個人的にガーフィールドというと昔の赤本に書いてあった逸話を思い出す。それはガーフィールドがどうしても勝てない同級生がいて、その同級生の家の灯りが消えるまで毎日必ず勉強した結果成績を上回ることが出来たという話だ。
残念ながらガーフィールドは大統領としては1年間も活動できなかった。
大統領になるまでのガーフィールド
ガーフィールドも前大統領ヘイズ同様オハイオ州で生まれ育った。
そしてこれまたヘイズ同様幼い時に父を亡くしている。しかしヘイズと違いガーフィールドは小学校を出ると16歳の時に船員となり働いたが病気のために退職させられ、その後は後のハイラム大学となる教会設立の研究所で学び始める。その後はウィリアムズ大学に入り卒業後は研究所の教員、教授、所長と出世を重ねていく。
その間に法律を学び1859年にはオハイオ州議会議員に選出される。1861年に南北戦争が始まるとガーフィールドは北軍の指揮官として参戦、最終的には少将の地位に就いている。
中でもシャイローの戦いにおいては功績があり、その軍功により名声を高めたと言える。
その後もガーフィールドは議員を務め、時には汚職事件で容疑者に名を連ねることもあったが1880年には大統領選に出馬し、見事当選。
暗殺
1881年、ガーフィールドは暗殺された。暗殺者はチャールズ・ギトーという男で、ガーフィールドの選挙応援人の1人であった。ギトーはどうやら汚れ仕事を多く請け負っていたらしく、ガーフィールドが自分を何のポストにもつけなかったのを恨んでの反抗であったようだ。
1870年から1890年代までのアメリカは「金ぴか時代」と言われる時代で、兎角に金がものを言う時代であった。ガーフィールドはどうやらギトーを通じて有権者の買収をおこなっていたらしい。
もっとも、ギトーはかつて精神病歴をもっているためその発言は公式には認められていないが、そのようなことがあったであろうことは推察に難くない。この時代の特に共和党は産業資本家との癒着が激しく、ガーフィールドがその例外であると考える方が不自然であろう。
なおギトーの撃った銃弾は見つからず、医師がそれを見つけようとして臓器をきずつけてしまった結果死んだという説もある。ガーフィールドの直接の死因は出血などではなく感染症であったと言われる。
享年49歳。大統領としてはわずか6か月間の任期であった。