競走馬の世界において、フランスの凱旋門賞と並ぶ世界最高峰のレースに「キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスS」というレースがある。
全てのホースマンにとっての永遠のあこがれで、その栄光を目指して世界中から名馬たちが参戦し、しのぎを削るそのレースを、日本の馬は未だに制したことがない。
そんな大レースの名前の由来となったのがキングジョージⅥ世ことイギリス王ジョージ6世な訳だが、彼は生まれつき吃音を患っており、かつ長男ではなく次男であったために本来王になる人物ではなかった。
今回は「英国王のスピーチ」の元にもなったイギリスの歴史を代表する王について見て行こう。
即位まで
1895年、ジョージ6世はジョージ5世の次男として生まれ、後継者は兄のエドワード8世と決まっていた。
彼の生まれた時代は大変な時代であった。20歳そこそこで第一次世界大戦が起き、ジョージは海軍及び空軍の士官として参加し、戦後は結婚、エリザベスとマーガレットという2人の女の子をもうける。
この時生まれたエリザベスはご存知2019年現在のエリザベス2世女王陛下である。
1936年1月、父であるジョージ5世が死に、兄がエドワード8世として大英帝国の王として即位した。
しかし、同年の12月にエドワード8世は国民に向けてラジオで退位を宣言する。
原因は結婚をするためであった。
そしてキングジョージⅥ世が誕生した。
最も困難な時代のイギリス王
ジョージ6世が即位した時代は混迷を極めていた。
1920年から続くヴェルサイユ体制に反発する形でナチスドイツが力を握り、1929年にアメリカで起きた世界恐慌は世界をドン底に突き落とした。それによって多くの国の経済が衰退していく中、共産主義を掲げるスターリン支配下のソ連は大いに工業生産量を上げていく。
未だ世界最大の領土を持ちながら、一次大戦の債務に苦しむ大英帝国は、もはや求心力を失っていた。
国内は伸長するナチスドイツに対する政策で割れていた。
チャーチルに代表されるような対ナチスドイツ強硬派とチェンバレンに代表されるような対ドイツ融和派。
もはや戦争に対する忌避の心がイギリスを支配しており、結局チェンバレン率いる融和派が政権を握り、そしてナチスの行動を容認していた。ナチス側がイギリスに対して同じゲルマン民族としてのラブコールを送っていたのも大きかったかも知れない。
その間ドイツは軍備を拡張し、一次大戦で失った領地を回復させ、オーストリアやチェコを併合、ついにはソ連と結んでポーランドに侵攻を開始した。
第二次世界大戦の勃発である。
イギリスにとっては最悪の展開である。イギリス国内ではヒトラー以上にソ連の共産主義が脅威であったとみられていて、それらの脅威が手を組んで避けたかった戦争を起こしたのだから国内は混乱した。
ヒトラーは瞬く間にフランスやオランダ、ベルギーなどを次々と攻略していきイギリスも空爆を受けることになる。
ここにチェンバレンは辞職し、対ドイツ強硬派の代表だったチャーチルがイギリスの総理大臣に就任することになった。
チャーチルは当初ジョージ6世とは折り合いが悪いとみられていた。
というのもチャーチルはほとんど唯一と言ってもよい先王エドワード8世の理解者で、ジョージ6世は彼を嫌っていたからだ。
しかしジョージ6世は国家の危機にあたって私情を挟むような王ではなかった。2人は互いに協力しあい、ナチスドイツに対抗することを決めた。
これによりナチスによって陥落した各国の王族や指導者がイギリスに亡命してくるようになった。フランスのシャルル・ドゴールなどはこの代表である。
ヨーロッパは一時期ナチスとその友好国で占められた。
イタリアやスペインはファシズムに支配され、フランスやベネルクス3国、北欧もほとんどがナチスに敗れ、ソ連とも手を組んだ結果実質的にイギリスは欧州の全てを抱えるドイツとの戦争を戦い抜かねばならなかった。
世に言う「バトルオブブリテン」である。
窮地に陥ったイギリスを救ったのはレーダーとエニグマの解読であった。
ナチスの空爆を防ぐ手立てがなく連合国軍は敗れたが、イギリスはレーダーを開発したことにより空爆を阻止することができた。それでも潜水艦などの爆撃にはやられていたが、アラン・チューリングの活躍などもありナチスの暗号エニグマの解読に成功し、ある程度は被害を食い止めることが出来た。
イギリスにとって幸いだったのはアメリカ合衆国が参戦したことと、ドイツとソ連が敵対したことであっただろう。
ドイツと同盟中だった極東の島国日本がアメリカに宣戦したことによりドイツはこの最強の国家を相手にしなければならなかった。
ミッドウェー海戦、スターリングラードの戦い、ノルマンディー上陸作戦などを通じてドイツ軍は降伏、最後に残った日本には新型爆弾であるアトミックボムが投入され、侍の国日本もついには降伏した。
こうして二次大戦は終わった。
イギリスは、勝ったはずだった。
イギリスの衰退
現代的な視点から見ると、敗戦国であったドイツや日本よりも、戦勝国であったイギリスの被害が一番大きかったかも知れない。
イギリスは戦争継続のためにかなりの額の借款をしており、これが完済されたのは21世紀に入ってからのことであった。国内には厭戦ムードがただよっており、チャーチルは大戦が終わる前に首相ではなくなっていた。
イギリスはアトリー政権下のもと戦後復興に取り組んだ。
しかしもはやイギリスに大英帝国を維持するだけの力はなく、1947年にはインドとパキスタンが独立し、ジョージ6世はインド皇帝としての地位を失った。
その後2年間の間にビルマ、パレスチナ、そしてアイルランドが次々と独立し、その後も各植民地は独立していった。
そういった心労もあったのか、ジョージ6世は体調を崩しがちになり、娘のエリザベスが公務を行うことも多くなっていた。
1952年、ジョージ6世は永遠の眠りについた。
キングジョージⅥ世への評価
当初、ジョージ6世の即位を不安視することが多かった。吃音もちということもありジョージ6世は演説が得意ではなく、退位したエドワード8世の方が優秀な王だとみなされていたからだ。
しかしジョージ6世の死を聞いたチャーチル(再び英国首相になっていた)はその死を聞いて「badニュースではないworstニュースだ」と言って涙していたという。
ジョージ6世はかなり人権派な面があり、南アフリカに赴いた際には白人が平然と黒人を差別するアパルトヘイトに対して愕然とし、「白人の政府指導者を全員射殺したい!」と怒りを露わにしたという。
ジョージ6世のこの時のショックは非常に大きかったようで、帰国した際には7Kgも体重が減っていたという。
エドワード8世が失った王室への信頼を回復させ、国民と共に人類最悪の戦争を戦い抜いた王の心労はいかばかりであっただろうか。
現在でもジョージ6世をモデルとした映画が多数作られており、キングジョージⅥ世がどれほどイギリス国民から愛されているかがよく分かる。
「男女の別、国の大小に関わらず、信念はみな平等である」
ロンドンで行われた第一回国際連合において、ジョージ6世はそう演説したという。
彼の人柄を最も表したスピーチであると言えるだろう。