人類が誕生してから、一体どれほどの時間が経っただろうか?
数え切れぬほどの人が生まれ、そして死んでいった中で、全ての人類に影響を与えた人間というのは少ない。
人類に影響を与えた度合い、ということになれば、チンギス・ハーンの影響は計り知れないであろう。
世界史上最大の帝国を創り上げた最強のカリスマ、あるいは無慈悲な侵略王、最盛期には人類の半分が住んでいたと言われるチンギス・ハーンの生涯について見て行こう。
草原の蒼き狼の末裔
あらゆる国の創成期は神話にて始まる。
日本ではイザナギとイザナミ、そしてアマテラスノオオミカミから始まり、旧約聖書ではアダムとイブから始まったように、モンゴルにも伝説がある。
それは蒼き狼(ボルテ・チノ)と白き雌鹿(コアイ・マラル)からモンゴル民族が誕生したという神話、あるいは伝説で、その子孫がチンギス・ハーンの所属するボルジギン氏であるという。
モンゴル高原は常に力の論理が働く世界で、冒頓単于に代表されるようなカリスマが現れればそのもとに皆が集まり、カリスマが死ねば離散することを繰り返していった。
チンギス・ハーンの祖先はそのカリスマ性を持って華北の金に度々略奪を行っていたようだが、それに困り果てた金によって懐柔され、それ以来親金派になっていったという。
このことが後にチンギス・ハーンの運命を決定づけることになる。
出生秘話
テムジンの父イェスゲイは、バアトル(勇者)の称号を持った人物で、金から直々に10人隊長の位を授かっていた人物で、そこまで大きくないながらも勢力を誇っていたらしい。
イェスゲイには既に妻がいたが、ライバル部族であるトルコ系メルキト族に新たに嫁入りする娘がいると聞いて略奪を敢行した。
娘の名前はホエルン。そして間に生まれたのがチンギス・ハーンことテムジンである。
テムジンが生まれた年は未だに分かっていない。1155年説と1162年説が有力だが、モンゴル民族には出生を記録する意識はなく、また歴史を詳細に記録するという文化もない。
なのでチンギス・ハーンに関しては実に分からないことが多い。
チンギス・ハーンに関しては「元朝秘史」と「集史」の2つの歴史書からその生涯を伺えるのだが、史料によっては矛盾する点も多く、前者は特に英雄譚の類でありどこまでが真実なのかはいまだに議論が尽きない部分ではある。
元朝秘史に関してはその登場人物たちすら実在したのかどうか。
聖徳太子が実在しなかったという説が一時期話題になったように、歴史の真実性、あるいは実在性の証明というのは難しい。
話がそれたが、テムジンは9歳の時に運命的な出会いを果たす。後に妻となり、4人の優秀な息子達を産むことになるボルテとの出会いである。
イェスゲイに連れられたテムジンはボルテをすぐに気に入り、イェスゲイはボルテの実家にテムジンを預けた。
ちなみにボルテはかなりの良妻賢母であったようで、以下の記事でも言及したので時間があれば見てほしい。
さらにテムジンが11歳の頃には生涯の親友となるジャムカとも出会い、2人は共に遊び、お互いに血の契りを交わしてアンダ(同盟者)になったという。
このこともまた、テムジンの人生を大きく変えた。
父の死と兄の殺害
テムジンがボルテの実家に預けられている途中、父のイェスゲイが急死した。タタール族によって毒の入った酒を飲まされたのが死因であるという。
テムジンは父の死を受けて戻ったが、イェスゲイに従っていた者たちは既に去っており、残ったのは10人ほどの家族だけだったという。
生活はかなり苦しかったようで、対立するタイチウト氏族に襲われて奴隷になったこともあった。ただ、テムジンはどこか人を惹きつける魅力の持ち主だったようで、この時ソルカン・シラという人物が息子チラウンと共にテムジンを救いだし、自宅の羊毛の中にテムジンを匿ったというエピソードが残っている。
