五胡十六国時代を開始した男!永嘉の乱を引き起こした「劉淵(劉元海)」という人物

よほどの三国志マニアでも、諸葛亮孔明亡き後から晋が中国を統一するまでのストーリーを知っていることは少ないであろう。

物凄く簡単に言えば、孔明の北伐を阻止した司馬懿が曹操の子孫達からクーデターによって魏の覇権を奪い、その息子達である司馬昭と司馬師にその地位は受け継がれ、やがて司馬懿の孫の司馬炎が呉を滅ぼし三国は統一される。

数多の英雄が活躍した結果が司馬懿一族による簒奪と統一になる訳だから、人気がないのももっともだ。

しかも司馬炎たるやかなりの暗君で、統一された晋王朝は王族である司馬氏一族がお互いに相争うことで衰退していき、五胡と言われる異民族の侵入によって滅びてしまう。

「華やかな暗黒時代」と評される五胡十六国時代および魏晋南北朝時代であるが、その始まりを知る者は少ない。

今回は五胡十六国時代の端緒を開いた劉淵について見て行こう。

 弱体化し、分裂し、奴隷となっていた匈奴

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中国の歴史にとって、匈奴というモンゴル系騎馬民族は長い間畏怖の対象であった。

始皇帝は匈奴の侵入をふせぐためにかなりの無理をして万里の長城を建設したし、劉邦は匈奴にボロ負けをし毎年奉納金を渡し、武帝はこれまたかなりの無理をして匈奴征伐を試みた。

中華文明の戦いはこれ匈奴との戦いという側面もあり、分裂した匈奴はロシアの草原を横断しやがてフン族となってゲルマン民族の大移動を促したと言われる。

そんな匈奴ではあったが、三国志の時代には大幅に弱体化をしていた。

弱体化の原因は内紛にあったと見られる。後のチンギスハーンの時代を見ても分かるように、モンゴル系民族は強大な王のもとカリスマに率いられて各部族がそれに従うという形態をとる。

後漢末期の時代、王たる地位に比す単于の地位についた於夫羅という人物にはそのような求心力はなく、それどころか各部族共に彼の傘下に入るのを拒んだ。行き場を失った於夫羅は黄巾の乱を期に積極的に漢王朝に協力し、中原への侵略を試みるも袁紹、曹操と言った英傑達の前に敗れ去る。

於夫羅はそのまま曹操に臣従したとみられ、その孫である劉淵は恐らく魏の国で生まれたと見られる。

曹操が基礎を作り曹丕が建国した魏国は匈奴を5つに分けて統治した。しかも完全なる自治を認めた訳ではなく、それぞれに漢人の官僚を配置し、「使匈奴中郎将」という役職が匈奴を統治していたという。

この頃は匈奴民族はかなり弱体化しており、また奴隷商人の標的にされていたようで、後に趙の国を建国する石勒などは実際に奴隷として売りさばかれてしまっているほどであった。

劉淵、司馬氏に気に入られる

劉淵は於夫羅の子である劉豹の子として生まれた。劉豹は5つに分けられた匈奴の左部の帥という立場にあった人間で、匈奴の勢力を警戒する司馬氏によって劉淵は洛陽に人質として送られた。

劉淵は若いころから良く学ぶ聡明な子であって、武芸にも通じ、まさに文武両道な子供であったという。

洛陽にて司馬昭に気に入られ、やがて司馬炎が帝位につくと司馬炎にも大変気に入られるようになる。司馬炎が死に、息子の恵帝の時代には外戚楊駿にも気に入られたようで、建威将軍・五部大都督の地位に任命される。つまりは匈奴を管轄する立場になり、事実上のトップに立った訳である。

八王の乱に乗じる~五胡十六国時代の始まり~

晋王朝は最初から最後まで内紛の絶えない王朝であった。外戚の楊駿が晋王朝最悪の悪女賈南風の陰謀により誅殺されると司馬一族の内紛である八王の乱が勃発、劉淵はこの一族同士の争いに巻き込まれる。

八王が一人、成都王司馬穎が劉淵と匈奴を味方に引き入れるべく鄴(かつての邯鄲)に呼び寄せる。この時好機と見た匈奴の面々はひそかに劉淵を王(単于)の地位につけていた。

鄴にいた劉淵は司馬穎に対し「葬儀に出たい」と申し入れるも拒否される。劉淵は使いをやり司馬穎に協力するという名目で匈奴兵を集めさせた。

この時ちょうど鮮卑族と結んだ貴族王浚が司馬穎の陣営に攻め込んできたので、司馬穎は恵帝を連れて洛陽に向かう。その際劉淵は匈奴の兵を集めて加勢することを申し入れ、それが許可される。

