フランシス・ドレーク~世界一周を果たし母国を勝利へと導いた歴史的な海賊~

海賊が英雄になる、というのは珍妙な話だが確かに世界史にはそういった例がある。

中でもオスマン帝国海軍提督としてプレヴェザの戦いを勝利に導いたバルバロス・ハイレッディンとアルマダ海戦に副官として参加したフランシス・ドレークの二人は国家的な英雄として現代まで語り継がれる伝説となっているほどだ。

 大海賊フランシス・ドレーク

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ドレークは1543年イングランド南部で生まれた。ドレークが生まれた時父は農業を営んでいたが、やがて牧師に転身、兄弟は多かったようでドレークは12人兄弟の長男として一家の生活を支えた。

10になるころには船乗りとして働きだし、その熱心な仕事ぶりが認められて船を譲られるにいたる。ドレークはこの船をすぐに売ってしまうと旅に出て、そして親戚のジョン・ホーキンズが運用する奴隷船に乗り込んで奴隷貿易に従事する。

ホーキンズは密貿易で財をなし、その恩恵にあずかったドレークも自らの船ジュディス号を調達しホーキンズ船団の一角をなすまでに成長した。

しかしそんなドレークとホーキンズに大事件が起こる。

後にサン・ファン・デ・ウルアの復讐と呼ばれる事件であるが、きっかけはカリブ海を航海中のホーキンズ船団が嵐に遭って修理を余儀なくされたことに始まる。

この際ホーキンズ船団は最寄りの港サン・ファン・デ・ウルアに拠るのだが、この港はスペイン人が支配する港であった。さらに運の悪いことに同時期にメキシコ副総督として赴任するスペイン人マルティン・エンリケス・デ・アルマンサが13隻の船を率いてサン・ファン・デ・ウルアに寄港することになる。

ホーキンズはこの情報を事前に知っていたのか、サン・ファン・デ・ウルアの支配権を既に確立しており、アルマンサの船に対してはお互いの不可侵を条件に寄港と補給を許した。

しかしアルマンサはその約束を反故にしホーキンズ船団を強襲、完全なる奇襲を受けた船団は壊滅。生き残ったのはホーキンズの本船であるミニオン号とドレークの乗るジュディス号の2つだけという有様であった。

煮え湯を飲まされたドレークはサン・ファン・デ・ウルアでの復讐を果たすべく計画を練る。ホーキンズから新たにスワン号を譲り受けたドレークは大砲や弾薬などを大量に詰め込みスペインの富が集まるパナマを標的に定め強襲。しかしこれはスペイン兵の激しい抵抗にあって失敗に終わってしまう。

砦の攻略をあきらめたドレークは現地の人間に徹底的に聞き込み調査を行い、陸路にてスペインの輸送体を襲撃、スペインの守備兵を散らすと約30トンにも及ぶ金銀財宝を得ることに成功した。

その量はあまりにも多かったために途中土の下に埋めなければならないほどだったという。

ドレークは大量の金銀財宝をイングランドにもたらしそれは熱狂をもって国民に迎えられたが、当然の如くスペイン国王は大激怒、イギリスのエリザベス女王にドレークの引き渡しもしくは死刑を要求。

ここで身柄を素直に渡すようならエリザベス女王は歴史に名を残してはいない。

この日を境にドレークは行方不明となる。一説にはエリザベス女王がその身を隠したのではないかと言われている。

3年後の1576年、まるで事件などなかったかのようにエリザベス女王はドレークのスポンサーとなり、ドレークは世界周航の旅に出ることになる。

二人目の世界一周

1522年、フィルデナント・マゼランの艦隊が世界で初めての世界一周に成功する。マゼラン自体はフィリピンで戦死してしまったが、これによりスペインは世界の海の制海権を得たと言ってよく、海洋貿易においてはスペインは他国をリードする立場にあった。

2人目はフランシス・ドレークである。

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プリマスから出港し、アフリカ西岸からアメリカ大陸南部を通ってきたアメリカ、フィリピンと経由して南アフリカを通って再び帰国するというルートであったが、この際喜望峰を通っているのは特徴的だと言える。この時期ヴァスコダ・ガマの切り開いた航路が確立されていたとも言え、さらにこの際日本や中国には寄っていないという点にも特徴があるだろう。

