1688年に起きたイギリスの名誉革命について!権利の章典の内容と共に解説

「名誉革命」が載っていない歴史の教科書はない。歴史だけでなく、政治経済の教科書にもないであろう。

 議会と祖法

名誉革命は清教徒革命ほどややこしくない。

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最近では清教徒革命と名誉革命を合わせて「イギリス革命」とすることも多くなったが、両革命における根本は宗教の問題と議会および祖法の問題である。

日本が議会制政治を取り入れたのは明確に明治維新の時からであるが、イギリスにおいては古代ローマ帝国からの沿革でその創成期から議会制が採用されており、もはや伝統の長さが違うと言える。そのため我々はイマイチ議会制政治になじんでおらず、未だに江戸時代のお上意識を引きづっていると言える。

イギリスでは伝統的に議会の承認なしには課税ができなかった。

イギリスをはじめとした中世ヨーロッパの諸国家は常備軍を持っておらず、イングランドにおいては戦争の際には議会を招集し課税をし、それをもとでに軍隊を形成するという伝統があった。

それを伝統的な「祖法」と呼んだりもするのだが、エリザベス女王死後の王家スチュワート家はそのような伝統的な祖法を守らず、王権神授説を信奉し議会を軽視する政策を代々採用してきた。

スチュワート家は代々スコットランドの王家であり、イングランドの伝統的な政治を守らなくても不思議はないのだが、これらの行動は議会の反発を招き、ついには清教徒革命を起こし国王の処刑という前代未聞の出来事を引き起こしてしまう。

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しかしその後権力を握ったオリバー・クロムウェルが死ぬと議会はチャールズ一世の息子チャールズ二世をイングランド国王に迎える。

チャールズ二世は「怠惰王」と言われていたが、君臨すれども統治はせずという意味では議会とうまくやっていた。

それでもどうしてもうまくやれなかったのが弟ジェームズの後継者問題であった。

チャールズ一世処刑後、その家族はフランスに亡命した。これはチャールズ一世の妻ヘンリエッタ・マリアがフランス王13世の妹であったからだ。この時にチャールズ二世と弟ジェームズはカトリックに改宗してしまう。

慎重なチャールズ二世はこれを隠し通した。16世紀半ばにマルティン・ルターが引き起こした宗教革命はカトリックに反発するプロテスタントを生み出し、元々ローマ教皇に反抗的だったイングランド王ヘンリー8世はこれを機にローマ教皇の支配を抜け出して独自の英国国教会を創設、その首長にはイングランド国王が就任するようにした。

チャールズ二世には正妻との間には子供がいなかった。愛人との間には10人以上の子供がいたが、正妻との間に子がいなかったために王位継承者は弟のジェームズとなったのだ。

そのことで「王位継承排除危機」と言われるイングランドを二分する大論争が展開されることになる。

簡単に言えばジェームズをイングランド王として認めるかどうかで、認めるとする一派はトーリー党、認めない一派はホイッグ党と呼ばれるようになり、イングランドは完全に二分された。

ちなみにこれら二つの党は世界初の政党と呼ばれ、二大政党制はそのままアメリカにも引き継がれることになる。

結局結論がでないままチャールズ二世は死に、王弟ジェームズはジェームズ2世としてイングランド王、スコットランド王に就任することになった。

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モンマスの乱とジェームズ二世の暴政

ジェームズ二世が就任するとすぐにスコットランドでモンマス侯爵が反乱を起こした。モスマン侯爵はチャールズ二世の子供で所謂非嫡出子であった。

ジェームズ二世は国王軍を組織しモスマン侯爵を早々に鎮圧し、そして軍を解散させなかった。その上軍隊の力を背景に州統監の半分以上、治安判事の約3/4、議員1200人以上を解任し、代わりに自分の息のかかったカトリック教徒を就けるという暴挙に出た。

議会側はこの段においてジェームズ二世の姉であるメアリ及びその夫であるオラニエ公ウィレムと結ぶ。

名誉革命(Glorious Revolution)

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オラニエ公ウィレムがイギリスに上陸すると、ジェームズ二世はさっさとアイルランドに逃げ出した。国王が逃げ出すなど前代未聞だが、これにより議会は「王は基本法をおかし、自ら国を出た」と王位空位宣言を出し、1689年に仮議会を開きオラニエ公ウィレムとメアリーを共同統治者として擁立、ウィレムはウィリアム三世としてイングランド王に就任した。

