決定版!世界史で活躍した偉大な女性ランキングベスト50~後世に名を遺すべき女性たちの活躍~

 ここ最近悪女と暴君の記事を書いてきたので、今回は人を褒め称える記事を書きたいと思う。

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今回のテーマは「世界の歴史で活躍した偉大な女性ランキングベスト50」。文字通り世界史で活躍した女性たちをランキング形式でお伝えしていきたいなと思いますのでおつきあい願えれば幸いです。

てな訳で前置きが長くなってしまうのもアレなので早速ランキングに行ってみよう!

第50位:最も成功した女性起業家「ココ・シャネル」

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20世紀を代表するファッションデザイナー。貧しい生まれながらもその美貌と才覚で世界でもその名を知らない人が稀と言えるほど強力なブランドを築き上げた。

ココ・シャネルが世界の歴史上最も成功し、最も著名で最も偉大な起業家であることは誰しも認めるところであろう。

しかしココ・シャネルの母国での評判は必ずしもよろしくはない。

その理由は2つあり、まずはその起業過程について批判の声がある。幼い頃に母親を失い修道院で育った彼女には、自身のブランドを立ち上げるだけの資金がなかった。そこで彼女は繊維会社の跡取り息子のエティエンヌ・バルサンを誘惑しその資金を調達したのである。

あえて「誘惑」という言葉を使ったのは、シャネルはバルサンの親友で富豪のアーサー・カペルとも関係があり、彼もまたシャネルに出資していたからである。彼女は最終的にカペルからの出資を返済したようだが、ウエストミンスター公爵を始め多くの有力者と関係を持つことで資金とコネクションを築いていったのだ。

だが恋愛の国フランスにおいて、シャネルのこのような行いは必ずしも否に傾くものではなかった。シャネルの評判を決定的に貶めたのは2点目、彼女がナチスゲシュタポの高官ハンス・ギュンター・フォン・ディンクラージの愛人となったからである。

シャネルはそのことによりまだシャルル・ドゴール(後のフランス大統領)によって逮捕され、フランス国中から「売国奴」の罵声を浴び、釈放されると母国を離れスイスへと亡命した。

ナチスの愛人のイメージのついたココ・シャネルのブランドはヨーロッパではバッシングを受けることになったが、海の向こうのアメリカでは大いに受け入れられ、マリリン・モンローがシャネル製の香水を愛用するなど徐々にブランド力を取り戻し、現在では世界に300店舗以上を構えるブランドとして確立されている。

悪い評判もある彼女だが、現在の美の基準を作った人物でもあり、彼女の存在はファッションの在り方を永遠に変えてしまったとさえ言われるほどである。

第49位:アルゼンチンの聖なる悪女「エバ・ペロン」

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悪女のランキングと全く同じキャッチコピーで載せた。

彼女は反対派を弾圧したり自分の悪口を言った新聞社を潰したり国民からとった税金を懐に入れて高級ブランドを愛好するなど悪女的な行動も目立つが、アルゼンチン内で女性参政権を確立したのも実は彼女であり、貧困者の為の施設を作ったり食料の配布を行ったり労働者のための政治を行うなど弱き者には優しかったため現在でも彼女を聖女エビータと呼ぶ者は多い。

実際現在でもアルゼンチン国内での彼女の人気は非常に高く、エヴァ・ペロンを主役にすえた映画「エビータ」をマドンナ主演で撮影するとなった際、アルゼンチン国民はイメージと違うと言って激怒したほどである。

第48位:日本が誇る女史「緒方貞子」

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先日(2019年10月)亡くなられた日本が誇る第8代国連高等弁務官。

国連公使、国際連合児童基金執行理事会議長、国連人権委員会日本政府代表などを歴任し、日本の文化功労章、インドのインディラ・ガンディー賞、フランスのレジョン・ド・ヌールを受賞するなどその活動は世界から称賛された。

彼女の活動などは国連UNHCR協会のこちらの記事に詳しいので彼女の業績をご存知ない方は一読するのも良いと思う。

www.japanforunhcr.org

生前大活躍だった緒方貞子氏は以下のような言葉を残している。

「文化、宗教、信念が異なろうと、大切なのは苦しむ人々の命を救うこと。自分の国だけの平和はありえない。世界はつながっているのだから」

第47位:北魏の全盛期を作りし影の女帝「文成文明皇后」

北魏の孝文帝は世界史の教科書にも載っているぐらいメジャーで功績の大きい人物であるが、彼の功績は実はほとんど文成文明皇后によるものである。

鮮卑族出身であった文成文明皇后は確かな指導力で漢人の官吏登用など北魏の漢化政策を主導し、租庸調や三長制といった後に日本にも輸入されることになる制度を確立しながら北魏という国を中華第一の大国にのし上げて行った。

しかしその裏で自分の血のつながらない義理の息子を殺してまだ幼き自分の孫(一説には自分の息子)である孝文帝を皇帝にし陰から政治を操ったなど悪女度もまた高い。

文成文明皇后に限らず、今回のランキングは悪女のランキングにも載っている人物が多い。人にはプラスの面とマイナスの面があり、今回はできるだけプラスの面を評価したいと思っている。偉大な女性が悪女としての側面を持っていることは、決して珍しいことではないのである。

第46位:確立された自己を持つドイツの首相「アンゲラ・メルケル」

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ドイツ初の女性首相にして2004年から2019年現在まで実に15年以上もその地位にいる人物。

彼女の政策については賛否両論あり、他のEU諸国からドイツ式のモラルを押し付けすぎると批判され、移民問題ではアメリカのトランプ大統領と激しく対立しているなど、その評価はしばらく定まらないであろう。

メルケル政権下でドイツは100万人を超す移民を受け入れてきたが、その移民たちが起こす犯罪などにドイツ国民は頭を悩ませており、ケルン大晦日集団性暴行事件では400人を超すドイツ人女性が被害に遭ったという。ギリシャに対する債務の減免措置にもはっきりNOを突き付けIMFとも対立、良くも悪くもNOと言える首相で、日本に必要なのはこういうリーダーなんだろうなと個人的には思ってしまう。

第45位:プログラミングの生みの親?「エイダ・ラブレス」

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1815年に生まれた世界初のプログラマーと呼ばれる女性。

プログラミングと呼ばれるものの基礎を彼女が作り、コンピューターの母であるという意見がある一方で、彼女は数学が得意ではなく、決してそのような成果を上げてはいないという論争のある人物でもある。

プログラミングが義務教育にも取り入れられるようになる昨今、彼女の位置づけ論争は一層激化するかも知れない。 

第44位:限界を感じさせぬ女性「ミシェル・オバマ」

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歴代ファーストレディの中でも5本の指に入るほど人気で、その著書「マイストーリー」は全世界で1000万部を超える空前絶後の大ベストセラーとなっている。

彼女はハーヴァードロースクールを卒業した弁護士でもあり、夫のバラク・オバマが大統領選挙に出馬している時でも弁護士業を辞めなかったことは有名で、結婚しながらも自立した女性の代表と言えるかも知れない。

彼女は言う。

「私たちが女性として成し遂げられることに限界などない」

第43位:剛腕の尼将軍「北条政子」

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悪女の項にも出てきた尼将軍。偉大な女性は時として悪女という評価を受けやすい。

