人権外交!第39代アメリカ大統領ジミー・カーター

 南北戦争以来のディープサウス出身のアメリカ大統領で、人権外交の実践者としても知られている。

 大統領になる前のジミー・カーター

ジェームズ・アール・カーター・ジュニアは1924年ディープサウスと呼ばれるジョージア州で生まれた。公称として使われるジミーはジェームズの愛称である。

南北戦争時に離脱した南部10州出身の大統領は、南北戦争後ジミー・カータが初めてでありそして唯一である。

これはアメリカの支配者層が南北戦争においてまるで変ってしまったことを表しているであろう。南北戦争後はオハイオ州やニューヨーク州を中心とした北部かつ西海岸出身者が大統領であることが多く、ニクソンなどの一部の例外を除き大体北部西海岸の出身者である。

ジミー・カーターの父は農家であり、母は看護師であった。大学はジョージア工科大学で学び、二次大戦後は海軍兵学校で学ぶ。最終的な地位は大尉で、ジョージア州議員となっていた父の死に伴って除隊、1961年には父の地盤を受け継いだのか自身もジョージア州議員となる。

1970年にはジョージア州の知事となり、公民権法の成立を受けてディープサウスで人種差別の撤廃などに尽力した。

キング牧師が「いつか私の子孫と奴隷として使役していた者の子孫がジョージアの赤い丘で一緒に…」と演説したのは有名であるが、それほどまでにジョージア州では黒人差別が酷く公然と人種差別発言をする支配者たちも多かった。そのような中で真正面から人種差別に異を唱えたことでジミー・カーターの名声は一気に上がることになる。

1976年、ジミーカーターは大統領選に出馬し、そして当選した。第39代アメリカ合衆国大統領の誕生である。

第39代アメリカ合衆国大統領

f:id:myworldhistoryblog:20190904144834j:plain

実は就任の際に初めてパレードをやったのがジミー・カーターである。

「ジミー Who?」と揶揄されるほど知名度のなかったジミー・カーターであったが、このパフォーマンスにより一気に存在感を増していく。

理系出身の珍しい大統領でもあるためかデータ重視に走る傾向があり、世論調査の結果に一喜一憂していたという。

そのような性格であるためか彼の政策は「人権外交」という単語で表される。

例えばパナマ運河をパナマに返還することが決まったり、エジプトとイスラエルの和解を仲介したり、米中の国交正常化に動いたり、ソ連と共に軍縮に動いたりした。

このような外交はともすれば舐められがちで、1979年にはソ連がアフガニスタンに侵攻、イラン革命およびイラン大使館人質事件などが起こった。

これを受けてカーターはソ連のモスクワオリンピックのボイコットを決定、さらに大使館人質事件の解決には失敗し、その支持率を急激に落とす結果となった。

その結果次の大統領選では敗北することになる。

大統領としては二期務められない珍しい大統領となったが、2002年にはなぜかノーベル平和賞を受賞、2019年現在94歳を迎えたが現在でもまだ存命中である。

余談だが、このブログで存命中の人物を扱ったのは初めてかも知れない。

大統領辞職後も独自の人権外交は続き、キューバのカストロ議長と会談したり、アフリカ問題に取り組んだり、北朝鮮の金日成と会談したりイスラエルの批判本を出したりいろいろしている。

さらには貧困問題解決のためのNGOを組織したりボランティアをしたり人権的な活動を多岐にわたって展開、2015年にはガンになったことを公表し、現在でもガンと戦い続けているなどかなりの精神力と行動力をもった人物である。