アメリカ合衆国第七代大統領アンドリュー・ジャクソン

1830年に行われた人口調査によると、アメリカの人口は1200万人を超えていた。1790年当時では400万人であったので、約40年で3倍になった計算になる。

このような人口も領土も増大していた時期に大統領になったのがアンドリュー・ジャクソンであった。

 米英戦争と対インディアン戦争の英雄

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アメリカの歴代大統領は法律家であるか、戦争の英雄がなることが多い。ジャクソンはその両方の特質を持つ稀な大統領である。

アンドリュー・ジャクソンはアメリカ独立戦争に従軍した最期の大統領であり、独立戦争が開始した時にはまだ13歳であったが、伝令を伝える急使として参戦しており、途中兄とともにイギリス軍に捕えられて餓死寸前まで追い詰められるなどイギリス軍に激しい憎しみを抱いたという。

戦争後は靴職人のもとで働き、ソールズベリ大学で法律を学び現在のテネシー州で弁護士として活動、1796年にはテネシー州の下院議員に当選している。1798年から1804年まではテネシー州の検事総長としての職に就き、同時に広大な農園主としても活動し、100名を超える黒人奴隷を使役していたという。

1806年にジャクソンは決闘で相手を死に至らしめている。ことの発端はジャクソンがレイチェルという女性と結婚した際、まだ彼女は他の男性と結婚中であったことにあり、後に離婚が成立して正式にジャクソンとレイチェルは結婚する訳だが、地元の新聞でこのことを中傷され、中傷してきたチャールゾ・ディキンソンとの間に決闘が起こった訳である。この決闘の結果ジャクソンのイメージはガタ落ちし、しばらくは表舞台から去らざるを得なくなった。

再び表舞台に立ったのは1812年に起こった米英戦争の時代からであり、イギリスと手を結んだネイティブアメリカンを徹底的に殺戮しつくしたことでアメリカ国内でその名声を上げた。

ジャクソンは大佐として徹底的にネイティブアメリカンを虐殺しつくし、男性も女性も子供も戦闘員も非戦闘員も関係なく殺戮の限りを尽くしたわけだが、当時のアメリカ社会にとってそれは英雄的な行動を意味した。特に西部においてはインディアンの土地を奪うことを目的としていたため、ジャクソンの評判はすこぶる良かったのである。

ネイティブアメリカンと同一の祖先をもつ我ら大和民族からすれば大変遺憾であるが、コーカソイドにとってモンゴロイドは滅ぼすべき敵なのである。

1817年、モンロー大統領はフロリダにおいてネイティブアメリカン達との間にセミノール戦争を開始した。

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モンローの狙いはネイティブアメリカンの勢力を削ぐとともに、フロリダを逃亡奴隷の逃げ場所にするのを防ぎたかったことにあると言われている。

モンローはレイシスト(人種差別主義者)であり、コーカソイド以外を根絶やしにしたかったのではないかと思われるほどネグロイドやモンゴロイドに対して苛烈な政策を断行した。

ジャクソンもその流れを組んだ人物と言え、モンローの読み通り実際に逃亡した黒人奴隷とネイティブアメリカンは手を組みアメリカ合衆国に対抗した。

モンロー宣言によってヨーロッパとアメリカ大陸は相互不干渉の原則が打ち出されたため、ネイティブアメリカンは逃亡黒人奴隷に手を貸す勢力であるスペイン人知事とネイティブアメリカンに手を貸していたイギリス人2人をジャクソンは処刑した。

この行動はマニフェスト・ディステニーの信奉者であるジョン・クインシー・アダムズによって支持され、アメリカ合衆国はそのままスペインからフロリダを買収することに成功、ジャクソンはフロリダの軍政長官に任命される。

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モンロー後の大統領選挙では当のクインシーと大統領選を戦うことになるが、接戦の末クインシーがアメリカ合衆国大六代大統領となる。

ジャクソンはこの落選には納得がいかなかったようで、「人民による候補が東の貴族によって潰された」と憤慨していたという。

当時アメリカ合衆国は東部と西部、北部と南部というように勢力に分かれており、非常に複雑な状況であった。北部は産業革命がなされ、急速に工業化し、南部は奴隷制によるプランテーション、西部はインディアンから土地を以下にぶんどるかを考えており、それぞれの利益は相反していた。

次の大統領選では史上最悪とも言われる悪辣な誹謗中傷合戦になり、結果としてアンドリュー・ジャクソンが当選し第七代アメリカ合衆国大統領となる。

ジャクソニアンデモクラシー

アブラハム・リンカーンは南北戦争において「人民の、人民による、人民のための政治」という有名な演説をしたが、ジャクソンに関して言えば「白人の、白人による、白人のための政治」を行った人物だと言えるだろう。

 世界史の教科書には「ジャクソニアンデモクラシー」と記載され、いかにも民主主義を推進した大統領のように書かれるが、彼が実現したのは二〇歳以上の白人の男性に対しての普通選挙権であり、インディアン強勢移住法を制定し、この強制移住により少なくとも4000人の罪のないネイティブアメリカンが犠牲になった。

戦闘での行為ならいざ知らず、民主主義の名のもとでこのような大虐殺が行われたことは、人類の歴史において非常に重大な出来事であるというべきであろう。

これもまたアメリカの偉大なる歴史の一部なのである。

とはいえアンドリュー・ジャクソンはただただネイティブアメリカンを虐殺しただけの大統領ではなく、今なお続く「スポイルズシステム(猟官制度)」の導入者でもある。

これは、政権交代時に官僚なども総入れ替えする制度であり、現在のアメリカ合衆国の繁栄を支えている根幹と言っても良い制度である。

現在日本の衰退が腐敗した官僚制度にあることは誰の目にも明らかだが、彼ら彼女らには特権的な地位が与えられており、それが天下りなどの政治的腐敗に結びついている弊害がある。

個人的には日本にもスポイルズシステムを導入すべきであると思っている。アメリカはこの制度によってよくも悪くもラディカルな改革が可能となっていて、既得権益をもった政治的勢力の出現をある程度抑えられていると言え、さらに選挙による浄化作用が働いていると言える。

ジャクソンは1845年に死んだ。享年78歳。

個人的なアンドリュー・ジャクソンの評価

無辜な人命を多数奪ったアメリカ大統領の汚点ともいうべき人物であり、多数の奴隷使役とインディアン虐殺の上に栄光をつかみ取った人物だと言える。

人格的に称賛すべき点は一点もないが、それでもスポイルズシステムという優れた政治システムを導入したことは称賛すべき点だと言える。

ジャクソンのようなレイシストがアメリカ大統領になったということがアメリカという国家を表しており、一方でリンカーンのような人物が大統領になったこともまたアメリカという国をよく表している。

失政を挽回するシステムが構築されているというべきであり、そのシステムを導入したのがこのジャクソンだというのも皮肉な感じがする。

個人的にはいかなる理由においても人種差別主義者を評価するつもりはないが、白人の立場からすれば、アンドリュー・ジャクソンは非常に優れた大統領であることだろう。そうでない人間から見れば、これ以上唾棄すべき人物もいない。

ただ、英雄とはそのようなものなのかもしれない。

チャップリンは映画「独裁者」の中で、「人を一人殺せば犯罪者だが、戦争で万の敵を殺せば英雄だ」という言葉を遺したが、アンドリュー・ジャクソンについて考えると、その言葉のもつ深さを感じざるを得ない。