ご存知源頼朝の奥方で、頼朝の浮気相手の家を壊すなど結構過激なことをやってはいるが、頼朝の直系が断絶した後でも鎌倉幕府が存続したのは彼女の剛腕があったからに他ならない。

特に承久の乱に際して行った演説は有名で、院の側に就きたい者はそうするが良い!という言葉は普通出てこない。

何気に息子と孫の方が先に死んでしまっており、そのような中でも一門をまとめ上げた手腕はもっと評価されるべきなのかも知れない。伊豆に流罪になった頼朝に目を付けたことからも人を見る目は確かだったのだろうし。

第42位:忠孝の女将軍「秦良玉」

儒教というのは徹底的な男尊女卑を貫いており、そのため歴代中国の歴史書において女性に列伝が設けられた例は王族を除いてたった1つしかない。

そのたった1人の例外が明代に活躍した秦良玉である。

彼女は非常に教養に優れた女性で、詩文の才能があり、死んだ夫に代わって兄や弟と共に軍を率いて女真族を撃退することに成功した。明滅亡後は暴君・悪漢の記事出てきた張献忠と戦い、明の遺臣である弘光帝に仕え続け、生涯その剣を忠義のために捧げたという。

李自成や呉三桂、張献忠などロクでもない裏切り者や暴漢だらけだったこの時代に、忠義を全うしたことは評価に値するだろう。

第41位:過激派フェニストの源流「エメリン・パンクハースト」

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彼女をここにランクインさせるべきかは非常に悩ましいところである。

エメリン・パンクハーストは恐らく世界史で最も有名なフェミニストで、いい意味でも悪い意味でも現在のフェミニスト運動の先駆けとなった人物である。

彼女の手法はとにかく過激かつ非合法なもので、自説を主張するために自身を含めた運動家を逮捕させる行動を繰り返し世間の注目を集め続けた。彼女の組織したWSPUという女性の権利団体はひたすら窓ガラスを割り続け、国会の傍聴席に自分たちの身体を鎖でしばりつけたり、爆弾を使って郵便受けを爆破したりするなどもはやテロリズムと言っても良い手段で女性の地位向上を狙っていた。

特にイギリスの伝統あるエプソムダービーでゴールの前に飛び出して運動員が死亡するという事故を起こした際には世界中から顰蹙を買ったのだが、途中からハンガーストライキに訴えたり、一次大戦の際には運動を辞めて暴力的な戦術を停止するなどただの過激派ではない面もある。

彼女の過激なフェミニズムは海を渡ったアメリカでも受け入れられ、ウーマンリブのような過激な運動組織へと継承させていく。

彼女の与えた影響は悪い意味でも大きく、現在でもフェミニストが暴れやすい傾向にあるのはエメリン・パンクハーストにその源流を求めることができるだろう。

とはいえ彼女の尽力で1918年にイギリスで、1920年にアメリカで女性参政権が実現できたのも確かなので、エメリン・パンクハーストはやはり偉人なのである。

第40位:徳川幕府の基礎を作りし女傑「春日局」

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徳川家三代将軍徳川家光の乳母。

大奥の役職や法を整備し老中をも上回る権力を手に入れたことで徳川幕府の陰の権力者と言われた人物。

家光を将軍にするために徳川家康に直訴するなどかなりの行動派で、外出して城の門限に遅れた際には規則を守ることを手本とさせねばならぬとし自ら門前で一夜を明かした逸話などは有名。各種「大奥もの」と呼ばれる映画やドラマでは悪役に近いイメージがあるが、このエピソードから他人にも自分にも厳しい人物像が見て取れる。

第39位:ヴェトナムの国民的英雄「徴姉妹」

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後漢創成期、まだ光武帝が存命だったころ、現在のベトナムにあたる交趾郡において大規模な反乱が勃発した。反乱の首謀者は徴側、徴弐の2人の姉妹で、後にこの反乱は徴姉妹の乱と呼ばれるようになる。

乱自体は後漢の名将馬援(三国志に出てくる馬超の先祖)によって鎮圧されてしまうが、大中華帝国に反旗を翻したということでヴェトナムでは現在でも英雄視されており、各地に彼女らを祀る寺などが多数存在している。

第38位:インドのジャンヌ・ダルク「ラクシュミー・バーイー」

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インドの王族に嫁いだ彼女は子供と夫を亡くしその領土を失ってしまう。しかしその3年後に起きたインドの大反乱(シパーヒーの乱)において彼女は私財を投じて軍を組織しイギリス軍に対抗、壮絶な抵抗の末イギリス軍によって狙撃されてしまう。

彼女の死はインドの人々だけでなくイギリス軍からも惜しまれ、現在ではインドの国民的英雄として各地に銅像が建てられている。

彼女の義勇軍は女性や子供が多く、装備もそれほど充実していなかったというが、それでも近代的な英国軍に対し善戦したことからインドはもちろんイギリスにおいても評価の高い人物である。

第37位:日本の基礎を作りし女王「卑弥呼」

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ご存知邪馬台国の女王。三国志の1つ魏志によれば鬼道をもって倭国の人々をまとめ上げていたという。その実態は不明な部分が多いが、現在では「卑弥呼=天照大神(アマテラスオオミカミ)説」を始め日本の歴史の基礎を作った人物という評価がされており、現在の天皇家の始祖である可能性も捨てきれない(神武天皇は天照大神の5代孫である)。

それらの真偽は不明だが、事実彼女のカリスマで邪馬台国は統治されていたのだから偉大な女王であると評価すべきであろう。

第36位:揺れ動く人権の女神との評価「アウンサン・スーチー」

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ビルマ建国の父と呼ばれる抗日の英雄アウンサン将軍の娘。

ビルマ語、英語、日本語、フランス語などを操れる才女で、軍事政権相手に徹底した非暴力主義を貫いて抵抗し、1991年にはノーベル平和賞を受賞している。

その時点でこの記事を書いていれば彼女の順位は非常に高かったのだが、2013年に国際人権団体ヒューマン・ライフ・ウォッチングによりスーチー女史がイスラム系少数民族ロヒンギャ族に対する迫害を黙認していることが暴露され、彼女の評判は地に落ちてしまった。

ビルマの仏教勢力からの支持を得るためにイスラム勢力への迫害を黙認したとみられ、その結果イスラムの人権団体などからも非難を浴びてしまっており、ノーベル平和賞をはく奪すべきとの署名も数十万単位で集まっているという。

第35位:世界最高齢国家元首「エリザベス2世」

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この記事を書いている2019年時点での英国女王。

イギリスだけでなくカナダ、オーストラリア、ニュージーランド、ジャマイカ、バルバドス、バハマ、グレナダ、パプアニューギニア、ソロモン諸島、ツバル、セントルシア、セントビンセント・グレナディーン、ベリーズ、アンティグア・バーブーダ、セントクリストファー・ネイビスなど16か国の君主も兼任している人物である。

在位期間67年とイギリスの歴史上最長で、2019年現在では世界最長寿の国家元首でもある。

数々の王室スキャンダル、故ダイアナ妃への冷淡な対応や15億にもおよぶ個人資産がタックスヘイブンで運用されていたことが判明するなど評判を落とすようなこともあったが、90歳を超えた現在でも精力的に公務に携わっている様は圧巻である。

