アメリカ合衆国第十一代大統領ジェームズ・ポーク

ジェームズ・ポークはとても困難な時代を生き抜いたアメリカ合衆国大統領だ。

彼の任期中にはゴールドラッシュが起こり、米墨戦争の勝利、ウォーカー関税の成立など歴史的にいくつか重要な出来事を経験している。

 南部ノースカロライナ出身の大統領

南北戦争までのアメリカ大統領の出身地を考えた時に、圧倒的に南部の出身者が多い。

南部とは以下の地域を含む一帯をいい、まさにアメリカ合衆国の半分ほどの領土を占める。

フロリダ州、ジョージア州、ノースカロライナ州、サウスカロライナ州、バージニア州、ウェストバージニア州 (ワシントンD.C.を含む)
アラバマ州、ケンタッキー州、ミシシッピ州、テネシー州
アーカンソー州、ルイジアナ州、オクラホマ州、テキサス州

 ワシントンを含む建国の父たちが大体バージニア州出身ということもあり、北部出身のアメリカ大統領の方が稀であった。ワシントンを含め黒人奴隷を使役する大規模プランテーションの所有者であり、ジョームズ・ポークの家も大規模とは言えないものの黒人奴隷を使役するプランテーションの経営者で、ノースカロライナという所謂南部の出身者である。

ジェームズは子供のころから病弱で、彼の父であるサミュエルは息子の為に高名な医師に見せていたほどで、大規模な手術を行ったこともあった。青年期になるにつれてそのようなことはなくなり、1818年にはノースカロライナ大学を卒業し、弁護士として活動した。

ここまでのアメリカ大統領はほぼ全員弁護士経験者か陸軍出身である。

1825年にはテネシー州の下院議員、1835年からは下院議長、1839年からはテネシー州知事を歴任した。

ジェームズ・ポークが大統領候補となった背景には、第八代大統領のマーティン・ヴァン・ビューレンがテキサス併合に反対したという経緯があり、所属していた民主党は代わりの候補としてジェームズ・ポークを建てたというのがある。

「James Polk Who?」というのが当時の一般的な反応で、当時民主党のライヴァルであったホイッグ党は彼の知名度のなさを攻撃した、党首であるヘンリー・クレイが大統領候補として両者は対立したが、1844年の大統領選において、蓋を開けてみればジェームズ・ポークの当選という結果になっていた。

この背景にはホイッグ党出身であったウィリアム・ハリソンやジョン・テイラー(大統領任期中にホイッグ党除名)などが人気を落としていたことがあったと言われており、民主党は民主党でジャクソンとマーティン・ヴァン・ビューレンの人気が落ちていた最中であり、ある意味不人気者同士の大統領選挙であると言える。こうしたことは日本の政治ではよくある。というより毎回なのでよくわかると思う。よりマシな方に投票したという結果にすぎず、その得票数は比較的僅差であった(選挙人投票では105:170、一般投票では両者130万票代でその差は約4万票)。

第十一代アメリカ大統領

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ジェームズは端から一期だけアメリカ大統領の任に就くと公言していた。

「合衆国の領土膨張は南西部テキサスに向けても、また北方のオレゴンにおいても、神が我々に命じたもうた使命である」

これはジェームズが大統領選において発言した言葉であるが、これが当時のアメリカの意思となり、1845年コラムニストのオサリヴァンが「マニフェスト・デスティニー(明白な天命)」という言葉で後押しすると、アメリカ合衆国は一気に膨張に向けて歩み始めた。

ジェームズがまずやったことはイギリスとの間でオレゴン境界紛争を解決することであった。

これはアメリカとイギリスの国境線を北緯49度線としたもので、当初ジェームズは北緯54度線を主張していたのだが、当時国務長官であったジェームズ・ブキャナンが構想したオレゴン条約という北緯49度とする案が連邦議会の上院で可決されて出した結論であり、現在でもこの部分の評価は分かれている。妥協であるという見方もあれば領土拡大に成功したのでポーク外交の勝利とする意見もある。

 続いてジェームズはメキシコとの米墨戦争に臨み勝利、グラダルーペ・イダルゴ条約を結び、カルフォルニア、ネバダ、ユタ、アリゾナ、ニューメキシコ、ワイオミング、コロラドという広大な土地を獲得、合衆国側から見れば大勝利、メキシコ側から見ると国土の1/3を失っており、今なお続くアメリカとメキシコの関係を形作ったともいわれる。

