唐が滅亡すると、中国は再び戦乱の時代に突入した。
戦いは100年にも及び、その間には華北に5つ、華南に10の国が次々と興っては消え、建国しては滅亡していったため、世界史ではこの時代を「五代十国時代」と呼ぶ。
秩序は乱れ、治安を守るべき兵士たちは略奪を繰り返し、民のことを考える君主が皆無となったこの時代に、1人の英雄が誕生した。
万機親政
柴栄は実質的に五代十国時代最後の皇帝と言える。
河北に起きた5つ目の国である後周の皇帝で、廟号は後に世宗となる訳だが、彼が皇帝になったのは叔母である柴氏によるところが大きい。
柴氏は元々華北3番目の王朝後漢の宮中に仕えていた身分の高い女性であった。所謂良い縁談が数多ある中で、彼女が選んだ相手は郭威という人物であった。
郭威WHO?
今もそうだろうが、当時もそうであった。なにせ彼は一兵卒でしかなかった。そんな彼が一代で王朝を起こし皇帝になるなどと見抜けた者がいただろうか?
柴氏は見抜いていた訳である。
郭威は後漢の王族劉氏一族に取り立てられて出世し、契丹族を撃退するなどの活躍を見せたが、その勢力の伸長を危惧した劉一族に命を狙われ、一族を皆殺しにされてしまう。
やられる前にやれ。
慈悲の死んだこの時代、郭威は劉一族を滅ぼし後周を建国した。
ちなみに10世紀に起こったこの後漢は劉氏を名乗っているものの劉邦の一族とは何の関係もなく、出自もテュルク系(トルコ系)民族の突厥である。
家族を全員殺された郭威に残されたのは義理の甥である柴栄だけであったため、その跡を継いで後周の皇帝となった訳である。
郭威は皇帝となると治安を回復し、農地の復興、減税などの諸政策を次々と実行し、わずか3年の間に国力を大きく回復させており、柴栄が即位した時には既に準備が整っていたと言える。
柴栄は万事を自分でやらなければ済まなかった性格で「万機親政」と言って皇帝自らあらゆることを自らで決定し、実行した。
中国に限らずだが、君主の特徴としては全てを自分でやらなければ気が済まない人間と人にうまく任せられる人間が存在しているように思う。
前者の代表としては明を起こした朱元璋や君主と言ってよいかは微妙だが諸葛亮孔明がいて、後者の代表は何といっても劉邦と劉備であろう。
柴栄は前者に含まれる君主である。
基本的には郭威のとった農地保護政策を基調とし、一罰百戒、不正には厳罰を以て臨んだ。
柴栄の政策で最も有名なのは仏教への弾圧かも知れない。
前秦の苻堅の時代より仏教は熱く保護されていたのだが、柴栄は仏教を徹底的に弾圧した。
世界史で「三武一宗の法難」という用語を習った方もいると思うのだけれど、一宗の部分は世宗すなわち柴栄のことである。
柴栄がこのような政策をとった背景には富裕層による税金逃れがあった。
時代は変わっても人間のやることは変わらない訳で、どの時代の富裕層にとってもいかに税金を逃れるかが重要な点となり、この時代は寺社への土地の寄進であった。
現代日本も宗教法人に非課税であるが、この時代の中国もそうであった。
柴栄はよく日本の織田信長に例えられる。
彼には神仏を恐れるという気持ちは全くなかった。
「仏像は仏ではない。もし仏ならば民のために喜んでその身を差し出すであろう」
そういって仏像を銅にして使ったエピソードも残っている。
柴栄は寺社の土地を解体し、僧を次々と還俗させていった。
天下分け目の高平の戦い
世界史を変える戦いというのがいくつかあるが、10世紀に起こった「高平の戦い」もそういった戦いの一つであろう。
中国史全体を考えた時、ワーテルローの戦い並に歴史に影響を与えた戦いであると言っても言い過ぎではないであろう。
この戦いは柴栄が即位してすぐに、大国北漢が契丹族の国遼と共に後周に攻め込んできたことに端を発する。
もし負ければ権威は失墜、国家存亡の危機、そんな状態で後周は兵力の面では圧倒的に不利であった。そんな状況で後周の軍勢の一部が北漢に寝返ってしまい、兵の間に明らかな動揺が走る。最重要部隊である右翼部隊は敵前逃亡、絶体絶命の危機に陥っていた。
この危機に颯爽と現れて敵部隊を次々に撃破していったのが名将趙匡胤である。
ピンと来た方もいらっしゃるかも知れない。彼こそ唐以来の中華統一王朝「宋」を作った人物であり、後世の歴史では宋の太祖と呼ばれることになる人物である。
一転攻勢に転じた後周の軍は北漢を散々に打ち破り、敵に寝返った兵士や敵前逃亡した兵士たちには極刑を以て臨んだ。
柴栄の戦闘スタイルを一言で表すと「速攻型」で、相手も敵も準備ができていない状態での速攻戦をそのスタイルとし、これは例えば古代ローマの軍団とは対極にあるスタイルである。兵站を重視しないため短期決戦での勝敗となり、このため長期的な戦線の維持ができない。
