世界史の中でも苦手な人が多い分野である東南アジア史 今回はインドネシアの歴史について簡単に振り返ってみましょう。
現在のインドネシアと地理的特徴
インドネシアは現在人口2億3000万人を抱える巨大国家(世界第4位)で、首都はジャワ島にあるジャカルタとなっています。
インドネシアは大小12000を超える島からなる島嶼国家となっており、特にスマトラ島、ジャワ島、カリマンタン島、スウェラシ島、ニューギニア島の5つの位置は覚えておきましょう。 気候は熱帯性に区分され、気温は1年を通してほぼ同じですが、雨の量は季節によって大きく変わり、雨季と乾季に分かれます。
5月から10月ぐらいまでが乾季、11月から4月ぐらいまでが雨季となり、赤道に近いということもあってスコールと言われる集中豪雨が頻繁に起こります。
宗教的はムスリム(イスラム教徒)が多く世界最大のイスラム国家となっています。 *他のイスラム系国家と違い国教となっている訳ではなく信教の自由は認められています。
先史時代
まずはジャワ原人ですね。 1891年にウジェーヌ=デボアというオランダ人軍医がジャワ島で発見した原人で、正式名称はピテカントロプス=エレクトゥス、約180万年前に生息したいたと考えられ、脳の容量は900㏄ほど(現生人類は1500cc)。
ジャワ島を中心に旧石器時代から人が生活していた痕跡があり、紀元前2500年から紀元前1500ごろには既に稲作を行っていたと考えられています。 民族的には中国から移り住んだ人々やマレー系の民族が移り住んでいたようで、現在まで続く多民族構成は紀元前から始まったと考えられています。
紀元前1世紀ごろにはインド商人が頻繁に交易に訪れるようになっており、5世紀ごろからクタイ王国(ボルネオ島)、タルマヌガラ王国(ジャワ島)が繁栄しはじめ、強力な王朝が誕生し始めます。
シュリーヴィジャヤ王国
インドネシアが世界史に出始めるのはシュリーヴィジャヤ王国(漢字では室利仏逝)が誕生してからのことでしょう。
成立年代は650年頃と言われ、1377年にマジャパヒト王国に滅ぼされるまで長期間ジャワ島およびスマトラ島、マレーシアなどの地域を支配していました。
シュリーヴィジャヤ王国繁栄の秘密はマラッカ海峡をおさえたことにあると言ってよいでしょう。 インドから中国に至るにはマラッカ海峡を通る必要があるため、この地を抑えることは古代から現代まで非常に重要な意味があります。 現代においてシンガポールが繁栄しているのもこの地理的要因と無関係ではないですね。
シュリーヴィジャヤ王国で押さえておきたいのは8世紀後半に作られた仏教寺院である「ボロブドゥール遺跡」ですね。
現在のインドネシアはイスラム国家ですが、この頃は仏教の影響が非常に強く、7世紀には唐の僧侶である義浄が訪れた記録が残っています。
*むしろ義浄の記録がシュリーヴィジャヤ王国の歴史を知る重要な資料になっていると言えますが。
シュリーヴィジャヤ王国を支配していたのはシャイレーンドラ家と言われており、シャイレーンドラ朝の名前で呼ばれることもあります。
シュリーヴィジャヤ王国では歴史を残すということにあまり熱心ではなかったようで、記録は主に中国側によることとなります。この辺りの事情は日本の古代史と同じですね。 唐や宋に朝貢をしていた記録が残っていますが、南宋の時代に朝貢関係はなくなったようです。 ジャワ島には他にもクディリ朝と言われる王国があったようで、10世紀後半よりマレー半島やスマトラ島に侵攻を開始した記録が残っています。
また、1025年にはインド系王朝であるチョーラ朝のラージェンドラ1世による大規模な侵攻があり、シュリーヴィジャヤ王国はこれによって甚大な被害を受けました。
1275年にはクディリ朝を打倒して興ったシンガサーリ王国によってジャワ島の領土をすべて取られてしまい、その後は衰退の一途となり、1377年にはマジャパヒト王国によって完全に制服されてしまうに至ります。
マジャパヒト王国とマラッカ王国
シュリーヴィジャヤ王国に代わってインドネシアの覇権を握ったのがマジャパヒト王国とマラッカ王国です。
マジャパヒト王国は、先ほども少し出てきたシンガサーリ王国の後を継ぐ形で出来上がった王国で、インドネシアまで侵攻しようとしてきた元軍と手を結び勢力を拡大させました。 こんなところまで手を伸ばすとはモンゴル恐るべしですね(゜Д゜)
