「書聖」と呼ばれる人物がいる。
東晋の名門貴族琅邪の王氏に生まれた王義之という人物だ。
「書」の歴史上最高傑作と言われる「蘭亭序」の著者として知られ、中華の歴史はもちろん日本の歴史においても非常に名の知れた人物についてくわしく見て行こう。
名門中の名門に生まれる
「人は生まれながらにして平等である」
というのは近代以降のまさにコモンセンスな訳であるが、そのような理念が打ち出され、支配的になるのは18世紀以降のことである。
それ以前は人々が平等であるという考え方はローマやギリシャなどを除きほとんど存在しなかった。
人は生まれながらにして不平等である。
王義之の人生を見ていると特にそう思う。
王義之は東晋における名門中の名門貴族琅邪の王氏の一人として生まれた。
「上品に寒門無く、下品に勢族無し」
という言葉が表す通り、この時代はどのような家に生まれるかで人生が決まった。
王義之は現代風に言えば上級国民であり、うまれついての勝ち組だと言えるだろう。
名門貴族同士は、ヨーロッパがそうであるようにお互いが姻戚関係で結ばれている。
王義之の妻はこれまた東晋を代表する貴族郗鑒の娘と結婚しており、その能力に関わらず出世が約束されていた。二人は幸せな結婚生活を送り、7男1女をもうけて特に末子の王献之もまた書家として中華の歴史に残る活躍を見せた。次男も後に東晋の権力を握った謝安の娘と結婚しており、まさに昔話に出てくるようなめでたしめでたしな人生を送ったと言える。
婚活中の人が見たら発狂しそうな内容であるが、世の中とはそういうものである。
ただ、そういう国家の命運が長くないということもまた確かではあるが。実際王義之の次男なんかはかなり悲惨な死に方をしてしまっているし…
それはさておき王義之は琅邪の王氏の中でも特に期待されるホープであった。
性格的にも剛直で王敦なども期待をかけていたという。しかし王義之は政治にはあまり興味がなく、351年には自らの意思で中央政府を去り、会稽という都市の長官になった。
会稽は春秋戦国時代における「臥薪嘗胆」の舞台にもなった土地だが、基本的には牧歌的で、政争を忌避した貴族たちが多くこの地に集まっていた。
隠遁生活~蘭亭序の完成~
会稽の地で王義之は知識人達との交流を心行くまで楽しんだ。
風光明媚な六朝の貴族文化はこの時から始まったと言っても良いかも知れない。
中国史上最高傑作の書と言われる蘭亭序は、王義之の別荘蘭亭において友人たちを招いた際に作った詩を集めて「蘭亭集」を編集した際の序文にあたる作品である。
この流れの中で王義之は完全に官職を辞した。王義之は時の権力者桓温を嫌っており、その対立が原因であるとされる。
王猛の件といい、もし桓温に英雄の器があればここまで戦乱の世は続かなかったかも知れない。
王義之自体も官職には全く未練がなかったようで、名門の貴族たちとの交流を心行くまで楽しみ、途中道教などにもはまったようだ。
王一族がため込んだ資産のおかげで生活の心配もなく、王義之は生涯優雅な生活をし続けた。
このような人物は「ごく潰し」と言われるのが常であるが、王義之の場合は趣味に打ち込んだ結果「書聖」として歴史に名を残すことになる。
後世の評価
王義之の評価はあらゆる面で非常に高い。
六朝文化、というよりも古代中国においては官界から身を置くというのも一つの美学であり、魏から晋にかけて活躍した「竹林の七賢」などにもそれは見られる。
王義之はそういった美学の象徴的存在であり、また書の大成者としても名高い。
中国では例えば小説などは芸術としての評価は低く、最も評価が高いのは「書」である。
その価値観を創り上げたのが王義之であると言え、蘭亭序以外にも彼は多くの書を遺した。
『楽毅論』・『十七帖』・『集王聖教序』・『黄庭経』・『喪乱帖』・『孔侍中帖』・『興福寺断碑』など彼が遺した傑作は枚挙にいとまがなく、後に唐の太宗は王義之の書をその権力をもって集め、文字通り墓場まで持って行ってしまった。
そのため蘭亭序を初め王義之の書の多くは今も太宗と共に眠っている。
個人的な王義之の評価
好きなことをやっていたら歴史に名を遺せたぜ!という誰もがうらやむ生き方をしたのが王義之である。
正直に言ってうらやましい。
才能、金、地位、全てに恵まれて幸せな生涯を送った王義之の人生は、人類史上最も幸せな人生だったと言えるだろう。