第34位:世界史上最も悲惨な死に方をしてしまった女性「ヒュパティア

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本ランキング唯一の閲覧注意事項。

ヒュパティアは非常に教養豊かな女性で、当時世界で最大人口を擁していたエジプトのアレキサンドリアの哲学学校の校長を務めていた。

ローマ帝国はギリシャ文化を敬愛していたことからアレキサンドリアでもギリシャ哲学は盛んで、プラトンやアリストテレスの哲学をヒュパティアは多くの生徒に教授していたのだが、ローマ史上最低最悪の暴君テオドシウス帝によってギリシャ・ローマ的な文化が徹底破壊されるとアレキサンドリアにもその余波がきたことによって事態は一変してしまう。

暴走するキリスト教徒たちによってヒュパティアの哲学学校も襲撃を受け、捕えられた彼女は生きたままカキの貝殻でその身を摺られるという残虐な方法で処刑されたしまうのである。

ヒュパティアの虐殺事件はホロコーストと並ぶキリスト教徒によるユダヤ人への虐殺事件と呼べ、テオドシウス帝の行った政策が如何に情け容赦のないものであったかの実例でもあると言えよう。

 ヒュパティアは非常に学識優れた女性で、プラトンやアリストテレスの哲学書やプトレマイオスの書いたアルマゲスト、その他著名な算術の本に関する注釈や彼女自身の優れた著作物、彼女が開発した高度なアストロラーベおよびハイドロコープなどがあったと言われているが、それらも全て暴走するクリスチャンによって破壊されてしまったようである。

それらが残っていれば、彼女の名は悲惨な死に方をした女性などではなく偉大な女性科学者として歴史に名がのこっていたことだろう。

第33位:世界で最も美しい女性「オードリー・ヘップバーン」

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当サイトが思う世界最高の美女。

「ローマの休日」「ティファニーで朝食を」「マイフェアレディ」など多数の映画に出演したことはもちろんだが、晩年ユニセフ親善大使として活躍した点を当記事的には大きく評価したいと思う。

アフリカで活動している彼女は、銀幕の中の彼女よりも輝いていたのではないだろうか?

 彼女は生前次のような言葉を残している。

The beauty of a woman is not in a facial mole,but true beauty in a woman is reflected in her soul.It's the caring that she lovingly gives, the passion that she shows & the beauty of a woman only grows with passing years.

訳:女性の美しさは顔のほくろなどにある訳ではありません、女性の本当の美しさというのは魂に現れるのです。それは真心を込めた思いやりであり時折見せる情熱であり時を経ることにおいてのみ現れる女性の真の美しさなのです。

第32位:カルカッタの聖人「マザー・テレサ」

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マケドニア(オスマン帝国)生まれのカトリック修道女。

世界中の貧しき人々への活動が認められ1979年にはノーベル平和賞を、1996年にはわずか7人しかいないアメリカの名誉市民を授与される。

彼女は時のローマ教皇の許可を得て「飢えた人、裸の人、家のない人、体の不自由な人、病気の人、必要とされることのないすべての人、愛されていない人、誰からも世話されない人のために働く」ことを目的とした神の愛宣教会を設立し、インドを始め各国で活動を行っていた。

彼女の行動はまさに「聖人」なのだが、彼女の行動には生前から多くの批判もある。

例えばインドの首相インディラ・ガンディーが非常事態宣言を出し言論の統制を行った際にテレサがそれを肯定したことやヒンドゥー教徒やイスラム教徒が死に瀕している際無理矢理宣教を施しキリスト教徒にしていることなどが批判されていたし、今もされている。

イギリスBBCでは「地獄の天使」と題された番組が公表されたり、ハイチの独裁者(暴君ランキングを参照)フランシス・デュバリエを始め多くの黒い交際も取りざたされており、彼女の行動はまさに帝国主義的だという批判もされている。

 

第31位:愛すべき女性権利の向上者「アメリア・イアハート」

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大西洋単独飛行に初めて成功した女性パイロット。映画「ナイトミュージアム2」にも出てきたことから世界的に知名度も高い。

1937年に赤道上世界一周旅行に挑戦した際に行方不明となってしまい、その遺体は結局現在まで見つかっていない。そのためかアメリカではしばしば小説や映画の中に登場している。

彼女は全国女性党のメンバーでもあり、女性の権利向上のための運動にも参加し、女性パイロットの団体である「The Ninety-Nines」を設立、現在でも女性パイロットを支援するイアハート奨学金にその名を残している。

第30位:ブルボン朝影の実力者「ポンパドゥール夫人」

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ルイ15世の公妾。

フランスのブルボン朝には公妾と言われる独自の制度があった。これは国王の妃とは別に公式の愛人がおり、その中のトップは政治にさえ関与することができるという制度である。ポンパドゥール夫人の他にもルイ14世の公妾だったモンテスパン夫人や同じくルイ15世の公妾だったデュバリー夫人などが有名で、公妾になるには国王の寵愛の他に豊かな見識と判断力が要求され、身分などは関係なかったことから本当に実力のある女性しかなれなかった。

銀行家の娘として生まれたポンパドゥール夫人は平民であったがあまり政治に興味のないルイ15世に代わって政治面を担当し、オーストリアの女帝であったマリア・テレジアとの間に歴史的な「外交革命」を成立させたのも実は彼女である。これによって不俱戴天の仇であったオーストリアハプスブルク家との間に同盟関係が成立し、テレジアの娘であるマリー・アントワネットが後のルイ16世の妃となった。

また、ポンパドゥール夫人はサロンを開いて多くの芸術家を保護し、ヴォルテールなどの啓蒙思想家との親交も深めたという。

第29位:サハラのガンディーと呼ばれる人権運動家「アミナトゥ・ハイダー」

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サハラのガンディーの異名を持つ人権活動家。

日本では全く知られていないことだが、西サハラは現在でも独立運動の際中であり、ハイダー女史は独立派に与した罪でモロッコ政府から逮捕され投獄されている。2009年にはモロッコ西サハラ空港への再入国も拒否されてしまうのだが彼女はその対抗策としてハンガーストライキを敢行、そのことがきっかけで世界の注目を集めるようになった。

彼女の活動は欧米では大変に称賛されており、アメリカのジョン・F・ケネディ人権賞やスペイン難民委員会のファンマリアバンドレス賞、欧州議会によるサハロフ賞などを受賞し、イタリアのナポリやフィオレンティーナなど数十の街では彼女を名誉市民に選んでおり、その他数え切れぬほどの賞や名誉市民などが彼女に授与されている。

時として暴力を受けることがあっても徹底的な非暴力を貫きながら人権活動を行うアミナトゥ・ハイダー女史は偉大な女性の1人であると言えるだろう。

第28位:大帝と呼ばれたグルジアの女王「タマル」

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中世に存在したグルジアの女王。

セルジューク朝トルコを追い出しグルジア王国の最盛期を現出した女性で、彼女はカスピ海沿岸のアゼルバイジャンから黒海までの広大な土地を領有し、東ローマ帝国の亡命政権であるトレビゾンド帝国の建国を助けるなど活躍、その功績の大きさから女性にも関わらず「Tamar the Great(タマル大帝)」という尊称で呼ばれている。

余談だが19世紀後半、グルジアの地で生まれたのが後のソ連の書記長となるヨシフ・スターリンである。

第27位:幻のノーベル賞「ロザリンド・フランクリン」

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イギリスの物理学者。石炭やグラファイド、DNAの化学構造の解明に貢献した。