アイルランドに逃げたジェームズ二世は従弟のルイ14世と結んでおり、ウィリアム三世はこれを討つべくアイルランド遠征を決意、ウィリアマイト戦争が始まる。

両軍はボイン川の戦いで激突するもウィリアム3世の勝利に終わる。ちなみにジェームズ二世はこの際、まだ戦っている兵士たちを見捨てて自分はさっさとフランスに亡命したようである。歴史上、ここまで無責任で情けのない王もいない。

なおこの政変はイングランドにおいて血が流れなかったことから栄光ある革命(Glorious Revolution)と呼ばれ、日本ではそれを名誉革命と訳した。

しかしこれらは政体は何も変わっておらず、またイングランド以外では血が流れたことから近年はこのような呼び名が相応しいかどうかに疑問の声も上がっている。

権利の章典(Bill of Rights)

書けるけど内容は理解していない用語ナンバー1かも知れないのがこの権利章典かも知れない。

権利章典(Bill of Rights)というのは略称で、正式名称は「臣民の権利と自由の宣言および王位の継承を定める法律(An Act Declaring the Rights and Liberties of the Subject and Settling the Succession of the Crown)」という。これではテストで書くには長すぎる。

内容は正式名称の通りで、内容は以下のようになっている

  • 議会の同意を経ない法律の適用免除・執行停止の禁止
  • 議会の同意なき課税、平時の常備軍の禁止
  • 議会選挙の自由、議会内の発言の自由、国民の請願権の保障
  • 議会を召集すること
  • 国民の請願権、議会における議員の免責特権、人身の自由に関する諸規定
  • 王位継承者からカトリック教徒を排除すること

簡単に言えば課税する際には議会を招集しその承認を得ること、フランスやオーストリアのような絶対王政はしないこと、カトリック教徒は王になれないことを要点としたものである。

イギリス法と日本法において大きく異なるのが「憲法」に関する点であろう。

日本では2019年現在成分化された「日本国憲法」だけが唯一にして絶対の憲法である。

これは明治維新という内側からの「革命」が起きたことにより「大日本帝国憲法」が出来、第二次世界大戦で負けたことにより外からの「革命」が出来たことにより大日本帝国憲法が無効化され「日本国憲法」が発布されたからである。

イギリスにおいてはそのような政体の変化は伴っていない。なのでジョン王の時代のマグナカルタ(大憲章)もこの権利章典も現在においても有効で、かつこれらの所謂憲法なのである。

このような憲法を法律用語で不文憲法、あるいは不成憲法と呼んだりもする。

名誉革命の影響

これにより国王は「君臨すれども統治はせず」という形になり、イギリスではフランスやオーストリアなどのような絶対王政は誕生しなかった。これがためかイギリスの王室は2019年現在でも存在している。

また、イギリスとオランダの中は急速に改善し、両国の取り決めにおいて両軍の兵力比率が決められた。

オランダ:イギリスの比において、陸軍では5:3、海軍では3:5となり、イギリス海軍はオランダ海軍より優越することになり、オランダは海洋国家としての地位を急速に弱めることになった。

イギリス海軍は、アルマダ海戦によりスペインより優越し、名誉革命においてオランダより優越したということが言える。

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そしてそのことが大英帝国に栄光をもたらすことになる。

名誉革命について思うこと

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名誉革命について考える時、「革命」とは何か?ということを考える羽目になる。

これは同時に明治維新は革命であったのかという点にもつながる。

世界三大革命はアメリカ独立戦争、フランス革命、名誉革命であると言われる。

しかし前2つと名誉革命ではその内容は大いに異なる。

アメリカ独立戦争はいわば王政からの脱却および議会制への以降であった。フランス革命も同様で、国王の処刑によりフランスは議会制へ移行、アメリカ独立戦争と違うのはフランスではナポレオンという人物が王を飛び越え皇帝に就任したことであろう。

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フランスはその後も王政復古と議会政を繰り返し、2月革命を経て完全に議会制へと移行する。

そう、革命とはこのように政体を覆すことである。

「Revolution」という単語がまわすを意味する「revolve」から作られた造語であることを考えれば、「革命」という用語は政体の転覆においてのみ使われるべきであろう。

しかるに個人的には明治維新は革命であり、名誉革命は革命ではないと思っている。

結果だけを見れば名誉革命の前後においてもステュワート家が王権に就き続けており、対外的にはオランダとの海軍比率が決まった程度である。このことによりオランダの国力が下がるという意味では大変意味が大きいが、国外に対してはある意味影響は少ないとさえいえる。

しかしイギリス史で見た時には非常にその影響は大きく、立憲君主制という概念を生み出し、清教徒革命から連なる一連の流れで政党が生み出され、やがてそのことは内閣を生み出すことになる。

これは、古代ローマが滅びて以来議会が力を持ったということであり、まさに革命的な出来事であったと言えるだろう。