされるが、ウルス(国)を形成できるのは正妻ボルテの産んだ4人の息子達だけである。
長男ジョチ、次男チャガタイ、三男オゴタイ、4男トゥルイ。
このうちジョチとチャガタイは非常に仲が悪かったという。
原因はジョチの出生の秘密にあった。
ジュチはボルテがメルキト族にさらわれた時に出来た子供ではないか?
だからこそ「客人」を意味するジョチという名前がついているのではないか?
チャガタイはそう思っていたらしい。
それゆえに彼は公然と「チンギス・カンの長男は私だ」と主張していたという。
この問題はチンギス・ハーンの後継者問題だけでなく、その後のモンゴル帝国の行く末をも大きく作用することになる。
1206年、父テムジンがクリルタイ(会議)によってチンギス・カンになると、チャガタイには千人隊が4つ与えられた。この時にチャガタイはウルスを形成したため、チャガタイウルスが出来たという考え方もある。
父が大征服に乗り出すとチャガタイもそれに従い、対西夏や対金に従事をし、ジェベが西遼を滅ぼした際にはチャガタイがその領土を治めることになった。
後継者問題とチャガタイハン国
チンギス・ハーンの後継者を誰にするか?
この問題はジョチとチャガタイの仲の悪さから非常に揉めた。チンギス・ハーンのお気に入りで末子相続の伝統を考えればトゥルイであったが、長男ジョチと次男チャガタイが揉めた結果、結局3男オゴタイが後継者となり、チンギス・ハーン死後は2代目の大カンとなり、やがてカンの中のカンという意味でオゴデイ・カーンを名乗るようになる。
チャガタイはジョチとは不仲だったが、オゴタイとはかなり仲が良く、オゴタイが2代目になったのはチャガタイの働きかけによるものだという意見もある。
チャガタイは後にカンを名乗り、中央アジアにチャガタイハン国(チャガタイウルス)を建国することになる。
これは、大モンゴル帝国から独立した訳ではなく、大カーンを中心としたイェケ・モンゴル帝国を中心にイギリスのコモンウェルスのような緩やかな連合体が形成されたとみるのが最近の傾向である。
チャガタイハン国は元々ホラズム=シャー国の都だったサマルカンドを中心に栄えたが、やがてチンギス・ハーンにさえも匹敵するカリスマ、ティムールによって傀儡とされてしまい、やがて歴史のかなたへと消えていくことになる。
チャガタイ自体は1242年に没した。
まるで前年に死んだ弟の後を追うようであったという。