英雄とはやはり、どこか人を惹きつける魅力の持ち主であるらしい。
だがテムジンの一家の事情は穏やかではなかった。
イェスゲイが亡くなった後、一家を支えていたのは母ホエルンと義母と言ってもよいソチゲルだったらしいが、ある時ソチゲルが亡くなった。
モンゴル民族の慣習によれば一家の長は前の長の妻たちを見ずからの妻とする風習があった。
それほど知られていないことだが、テムジンは長男ではなかった。上にベグテルという兄がいた。
先述の慣習によれば母ホエルンは兄の妻となる。テムジンはそれが耐えられなかったのか、母を同じにする弟のカサルと共にベグデルを射殺してしまった。
ベグデルは抵抗する様子もなく、ただ弟のベルグデイだけは生かしてほしいとだけ言って死んだ。そしてテムジン、カサルの蛮行を知ったホエルンは大激怒したという。
その後も貧しいながらなんとか生き延びたテムジンたちであったが、ある日ライバルのメルキト族の襲撃に遭い妻のボルテをさらわれてしまう。
テムジンの旗揚げ
妻をさらわれたテムジンは父イェスゲイの友人であったトオリル(トグリル)の許を訪れた。トオリルもイェスゲイ同様親金派の部族であり常からメルキト族に敵対していたということもありテムジンの願いを聞き入れ、共にメルキト族へのボルテ奪還戦に向かった。
その途中で親友のジャムカも合流し、連合軍は見事にメルキト族に勝利しボルテを取り戻すことに成功する。
この時にテムジンの有名はモンゴル高原に響き渡り、イェスゲイのもとを去っていた者たちや各地から勇将が集まってくるようになる。
この時に仲間になったのがアルラト氏のボオルチュ、ウリヤンカイ氏のジェルメ、かつてテムジンを助けたソルカン・シラの息子チラウンなど後にチンギス・ハーンを支える将軍達であり、この時に基礎が築かれたと言っても良いかもしれない。
しかし、この直後にボルテが出産したことが後に禍根を残すことになる。
テムジンは生まれた子供にジョチという名前を付けた。ジョチとは客人という意味であある。果たしてジョチがテムジンの息子であるのかどうか、永久に答えの出ない問題であるが、これがモンゴル帝国の、世界の行く末を大きく左右することになる。
モンゴル統一戦争
1190年、テムジン軍は十三翼の戦いで親友ジャムカに大敗を喫することになる。
事の起こりはジャムカの弟がテムジンの部下の馬を盗もうとし射殺されたことにあったという。怒れるジャムカはテムジン討伐の兵を向け、これを散々に撃破した。
ジャムカの怒りはすさまじく、テムジン側の捕虜を残虐な方法で殺害した。そしてそれを見たジャムカの部下たちは彼を見限り多くがテムジンのもとへ降っていったという。
この際に最強の将軍と言われるスブタイ(スベイデイ)もテムジンのもとに降ったと言われている。
直接の契機はジャムカの弟の死にあったと言えるが、テムジンの属するボルギジン氏は親金派、ジャムカの属するジャジラト氏は親西遼派でありどちらにしても敵対は避けられなかったであろう。
当時のモンゴル高原では親金派と親西遼派の諸部族が相争うような状況になっており、親金派のトオリル&テムジンVSその他全ての部族という対立構造が出来上がっていた。
トオリル・テムジン連合軍はウルジャ川の戦いにおいて西遼派のモンゴル部族を打ち破り、テムジンは金から100人長の位を、ケレイト族を率いるトオリルは「カン(王)」の位を受けたといい、これより先トオリルは「オン・カン」を名乗るようになる。
この位からも分かるように、内実は連合軍ではなく、テムジンはオン・カンに従属している状態であると言って良く、実質はオン・カンVSその他の民族であったと言っても良かったかも知れない。
