「竹馬の友」「断腸の思い」などの記事でも知られる東晋の有力者だった桓温という人物である。
残念ながら世界史の教科書などには一切出てこないが、中国史を語る上では非常に重要な人物であったりもする。
北府と西府
316年の永嘉の乱によって新王朝が滅ぶと、翌年の317年に王族であった司馬一族の生き残り司馬睿が江南に移住し、東晋を建国した。
江南は古くは三国志呉の国の領土であり、呉の国そのものが豪族の集まりという性格もあったため、東晋は土着の諸侯と中原から来た貴族たちとの間に常に対立をはらんだ国家であった。
司馬睿は江南の民よりも王一族を始めとした北部から逃れてきた貴族たちを厚遇し、元々の貴族たちのことは一部を除き重用しなかった。
しかしこの一部の貴族、特に王導を中心とした一族が力をつけると司馬一族は王一族の力を削ごうとし内紛が勃発する。
王導の跡を継いだ王敦が病死すると王一族は悉く誅殺され、それに続いて有力者は庾亮、庾冰、庾翼、何充といったようにめまぐるしく変わっていく。
その一方で東晋の軍団は北方より流入してきた人たちによる北府と外戚であった庾一族の率いる西府の2つに分裂しており、お互いがお互いをけん制しあっている状態がつづいていた。
桓温はこれら有力者の流れを組んだ西府の軍団長として力をつけて行った人物である。
竹馬の友
桓温は現在の安徽省の出身で、父は当時置かれていた宣城郡の太守を務めていた人物で、先祖を辿ると高名な儒学者に行きつくという。
父は王敦と対立した蘇峻が興した反乱の際に戦死してしまい、その反乱に加担した人物を相手に桓温は敵討に成功し一躍名を高めることとなった。
やがて347年、西府の荊州刺史となった桓温は蜀の地に立てられた氐族の国成漢に侵攻しこれを滅亡させることに成功する。
なおこの時に部下が子猿を連れていたことがあり、それを母猿が取り返そうとしたことがあった。母猿は残念ながら子供を取り返すことはできず死んでしまったが、その腸は断たれていたという。ここから「断腸の思い」という故事が生まれた。
当時は同じく羯族の建てた華北の後趙が内部崩壊により滅亡寸前であったため桓温はこれを機に北伐すべしとの申し入れをするも却下される。
東晋は独自に殷浩という人物に北府を率いて北伐を命じた。この理由は純粋に桓温の勢力拡大を恐れたからであり、殷浩という人物は幼き時より桓温と親しい間柄であった。
しかし殷浩は散々に失敗し、その責任を取って庶民の地位に落とされることになる。
この時桓温はこう言ったという。
「殷浩と私は子供の頃よく竹で作った馬で遊んでいたが、私が乗り捨てた竹馬にはいつも殷浩が乗って遊んでいた」
現在では仲が良いという意味で使われる「竹馬の友」だが、原義はこのように力関係を著した言葉であった。
殷浩の失脚により西府だけではなく北府をも動かせるようになった桓温は北方の異民族を討伐すべく大規模な北伐に乗り出すのであった。
北伐
中国の歴史において、南から北に攻めあがることを「北伐」と言う。
中国4000年の歴史は黄河の流域から始まり、その中心地は一部の例外を除き常に北部であった。
当時の華北は氐族の苻健という人物が建国した前秦が支配しており、桓温は当初漢中からこれを侵攻した。
桓温はその道中で漢民族たちから歓迎を受けており、中には再び官軍を見ることができるとは思わなかったと涙するものまでいたという。
激しい戦闘を潜り抜け長安近郊までやってきた桓温であったが攻めきれず、一度荊州の都襄陽まで引き返した。
次に北伐を開始した桓温は長安ではなく洛陽を目指す。当時の洛陽は羌族首領姚襄が包囲しており、桓温は羌族との戦いに臨むことになる。
激しい戦いの末桓温は羌族に勝利し、実に45年ぶりに晋は洛陽をその手中におさめることが出来た。
洛陽周辺を平定し、建康政府に対し洛陽への遷都を提案するも却下され、桓温はそのまま建康に帰るよう命令を受ける。
桓温がいない隙をついて五胡は洛陽を侵攻し、再び華北は異民族の手に渡ることになる。
369年、桓温は再び北伐を開始するが、鮮卑族に撃退され十分な成果はあげられず、焦った桓温は皇帝であった司馬奕を退位に追い込み御しやすい簡文帝を即位させる。
桓温は禅譲により自らに皇帝位を明け渡すように主張したが、謝安や王坦之によって反対され断念。
その後の372年に桓温はあっさりと死んでしまう。
後に桓温の子孫は東晋から独立し楚という国を建て、そこで宣武皇帝という廟号をつけられることになる。
なおその国はわずか一年で滅びた。
個人的な桓温の評価
王猛と言う人物が桓温の誘いを断った。
この王猛という人物は中国史でもトップクラスに有能な人物で、やがて五胡十六国時代唯一と言ってもいい名君に仕えるのだが、やはり人を見る目は確かであったようだ。
桓温の功績は比較的大きい。
洛陽を一度は取り戻し、蜀の地も手に入れた東晋の領土はこの時代に最大となっている。対立の続いていた西府と北府を統一したのも大きい。
洛陽を取り返されたのはひとえに東晋の王朝の失策によるもので桓温の責任ではない。
晋というのは結局のところ一人の名君も出なかった王朝である。
それはさておき、桓温は非常に優れた男であったが、志というものがなかったように思う。
それが夢想的ではあったが、王猛が仕えた苻堅という人物には壮大な理想があった。
桓温にもし中華統一を為すに相応しい大義があったならば、あるいはそれを実現できたかも知れない。
しかし桓温は色々と中途半端であったように思う。
最終的には簒奪の意思をむき出しにしてそして終わってしまった。
この桓温の生きざまを見るにつけ、帝位を簒奪しなかった諸葛亮孔明がどうしてここまで後代の人々に好まれるのかという理由がよく分かる。
「美名を後世に流す事は出来ぬならば、悪名を万世に残すべし」
これは桓温が遺したとされる言葉だが、この言葉にこそ桓温という人間がよく表れていると言えるかも知れない。