1642年に起きた清教徒革命(ピューリタン革命・三王国戦争)についてどこよりもわかりやすく解説!

中学校や高校の歴史の授業で出てくる「清教徒革命」ですが、用語は知っていても内容はよく分かっていないという方も多いのではないでしょうか?

それもそのはず、清教徒革命、別名三王国戦争はイギリス特有の用語や概念などを理解していないとよく分からない部分が多く、中学校で習う部分だけで理解するのは不可能なのです。

という訳で今回は中学生はもちろん「清教徒革命」ってよく分からないなぁという方に向けて解説記事を書かせていただければと思いますのでよろしくお願いいたします。

 清教徒革命についてまず知っておきたい基礎知識~イギリスはそもそも連合王国であるということ~

「イギリス」という国の正式名称はご存知でしょうか?

我々が「イギリス」と呼んでいる国の正式名称は「グレートブリテンおよび北部アイルランド連合王国」という名前になっており、「United Kingdam」の頭文字をとって「UK」と呼ばれることが多いですね。

アメリカが50の州の連合国家であるのに対し、現在のイギリスは4つの国の連合王国であるということが言えます。

現在の「イギリス」はブリテン島南部のイングランド、ブリテン島西部のウェールズ、ブリテン島北部のスコットランド、そして北アイルランドの4つの地域からなり、そのためサッカーワールドカップのイギリス代表は4チームに分かれている訳ですね。

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このように4つの地域に分裂した歴史は古く、そのきっかけはローマ帝国の侵攻でした。

ローマ帝国の侵攻は紀元一世紀にさかのぼり、その時ブリテン島に先住していたガリア人と呼ばれる人々は北方と西方に押し出されるようになり、ローマ帝国の支配が及ぶ地域をイングランドとしました。この後五賢帝の一人であるハドリアヌス帝はハドリアヌス長城を、その次の皇帝アントニヌス・ピウスはアントノニヌス長城を建て、その辺りまでをローマの支配地とし、それより北方がスコットランドとなった訳です。

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ガリア人はローマ帝国の支配を受けていましたが、官僚の横暴やキリスト教による文化破壊などで次第にローマ帝国の力は弱まり、4世紀にはブリテン島から撤退、代わりにデンマークやドイツの辺りからゲルマン人がやってくるようになりました。

これによってイングランド地方にはゲルマン人達の王国が立ち並び、6世紀以降のイングランドはゲルマン人が支配するようになり、ガリア人達は西方のウェールズに住むか、北方のスコットランドに住むようになります。

ウェールズ地方は13世紀ぐらいからウェールズ公国となり、事実上のイングランドの支配下となります。このぐらいから次期イングランド王が「プリンスオブウェールズ」としてウェールズ公になる伝統が生まれます。

時は過ぎ、16世紀の後半にエリザベス女王が死ぬとジェームズ一世という王がイングランド王になるのですが、このジェームズ一世は同時にスコットランド王でもあるためここにイングランド・スコットランド連合王国が誕生した訳です。

これは、ジェームズ一世のご先祖がイングランド王であったことと母親がスコットランド女王だったことから起こった事象となり、清教徒革命を理解するのに非常に重要なこととなります。

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宗教改革とイギリス内における宗教の問題

清教徒革命を理解する上でもう一つ重要なのが宗教の問題です。

1524年にマルティン・ルターが起こした「宗教改革」は全ヨーロッパを巻き込む自体となりました。

それまでヨーロッパではローマ教皇を頂点とするカトリック教会が中心となって、その教義に異を唱えることは許さず、ヨーロッパの各皇帝、王、貴族たちは誰もローマ教皇に逆らうことが出来なかったのですが、ルターの登場によりカトリックに抵抗する者として「プロテスタント」という概念が誕生します。

この流れに乗ったのがエリザベス女王の父親であるヘンリー8世で、彼はカトリックに反発してイギリスの国王を頂点とする「イギリス国教会」という独自の教会組織を作ります。

そしてその娘エリザベス女王の時代にはカトリック教徒にイギリス国教会への改宗をせまり、応じなかった人間達を次々と処刑していきます。これを逃れるためにカトリック教徒たちは隣のアイルランド島や北方のスコットランドに逃れることになった訳です。

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さらにエリザベス女王のこの行為はローマ教皇を怒らせ、教皇は全カトリック教徒にエリザベス女王暗殺命令を下します。

その結果エリザベス女王暗殺未遂事件が何度も起き、その首謀者としてスコットランド女王メアリー・ステュワートが処刑され、そのことに起こったスペインが無敵艦隊と訳されるアルマダをイングランドに派遣、アルマダ海戦と呼ばれる戦争が起きますがこれはイングランドの勝利につながります。

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やがてエリザベス女王が死ぬとメアリー・ステュワートの息子であるジェームズ一世がスコットランド王とイングランド王を兼任すると両国は連合王国となり、ジェームズ一世はこの宗教問題に対してエリザベス女王の路線を引き継ぎカトリックを弾圧します。

議会と国王と祖法

覚えるべき前提条件が多いのが本来の清教徒革命です。個人的には中学生が学ぶには少々難しすぎるかなと思います。

イングランドの政治形態はかなり特殊で、フランスやドイツ、イタリアなどと違って議会が昔から存在しており、国王が課税をするには議会の承認を得てからするという「祖法」というものが存在していて、歴代のイングランド王はこれを遵守してきました。

勿論100%順守してきた訳ではなく、時々揉めたりもしましたが、例えば戦争の際などに増税したい場合は国王の独断ではできず、議会の承認を得る必要があった訳ですね。

もしもその承認がなければどうだったか?

