漢の武帝劉徹は果たして歴史に名を残す名君なのかそれとも暴君なのか?

漢の高祖である劉邦が載っていない教科書はあっても漢の武帝の載っていない世界史の教科書はない。

この一点が武帝という人物を表しているかも知れない。

元号を始めて使った皇帝としても知られ、2000年後の現在においてもその名を轟かせる漢の武帝こと劉徹について見て行こう。

中央集権国家大漢帝国

始皇帝が興した秦はわずか15年で滅び、楚の覇王項羽と漢の高祖劉邦の間で楚漢戦争が起こった。

会戦においては項羽が常勝したにも関わらず、負けるごとに強くなっていった劉邦はついに垓下の戦いにおいて覇王を降し、漢帝国を建国した。

 劉邦は皇帝になると建国の功臣たちを各地の王に封じる封建制度を採用したが、韓信を始め各地の諸侯を粛正していき、強力な中央集権体制を固め、劉氏でなければ王に非ずという政策を推し進めた。

当然の如く諸侯は反発を強め、さらに劉氏同士の争いが起り、紀元前154年には呉楚七国の乱などが起きている。そういった乱などを平定した漢は文帝及び景帝の時代において大いに発展し、「文景の治」とも呼ばれ国力を飛躍的に伸ばしていった。

この背景には北方異民族との争いを回避していた事情もある。

漢の高祖こと劉邦は、匈奴との戦いに負けた。ボロ負けした。

元々劉邦は戦に弱い。項羽にも一回しか勝っていないぐらいだ。それも奇襲に近い形で、しかも項羽が孤立していたという事情もある。挙句に韓信や英布と言った有力な将軍もすでにいなくなっていたのだからそりゃあそうなるよなという感じであるが、あまりにもボロ負けであったため匈奴を兄とし、毎年多額の金を払うという条件で和睦したのである。

匈奴としても政権運営能力がある訳でもなし、毎年もらえるものがあるならばそれでよしだった訳である。

暴虐の覇帝

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武帝は景帝の10男として生まれた。本来は皇太子にも皇帝になれない存在であったのだが、元々皇太子として立てられていた劉栄が政争によって廃嫡となってしまった結果の皇太子であった。

これは劉栄の母栗姫と景帝の姉の仲が悪かったことから始まった政争で、景帝の姉と文帝の皇后であった竇氏(景帝の母)が劉徹を皇太子に推したことで皇太子となり、漢帝国第7代皇帝武帝として即位することが出来た訳だった。

余談だが武帝の兄に中山王劉勝がいる。これでピンと来る人は相当の三国志マニアであろう。この人物こそが劉備の祖先である、と劉備自身が言っている。劉勝には50人の子供、120人の孫がいて、その子孫を代々辿ることは不可能なので、実際に劉備がこの子孫なのかどうかははっきりしない。証拠がないのでウソとも本当ともいえないのだ。

劉備は貧しかったがそれなりの家柄で、後に袁紹の息子袁譚を朝廷に推挙していることから見ても王族の一人であったとしても不自然とまでは言えない。

話を武帝に戻すと、即位までの経緯から竇氏に頭が上がらず、実際の政治は景帝の母であった竇氏が執り行っていた。武帝自身も竇氏の娘にして景帝の姉の娘を陳皇后として無理矢理のように結婚させられた。

竇氏が亡くなると武帝は箍が外れたように親政を始めた。

武帝がやったことは山のようにあるが、その最たるはド派手な対外遠征であろう。

寵愛する衛氏の弟である衛青とその甥の霍去病を将軍にモンゴル系騎馬民族である匈奴との対決に乗り出した。

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外戚というと弊害が取りざたされるが、衛青も霍去病も将軍として歴史に名を残すほどで、飛将軍と言われた李広と共に匈奴を散々に打ち破り、万里の長城の外に追い出すことに成功した。漢民族としては初めての匈奴に対する大々的な勝利であったと言える。

とはいえこの先も匈奴をはじめとした北方民族の侵攻は続き、遥か先の時代、三国志のあとの晋の時代になると五胡と言われる異民族が華北を支配する五胡十六国、魏晋南北朝という時代が始まるようになる。漢の時代は混乱こそあったもの北方民族の侵入を許さなかった時代でもある。

武帝の勢いは止まらない。

南に軍を派遣しては南越、夜朗、混名などの現在のベトナムにあたる国々を服属させ、西に張騫や軍を派遣すると現在のウズベキスタンに位置するフェルガナを占領し、汗血馬と言われる恐らくはアラブ馬を大量に手に入れることに成功、東にあっては衛氏挑戦を滅亡させ、楽浪郡を設置している。