しかしそのような中でテムジンは確実に力をつけており、1196年に興ったジュルキン族の戦いでは勇将と名高いムカリが加入するなど戦うごとに徐々に力をつけて行った。
1197年 メルキト族に勝利
1199年 ナイマン族に勝利
1200年 タタール族に勝利
1201年 モンゴル連合軍に勝利
1202年 ナイマン、オイラト、メルキト連合に勝利
オン・カンとテムジンは次々と諸部族を破っていったが、1203年に突如オン・カンとテムジンの間で戦いが起こる。
直接の原因はオン・カンの息子イルカ・セングンとテムジンが対立し、そこにジャムカが讒言をしたこととなっているが、テムジンの勢力が無視できないほどに強力になってしまっていたことが原因であろう。
やるなら今しかない。
オン・カンはテムジンに対し完全なる奇襲を成功させた。
なんとか逃げ延びたテムジンは再び部隊を集結させオン・カンを打ち破ることに成功した。
残った諸部族は力を結集させるべくジャムカの元に集まった。
1205年、モンゴル民族の命運をかけた戦いはテムジンの勝利に終わる。
戦いの後、テムジンはジャムカに手を差し伸べたが、ジャムカはモンゴルの星となることを願った。
こうして、テムジンによるモンゴル統一戦争は終わりを迎えたのだった。
クリルタイとチンギス・カンの誕生 カンとカーン、ハンとハーンは違うのか?
1206年、テムジンはクリルタイを招集した。
クリルタイというのは各部族が集まって様々なことを決める会議のようなもので、現在の国会に近い形と言える。暴虐の象徴のようなモンゴル軍が民主主義的な制度を取り入れていたことは実に面白いが、1206年ではテムジンをモンゴルのカンと認める決議が出され、ここに歴史上の人物としてのチンギス・カンが誕生した。
ちなみにチンギス・ハーンことテムジンの表記には沢山の種類がある。
・テムジン(鉄木仁)
・チンギス・カン
・チンギス・ハーン
・ジンギスカン
・成吉思汗
折角の機会なのでこれらを整理すると、まず「ジンギス」と「チンギス」は西洋での呼び方か東洋での呼び方かという違いになる。
ジンギスはヨーロッパを中心とした西洋、チンギスは東洋世界全体での発音である。
次に「ハン」と「カン」はkを発音するかどうかの問題で、「khan」の表記から来ている。昔はkを発音していたらしいが今は発音しないので「ハン」の方が一般的だが、恐らくテムジンが存命中は「カン」であったと思われる。
そして「ハン」と「ハーン」だが、これは意味が大きく異なる。
例えるなら「ハン」は王、「ハーン」は王の中の王の意味なので皇帝に近い。
「ハーン」の位を初めて使ったのはテムジンの息子なので、当然テムジンは存命中には「ハーン」の位を使ってはいない。
だが、テムジンの子孫は「ハーン」を使っているのでテムジンにハーンがないというのは不都合である。
そう言った理由からテムジンのことは当サイトではチンギス・ハーンという名称で基本的には統一している。
チンギス・ハーンと優秀な将軍達4駿4狗
チンギス・ハーンは単独でも恐ろしく強いカリスマであったが、さらに優秀な8人の将軍達を擁していた。
中でも特筆すべきはジェベ、ムカリ、スブタイ(スベイデイ)の3人であろう。
これらの人物は世界の歴史上でもトップクラスの将軍達で、そのうちやるであろう「世界最強の名将ランキング」で詳しく取り上げたいと思う。
チンギス・ハーンの存命中で特に評価が高かったのがムカリで、途中参入組にも関わらず4駿のメンバーに選ばれている。
4駿
ムカリ:万人長、金遠征、ホラズム遠征で活躍
ボオルチュ:万人長
チラウン
ボロクル
4駿のメンバーには幼き日に自らを助けたチラウンに代表されるようにテムジンの少年時代からの付き合いのある人物が多く、明らかにムカリが浮いているのだが、ムカリは後に「国王」という称号まで得ており、特別信任が厚かった。
