16世紀最大の決戦!1571年に起きた「レパントの海戦」について解説

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「歴史を変える一戦」というものが存在する。

日本史では「関ケ原の戦い」であろうし、中国なら「赤壁の戦い」や「牧野の戦い」、ローマなら「ファルサロスの戦い」など、その国の、その地域の、あるいは世界の覇権をかけた戦いにおいて、不利な勢力が勝利し、その後の覇者となる例はいくつかある。

西欧世界において、そういう戦いを1つ挙げろと言われたら、やはりそれは「レパントの戦い」と言うことになるだろう。

 キリスト教国家はイスラム教国家に勝てなかった

イスラム教は610年にムハンマドがメッカ均衡にて大天使ガブリエルの声を聴いた時に出来上がった。

以来、イスラム勢力は偉大なアッラーの教えを広めるべくキリスト教国家やユダヤ教勢力、ゾロアスター勢力やヒンドゥー勢力との激しい戦い「ジ・ハード(聖戦)」を敢行してきた。

キリスト教発祥の地であるエルサレムを中心としたパレスチナの地はもちろん、文明発祥の地エジプトやシリア、ペルシャに北アフリカ、ついにはスペインなどのイベリア半島を支配権とし、フランス近郊まで勢力を伸ばした。

732年、トゥール・ポワティエの戦いにてイスラム勢力の侵攻を食い止めたが、東の大国である東ローマ帝国はイスラム勢力相手に常に後手に回っていた。

そんな中、11世紀西欧世界の精神的支柱たるローマ教皇は聖地エルサレムを奪還し、イスラム教打倒を宣言、ここに「十字軍」が結成される。

数度行われた十字軍は結局全てイスラム勢力の前に敗れ去り、1453年、ついに2000年以上続いたローマ帝国がオスマン帝国によって滅びるにまで至ってしまった。

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スペインのあるイベリア半島においては「レコンキスタ(国土回復運動)」が成功し、コロンブスが新大陸に到着した1492年にイスラム勢力が撤退することにはなったが、イスラム最強国家であるオスマン帝国にはまるで歯が立たず、最強の騎兵隊を率いるハンガリー王国はモハーチの戦いにて、ローマ教皇・スペイン・イタリア諸都市の連合軍はプレヴェザの海戦において散々に打ち負かされることとなった。

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当時ヨーロッパ最強の貴族として名をはせていたハプスブルク家は本拠ウィーンを包囲され当主フィルデナントは恐れをなして逃げ出す始末。皮肉にもオスマン帝国の侵攻を防いだのは元オスマン帝国軍の元将軍と冬将軍という始末。

この時代における世界の覇者は、確実にオスマン帝国のスルタンであった。

歴史を決める一戦

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1570年、スレイマン大帝の跡を継いだ息子のセリム2世は地中海に浮かぶキプロス島の攻略を開始した。

「銅」を表す「copper」という英語は、このキプロスが語源であるというぐらい、古代より重要な拠点であったキプロス島は、現在においてもトルコとギリシャの激しい領土争いの場となっている土地であるが、この時はイタリアの有力都市、かつてはかのマルコ・ポーロを輩出したヴェネツィアがオスマン帝国の侵攻に対し反発、艦隊を差し向けるもスペインなど他の列強の賛同を得られず、結局はキプロス島を守ることはできなかった。

事態を重く見たローマ教皇ピウス5世はヨーロッパ諸国に呼びかけをし、対オスマン帝国包囲網である「神聖同盟」を結成、スペイン王フェリペ2世の弟であるドン・ファン・デ・アウストリアを提督とする連合艦隊を組織し、ローマ教皇・ヴェネツィア・ジェノヴァ・スペインの連合軍を結成。

これより少し前の時代、ジェノヴァ出身のコロンブスがスペイン王室の命令によって大西洋航海に出たこと、マゼランもスペイン艦隊を率いて世界一周に乗り出したこと、スペイン軍のピサロがわずか200人でインカ帝国を滅亡させてしまったことなどを考えればスペイン軍の強さがわかることだろう。

