世界の歴史を変えてしまった戦い。
確かにそう言える戦いが世界史には存在している。
1588年イングランドとスペインの間に起きたアルマダ海戦はそういった戦いの一つだと言えるだろう。
最強と言われたオスマン帝国は16世紀前半においてプレヴェザの戦いにおいてスペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇の軍を打ち破ったが、16世紀後半においてスペインはオスマン帝国海軍を1571年に起きたレパントの戦いで破ることに成功した。
このことからスペインの艦隊は「Armada Invencible(日本ではこれを無敵艦隊と訳した)」と呼ばれるようになり、大西洋及び地中海の覇者として交易の権益を独占し、世界中の富をスペインにもたらすようになった。
アルマダ海戦の背景
1492年、スペインのイザベラ女王に雇われたジェノヴァの船乗りクリストファー・コロンブスはアメリカ大陸に到着した。この新大陸にはジャガイモやナス、トマトなどの見たこともないような植物をはじめ、多量の銀などが発見され、スペインは大西洋を経た新大陸との交易で潤うようになる。
一方で地中海交易においてはオスマン帝国の支援を受けたバルバロッサ兄弟などを始めとした海賊たちに交易船が襲われる事態などが頻発したため、同じように被害に遭っていた南イタリア諸都市と共にオスマン帝国に挑むも先述したようにプレヴェザの海戦などで手痛い目に遭ってしまう。
海賊行為にはそのまま悩まされ続けるもレパントの海戦では勝利をおさめ、スペインの交易は盤石であるはずだった。
しかし実際には大西洋を横断するスペイン船は海賊の被害を受け続けており、しかもその海賊たちの多くは実はイングランド国王エリザベス一世の保護を受けた私掠船であった。
事態を重く見たスペイン王フェリペ二世はイングランド女王エリザベス女王に直接抗議するもイングランド側はのらりくらりとそれをかわす始末。
ちなみにこのエリザベス女王の姉であったメアリ1世とフェリペ2世はかつて夫婦であり、フェリペ二世がイングランド王を兼任していた時期もあった。いわば二人は義理のおじとめいの関係にあったわけだが、ある意味それが故に仲が悪かったという面もあるかも知れない。
エリザベス女王は私掠船を支援しただけではなくスペインからの独立を主張するネーデルラントを支援し、さらに国内のカトリック教徒を弾圧、英国国教会への改宗を断った司祭100人以上を処刑するなどカトリック教会と対立するようになり、その教主であるローマ教皇はエリザベス女王を破門、その命を狙うように全てのカトリック教徒に通達を出した。
エリザベス女王はそのことを逆手にとりカトリックを支援していたスコットランド女王メアリーを自身の暗殺容疑で処刑、このことは全カトリック教徒の反感を買い、フランスやスペイン、ローマ教皇との亀裂を決定的なものにした。
もはや我慢の限界に達したスペイン王フェリペ二世はローマ教皇ピウス5世よりイングランド侵攻の許可を得る。
この時期イングランドは、事実上全てのヨーロッパの国家を敵に回していたとさえ言える。
十字軍
ローマ教皇シクストゥス5世はスペインに対し十字軍税の徴収を許可した。
日本では十字軍というとイスラム教徒との戦いを思い浮かべるかも知れないが、ローマ教皇の呼びかけで集められた軍隊全般が十字軍であるということが言え、そういった意味ではアルマダ海戦も十字軍の系譜に連なると言える。
1588年、メディナ・シドニャ公率いるアルマダ艦隊はリスボン(当時スペインとポルトガルは同君連合)を出航しイギリス海峡を目指した。記録によれば130隻の船に18000人の兵士を載せた船団は悪天候のために避難を余儀なくされコーンウォール沖に出たのは7月19日のことであったという。
イングランド側はハワード・エフィンガム卿を司令官に、そして海賊であるフランシス・ドレイクを副司令官として170隻の船をプリマス港から出港させた。
アルマダ海戦
1588年7月21日、両軍は戦闘を開始した。
イングランド側は長距離砲を使ってアルマダに対し砲撃、損害を与えるも体系を崩すことには至らず。同月26日には双方とも砲弾が尽き、アルマダはフランスのカレーに一時的に停泊。
この間にイングランドは大量の火薬を積んだ火船をアルマダに対して派遣、アルマダはそれを退避しようと舵を北に取る。
この際に陣形が崩れたのを確認したイングランド艦隊は総攻撃を開始。
アルマダは総崩れとなり北海へと退避、ブリテン島の北方を通り本国スペインへの帰路に就いた。
その帰路は悲惨の一言で、途中嵐などに遭いスコットランド沖、アイルランド沖で次々に艦船がナンパ、伝染病の蔓延なども手伝ってスペイン側には多数の損害が出た形でアルマダ海戦は幕を閉じた。
一説によればスペイン側の被害は艦船が63隻、数千人もの水夫と兵士が失われたという。
なぜスペインは負け、イギリスは勝ったのか?
国力で言えば当時は圧倒的にスペインが上であった。元々のハプスブルク家が強大な力を持っていたことに加え新大陸からあがる利益でスペインは潤っており、海戦の経験値も上であった。
古来よりアルマダ海戦については多数の歴史家がその研究の対象としており、概ね一致する意見としては小回りのきく船を多数擁していたイギリス側が大規模で小回りのきかないスペイン船を翻弄したというものである。
あるいはイングランド海軍は長距離砲をもっており、スペイン船よりも射程がながかったからだとする者もいる。
さらにはスペイン側は統制が取れておらず、その隙をついたイングランドに打撃を与えられたという説もあり、未だに定説を見ない問題である。
いずれにしても実はアルマダ海戦においては戦闘で死んだ人員よりも事故や伝染病で死んだ者の方が多い。
これは人類の歴史にはよくあることで、20世紀においても第一次世界大戦で死んだ人数よりもスペイン風邪と呼ばれるインフルエンザで死んだ人間の方が多いことが知られている。
スペイン側の敗因は一つではなく、以上全ての要素が複雑に絡み合った結果であろう。
スペイン国王フェリペ二世が帰国したアルマダを見て「私は艦隊を人に対して送ったのだ。決して風や波に対してではない」という言葉を遺しているように、戦闘の結果以上にこういった災害ともいうべき理由で多くの船と人員をスペイン側は失ってしまったのは確かである。
それゆえに現代ではイギリス側が思うほどの決定的な勝利ではなかったとされることが多い。
アルマダ海戦の影響
海戦の結果、スペインは甚大な被害を受けた。残った67隻の船も痛みがひどく使用に耐えうる状態ではなくなっており、指揮官の多くは帰国後に病死し、生き残った者も投獄されるなどの憂き目にあった。
スペインはこれを機に世界最強国家の座から転落、徐々に衰退していき、列強からはその名前が外れるようになる。
一方勝利に沸くイギリスでは戦費による財政困難などに直面したものの勝利による国威の高揚は大きく、スペインとは真逆に大いに発展していき、17世紀には世界の制海権を握り、18世紀以降は植民地政策を通じて列強の筆頭となり、19世紀以降は帝国主義の先鋭として太陽の沈まぬ国大英帝国として空前絶後の発展を遂げるようになる。
それゆえ大英帝国の黄金期はエリザベス女王の時代から始まったと言われ、イギリスは女王陛下の国と呼ばれるようになっていく。
アルマダ海戦は必ずしもイギリスにとって決定的な勝利ではなかったかも知れないが、この戦いを機に両国の運命が流転し、世界の覇権国家が変わったのは確かであろう。
まさに世界の歴史を変えた戦いであった。