4狗
ジェベ:西遼を滅ぼす、ルーシ連合を滅ぼす
ジェルメ:スブタイの兄
スブタイ:ルーシ連合を撃破、ブルガール族を撃破、ホラズム、金への遠征、ハンガリー軍を撃破
フビライ:オアシス諸国を帰属させる
4狗のメンバーはどちらかと言えばチンギス・ハーンの死後に活躍した人物が多く、特にジェベとスブタイの2人はナポレオンやヒトラーさえ跳ね返したロシアの冬将軍をも破っており、世界最強の一角と言って良いだろう。
モンゴル帝国の建設と世界征服
クリルタイが開かれた時、既にモンゴル軍は西夏との戦いの際中であった。
伸長し続けるチンギス・ハーンの勢力は周辺国家においてもはや脅威でしかなく、戦いは避けられないものであった。
後に世界の征服王として知られるようになるモンゴル軍とチンギス・ハーンだが、西夏への侵攻には失敗している。
平地戦では無類の強さを誇る騎馬民族モンゴルも、城壁に阻まれた都市を攻め落とすことは出来なかったのだ。
万里の長城が騎馬民族の侵攻を食い止めるために作られたのは有名な話だが、基本的に騎馬民族は都市を落とすことは出来ない。
結局西夏とモンゴルの間で1209年に講和が成立し、1211年からは大国金に対し攻撃を仕掛けるようになる。
これは真正面からの攻撃というよりもゲリラ的な略奪と言った方がよく、当時のモンゴル高原の人口は全体で100万人前後、金の人口は5000万人とも言われていたため、初めから侵略の意思があったかは怪しい。
しかし、モンゴル軍はこの過程で攻城兵器を吸収し、次第に都市を攻め落とすことに成功していくようになる。
史料によれば1211年には5000万人ほどいた金の人口は1240年代には1000万人を下回るほどになっていたと言い、その苛烈な攻撃の様が見て取れる。
1214年にはモンゴル軍は万里の長城を南下、金はたまらず講和を申し込むも首都を燕京(今の北京)から南にある開封に移すとチンギス・ハーンは盟約違反を主張し再び金に攻め入ることになる。
燕京を落としたチンギス・ハーンは中国方面をムカリに任せ自らはモンゴル高原へと引き上げていった。
それは休みをとるためではなく、もう1つの大国西遼(カラ=キタイ)を攻め滅ぼすためである。
西遼への攻撃はジェベが先導し、やがてかの地も併合することになる。
そしてカラ=キタイの地を併合したことでイスラム勢力であるホラズム・シャー国と国境を接するようになる。
ホラズム・シャー国はサマルカンドを中心に強大な勢力を築いており、当時イスラム世界、あるいは世界最強の国家との呼び声も高かった。
モンゴルはホラズム・シャーに使節を送る。使節は無惨に殺され、チンギス・ハーンは自ら軍を率い、4人の息子達と共にホラズム・シャー国への大遠征を行った。
最強のカリスマ、4人の息子、ジェベやスブタイなどの最強の将軍達、そして攻城力と機動力を兼ね備えたモンゴル軍に敵はおらず、強大なホラズム・シャー国はあっという間に地上からその姿を消した。
抵抗した都市はすべて破壊され、従わない者は即座に殺された。恐怖が伝染するようになると兵士たちは逃げ出すようになり、もはやシャー(王)のために戦おうとする者はいなくなったという。
最終的にはアフガニスタンまで攻め入り、都市という都市を破壊した後チンギス・ハーンはモンゴル高原へと帰っていった。
この時のモンゴル高原は、各地から運ばれた金銀財宝で埋め尽くされたという。
チンギス・ハーンがモンゴル高原に戻った1225年の翌年、すなわち1226年には西夏を攻めた。西夏がホラズム・シャー国遠征に強力しなかったことが原因であるという。
