アメリカ合衆国憲法の父!第四代大統領ジェームズ・マディソン

実は我々日本人はアメリカの歴史に詳しくない。

戦後、アメリカの文化が流入し、今でもハリウッド映画などを通じてアメリカの文化などにはなじみが深いが、実はあまりアメリカの歴史をガッツリ学ぶという機会はあまりないと思う。

アメリカ初代大統領がジョージ・ワシントンであるのは常識的なレベルとして、2代目3代目となると答えられる方が稀となり、4代目となると人口の何%が名前を知っているのかというレベルになってくる。

という訳で今回はアメリカ合衆国第4代大統領ジェームズ・マディソンがどんな人物でどんなことをやった人だったのかを見て行きたいと思う。

 アメリカ大統領としては初の合衆国下院議員の経験者

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日本の総理大臣は国会議員の中から選ばれるが、アメリカ大統領は連邦議会議員の中から選ばれる訳ではないので、議員経験がなくとも、政治家としての経験がなくとも大統領にはなれる。

ジョン・アダムズもトーマス・ジェファーソンも大陸会議だったり地元の州議会の議員ではあったが、アメリカ合衆国連邦議会の議員を経験してから大統領になったのは4代目のジェームズ・マディソンが初である。

ジェームズはヴァージニア州の大地主の一家に生まれた。父のジェームズ・マディソン・シニア大佐は広大な農園の所有者でその広さは5000エーカー、約4㎢となる。

ジェームズはその長男として生まれ、兄弟の数は12人に上り、一族の数となると30人ほどになったという。

地主階級の子弟らしく幼き頃より教育を受け、18歳で現在のプリンストン大学に入学(1769年)、各種語学や科学、数学に修辞学、哲学などを学んだ。法学も学んだようで、大学卒業後は弁護士となり、1776年からはヴァージニア邦議会議員を務めた。

この頃よりトーマス・ジェファーソンと親しくなり、弟子とも言えるような関係となる。1780年頃には大陸議会の代表となり、1784年からは再びヴァージニアで議員となる。

1787年に行われたフィラデルフィア憲法制定会議では彼の起草した部分がアメリカ合衆国憲法の基礎となり、その後はアレクサンダー・ハミルトンなどと共に「ザ・フェデラリスト」という論文を完成させる。

この辺りの活躍からジェームズ・マディソンは「アメリカ合衆国憲法の父」とも呼ばれる。

やがてトーマス・ジェファーソンが第三代アメリカ大統領になるとジェームズは国務長官となり、「マーベリー対マディソン事件」で名を上げ、ルイジアナ買収などでも功績を挙げる。

「マーベリー対マディソン事件」においては最高裁判所に違憲立法審査権を認めた初めての事件として名高く、その制度は現代日本にも取り入れられている。

1808年、トーマス・ジェファーソンの後を継ぐ形でジェームズ・マディソンはアメリカ合衆国第4代大統領となる。

彼の任期中にはイギリスとの間に米英戦争が勃発しており、この戦いにおいてはアメリカの将軍が敵前逃亡をしたり、ジェームズ・マディソンもワシントンのホワイトハウスを捨てて逃げ、イギリス軍に火をつけられるという事態になり、アメリカ国内は大混乱に陥った。

くしくもアメリカを間接的に助けたのはフランスのナポレオン一世であり、イギリスもそちらに兵力を裂いていたため決定的な損害は出さずに済んだ。

イギリスの側も対フランス戦線にて国費を使ってしまい、アメリカとの戦争に意義を見出すことが出来なくなっていたため両国は和睦する。この戦いは両国の引き分けと見るのが妥当であろう。

ちなみにジェームズの在任中北アフリカのリビアのイスラム勢力との間に第二次バーバリー戦争も起きており、地中海の安全な航海権を手に入れることに成功した。

大統領任期後は地元に戻って農園経営に従事し、1826年にトーマス・ジェファーソンが亡くなると跡を継ぐ形でバージニア大学の学長となる。

1836年、ジェームズ・マディソンは静かに息を引き取ったという。

個人的なジェームズ・マディソンの評価

ジェームズ・マディソンは派手な実績のない大統領であった。

しかし彼は愛された大統領だったと言える。

アメリカ合衆国のいたるところに彼の名前が見られることからもそれは明らかであろう。

有名な映画「マディソン郡の橋」、有名な「マディソン・スクエアガーデン」などはもちろん「ジェームズ・マディソンカレッジ」「マディソン山脈」「マディソン川」などの地名から原子力潜水艦の名前までいたるところにマディソンの名前が見られる。

派手さはないが「立法の父」と呼ばれ、歴史に名を残した「アメリカ合衆国憲法」の基礎を作り出した功績は偉大であると言って良いだろう。

一方で米英戦争の時に敵前逃亡するなど軍事的には功績が皆無と言え、ジェームズ・マディソンほどの人物でも奴隷問題には大いに頭を悩ませた。

アメリカの歴史を語る際、どうしても奴隷問題は外せない問題であり、その取り組み如何でその大統領の評価が決まってしまうと言ってもよいであろう。

独立直後のアメリカは大規模なプランテーションがなければその農業生産が賄えなかったと言え、工業化に成功した北部と農業中心の南部の対立は奴隷制度に賛成か反対かという問題に発展し、やがて合衆国を2つに分けてしまう。

その問題はジェームズ・マディソンの在任時にも静かに、だが急速に進んでいくことなり。

一般的にアメリカの産業革命はこの時代になされたと言って良く、1807年にフルトンがハドソン川に蒸気船を走らせたようにアメリカ社会は急速に工業化が進んでいく。

見方によってはジェームズの在任中にアメリカは大いに発展したとも言え、法整備などを始めアメリカが大国となる基礎期間を大統領として立派に務めた人物だとも言えるだろう。

派手さはないが堅実に職務を全うした大統領。それがジェームズ・マディソン大統領だと言える。攻めるばかりが能ではなく、このような守りの固い為政者も国家発展のためには重要であろう。