北漢との戦いの際にも最後の一城というところまできて結局兵糧が尽きてしまい、現地での食料の略奪を行ったために領民の支持を得られず、結局は撤退。せっかく得た領地も全て取り返されるというミスも犯している。
侵略者柴栄
水滸伝を読んでいると「八十万禁軍」という言葉がでてくるが、宋の時代の皇帝直属の常備軍のことを「禁軍」という。
国家によって常備軍を整備するかどうかは異なる。西欧ではこの時代傭兵による戦闘が基本で、スイスなどの傭兵国家さえあったほどで、戦争時にのみ傭兵を雇うという風習があり、常備軍が基本となるのは17世紀の啓蒙絶対君主の時代からである。
古代ローマが戦に強かったのは軍隊が自前であり、常備軍がいたからだという面もある。
この時代、唐の制度であった「節度使」が軍の基本であった。つまり皇帝直属の軍隊ではなく、中央から派遣された節度使に軍団の整備などを任せるという方式であり、唐はこの節度使に対抗できなくなって滅びたという面もある。
柴栄は皇帝直属の常備軍である禁軍を整備し、富国強兵策を推進する。
高平の戦いより2年後、柴栄は南側にあった南唐と後蜀への侵攻を開始する。
南唐は三国志時代の呉、後蜀はそのまま蜀を思い浮かべていただけると三国志ファンにはわかりやすいかもしれない。
これらの戦いは熾烈を極めた。柴栄自ら軍を率いて戦う際にはこれらの国を圧倒するのだが、柴栄が去ると敗北し始めるということを繰り返す。柴栄自体は略奪を禁止するのだが、柴栄がいなくなると途端に略奪を始めてしまう。なんでも一人でやろうとする癖がここでは大きくマイナスに働いた。
3度目の親政において大水軍を組織し、ついに後唐を勢力下におさめ、江東の地を得ることに成功する。
江東の地は三国志の時代からそうであったように、塩と陶磁器の産地である。塩は当時大変な貴重品で、たびたび国家による専売が行われており、江東をその支配下におくことは経済力の強化につながった。
中国大陸の大半をその支配下においた柴栄は、北方民族である契丹族の遼と最大の宿敵である北漢相手に親政を開始する。
隋の煬帝が整備した運河を使い、江東より大水軍を進駐させ、徐々に敵を追い詰めていく。
このまま中華統一を果たすかに思われたその矢先、柴栄は突然病死をしてしまう。
まだ39歳でのことであった。
柴栄の後を継いだのはわずか7歳の恭帝であった。彼は政治を行うのはあまりに幼く、将兵たちは趙匡胤を次代の皇帝にと望んだ。
中国史上初と言っても良い、武力を伴わない禅譲がここに成立し、宋という国がここに誕生することになったのである。
柴栄の子孫たちは一切殺されることもなく、モンゴル軍によって南宋が滅ぼされるまで、その子々孫々は国家による篤い保護を受けたという。
個人的な柴栄(世宗)の評価
柴栄は絶対的な独裁者であった。
ただ、寺社への弾圧などはあるものの悪政を行った訳ではなく、長き戦乱の世にピリオドをうつべく中華統一をあと一歩のところまで進めた君主であり、富国強兵策をとり内政にも力を入れていた。
39歳の若さで亡くなっているが、もう少し長生きしていたら統一王朝を作ったのは柴栄とその一族であったかも知れない。そうなれば大きく歴史は変わっていた可能性がある。モンゴルに対しての中国側の攻めは苛烈になっていたかもしれないし、そうなればチンギス・ハーンは台頭しなかったかも知れない。そうなればイスラム諸国やポーランドなどへの侵攻はなかったかも知れない。つまり世界の歴史は大きく変わっていたであろう。
それぐらいの可能性を秘めていた君主でもある。
ただ、その政策はかなり強引で、相次ぐ遠征は財政に大いに負担をかけていた面もあり、このまま続けていれば財政は破綻していたという意見もある。
よく言われることであるが「諸葛孔明は何でも自分でやろうとして天下がとれなかった。劉邦は何もしないで人に任せたから天下がとれた」という言葉がある。
柴栄は何でも自分でやろうとし過ぎて、その結果寿命を短くしてしまったのであろう。
軍事的には趙匡胤という名将がいたが、内政的に力を発揮するような名宰相はこの時代にはいなかった。そういう人物がいたら、彼の寿命はもう少し延びたていたかもしれないし、得た領土を取り返されるということもなかったかも知れない。
それでも、中国が長き戦乱の時代を終えることが出来たのも柴栄の強引ともいえる活躍があったからだというのも確かなことであろう。その能力は長い中国の歴史でもトップクラスに位置するのは間違いない。