彼女の発見はのちにDNAの二重らせん構造を解明するのに大きな役割を果たしたが、そのことは現在でも大きな問題となっている。1962年にワトソンとクリック、そしてウィルキンスの3人はノーベル生理学・医学賞を受賞しているが、本来受賞すべきだったのはフランクリンであるという意見があるのだ。

彼女は1958年に37歳の若さで死んでしまっているため受賞が出来なかったのだが、DNAの二重らせん構造を最初に発見したのはどうやらロザリンドであるらしい。

その功績は近年になってようやく評価され、2008年にはコロンビア大学からホロウィッツ賞が遺贈されており、ユネスコとロレアルが協賛して行った「Most inspirational woman in science」という企画においてロザリンドは2位に選出されている(1位の人物は後程出てくる)。

第26位:悪女なのか救国の英雄なのか?「ンジンガ」

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悪女のランキングにも出てきたアフリカウドンゴ王国の女王。

ポルトガル側の記録によればンジンガは非常に凶暴な性格をしておりカニバリの趣味があったという。また自分に失礼な態度をとった村の村民600人を牢に入れると巨大な石臼を作ってそこに投入し、自ら食したと伝えられている。

個人的にはンジンガに対する記録はあまり信憑性がなく、ポルトガル側によってねつ造された可能性が高いのではないかと思っている。

ンジンガは現地の言葉とポルトガル語の両方を使いこなせた才女であるとも記録されており、当時奴隷狩りに勤しんでいたポルトガル勢力をウドンゴ王国から駆逐、オランダと結んでポルトガルに対抗し完全に対等な条約を結んでいる。

日本が後に欧米との不平等条約で苦しんだことを考えるとこれが如何に偉大な業績であるかがわかるだろう。

実際に彼女が悪女であったかどうかは不明だが、少なくとも彼女はヨーロッパ人から国を守った数少ない君主であることは確かである。

第25位:鉄の女と呼ばれた英国首相「マーガレット・サッチャー」

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イギリス初の英国首相。その果断な政治姿勢から鉄の女の異名を取った。

彼女の評価は実に難しい。

イギリスはかつて「ゆりかごから墓場まで」と言われるほど社会保障の厚い福祉国家を目指していたが、その結果国家財政は圧迫され、文字通り首が回らない状態となっていた。サッチャーはそこに大ナタを振り下ろし、社会保障の大幅削減を断行、その政策は「新保守主義」「新自由主義」と呼ばれた。

 アルゼンチンとの間に起きたマルビナス戦争にも勝利し鉄の女としての評判を得たが、欧州の統合には強硬に反対しており、その流れは現在もイギリス内で根強い。

「小さな政府」の推進者であり、その流れはアメリカのレーガンや日本の中曽根、小泉、そして安倍内閣へと引き継がれており、その正当な評価が下されるのはもう少し先になるかも知れない。

彼女への評価は、ある意味「国家とは何か」という根本的な問題を問う問題でもあるだろう。

第24位:アフリカ初の女性大統領「エレン・ジョンソン・サーリーフ」

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2006年から2018年までリベリア共和国の大統領を務めた女性。

 先進国と呼ばれる日本には未だ女性の総理は出ておらず、自由の国アメリカにおいても女性大統領は出ていないのだが、日本やアメリカ以上に女性差別の激しいはずのアフリカの大地に女性大統領が生まれたことは特筆に値するだろう。

エレン・ジョンソン・サーリーフは2011年にノーベル平和賞を受賞しており、その際には以下の言葉を遺している。

“If your dreams do not scare you, they are not big enough.”

 訳:もしあなたの夢が怖じ気づくようなものでなければ、その夢は小さすぎる。

第23位:世界の常識を変えてしまった女性作家「レイチェル・カーソン」

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化学物質の危険性を世界中に知らしめた「沈黙の春」の著者。

世界の歴史にはしばしばその流れを変えるような本が出てくるが、沈黙の春はまさにそう言った本の一冊であろう。今でこそ環境保護などは常識のようになっているが、それはカーソンが沈黙の春を書いたからであり、それまでは環境保護という概念すらなかったと言っても過言ではない。

彼女の活躍により「アースデイ」や「国連人間環境会議」などが開かれるようになり、全人類の意識が変わったと言える。

第22位:世界で活躍した看護師「クララ・バートン」

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南北戦争期に看護師として活躍し、アメリカ赤十字社を設立した女性。

彼女は専門的な看護教育を受けた訳ではないが、アメリカのみならず世界中で看護活動を行いドイツの鉄十字勲章、帝国ロシアの銀十字章、国際赤十字章を受章するなど世界各国からその活動を評価されている。

第21位:最も偉大な女性作家「パールバック」

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ピューリッツァー賞とノーベル文学賞を受賞した偉大な文学者。

「大地」などの文学作品で有名だが、児童書や絵本も執筆しており、アジアの貧困問題を解決すべくパールバック財団を設立、韓国に孤児院を、フィリピンやタイ、ベトナムに事務所を設立している。

人種差別や性差別に反対する運動にも熱心で、広島における平和活動への支援なども行った。

第20位:全世界が認めた人道的科学者「ドロシー・ホジキン」

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生体物質の分子構造の決定により1964年にノーベル化学賞を受賞した女性科学者。

彼女の活動は科学のみならず人道的な活動にも及んでおり、アジアや東欧といった貧しい地域への支援活動を行い核廃絶を求めるパグウォッシュ会議の議長なども務めた。その功績からソ連のレーニン平和賞やロモノソフメダルの授与、2019年現在でも女性では唯一となるコプリメダルの授与などを受けている。

彼女はオックスフォード大学の講師として活動した期間もあり、かのマーガレット・サッチャーを教えたこともあると言う。

彼女が構造決定した物質にはペニシリンやビタミンB12、インシュリンなどがあり、その功績はイギリスのみならず共産圏やアメリカなど全世界で評価された。

第19位:最も成功した女性作家「アガサ・クリスティ」

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エルキュール・ポワロやミス・マープルの生みの親。

本単位で見た場合に圧倒的なベストセラーは「バイブル」に他ならないが、作家単位でみると1位はウィリアム・シェイクスピアで2位はアガサクリスティとなっている。

別記事でも紹介した「そして誰もいなくなった」は全世界で1億冊以上が発行されたと言われており、彼女は歴史上最も成功した女性作家であると言えるだろう。

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個人的にはミステリーの類型は「そして誰もいなくなった」「アクロイド殺し」「オリエンタル急行殺人事件」の3つで全て出てきてしまったと言っても過言ではないと思っている。彼女に匹敵する才能の持ち主は今後果たして現れるのだろうか?