ちなみに本能寺の変は1582年に起きており、ドレークがもし日本に拠っていたら日本の外交史は大きく変わっていたかも知れない。もっとも、世界一周をするのに日本を通る必要はなく、それであるがゆえに欧州から見て日本の戦略的価値は低く、交易の港としてはあまり魅力的ではなく、そのことが植民地化を回避できた要因の一つであるとも言えるだろう。

なおドレークはこの航海において南米と南極の間にある海峡を通っており、その地は現在ドレーク海峡と呼ばれている。

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帰国したドレークは多大な富をイングランドに持ち帰り、この財宝によってエリザベス女王は負債を返済することが出来、さらにレヴァント社が設立され、その利益によって後に東インド会社が作られることになる。

間接的にではあるが、ドレークは東インド会社生みの親の一人とも言えるだろう。

エリザベス女王はドレークの功績を称え、この時にナイトの称号を与えている。

海賊でありながらドレークは準貴族に列された訳である。

帰国後のドレークは私掠船としてカリブ海を荒らしまわり、スペイン戦からの掠奪を繰り返した。

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しかしスペイン王フェリペ二世は繰り返される海賊の蛮行に我慢ができなくなり、ローマ教皇の赦しを得てイギリスに向けて無敵艦隊アルマダを差し向けるのであった。

アルマダ海戦

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スペインとの戦いが決定的になるとエリザベス女王はチャールズ・ハワードを総督、フランシス・ドレークを副官に任命して戦いに臨んだ。

史上名高いアルマダ海戦である。

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結果はイングランドの大勝。スペイン艦隊は伝染病や嵐の影響もあって事実上壊滅。これ以降衰退の一途をたどり、勝利したイングランドは発展の一途をたどることになる。

アルマダ海戦勝利の裏にはドレークによる作戦が功を奏した面が大きい。

ドレークは攻めあがる前のアルマダ艦隊に奇襲をかけ停泊中の商船などを狙い掠奪を行った。これは成功し、「なぁに、まだスペイン王の顎髭を焦がしただけさ」という名言を残している。

ドレークはスペインに入港する商船などを襲いスペインの準備を遅らせることに成功、大規模な戦闘が始まった際にもドレークは果敢にスペインに対して攻撃を仕掛けていたという。

晩年のドレーク

アルマダ海戦後もドレークの活動は活発的で、リスボンを強襲したり、カリブ海を荒らしまわったりしていた。この頃のドレークはスペインの堅固な守りに阻まれ大きな功績を得ることは出来なかったが、50を超えてもなおドレークは海にあり、1596年、船上で息を引き取った。享年55歳。

個人的なフランシス・ドレークの評価

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フランシス・ドレークはイギリスの歴史における大英雄である。

ドレークなくしては後の大英帝国の発展はなかったであろう。

彼のもたらした富で東インド会社は設立され、彼の活躍で大国スペインに勝利できた。現在でもプリマスの港にはフランシス・ドレークの像が立っており、その人気ぶりが伺える。

フランシス・ドレークのやったことは全てが手放しに絶賛できる行為ではなく、奴隷貿易や掠奪など無法ともいえる蛮行をしたわけであるが、エリザベス女王の保護を受けて行ったため、その行為はある意味正当化されたと言える。

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海賊が必ずしも無法者ではなく、現在でも人気が高いのはこの辺りに人気があると言っても良い。

刑法には伝統的に「結果無価値」と「行為無価値」という考え方があって、ようは結果が悪いのか行為が悪いのかという問題なのだが、ドレークに関して考えてみると、彼の行為や結果は国家によって正当化されたために罪ではなかった。

「人を一人殺せば殺人者だが戦場で万人殺せば英雄となる」

というのはチャップリンの映画のセリフだが、ドレークを見ているといかなる行為でも国家が正当化すればそれは英雄的行為となるということを考えさせられる。

後に処刑されることになるキャプテン・キッドとフランシス・ドレーク。この二人の生きざまを見比べてみると面白い。

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二人の行為は傍目にはさほど変わらないように見えるが、片方は犯罪者で片方は英雄である。

歴史はもちろんだが、法律というのもある意味評価なのだなと思い知らされる。