そしてそのスペイン連合艦隊を難もなく打ち破ってしまったスレイマン大帝の恐ろしいほどの強さも。

神聖同盟の艦隊は9月にシチリア島のメッシーナに集結。遥か昔、ローマ帝国がまだイタリア半島を統一したばかりの頃に軍を集結させた町である。

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古代より続くローマ帝国を滅ぼしたオスマン帝国、ローマ時代に生まれ、今なお力を持つローマ教皇とその末裔たちの戦いは、かつて繁栄を極めたスパルタのあるペロポネソス半島沖のレパント海域で行われた。

オスマン帝国側の戦力は285隻の軍船と、90000弱の兵力、一方のキリスト教連合軍の戦力は軍船300隻に加えて85000弱の兵力、その規模は、かつてローマの雌雄を決したアクティウム海戦を遥かに凌駕する、史上最大の海戦であった。

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両軍は海上約8kmに渡り艦隊を展開し、船が海を覆いつくしていた。

戦力はオスマン帝国側がやや優勢、宰相メジンダード・アリ・パシャの率いるオスマン艦隊に油断はなかった。

しかし正午、風が吹いた。

オスマン艦隊は船が流されないように錨を下ろす。そのわずかなスキに、ドンファンは攻撃を仕掛けた。

応対するオスマン帝国艦隊と連合艦隊の間に砲撃の嵐が行き交った。

互いの損害は大きく、戦況は入り乱れた。

両軍の司令官は傷つき、この戦いに従軍していたセルバンデスはこの時に左手の機能を失う。このことは彼に「ドン・キホーテ」を書かせた。後に全ての文学に影響したと言われる、元祖「文学」の登場である。

午後1時を過ぎたころ、オスマン帝国艦隊を率いていたアリ・パシャが砲撃により戦死した。これによってオスマン艦隊の指揮系統は乱れ、その他の多くの指揮官も戦死していた。

午後1時半、オスマン帝国の船は次々と降伏し、多くは戦線を離脱し始めた。

 

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歴史は変わった。

キリスト教の連合軍が、ようやく強大なオスマントルコに決定的な勝利をすることが出来たのだ。

左手を失ったセルバンデスは、この戦いの勝利を生涯誇ったという。

オスマン帝国艦隊285隻のうち、210隻が拿捕され、25隻が沈没、無事に帰還できたのはわずかな数であった。

キリスト教側が手にした、初の大勝利であったと言えるだろう。

レパントの海戦その後

現在の歴史を見ると、キリスト教国が優勢である。

ここでイスラム勢力が衰退を始めたならば歴史がわかりやすいのだが、オスマン帝国は翌年には艦隊を再建し、キプロスの領有は認められ、勝者であるはずのヴェネツィアがオスマン帝国側に貢納を支払うことになった。

この背景にはヨーロッパ諸国の足並みがそろわなかったことがあり、レパント後に艦隊は解散、残されたヴェネツィア単独ではオスマン帝国には歯が立たないため、このような和睦を飲まざるを得なかったのである。

オスマン帝国の全盛期はスレイマン大帝時だと思われがちだが、その最大版図はそれよりも後世の時代のこととなり、16世紀に続き17世紀の世界においてもその覇者としての威容を失うことはなかった。

モーツァルトとヴェートヴェンが「トルコ行進曲」を作ったのは18世紀のことであり、オスマン帝国の衰退がはじまるのは19世紀からである。

一方この勝利は海上戦におけるスペインの威容を示すことに成功し、後の時代にスペインの艦隊は「アルマダ」と呼ばれ、日本では「無敵艦隊」と呼ばれるようになる。

しかしその地位はレパントの海戦の17年後、エリザベス朝におけるイギリスとの「アルマダ海戦」に敗れることによって失われることとなり、海上の覇権はイギリスやオランダに移ることとなる。

栄枯盛衰。

栄えれば滅び、誰かが滅びれば誰かが栄える。

人類の歴史とはとどのつまり、これを繰り返しているだけなのかも知れない。