ちなみにアガサ・クリスティは作家としての名声よりもよき家庭人でいられたことを誇りにしていたという。その逸話はなんとなくだが映画「七人の侍」のラストシーンを思い起こさせる。

第18位:世界史きっての良妻賢母「ボルテ」

世界最大の帝国を作ったチンギス・ハーンの妃。

若い頃メルキト族にさらわれたボルテを取り戻すところからチンギス・ハーンことテムジンの冒険が始まっていて、彼には2000人以上の妃がいたが、彼が本当に愛したのはボルテだけであったと言われる。

チンギス・ハーンの死後はその広大な国が4分割される訳であるが、ジュチ、オゴタイ、チャガタイ、トゥルイの4兄弟は全員ボルテが産んだ子供たちであり、モンゴル帝国で「ハーン」を名乗れたのはボルテの子孫だけである。

夫に助言しその命を救ったことや4人の子供たちが全員例外なく優秀であることからもその良妻賢母ぶりが伺え、モンゴル帝国があそこまで広大になったのも、ボルテがあってこそだっただろうと思われる。

第17位:数学の歴史において最も重要な女性「エミー・ネーター」

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アルベルト・アインシュタインなど多くの科学者がこぞって数学の歴史で最も重要な役割を果たしたと称賛するのが19世紀後半にドイツで生まれたユダヤ人女性エミー・ネーターである。

彼女の研究は位相幾何学、昇鎖/降鎖、「ネーター環」、時間、群論、角運動量保存、連続的な対称性といった広汎な分野に及び、アインシュタインは彼女をして「the most gifted mathematicians(最も才能のある数学者)」と評した。

エミー・ネーターの功績は年を経るごとに評価を増し、彼女の誕生日3月23日には世界最大の検索エンジン「google」がその偉業に敬意を表し特別なロゴを作成しているほどである。

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第16位:中華史上唯一の女帝「則天武后」

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徹底的な男尊女卑文化の蔓延る中華の歴史において唯一の女帝。

そして世界史で最も評価の難しい人物の1人である。

長い間彼女の治世は「武韋の禍」と言われ、しばしば中国でも最悪な部類に入ると言われてきた。しかし近年ではそれは違うのではないかという意見が多数を占めるようになっており、当サイト的にも実は功績の方が大きいのではないかと考えている。

彼女は悪女ランキングにも登場したし、ライヴァルを平然と殺害し後年には皇帝であった息子を降格させ国号を唐から周へ、自らを聖神皇帝とし佞臣を重用したのも確かなのだが、彼女の治世中に唐の太宗や隋の煬帝でさえ失敗した高句麗遠征を成功させているし伝統的な門閥貴族性を抑制し科挙を導入したことで中華全土から優秀な人材を採用することに成功している点は評価すべきであると考えている。

後に「開元の治」と呼ばれるようになる玄宗皇帝の治世初期も則天武后の築いた遺産の上に成り立っていたという面もあり、実際彼女の治世中、貴族による反乱はあったものの民衆による反乱はただの一度もなかった。

 実は古来より則天武后を評価していた歴史家は存在しており、中華史5本の指に入る歴史家司馬光は則天武后をしてこう評している。

「刑賞の柄を挟み手以て賀御し、政は己より出で、明察善断、故に当時の英賢また基礎いて之がために用う」

 彼女はやはり英明な君主だっとするのが妥当であると思う。

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第15位:最悪の時代に終止符を打った皇后「独孤伽羅」

隋の初代皇帝楊堅の妻。実質的な隋の建国者。

この人物が頻繁に出てくるサイトはここだけだと思うが、それだけこの女性を評価しているということでもある。

隋の楊堅が成した功績は非常に大きい。

中国史において最悪な時代とは近現代を除けば黄巾の乱から続く戦乱の時代で、中華の歴史はもちろん世界史上でも稀なほど暴君や狂人の多い時代でもあった。どれくらい酷い人物が多かったかは当記事の兄妹記事とも言える暴君の記事を見てもらえればと思う。この時代、人類ワーストクラスの悪漢が多数生まれている。

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そんな戦乱の世を治めたのが北周の外戚だった楊堅だった訳だが、楊堅がそこまでの功績を遺せたのは妻である独孤伽羅の存在があったからに他ならない。

北周の有力者独孤信の娘として生まれ、どんな荒馬をも乗りこなすと言われた彼女は優柔不断だった楊堅の尻を叩き隋を建国させ、楊堅と共に「二聖」と並び称されたという。女性蔑視の強い中華の歴史でこの扱いは例外的と言っても良い。

夫の浮気に厳しく浮気相手を殺害してしまうなど気性の荒いところはあったが、その功績は中国史第一級と言ってもよいだろう。

ただ、彼女の意向で跡継ぎは長男でなく次男の煬帝になってしまい、その結果隋はあっという間に滅ぶことになってしまう。彼女の人選は歴史的なミスだったと言え、その分評価が下がってしまうのは仕方のないことであろう。

プラス面も大きかったがマイナス面も大きかった。それが独孤伽羅という人物であろう。

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第14位:奇跡の女性「ヘレン・ケラーとアン・サリヴァン」

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ヘレン・ケラーは目が見えず、耳が聞こえず、しゃべることもできないという3重苦と戦いながら世界史に名を遺した才媛。アン・サリヴァンはそんな彼女を熱心に指導したガヴァネス(女性家庭教師)。基本1つの順位につき1人が原則だが、ここだけ例外的に2人同時にランクインとさせてもらった。

2人の半生は「The Miracle Worker」、邦題では「奇跡の人」として何度も舞台および映画化されており、今や世界中で知らない人はいないほどの有名であると言えるだろう。ちなみにこれらの舞台や映画は日本だとヘレン・ケラーに対する敬意となっているが、海外ではサリヴァンに対しての尊称であるといい、主人公はむしろアン・サリヴァンのほうであるという。

サリヴァンがヘレンに会った時、まるで野獣のようで言葉も扱えず食べ物も手で食べるという有様であったが、サリヴァンはめげずに水で触れながら指文字で「water」というつづり字を教えたエピソードはこの2人の名前さえ知らない人でも聞いたことのあるほど有名なエピソードであると言えるだろう。

2人は政治活動家としても有名で、反戦運動や女性の地位向上、人種差別の撤廃、死刑制度や戦争時における虐殺の反対などに尽力していた。中でも障碍者に対する福祉活動を行ったことは有名で、日本にも東京や大阪にヘレンケラーの名前を冠した施設がいくつもあるほどである。

第13位:ヨーロッパ最強の女帝「マリア・テレジア」

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ハプスブルク朝オーストリアの女帝。日本ではマリー・アントワネットの母親と言った方が有名かも知れない。

ハプスブルク家の当主カール6世が無くなるとテレジアはオーストリア大公の地位を引き継ぐことになるのだが、女系相続を認めない隣国プロイセンの君主フリードリヒ大王とフランス王ルイ15世によってオーストリア継承戦争を仕掛けられてしまう。

結果としてプロイセンにシュレジェンの地を奪われるものの彼女の即位は国際的に認められるところとなり、彼女自身はさらにハンガリー王、ボヘミア王を兼任し、夫は神聖ローマ皇帝の地位に就くことになる。

テレジアはフリードリヒ大王に奪われたシュレジェンを取り戻すために不俱戴天の仇であるフランスブルボン朝と同盟をし世界を驚かせた。この同盟は後に外交革命と呼ばれ、先述したようにこの際に後のルイ16世のもとへテレジアの娘マリー・アントワネットが嫁ぐことになる。

プロイセンとの間に起こった7年戦争はイギリスの介入をも促し国際的な戦争となるも結局シュレジェンは取り返せなかったのだが、オーストリアの国際的な地位はさらに増し、ナポレオン戦争後におけるオーストリア主導の国際関係であるウィーン体制などの基礎となった。

