春秋戦国時代
春秋時代と戦国時代には無数の兵法家が出現した訳だが、その中でも特に評価が高いのが「孫子の兵法書」を書いた孫氏と「呉子」の著者である呉起の二人だ。
周の没落より500年近く続いた春秋戦国時代はある一人の人物によって突如終わりを迎える。 彼の名は秦王政。 のちに秦の始皇帝と呼ばれる人物である。 なぜ始皇帝が中華を統一し得たかにはいくつかの理由があるが、その中でも最も大きいのが秦という国の国力…
中国の春秋時代には五覇と呼ばれる有力な諸侯が存在した。 www.myworldhistoryblog.com 春秋時代が終わり、周の影響力が皆無になった戦国時代においては、時に諸侯をも上回る人物たちが登場すし、彼らは戦国の四君と呼ばれるようになる。 「鶏鳴狗盗」で有名…
春秋時代が終わりをつげ、中国はさらなる戦乱の時代に突入した。 終わりなき戦いが続いたその時代を戦国時代という。 そのような時代にあって戦国四君と呼ばれる4人の猛者たちが誕生する。その筆頭が今回の主人公である田文こと孟嘗君だ。
孔子の著作である「春秋」から名前を取った春秋時代が始まったのは紀元前770年、周王朝が東西に分裂したところから始まる。 中華帝国、主に黄河文明は周を中心とした封建制度を維持できなくなり、諸侯は独立し、大小さまざまな国が生まれた。
越王勾践を春秋の五覇に入れるかどうかは古来より論争のあるところで、史記を始め勾践を五覇に入れていない書物が多く、彼を五覇に入れているのは実は荀子ぐらいである。
春秋の五覇といいつつ候補は八人いる。 その中で確実に入るのは2人、斉の桓公、晋の文公、ほぼ確実に入るのは楚の荘王となっており、あとの2人は史書によって採用されている人物が違う。中国史においてよくあることなのだが、はじめに数字があってそれに誰が…
斉の桓公、晋の文公と共に確実に春秋五覇に入るのが楚の荘王という人物で、前二人が「公」となっているのに対し今回は「王」となっている。 これは前二者が周王朝の権威を尊重して王にならなかったのに対し楚は中原より遠く周王朝の権威が及んでいないことを…
斉の桓公亡き後の春秋時代をリードしたのは晋の文公で、この人物も春秋の五覇に必ず入る人物である。
春秋時代には、五覇と呼ばれた5人の有力君主がいた訳だが、困ったことに五覇の候補は8人もいる。 三皇五帝などもそうなのだが、中国の歴史というのは数が最初に来てしまう傾向にあるらしい。 そんな沢山いる候補の中でも、斉の桓公の筆頭として絶対に入るこ…
秦が中国を統一するよりはるか前、中国は長きに渡って分裂状態にあった。 時は春秋時代、名目上の盟主は周王朝であったが、すでに力はなく、各国がしのぎを削る時代にあって、春秋の五覇と呼ばれる強力な君主が出現した。 今回は春秋の五覇の一人越王勾践(…
紀元前770年以降、周王朝の弱体化が顕著になると、各国が覇権を争う春秋時代に突入した。 この時代は多くの国が相争う時代であり、中でも春秋の五覇と呼ばれる5人の覇者を中心とした時代でもあった。 中国の歴史ではよくあることだが、春秋の五覇に誰が含ま…
「中国」という概念を作ったのは秦の始皇帝である。 もし彼がいなければ、後の歴史は大きくかわっていたことであろう。 バタフライエフェクトという言葉があるように、蝶の羽ばたきが大きな嵐を起こすがごとく、歴史というのも小さな出来事が後に大きなうね…
中国春秋戦国時代に起こった「諸子百家」の中には合従連衡をその主とする縦横家と言われる派閥があった。 今回紹介する張儀は蘇秦とともに縦横家を代表する存在で、秦による史上初の中国統一に一役買った存在である。
中国の戦国時代には「諸子百家」と呼ばれるほど様々な考え方が次から次へと湧き出てきていた。 今回はそんな「諸子百家」の1つ縦横家と呼ばれる思想家の代表「蘇秦」について見て行こう!
春秋戦国時代最強の将軍は? そのような議論になったら確実に名前が挙がるのが今回の主役楽毅(がくき)だ。 小国であった燕に仕え最強国家だった斉を滅亡寸前まで追い詰めた名将について見て行こう。
田単が将軍に抜擢された時、斉の国は絶体絶命の危機だった。 敵は中国における戦国時代を代表する戦略家で三国志に出てくる登場人物などの尊敬を一身に集めることになる楽毅。 誰もが斉の国の滅亡を確信していた。 ただ一人田単以外は。