西夏は今度は1年ももたずに滅びた。モンゴル軍は、もはやかつて戦った国とは違った。各地で最新式の戦術を学び、兵器を取り入れ、世界中に止めることのできない勢力になっていた。
純粋な兵力で言えば、西夏は30万を号し、モンゴル軍は多く見積もって12万ほどであったが、もはや西夏はモンゴル軍の敵ではなかった。
偉大な征服王の最後
チンギス・ハーンは、巨大な領土を息子達によって分割統治させた。ロシア、ヨーロッパ方面は長男ジョチ、ジョチが死んだ後にはその息子のバトゥに、中央アジアは次男チャガタイに、そしてチンギス・ハーン自体は末子トゥルイにモンゴル高原を統治させるつもりだったという。
事実、チンギス・ハーンは129人の千人隊長のうち101の千人隊長の指揮権をトゥルイに与えていたという。
チンギス・ハーンの構想では、いくつかの小さな国(ウルス)を大モンゴル帝国(イェケ・モンゴル・ウルス)が支配するというもので、トゥルイ家がそれぞれのウルスを統治するはずであった。
しかし後継者争いは非常に揉めた。
チンギス・ハーンの生まれは分からないが死んだのは1227年8月18日だと分かっている。
この時、トゥルイは3男オゴタイと共に金を攻めていた。
しかしチンギス・ハーンの死を知って一族はモンゴル高原でクリルタイを開くことになる。
結論を言えばオゴタイが2代目のイェケ・モンゴル・ウルスのハンとなり、そしてハーンを名乗ることになった。
この過程については研究者の中でも議論の尽きない部分である。
モンゴル民族は本来末子相続が基本であった。あらゆる意味でトゥルイが後継者として相応しかったが、中華文明的には長子相続が基本である。この時既にジョチは死んでおり、その子のバトゥが後継権を主張したという。
これには次男のチャガタイが反対した。チャガタイはジョチの存命中から自分こそが長男であると豪語していたといい、ジョチをメルキト族の子供として扱っていたという。
最終的にオゴタイが後継者になったのはチャガタイの意思が尊重されたためだとも言う。真相は不明だが、後継者にはオゴタイがなった。
その後バトゥはジョチウルス(キプチャクハン国)を作り、チャガタイは中央アジアにチャガタイウルスを建国し、大きな共同体として各地の征服に乗り出していく。やがてバトゥはスブタイやジェベと共にロシアおよびヨーロッパを征服し、トゥルイの息子であるフビライは南宋を、後にイルハンとなるフレグはアッバース朝を滅ぼすことになる。
この段階でモンゴル帝国は世界の陸地の20%、ユーラシア大陸の60%、世界人口の50%を擁する陸続きの国としては歴史上最大版図を実現した。
個人的なチンギス・ハーンの評価
世界史第一級の英雄である。
まさに世界の歴史を変えた人物、最近ではチンギス・ハーンの登場により「世界史」が始まったという考え方も出てきた。
かつて、中華文明とヨーロッパ文明は交易を通してしか接していなかったが、モンゴル帝国の出現によってつながった。イタリアはヴェネツィアのマルコ・ポーロは中国まで来たし、宣教師であるルブルックやモンテ・カルピノはモンゴル高原のカラコルムに実際に訪れている。
チンギス・ハーンというと残虐なイメージもありそれも1つの側面だが、モンゴル帝国内では信教の自由は完全に保証されるなど寛容で、政策は諸部族の合議体であるクリルタイで決められていたなど当時としてはかなり異質な存在であったと言える。
残虐な暴君が同時に寛容な名君であるというのは矛盾に満ちているが、どちらもチンギス・ハーンという人物の側面であろう。
世界史上最強の英雄にして、暴虐の君主であり寛容な名君、戦うごとに強くなる少年誌的な魅力を秘めているかと思えば仲間がどんどん増えていくカリスマでもある。
とても一言では言い表せない偉大な人物、それがチンギス・ハーンであるということだろう。