なお、彼女は夫フランツ・シュテファンとの間に生涯16人の子供をもうけており、マリー・アントワネットはその末の娘である。フランツはテレジアの初恋の相手であったといい、フランツ死後テレジアは豪華な衣服を全て娘達に渡し、自身は終生喪服を着て過ごしたという。

第12位:歴史に残る良妻賢母にして人権派「アビゲイル・アダムズ」

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アメリカ合衆国第2代ジョン・アダムズ夫人であり第6代大統領ジョン・クインシー・アダムズの母親である。

彼女は非常に教養深い女性で、アビゲイルが夫に宛てた手紙は現在アメリカ史の貴重な史料となっており、その中でアビゲイルは女性の権利の確立と共に奴隷制廃止を明確に訴えている。トーマス・ジェファーソンもそうであるが、独立直後に奴隷制に反対していた人物も少数ながら存在していたことはアメリカの歴史にとって非常に重要である。

制度としてアメリカが奴隷制を廃止するのはこれ以降100年も待たねばならなかった訳だが、アビゲイルはそのような時世において奴隷制の廃止を主張した良識ある女性であると言えるだろう。

良妻賢母という言葉がこれ以上似合う女性もいない。

第11位:日本が誇る最大の偉人「紫式部」

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世界最古の長編物語である「源氏物語」の作者。 

「イリアス」「オデュッセイ」「アエネイス」「ローランの歌」など、所謂長編叙事詩と言われる韻文物語は存在していたが、紫式部が生み出した「源氏物語」が出るまで散文形式の長編は世界には存在していなかった。

欧州初の散文的長編「デカメロン」や「カンタベリー物語」がルネッサンス期の14世紀に生み出されたことを考えると、11世紀初頭にこのような長大な散文物語が発表されたことは驚嘆に値する。

日本史的には紫式部と清少納言は双璧ともいえるが、世界史においては圧倒的に紫式部の功績が大きい。

また、近代に入るまで女性が文学作品を遺した例はほとんどなく(18世紀にイギリスでジェーン・オースティンが出るまでほとんど例がない)、紫式部の存在は当時如何に日本の文化レベルが高かったかを表す例としても評価が高い。

その功績の大きさは信長や秀吉などが霞むレベルであり、紫式部こそは日本が世界に誇る偉人No.1であると言えるだろう。

第10位:ロシアを列強化させた女帝「エカテリーナ2世」

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悪女ランキングにも出てきたロシアの女帝。

夫から帝位を簒奪し、後世「王冠を付けた娼婦」という不名誉な綽名をつけられるほど多数の愛人を持った彼女だが、ロシア史上最長期間国家元首の地位にあった人物でもあり、啓蒙的絶対君主としてロシアの中央集権化につとめ、イギリスを妨害するためにアメリカ独立戦争を支援したりオスマントルコとの戦争に勝利しクリミア半島を手に入れたり、ポーランドを分割したりしてロマノフ朝ロシアを強国へとのし上げて行ったのは他でもないエカチェリーナ2世である。

フランス革命の際には対仏大同盟に参加したり日本にラクスマンを派遣したりとその業績は広く、国内で起きたコサックの反乱を鎮めたりポーランド分割に反抗したコシューシコの反乱を潰しポーランドそのものを消滅させたりとかなり強権的な一面もあるものの彼女のもとでロシアは大国になっていったのである。

ロシア史全体を見渡した際、ピョートル大帝と並んでロシアを強国化させその国際的地位を向上させた人物であると評価できるだろう。

第9位:世界に君臨せし女王「ヴィクトリア」

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 イギリス最盛期の女王。

人類の歴史上、陸続きで最大だったのはチンギス・ハーンが建てたモンゴル帝国だが、海を隔てた領土の総計で言えばヴィクトリア女王時代の大英帝国が最大である。

「君臨すれども統治はせず」という言葉通りに政治にはあまり介入せず、議会に政治を任せたという点で近代立憲主義の模範とも言うべき人物であり、64年間という実に長い間王座に就いていた人物でもある。

イギリスを中心に見た時これほど繁栄を享受した人物はいないが、同時にヴィクトリア女王の時代にイギリスの植民地は最大限に拡大され、彼女の存在は帝国主義の象徴という見方もできるであろう。

この時代に行った英国の植民地政策により多くの文明は破壊され、現在でも癒えない傷跡を世界各地に残してしまったのもまた歴史的な事実なのである。

なお、ヴィクトリアには生涯9人の子供が誕生し娘達はそれぞれが列強に嫁いでいき、その結果第一次世界大戦時の各国の君主、具体的にはドイツの皇帝ヴィルヘルム2世、ロマノフ朝ロシアの皇帝ニコライ2世、イギリスの王ジョージ5世は皆ヴィクトリア女王の孫であるという事態になり、孫同士が世界の歴史でも指折りで数えられる凄惨な殺し合いをするようになってしまった。

第8位:アメリカ史上最も勇気のある女性「ローザ・パークス」

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アメリカの歴史において黒人差別の問題は根強く、そして根が深い。

リンカーン大統領の奴隷解放宣言後も、南部と言われる地域では黒人差別が根強く、当時はバスの座席ですらも黒人用と白人用が分けられていた。厳然と残り続ける黒人差別に対し、誰もが見て見ぬふりをする中、ローザ・パークスはただ1人そのような理不尽に立ち向かっていき、堂々と白人用席座席に座ったのだった。その結果ローザ・パークスはジム・クロウ法と言われる人種差別法によって逮捕されることになる。

後に「ローザ・パークス事件」として知られるようになるこの出来事は全米を揺るがす事態に発展した。全米が開眼したと言っても良いかもしれない。事件を聞いたマーティン・ルーサー・キング牧師は立ち上がり公民権運動を開始、その流れはやがて全米および全世界に波及し、ワシントン大行進を経て1964年の公民権法の成立へとつながっていくことになる。

彼女の活躍によって少なくとも法の面では黒人差別はアメリカから消え去った訳だが、その間もローザ・パークスへの嫌がらせは続き、彼女は様々な土地と職業を転々とする羽目になったという。

しかし彼女のその勇気は称賛され、現在アメリカの教科書では彼女を「アメリカの歴史で最も勇気のあった人物」として紹介しており、日本の英語の教科書などでも取り上げられることがあるほどに至っている。

たった1人の勇気が全世界を動かした例は、世界史においても他に存在していない。

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第7位:世界のファーストレディ「エレノア・ルーズベルト」

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 最も優れたアメリカの大統領は?

ランキング好きなアメリカ人にこれを問いかけると非常に揉める。専門家はリンカーンんを推しが、結局フランクリン・ルーズベルトやケネディ、ワシントンなども人気で開催する毎に違った結果になるのである。

一方最も優れたファースト・レディは?という問いに関してはまるで揉めない。いつもエレノア・ルーズベストに決まるからである。

彼女はフランクリン・ルーズベルトの夫人としても有名だが、国連人権員会の委員長として「世界人権宣言」の起草に尽力した人権活動家としても有名である。

彼女は黒人や労働者を含むあらゆる女性の権利向上のために活動し、黒人歌手マリア・アンダーソンが黒人であるという理由でワシントンにある憲法記念会館の使用を拒否された際には公然とアンダーソンを擁護している。

まだまだ公民権運動が盛んになる前、これが如何に勇気のある行動であったか。

二次大戦中は日系アメリカ人に対する強制収容にも反対しており、差別主義者であったフランクリン・ルーズベルトとは対称的に真に人権派であったと言え、夫亡き後はアメリカ代表として国際連合の場で活躍した。

フランクリン・ルーズベルトの次代の大統領であるトルーマン大統領はエレノアの活躍ぶりをして「世界のファーストレディ」と評価したほどである。 

個人的には彼女が遺した以下の言葉が印象深い。

 The future belongs to those who believe in the beauty of their dreams.