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 その版図は同時期のローマを遥かに凌駕し、漢は世界最大の帝国となった。

しかしその一方で文帝、景帝の時代に蓄えた豊富な国庫は尽きてしまい、増税をせねばならなくなった。

 また、武帝が派遣した軍団は、勝つか死ぬかという二択しかなく、負けた場合は領内に変えることすらできないという苛烈なものであった。

 均輸・平準・専売・その他の悪政

この辺りは世界史の教科書に載っており、テストにもよく出てくる部分で、大体の人が嫌いな部分だと思う。

これは本音と建て前があるからであろう。

均輸と平準は建て前は穀物の流通を円滑にし、価格の安定を図るというものだが、実際の所は漢帝国が穀物を安く買いたたいて高値で領民に売る制度である。

専売に関しては「塩・鉄」に関する専売にする訳であるが、これも質の良いものは官吏などが、質の悪いものを民間に、しかも高く売りつけるという政策であり、どれも外征によって歳出過多になった財政をなんとかしようとする苦肉の策である。

このような苦し紛れの政策がうまく行くわけがなく、漢の国家財政はどんどん苦しくなっていく。

それだけではなく、塩の専売は塩の密売人の跋扈を赦し、塩の密売人は民衆の人気と強大な財力を築いていく。唐の時代に滅亡した黄巣の乱の首謀者などが塩の密売人であったのもこのためである。

教科書にはここまでしか書いていないが、武帝の行った悪政はこれにとどまらない。

金銭を得るために売官はやっているし、挙句の果てに金銭を払えば罪を免除するという制度まで取り入れている。

レオ14世はサンピエトロ大聖堂を建設するのに免罪符を売って宗教改革を引き起こし悪名を高めたが、武帝もこれに負けないほどの悪政ぶりだ。

このためなのか、武帝の部下はささいなことで死罪になっている。衛氏朝鮮を滅ぼした2人の将軍が死罪、歴代宰相のほぼ全てが自殺か刑死、史記の著者である司馬遷も死刑こそ免れたものの宮刑のために宦官にさせられている。西域派遣で功のあった張騫も死刑を申し渡されているが、金銭を支払えたために無罪となっている。

さらには貨幣の改悪も行っており、ここまでの悪政もなかなか見られないほどである。

五経博士と郷挙里選

武帝が中国史でも指折りの悪政を行ったのは確かであるが、外征以外にも功績はある。

まず、人事登用制度として郷挙里選を整備したことであろう。これは優れた人物を官吏が推挙する制度で、以後中国において伝統的な人事制度となり、現在の「選挙」の語源にもなっている。

三国志において、荀彧郭嘉を推挙した話などが残っているが、三国志に出てくる人物のほぼ全てがこの郷挙里選によって登場しているぐらいである。この制度において安定的に人材が輩出されるようになったが、反面門閥化しやすくなったのも確かである。

もう一つは董仲舒という人物の献策で五経博士を設置し、儒教を官学としたことである。

武帝が儒教を官学にしたことで、東洋の思想形態が決まったと言っても良い。日本でやたら敬語の種類が多いのもこの儒教の影響であるし、中国の官吏登用制度である科挙も儒教の知識を試験するものであった。

始皇帝が後に続く制度を整備した人物なら、武帝はその根底に流れる思想を整備した人物だと言えるだろう。

巫蠱の獄

悪政だらけの武帝だが、その悪政の極みともいえるのが巫蠱の獄だと言えよう。

武帝は紀元前の人物であって、日本で言えば卑弥呼様の生まれる300年も前の人物であることを気をつけねばならない。

巫蠱というのは、人形を地下に埋め、人を呪殺することで、左道と言われ当時大罪であった。完全にオカルトだが、この左道は日本にも伝わり、長屋王がこの左道を学んだとして自死を命じられている。これは藤原氏が仕組んだことで、人形さえ見つかれば罪になるので、政敵を排除するのに大変都合がよかったのである。

武帝の皇太子は劉拠と言った。これは衛青の姉である衛子夫が産んだ子で、文句なしの皇太子で、しかも出来も良かった。

時として父親はできの良い子供が疎ましくなる。

劉拠は武帝が外征をするたびにそれを諫めていた。民の苦しみを考えるべきだと。

まともな人物ほど馬鹿を見るのは現代日本も同じで、この皇太子はかなり酷い死に方をしてしまう。

発端は衛子夫の甥にあたる人物の不始末であった。公孫敬声という人物で、この人物が軍費を着服するという事件が起こる。父である公孫賀がこの罪をどうにか贖えないかと武帝に頭を下げたのだ。

