世界史にはかなり癖の強い人物が多い。
そりゃあ世界の歴史に名を残すぐらいだから個性的でクセが強いのは当たり前だが、その中でも特にヴィルヘルム2世のアクの強さは他を圧倒しているように思う。
今回はドイツ帝国の最盛期を築き上げ、そして世界に大きな混乱と悲劇と言えようもない傷を与えたヴィルヘルム2世について見て行きたいと思う。
幼少期のヴィルヘルム2世
ヴィルヘルム2世は、ドイツ帝国初代皇帝ヴィルヘルム1世の孫として1859年に生まれた。
父はヴィルヘルム1世の子供であるフリードリヒ、母は大英帝国全盛期を築き上げたヴィクトリア女王の娘であるヴィクトリア、つまりは生まれつきの皇帝としてこの世に産声を上げたのである。
ヴィルヘルム2世の人生には栄光だけが待っているはずだった。しかし彼は生まれた時の難産により左手に障害が残ってしまったという。そのことが原因なのか、母であるヴィクトリアのあたりは非常に強かったという。
さらに幼少期にはゲオルグ・エルンスト・ヒンツペッターという家庭教師にかなり激烈な教育をされたようで、彼はヴィルヘルムの寄宿学校にまでついてくるという徹底ぶりであったという。一例を挙げればヴィルヘルムの食事は朝食にパンが出るがバターも出ず、友人が部屋に来るときは友人にはケーキが出るのにヴィルヘルムにはお茶だけであったという感じであったという。
母のヴィクトリアは「英国人として死にたい」と口にするほど英国びいきであり、息子にも英国式の教育を施した。それゆえにヴィルヘルム2世も英国に親愛の情を抱いたが、同時に母への反発からイギリスに対する憎悪をも滾らせた。
この辺りの自己矛盾が将来のヴィルヘルム2世を作ったと言え、彼の指示や方針はつねに矛盾をはらみ、朝令暮改を繰り返すようになる。
父のフリードリヒは皇太子であったが控えめな性格で、常に妻のヴィクトリアに頭が上がらなかったという。
それに加えてこの頃のドイツは実に複雑な有様であった。そもそもヴィルヘルム2世の幼少期にはまだドイツ帝国は存在すらしておらず、その少年期にプロイセン王国からドイツ帝国へ変化し、その途上においてドイツが急激に成長していった時代でもある。
時代はより「ドイツらしさ」を求めた時代であり、ヴィルヘルム2世にもそのようなドイツらしさを求められていた面もあり、母の求めるイギリスらしさと矛盾があったのも確かであろう。
父と母とビルマルクとの不仲
ヴィルヘルム1世は宰相ビルマルクの活躍により皇帝になり、国家は繁栄した面がある。
2世の母ヴィクトリアがイギリスらしさの権化なら、ビスマルクはドイツらしさの権化である。さらに皇太子フリードリヒはヴィクトリアに同調する姿勢を見せていたため、ビスマルクとの間には当然のように軋轢が生まれた。
ヴィクトリアおよびフリードリヒはイギリス的に議会制民主主義を中心とした立憲君主制を目指していたが、ビスマルクはあくまで君主権者であった。余談だが日本の初代総理大臣伊藤博文などはビスマルクを信奉し日本のビスマルクを自称していたという。
ビスマルクにとって一番恐ろしいのはフリードリヒが皇帝となる瞬間であった。それもあってか、ビスマルクと両親に反発するヴィルヘルム2世の間は急速に接近していく。
三皇帝の年
ドイツの歴史の中には、3人の皇帝が1年間で交代した年がある。1887年である。
この年、ヴィルヘルム1世が死んだ。そして皇太子のフリードリヒがフリードリヒ3世として即位したのだが、同じ年にフリードリヒ3世が喉頭ガンによって亡くなってしまう。
そしてヴィルヘルム2世が誕生した。
この頃にはヴィルヘルム2世と母ヴィクトリアの関係は険悪そのものになっており、皇帝就任と同時に彼は母のいるポツダムに軍隊を送り母を事実上の軟禁状態においている。