マジャパヒト王国は14世紀後半に最盛期を迎え、一時期はマレー半島、スマトラ島、ジャワ島西部、ボルネオ島の海岸部など広大な領地を得るにいたりました。
明朝の鄭和の艦隊も訪れており、この時期は琉球王国とも交易をおこなっていたというから驚きですね。
なお、マジャパヒト王国はヒンドゥー教の国家でしたが、イスラム教には肝要であったと伝えられています。
もう一つの支配的な王朝がマラッカ王朝です。
この王朝はシュリーヴィジャヤ王国の末裔であるパワメスワラがマレー半島に起こした国で、建国は1402年と言われ、1405年には中国の明王朝に朝貢した記録が残っています。
建国にはマラッカ近辺にいたイスラム商人の後押しがあったともいわれており、マラッカ王国はイスラム国家でした。
亡国の王子が国を建てたというのは小説や漫画やゲームに出てきそうな話ですね。 マラッカ王国の名称通りマラッカ海峡を支配していたため交易で発展した国と言え、特にインド商人とイスラム商人が頻繁に訪れており、後期にはポルトガルとの交流もありました。
しかしポルトガルとイスラム商人が衝突する事件が起こるとインド総督アルブケルケ率いるポルトガル軍はマラッカ王国を攻撃し、1511年マラッカ王国は滅んでしまいます。
一方のマジャパヒト王国もジャワ島東部にあったマタラム王国の攻撃を受け1520年に滅亡してしまいます。
なお、1267年からスマトラ島北部にあったパサイ王国も1521年ポルトガルによって滅ぼされています。 パサイ王国には歴史家イブン=バットゥータも訪れており、東南アジアにおける最初のイスラム国家として知られています。
アチェ王国とポルトガルとオランダと
マラッカ王国やマジャパヒト王国が滅亡した後もスマトラ島を中心としたイスラム国家アチェ王国などが勢力を伸ばし、スレイマン大帝の後ろ盾を得るなどしましたがポルトガル勢力を排除することはできませんでした。
アチェ王国は1903年まで存在はしていましたが、中央集権的な国家というよりも諸侯の集合体として細々と存在していたようです。 さて、種子島にポルトガル人が到着したのが1543年と言われていますが、この時期の東洋の海の覇者はポルトガルだと言えます。 しかしその覇権はオランダによってすぐに奪われます。
1602年にオランダ東インド会社が進出すると瞬く間にインドネシアでの覇権を握り、1609年には東インド総督府を置きました。その後は1619年、ジャカルタに商館を置くとこの地を「パタヴィア」とし、ポルトガル人の排斥を行い交易の利権を得ました。
ちなみにジャカルタを中心としたジャワ島に勢力を持っていたのはバンテン王国でしたが、オランダの武力には抗えずに事実上の支配下にあったようです。
オランダのインドネシア支配が決定的になったのが1623年「アンボイナ事件」と言えるでしょう。
オランダがインドネシアからイギリス勢力を追い出した事件として知られ、モルッカ諸島のアンボイナにあったイギリス商館の人員をオランダ側が皆殺しにするというなかなか凄惨な事件なのですが、これによりイギリスは東南アジアから撤退し、インドの植民地化に動くことになります。
1660年にはスウェラシ島にあったゴア王国を破り、18世紀になると3度にわたるジャワ継承戦争に勝利、華僑虐殺事件の余波でマタラム王国を形骸化するなどの出来事によりその支配権を確立しました。
19世紀に入るとナポレオン戦争の影響でオランダはフランス領となったりイギリスの支配を受けたりと次代の波にのまれましたが、インドネシア支配が揺らぐことはありませんでした。 なお19世紀後半になると油田の開発に成功し、現在のロイヤルダッチ・シェル社の前身となりました。
第一次世界大戦やそれ以後の国際連盟の発足などもオランダのインドネシア支配には何の影響もありませんでした。
第二次世界大戦とその後
オランダのインドネシア支配が揺らいだのは第二次世界大戦においてです。
1939年ドイツのポーランド侵攻によって第二次世界大戦が勃発すると1940年にはオランダ本国がナチスドイツに早々に降伏、インドネシアは大日本帝国軍の支配下におかれることになりました。
その後日本軍が降伏するとオランダは再びインドネシアを植民地化しようとしましたが、インドネシア側からの反発を受けインドネシア独立戦争がはじまります。 4年の長きにわたり続いた独立戦争ですが、独立を勝ち取ったインドネシアはインドネシア連邦共和国と名称を新たにします。
初代大統領は独立の英雄スカルノが就任し、以降現在まで6人の大統領によって統治されてきました。