もちろんただ頭を下げるだけではなく、当時漢帝国の闇社会を牛耳っていた朱安世という人物を捕まえると言ったのである。

朱安世はあっさり捕まった。

 元から隠れている訳ではなかったようで、今までこの人物が捕まらなかった理由は誰も捕まえようとしなかったからであったのだ。

問題なのはなぜ誰も捕まえようとしなかったかという点である。

理由はこの朱安世という人物が巫蠱の代行屋であったからだった。この人物のもとには相当な有力者が依頼にきており、それがバレるのを皆怖れていたのだ。

朱安世は捕まったことを恨みに思い、公孫賀の一族が全員巫蠱に関わっていると証言したのだ。恐ろしいことに証拠も出てきた。これは単に地中に埋まった人形を仕込んでおくだけでよいので、簡単に証拠をねつ造できるのだ。

公孫賀の一族は全員死刑になった。衛子夫こと衛皇后はもちろん彼女の産んだ二人の娘も連座で自死を強要、もしくは処刑された。自らの娘さえも武帝は処刑したのだ。

しかしこれはまだ序章に過ぎなかった。

武帝も年をとったのか、江充という人物を気に入っていた。この人物は讒言の天才で、耳障りの良いことを吹き込んではこの老皇帝の歓心を買っている人物であった。武帝はもとより英主という訳でもない。

ある日、皇太子が馳道という皇帝以外通ってはいけない道を通ったことをこの人物は発見する。皇太子は軽い処罰を受けたが、江充は皇太子を亡き者にしようと画策する。これは皇太子が皇帝になった際に身にかかる火の粉について考えた結果だと言われている。

江充は巫蠱をでっち上げたのだ。しかもたまたま武帝は病気になってしまったのだから運が悪いとしか言いようがない。

江充は檀可という匈奴出身の巫女と組んで「宮中に巫蠱の気を感じます」と言わせ、不安を煽った。

かくして皇太子の宮殿から人形が大量に見つかると皇太子は激怒、檀可という巫女を焼き殺し、江充の首を目の前で刎ねさせた。

武帝は皇太子を処刑すべく軍隊を派遣、武帝と皇太子の間で市街地戦が繰り広げられるが、皇太子側が敗北、もはやこれまでと自死を選ぶことになる。

これに連座して皇太子の妻や息子達も死刑となる。この時たった一人だけ、皇太子の孫が生き残る。その赤子はやがて漢の宣帝となるのだが、それはまた別の話。

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翌年になり、皇太子の無罪が判明すると、さすがの武帝も意気消沈し、皇太子を祀る宮殿思子宮を立てさせ、江充の一族はその三族に至るまで根絶やしにされた。

武帝はその四年後の紀元前87年に崩御した。その治世は50年にも及び、末期には反乱が頻発したという。

個人的な武帝への評価

世界史でも稀なほどの暴君である。自ら儒教を官学としておきながらその政治には仁もなければ義の欠片もない。自分が気に入らなければ部下をすぐに極刑に処し、税の負担で領民を苦しめた。

秦の始皇帝、漢の武帝、明の洪武帝の三人は、功績も大きいが暴君的な面も大きい。三君とも希代の名君にして希代の暴君という性格を持っている。

武帝の功績と見られる外征も、あまりにも領土が拡大しすぎたためにその防衛費用もかさみ、かえって漢の衰退をはやめたと言え、内政に関しては国家による搾取を進めただけであり、領民の反感を買ってしまった。事実武帝の死後これらの地域は漢の治世を離れている。

そもそもここまでの外征が可能になったのは文帝、景帝時代に政治的、経済的に安定し、国庫が充実していた結果であり、武帝はそれを食いつぶしてしまったとみるのが妥当と言えるかも知れない。

司馬遷の一件を考えてみても理不尽であるし、巫蠱の獄においては皇太子だけでなく、西域制圧に功のあった李広利の一族など数多くの功臣も処刑しており、弁護のしようもない。

衛青や霍去病を見出したのは功績と言えるが、霍去病の息子霍光は武帝亡き後に専横を極め、漢の衰退を現出したと言える。

王朝交代などがなかたっために悪評が残らなかったが、煬帝や始皇帝と並ぶ存在というべきであろう。

失政を派手なパフォーマンスで隠したという面においてはナポレオン・ボナパルトにも近いかも知れない。

どちらもその功績ばかりが教科書に載り、悪い部分があまり載っていないという共通点があり、広大な領土と幾つかの歴史に残るシステムを構築したという意味でも似ており、実に評価に悩む歴史上の有名人たちであると言える。