宰相ビスマルクの解任
ヴィルヘルム2世は人と仲良くなるという才能の全くない人物であった。先述したように部下に対しては朝令暮改し、言うことにまるで一貫性がなく、自己中心的で利己的な性格をしており、常にあらゆる人物との軋轢を生んだ。あるいは自己愛性人格障害などであったかも知れない。
皇帝に就任して2年目の春、ビルマルクは宰相を解任された。
両者自分が正しいと信じて譲らない人物であったので、このことは必然だったかも知れない。ヴィルヘルム2世が求めたのは自分のいうことを忠実に実行する宰相であり、ビルマルクは自分の言ったことを容認してくれる皇帝を求めた。
ビスマルク自体においても議会との軋轢や文化闘争などを抱えており、反対派もかなり多かったのも事実である。特に労働問題に関しては皇帝とビスマルクの間で意見が真っ向から対立していた。ビスマルクが資本家の側に立ったのに対しヴィルヘルム2世は労働者側に立った。社会主義問題においてもビスマルクは徹底的に弾圧したが議会やヴィルヘルム2世はこれに懐疑的であった。
ビスマルクの解任劇は議会からの指示が欲しかったヴィルヘルム2世のパフォーマンスという見方も出来るかもしれない。
なにせ、ヴィルヘルム2世は万事が行き当たりばったりで、当の社会主義問題に関しても後年「必要なら流血手段によって奴らを排除する」と述べているぐらいで、ビスマルクが通過させられなかった社会主義弾圧法案を自ら議会に提出しているぐらいである。
新宰相にはレオ・フォン・カプリーヴィ将軍が就いた。
行き当たりばったりの政策
ヴィルヘルム2世は思い立ったらそれを熟慮することなく実行し、それを通さねばならない人物であった。例えば周りからの反対があったにも関わらず普仏戦争の英雄モルトケの甥であるヘルムート・フォン・モルトケを参謀総長に無理矢理任命したり、ロシアやイギリスにすり寄ってみたり、突然イギリスに憎悪の念を抱いたりと言った感じで全てが一貫しなかった。
それでもロシアとは仲良くしたかったようで、日露戦争の際にはバルチック艦隊の補給などを行っており、日清戦争の後には日本に対して三国干渉を行っている。
ヴィルヘルム2世が首尾一貫しているのはその人種差別主義的なところぐらいで、当時「黄禍論」というレイシズムを喧伝して回っていた。曰く黄色人種たる日本が世界に混乱をもたらすだろう。だから日本は徹底的に叩かねばならないと。あるいはユダヤ人に対して憎悪を抱いており、後述するようにナチスおよびヒトラーのホロコーストを支持している。
人種差別主義者に多く見られる傾向だが、とにかく何かうまく行かない原因を他の何かに転嫁しがちである。そうすることによって自己の精神を守っているのかも知れない。ヴィルヘルム2世は兎に角自己愛の強い人間で、高慢なプライドを常に守ろうとするがそのことがドイツのみならず世界を混乱に導いたと言える。
それが最も現れたのが第一次世界大戦であったことだろう。
第一次世界大戦
ヴィルヘルム2世はしばしば第一次世界大戦の戦犯であると考えられている。そもそもなぜ第一次世界大戦が起きたのか?
元々はオーストリアとセルビアの間に起きた問題であった。オーストリアの皇太子がサラエボでセルビア人青年によって暗殺された。そのことが一次大戦に発展したのはドイツがそこに参戦したからである、というのが1つの史観だ。これはさすがに勝者であるフランスの史観を反映しすぎているが、オーストリアに対しロシアがギリシャ正教の保護を主張して戦線布告するとドイツはオーストリアとの同盟を理由に参戦、露仏同盟を根拠にフランスが、その後英露協商によりイギリスが参戦し一次大戦が起きた。
それではヴィルヘルム2世がそもそもの原因だったのか?