劉淵が本拠地に帰るとすでにそこには5万の兵が組織されており、劉淵は大単于に就任、さらには晋からの独立および漢の建国と自らを漢王と宣言したのであった。

時は304年、この劉淵の独立を持って五胡十六国時代の開始とみなす。

「漢」という国を名乗った理由は自らの姓が劉であることと、匈奴の王がかつて漢の王女を娶ったことから漢王朝の血が自らにも流れているということ、および漢王朝の復興という大義名分が立ちやすかったことなどがあるのだろう。

劉淵は前漢、後漢に続き劉備玄徳の建てた蜀漢も正当王朝とし、自らはその後継者であると主張、政治制度そのものも漢王朝のそれを真似、丞相を始めとした地位に自分の部下を次々と任命し始めた。

司馬一族、鮮卑族との戦い

司馬一族がこれを認めるわけは当然なく、匈奴を管理する立場たる并州刺史司馬騰は鮮卑族と結んで劉淵討伐の兵を向けてきた。劉淵はこれに立ち向かうも敗北。しかし司馬騰の将聶玄が追撃してくるとこれを破り、以降は連戦連勝、そのまま司馬騰の本拠地である晋陽を攻めるもまたしても敗北、そうこうしているうちに歴史的な大飢饉がやってきてしまう。

302年から続く大飢饉は相当なものであったらしく、北方の民族が食料を求めて中原に押し寄せるきっかけとなった。匈奴はもちろん、その類族である羯族やトルコ系もしくはモンゴル系と言われる鮮卑族などが怒涛のように押し寄せてきた。

それらの民族は八王の乱においてそれぞれの王族と手を組み中華帝国の内部へと浸透していったのであった。

一方でそのような胡人は奴隷売買の対象になりやすく、治安は大いに乱れ、平和とは程遠い時代となってしまったのも確かである。

このような状態において羯族の石勒が劉淵に帰参、その石勒の計略により烏桓族(鮮卑族と同族と言われている)も吸収し、益々勢力を増していく。

更に王族同士の争いに疲弊した漢人の多くが劉淵のもとに集まってきており、その力はもはや晋王朝をも凌ぐ規模になっていった。

皇帝即位と洛陽侵攻

308年、劉淵はついに皇帝を名乗った。もはや晋王朝との対決姿勢をむき出しにし、晋の都洛陽への侵攻を開始する。

両軍激しい攻防戦が続く中、310年劉淵は志半ばにして死んでしまう。

劉淵死後は長男の劉和と次男の劉聡がお互いに争い次男の劉聡が兄を殺して皇帝に就任、311年には洛陽を陥落させる。

晋王朝はこの後に及んでも内紛により弱体化し続け、316年ついに滅んでしまう。

後の世界史では、304年の漢の建国から316年の晋の滅亡までを「永嘉の乱」と呼んでいる。

なお、劉淵の建てた漢はその死後内紛を繰り返し、319年にその後を継いだ劉曜は漢の国号を「趙」に改めるも329年石勒によって滅ぼされることになる。

血で血を争う抗争は終わりを見せず、以後6世紀後半に隋が中国を統一するまでの間中国は激しい戦乱の時代を体験することになる。

個人的な劉淵の評価

劉淵は中国では劉元海と呼ばれることがある。これは唐王朝が歴史を編纂する際「李淵」と文字が被るという配慮からであった。

劉淵は乱世を起こした人物であるとともに、乱世を平定できるほどの力を持った人物でもあったと思う。

もし劉淵があと10年長生きしていれば華北の動乱もここまで長引かなかったかも知れない。

五胡十六国時代およびそれに続く魏晋南北朝時代は王族の内紛の時代という面もある。これは南朝も北朝もそうで、基本的には晋王朝の欠陥をそのまま受け継いでしまったと言えるだろう。

後継者問題は世界史的に見ても戦争を引き起こす最大の要因で、中世ヨーロッパなんかでも王や貴族が死ぬたびにその姻戚関係者が領有権を主張して戦争が起こる。

オスマントルコなどは後継者争いで国が滅びかけたことがあるが、それ以降は王が就任したとは後継者候補を殺す習慣が出来、その習慣の良しあしは別としても建国から600年間続いた。

劉淵は非常に優秀な人物であったが、自分の死後についての整備が足りず、建国した国は30年も持たなかった。

英雄と呼ばれる建国者たちが優れていたのは、自分の死後も安定して政権が運営できるような仕組みを遺したことである。

漢の高祖、後漢の光武帝、宋の趙匡胤などはそれゆえに長期政権の樹立に成功した。

劉淵にはそのような部分が欠けていたと言えるだろう。実に優秀ではあるが、世界史第一戦級の人物のレベルではなかった。

そのような観点で考えると、江戸幕府を作った徳川家康が如何に優秀かが分かる。