 訳:未来はそれを美しいと思う者と共にある

It is better to light a single candle than to curse the darkness.

訳:暗闇を呪うよりもろうそくを灯しましょう

エレノア・ルーズベルトにもしケチをつけるとしたら夫の側近やボディーガード達と不倫の関係にあったという点にあるが、夫のフランクリンも公然と不倫をしており、さらに2人はお互いの不倫を知りながら励ましあうという不思議な関係であったという。

第6位:イギリスに栄光をもたらしたフェアリークイーン「エリザベス1世」

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イギリスは女王陛下の国というイメージがあるが、そうなったのはエリザベス1世からである。

それまでのイギリスにはエンプレス・マチルダやブラッディ・メアリーと言った悪女ランキングにも登場した女性君主が誕生しており、そのトラウマからイギリスは隣国フランス以上に極端に女性君主を毛嫌いしていたのだが、エリザベス1世の登場でその流れは180度変わった。

*伝説的女王ブーディカはヴィクトリア朝において再評価が下された。

彼女は私掠船を整備してスペイン船を襲わせ、オスマン帝国をレパントの海戦で打ち破ったスペインの無敵艦隊をアルマダ海戦によって打ち破り、英国が世界の海の覇者となる礎を築いた。これによって後にイギリスは最強の海洋帝国へと発展し、チンギス・ハーンをも上回る世界帝国「大英帝国」への基礎が築かれたのであった。

彼女の生涯は実に波乱万丈で、生母であるアン・ブーリンが父王ヘンリー8世に処刑されたり英国国教会を整備しカトリックの司祭たちを処断したことやスコットランド女王メアリーを処刑したことでローマ教皇からその首に賞金をかけられたりと命の危機に幾度となく見舞われながらも優秀な部下を用いて巧みに国家運営を行い、英国国民からは「グロリアーナ(栄光をもたらし者)」の名で称えられた。

後年はエンクロージャーによる貧富の差の拡大やアイルランドとの無理な戦争など失政も目立つようになるが、内政面、外政面、あらゆる功績を鑑みても、エリザベス1世の存在なくして後の大英帝国の栄光はなかったであろうし、確実に世界の歴史を変えた人物であると言える。

エリザベス1世に関しては、生前彼女が遺した以下の言葉が最も彼女を表していると思う。

「あなた方はこの王座に数多くのより強くより賢明な君主を迎えたかも知れませんし、これからも迎えるかも知れません。しかしこの私以上にあなたがたを愛する君主はこれまでもいなかったしこれからもいないでしょう」

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第5位:フランス史における大奇跡「ジャンヌ・ダルク」

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オルレアンの聖女。ナポレオンをも上回るフランス第一の英雄。

オルレアンの包囲戦を制したことでイギリスとの長きに渡った100年戦争を勝利に導いたもののイギリス軍に捕らえられ火刑によって壮絶な最期を遂げる。フランスにおいてこの1戦の意義は大きく、フランスがイギリスに勝った数少ない戦いであると言える(ナポレオンですら最後はイギリスのウェリントン将軍に負け、ネルソン提督には結局一度も勝てなかった)。

そのためフランスでのジャンヌ・ダルク人気は衰えることがなく、その死後500年が経過した後ローマ教皇から「聖人」の認定を正式に受けることができた。カトリック国であるフランスにおいてこの扱いは非常に誇り高いものである。

世界史上には様々な不可思議な話、とんでもない話が存在するが、わずか18歳の少女が軍隊を率いて国を救った例はジャンヌ・ダルクをおいて他にない。彼女は存在そのものがまさに奇跡と言えるだろう。

第4位:世界史上最も偉大な科学者「マリー・キュリー」

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ポーランド生まれの科学者。偉人というと真っ先に名前が挙がる人物。

彼女は後にノーベル化学賞とノーベル物理学賞という2つの分野でのノーベル賞受賞という快挙中の快挙を成し遂げるが、そこに至るまでの道のりは決して平坦ではなかった。

彼女はこれだけ優秀でありながら女性というだけでポーランドの大学への入学が認められず、姉を頼ってフランスまで留学しなければならなかった。マリーの家はポーランドの国民運動に参加したことにより没落してしまっており、彼女は貧困に耐えながら勉学を修めていく。

大学卒業後はピエール・キュリーと結婚し「馬小屋とジャガイモ倉庫を足して2で割ったような掘立小屋」で実験を繰り返し「ポロニウムとラジウムの発見」に代表されるような偉大な発見をし、放射能や放射線などもマリーが発見し名付けたという。

しかし彼女の研究の成果はまたも女性であるという理由で無視されていたという。幸いヨースタ=ミッタク・レフラーという人物の尽力などにより正当に評価され、やがて2種類のノーベル賞を受賞するに至った。

彼女の為した功績は大きく、原子番号96番の物質は彼女にちなんで「キュリウム」と名付けられ、彼女の名を冠した駅や研究所、はては大学まで存在しているほどである。

マリー・キュリーが凄いのはさらに長女のイレーヌ・ジュリオ・キュリーもノーベル化学賞を受賞したことであろう(さらに次女エーヴ・キュリーの夫ラブイスが事務局長だった際のユニセフもノーベル平和賞を受賞している)。

1人の研究者として、妻として、母親として、マリー・キュリーは偉大な功績を遺した人物だったと言える。

第3位:元祖白衣の天使「フローレンス・ナイチンゲール」

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現代日本では看護師の平均給与は一般人に比べて20%ほど多いが、彼女の生きた19世紀当時は一般人に比べて給与が安く、その社会的な身分は非常に低かった。裕福な家に生まれたナイチンゲールは当代でも最高の教育を受け、母国語である英語はもちろんフランス語、ギリシャ語、イタリア語、ラテン語などを習得しギリシャ哲学から数学、天文学、各種科学に美術、音楽、詩に文学など様々な教育過程をマスターしていった。その結果なのか彼女は困っている人を助けたいという使命感を抱き、自ら看護師を志望することになる。

両親は当然の如く反対するのだが、彼女の意思は固く、自ら看護師としての訓練を受け、ロシアとの間でクリミア戦争がおこると38人の看護師を連れて戦地へと赴いた。

現在でこそ医療関係者が戦地に赴くのは常識となっているが、当時そのような常識は存在しておらず、その常識はまさにナイチンゲールが作ったといえるだろう。

当時の医学では「細菌による感染」という概念はなかったために戦で死ぬよりも不衛生な環境での感染症で死ぬ人の方が多かったが、ナイチンゲールは直感的に衛生面の改善が死亡者を減らすと感じており、彼女の提言を受け入れた結果死亡者は劇的に減ったという。彼女はその成果をもって時の女王ヴィクトリアに謁見し野戦病院の環境改善を提言(その際統計学を用いて女王を説得した)、その後も医療の発展に尽くす。