それは流石に言い過ぎであろう。というのもヴィルヘルム2世の言うことなどそのころにはもはや誰も相手にしていなかったのだ。
あまりにも一貫性がない発言をするせいで、国内外でヴィルヘルム2世の言葉は何の力も持たなくなっていた。
ある時ヴィルヘルム2世が考古学にはまっていた。ある新人議員が少しは政治に興味をもってもらおうとするとヴェテランの議員はこう言った「やめろ、陛下には道楽に熱中していてもらうのが国のためだ」。これはジョークなのかもしれないが、ヴィルヘルム2世の性格を考えれば本当に国民はそう思っていたのだろう。
一次大戦中もヴィルヘルム2世は作戦の立案などには参加することもなく、側近の報告する嘘の戦勝報告を信じ続けていたという。大日本帝国治世下における状況と同じである。
しかし1918年にはキール軍港で反乱が起きた。
実はドイツ海軍はヴィルヘルム2世が作った。正直思い付きで作った感があり、全く役には立たなかったという。それどころか、イギリスに対抗するためにアメリカからの補給船を爆撃するための無制限爆撃をしてしまったためにアメリカの参戦を招きドイツは圧倒的な敗北国となってしまう。
ヴィルヘルム2世はその時オランダにいた。そして死ぬまでオランダにいた。これは彼にとって実に幸運なことであった。なにせドイツ本国では革命が起きており、ドイツ帝国は解体、新しくワイマール共和国が出来上がっていたのだから。
清教徒革命のチャールズ1世やフランス革命のルイ16世など処刑された王族もいるのにヴィルヘルム2世はその地位以外は失っていないのだから。
財産も没収されなかった。戦勝国家であるフランスがヴィルヘルム2世の身柄をオランダに要求したがオランダは頑なに引き渡しを拒否した。これは実に幸運なことであったのだが、当のヴィルヘルム2世はそうは思わなかったようだ。
晩年のヴィルヘルム2世
ヴィルヘルム2世は今の状態にまるで納得していなかった。自分はドイツ帝国の皇帝であり世界の中心であり世界で最も偉大な人物なのだと信じて疑わなかった。
なのにどうしてこうなったのか?
ヴィルヘルム2世はなぜかそれをユダヤ人のせいだと考えたようだ。
これはどうにもヴィルヘルム2世だけではなくドイツの間に蔓延していた考え方のようで、そのような流れがナチスを生み出した。
ヴィルヘルム2世はナチスを指示した。息子2人は実際にナチスに入党したぐらいである。
ヴィルヘルム2世はヒトラーを褒めたたえた。ヒトラーこそが自分を皇帝に再びつける人物であると信じていたのだろう。
しかしヒトラーはドイツ帝国など復活させる気は全くなかった。ヒトラーは第三帝国の建国を宣言した。
ヴィルヘルム2世は第二次世界大戦中の1941年の6月4日に死んだ。享年82歳。
彼はある意味幸せだったかも知れない。なにせ故郷ドイツの敗戦を知らずに済んだのだから。
個人的なヴィルヘルム2世の評価
ヴィルヘルム2世の評価もまた難しい。決して名君ではない。明らかな暗君である。
暗君には積極的な暗君と消極的な暗君がいるが、ヴィルヘルム2世は前者の典型であろう。
その長い治世を見れば、実はドイツの国力は2倍以上になっている。ドイツは当時の最先進国で、例えば特許取得などは英仏を合わせたよりも多かったという話さえある。暗君というのは国力を大いに落とす人物であると言え、中国最低の暗君徽宗などはその典型である。
ただ、マイナス面で考えるとヴィルヘルム2世は徽宗よりも酷い。
結果としてドイツ帝国は滅んだし、世界は大混乱に陥った。第一次世界大戦による死者は1000万から2500万人ともいわれ、世界に癒えようもない傷を与えた。さらにナチスを支持し、そのことが第二次世界大戦の開戦につながったとも言える。
さすがに二度の対戦をヴィルヘルム2世の責任に帰すのは無理があるが、その責任の一端が彼にあるのは間違いないであろう。
そういった意味で世界史上稀に見る暗君であると言える。