なお、これらの土地は無償で手に入れた訳ではなく、アメリカはメキシコ側に1800万ドルの現金と債務を支払っており、元々はテキサス共和国の独立及びテキサスのアメリカ合衆国参加が原因であった。

テキサスは元々メキシコ領であったが、1830年代にメキシコから独立。これはヨーロッパ各国の承認などを受けていたが、メキシコ自体は独立を認めておらず、さらにテキサスがアメリカ合衆国に併合されると両国の関係は一気に悪化、ジェームズ・ポークの命によりザカリー・テイラーがテキサスに砦を築くとメキシコ軍はこれを攻撃、米墨戦争が始まった。

余談だが、これはアメリカ側の明らかな挑発行為であり、アメリカはこの後の戦争においても常にこのような挑発を行い攻撃をさせてから戦争に介入している。

米西戦争におけるメーン号事件、第一次世界大戦におけるルシタニア号事件、第二次世界大戦におけるハワイ真珠湾事件、ベトナム戦争におけるトンキン湾事件など全て同じやり方である。

米墨戦争は圧倒的な戦争だった。武装の差は明らかであり、メキシコはまるでアメリカには歯が立たず、完膚なきまでに叩きのめされてしまった。

その他にジェームズ・ポーク時代の大きな事柄と言えばウォーカー関税であろう。

2019年現在でもアメリカは関税問題で揉めているが、関税問題は常にアメリカにおける最重要政策の一つである。

前大統領であったジョン・テイラー大統領はブラック関税と呼ばれる高い関税(35%)をかけたが、ジェームズ・ポークは真逆の政策である低い関税(25%)であるウォーカー関税を導入した。

関税の問題に関しては、綿花栽培が中心の南部は自由主義貿易を好むため関税が低い方を支持するため、ウォーカー関税は南部諸州の高い支持を集めた。

後に起こる南北戦争はこの関税を巡る戦争であるとも評価でき、このウォーカー関税は南北戦争の引き金の一つになったともいえる。工業化された北部は高い関税をかける保護貿易を支持していたからだ。

 なお、このウォーカー関税導入の結果、税率は下がったにも関わらず税収は1.5倍に増えた。

古代ローマ帝国でもそうであったが、税率は低い方が経済は発展する。しかるに我が国日本は増税に次ぐ増税を行っており、現在進行形で国力の衰退を招いている。税金は高くすればするほど収入が減っていき、国力を衰退させていくものなのだ。

ウォーカー関税は1857年まで有効な政策として残った。

この関税に関しては北部が大反対をしている。奴隷解放の件もあり、北部=正義のような図式になっているが、歴史はそれほど簡単ではなく、北部が勝った結果産業資本家が台頭し、貧富の差が広がったのも確かである。そのせいか、南北戦争までは圧倒的に南部出身の大統領が多かったのに、南北戦争後はほとんど南部出身のアメリカ大統領はでなくなってしまった。

20世紀にいたっては、ジョージア州出身のジミー・カーターぐらいのものである。

 このようにわずか4年という期間におけるジェームズ・ポークの仕事量はすさまじいものがあり、4年でわずか37日しか休暇を取らなかったという。

そのせいなのか大統領の任期終了わずか103日後に53歳で死んでしまった。

俺も経験があるが、過労と言うのは動いている時ではなく、ちょっと休んだその時に一気に来るものなのだ。

トラヤヌス帝もそうだったが、激務は確実に寿命を縮める。

個人的なジェーム・ポークの評価

ジェームズ・ポークは最も公約を守った大統領と言われる。

大統領演説の内容をほぼ全て実現し、最期の南部出身の大物大統領と言われることもある。

日本ではマニフェストの名だけ掲げて公約は実現しないものという風潮があるが、ジェームズ・ポークを見習って欲しいと思う。特に民主党は酷かった。何一つ公約を実現しないまま終わった。

そういう意味で見ても、ポークはアメリカでもトップクラスの大統領というべきであろう。その領土を拡大させ、国力を大きく伸ばした。

 日本の世界史の教科書にはほとんどポークの名が出てこないが、扱いが悪すぎるように思う。