彼女の活動対象は軍部にとどまらず、救貧院で看護師を雇うように法律そのものを整備し、世界初となる看護学校ナイチンゲール看護学校を開設、一説には彼女の尽力の結果20世紀に社会保障という概念が生まれたという。

看護師のことをよく白衣の天使と言うが、大元はクリミア戦争時にナイチンゲールについた「クリミアの天使」というあだ名にあるという。

ナースコールを考案したのも彼女であると言われ、医学の発展に大きく寄与した人物であると言えよう。

第2位:15歳で死んだ世界で最も偉大な少女「アンネ・フランク」

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世界中で読まれた「アンネの日記」の著者。ドイツ系ユダヤ人。

ナチスの迫害から逃れるためにドイツからオランダに移住するもオランダがナチスの占領を受けてしまい屋根裏部屋での生活を強いられてしまう。長き逃亡生活の果てにナチスの親衛隊(SS)に捕まってしまい、1945年3月に命を落とす。ナチスの降伏が5月であったため、あと2か月の我慢というところであった。

「アンネの日記」はV・E・フランクリンの「夜と霧」と共に人類が後世に残すべき1冊であり、人という生き物の狂気とその強さを記録した第一級の書物である。彼女はわずか15歳で亡くなってしまったが、その魂は未来へと語り継がれていくことであろう。

アンネ・フランクはドイツからの移住者であるが、亡命先でのオランダで非常に人気が高く、オランダ人が行う最も偉大なオランダ人は誰?というアンケートではヨハン・クライフよりも上の2位になることが多い(1位は大体オランダ独立戦争の英雄オラニエ公ウィレム)。そのあまりの人気からアンネにオランダ市民権を遺贈しようという案があったが、残念ながら実現はできなかったようである。

アンネは幼いながら非常に強い精神の持ち主で、アンネの日記には以下のような記載が遺されている(日付は1944年7月15日)。

自分でも不思議なのは私がいまだに理想のすべてを捨て去ってはいないという事実です。だって、どれもあまりに現実離れしすぎていて到底実現しそうもない理想ですから。にもかかわらず私はそれを待ち続けています。なぜなら今でも信じているからです。たとえ嫌なことばかりだとしても人間の本性はやっぱり善なのだと。

どんな状況になっても希望を捨てなかったアンネという人物がよく表れている箇所である。

かのアパルトヘイトに対抗した南アフリカのネルソン・マンデラはロベン監獄島においてよくアンネの日記を読んでおり、消えそうになる希望の灯を絶やさないようにしていたという。

第1位:世界で最も多くの者に影響を与えた女性「ハーディージャ」

この名前を聞いてピンと来る人は非常に少ないかも知れない。

世界宗教とも言えるイスラム教の創始者マホメット(ムハンマド)の最初の妻であり、彼女がいなければイスラム教は存在しなかったと断言できる人物でもある。

ハーディージャは良妻として15歳年下のマホメットと仲睦まじい暮らしを送っていた。そんな中マホメットはヒラー山で声を聴く。マホメットはそれを幻聴と思い妻のハーディージャに話すが、彼女はそれは啓示だと主張、最初のイスラム教徒となる。それはやがてマホメットの従兄弟のアリーや親友のアブー・バクルに伝わり、現在では世界で10億人以上が入信する世界最大の宗教の1つへと成長する。

以前、このブログで「世界史に影響を及ぼした人物ランキングベスト100」という記事を公表したが、マホメットをトップ5に入れている。

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同じテーマで書けば誰しもがマホメットをトップ5には入れるだろう。しかし彼の功績はハーディージャなくしてはなかった。

イスラム教初期においてマホメットの活動を財政的にも精神的にも支援したのは他ならぬハーディージャである。マホメットは後に7人の妻をめとるが、それはハーディージャの遺言であり、彼女が存命中にはマホメットはハーディージャだけを愛したという。

ランキングを終えて

今回は1位を誰にするか物凄く迷った。決定版!とか言っておきながら今もこれで良いのか迷っている。

看護師の基礎を作り医療の発展に寄与したナイチンゲールか、世界中に勇気を与えたアンネ・フランクか、はたまた世界宗教の創成に寄与したハーディージャか。

物凄く迷った結果世界中の人々に最も影響を及ぼしたということでハーディージャにした。これは賛否両論あるかも知れないが、ハーディージャがいなければ間違いなくイスラム教は世界宗教になっていないし、そもそも誕生さえしなかったことを考慮してである。イスラム暦元年はヒジュラの起こった年であるが、ヒジュラはハーディージャという後ろ盾がいなくなったことでマホメットがメッカにいられなくなったために起こったことであり、如何に彼女の力がマホメットにとって大きかったかがわかる出来事である。

そう言った意味で彼女の功績はスレイマン大帝よりもサラディンよりもハールーン・アッラシードよりも大きいと言えるだろう。イスラムというと女性蔑視のイメージがあるが、それは後年になってそうなってしまったのであり、創世記にはむしろ活躍した女性が結構いるのである。一夫多妻制も戦争で夫を亡くした女性の救済という意味合いが強く、別にハーレムを作るためのものではなかったのだ。

今回のランキング全体を見渡してみるとアメリカとイギリスの女性が多かったと思う。

アメリカ:10人

イギリス:10人

日本:5人

実際に並べてみるとアメリカ、イギリス、日本の3か国でちょうど半分という結果になっている。女性の活躍と文化、経済の発展には何か強い相関関係があるのかも知れない。

自分が日本人ということもあって日本人のランクインが目立ったが、日本は歴史の最初から比較的女性が活躍しやすい環境があるのかも知れない。今回ランクインしなかったけれども清少納言や平塚らいてう、津田梅子など日本史で活躍した女性は多い。

対してギリシャやローマの女性はほとんどランクインしなかった。暴君や悪女では山のようにランクインしたのに。

これはギリシャ・ローマ時代が徹底的な男尊女卑の社会であったからだろう。これらの時代は民主的な選挙は行ったがついぞ女性に参政権が認められることはなかった。英米において女性の参政権が認められたのは1920年前後のことであり、そう言ったことを考えるとやり方や内容はともかくエメリン・パンクハーストの功績はやはり大きいと言えるだろう。ただ、暴れればどうにかなるという悪習を遺してしまった人物でもあるが…

清少納言たちに限らず惜しくもランク外になった偉大な女性も結構いて、世界初の女性宇宙飛行士ワレンチナ・テレシコアやイギリスの伝説的な女王ブーディカ、ノーベル生理学・医学賞を受賞したバーバラ・マクリントップなど、ベスト100にしても良かったかも知れない。

後は悪女ランキングに出てきた女性もかなり多かった。良くも悪くも目立つから悪女と言われることが多いのであって、エカテリーナ女帝のように功績が大きい女性も多いし、エバ・ペロンみたいに悪い面も目立つが良い面も目立つ女性も結構いる。

偉大な女性と悪女はわりと紙一重なところがある。

という訳で今回はここまで。読んでくれてありがとう。もし記事が気に入ってくれたら何らかの形で拡散してくれるとすごく嬉しい。

個人的には悪女の記事よりこっちを読んで欲しいと思うのだが、多分悪女の記事の方が読まれるという結果になるんだろうなぁ…

はてぶでもツイッターでもポジティブな内容よりもネガティブな内容の方が広まりやすいところに現代社会の病理を感じる。