それが清教徒革命につながる訳です。

この点は清教徒革命を理解する上で最も重要な点になります。結果から言えば、清教徒革命は国王が議会の承認を得ずに課税したことが引き金となって起こったのです。

ジェームズ一世が死にチャールズ一世が国王になったことから全ては始まった

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ちょっと前置きが長かったですが、ようやく清教徒革命の入り口です。

全ての始まりはチャールズ一世が24歳で国王になった時に始まります。

チャールズ一世は生まれつきの吃音もちで、できの良い兄に多大なコンプレックスを持っており、さらに父ジェームズへの反発心が強いまま育ちます。元々は皇太子ではなかったのですが、12歳の時に兄が死んでしまい次期国王となり、実際に国王に就任した訳です。

暴君や暗君にはよくあることなのですが、賢臣の言うことは聞かず、口当たりの良いことばかり言う佞臣をこのチャールズ一世は重用します。

バーミンガム公ジョージ・ヴィリヤーズの進言に従いまずチャールズ一世はブルボン朝フランス王ルイ13世の妹ヘンリエッタ・マリアと結婚するのですがのっけからいきなりこれが議会の反感をかいます。

なにせフランスはカトリックの国で、マリアもまたカトリック教徒だったからです。さらにチャールズ一世はバーミンガム公の進言を受けてスペインのカディス港を攻撃するも成果を上げられずこれまた議会の顰蹙をかいます。

しかしチャールズは戦争継続のために議会を招集して戦争のための課税を要求、議会はこれに反対し、逆にバーミンガム公の責任を弾劾し始めます。チャールズ一世はこれに対しバーミンガム公を擁護、自分の意に沿わない議員を逮捕したり、貴族の家を勝手に兵の駐屯所にしたり、議会の許可も得ず独自に課税を施すなどやりたい放題をし始めます。

それというのも、チャールズ一世は父と同様王権神授説の信奉者で、国王の権力は神から与えられた絶対のものだと信じていたからです。このような思想に基づいて国王が専横することを絶対王政と言います。

絶対王政は後にフランスやドイツで発展していくのですが、それは国王子飼の官僚や常備軍がいる場合に成り立つ訳であって、それらを持たないチャールズ一世がやってもうまく行くわけがなかったのですね。

権利の請願

イングランドでは伝統的に議会政が根付いており、他国と根本的なシステムが異なると言え、絶対王政が根付きにくい政治システムと同時に議院内閣制が根付きやすかったと言えます。

よく日本の民主主義は稚拙だと言われますがその通りで、1000年以上も議会政を行っているイギリスの政治制度を真似ても根本が違うのだから日本に議会政が根付く訳がありませんね。

イングランド議会はチャールズ一世に対して「権利の請願」を提出します。

これは単に国王に対して祖法を守って課税をする際には必ず議会の承認を得ることを要求したもので、チャールズ一世もこれを承認します。

しかしチャールズ一世の寵臣であるバッキンガム公が暗殺されるなどの事件があり、議会は解散、意に沿わない議員を逮捕し、議会の承認なしで課税するなどその専横を強めていってしまいます。

国王チャールズ一世の専横

 1629年以来、チャールズ一世は11年間全く議会を開きませんでした。

その間に政権を担当したのはカンタベリー大司教のウィリアム・ロードと国王の寵臣トマス・ウェントワースの二人で、議会が開かれない間、権利の請願はまるで守られず、議会の承認を得ない課税は繰り返され、異を唱えた者は次々と逮捕・投獄されてしまいます。

*当時のイングランドの裁判所星室庁はイングランド国王の直属でしたので国王の思い通りに裁判が進んだわけです。

宗教の面で言うと、カトリック教徒はもとより英国国教会とは異なるプロテスタント一派であるカルヴィン派も弾圧の対象となりました。この人たちはピューリタント呼ばれ、我が国では清教徒という風に訳さていますね。この人たちが中心になったからこそ清教徒革命という名称がついたのです。

スコットランドの反乱

ほころびはスコットランドから起こりました。

チャールズ一世の成果ステュワート家は代々スコットランド王家の家系と言ってよいのですが、チャールズ一世はスコットランドを軽視していました。

具体的には戴冠式はイングランドの戴冠式より遅れて7年後に行われ、それも伝統的な形ではなく豪奢なものであり、かつスコットランドにはほとんど足を踏み入れなかったほどで、さらにスコットランドにおいてもイングランドの国教会の支配を徹底していましら。

これにスコットランドの中心都市エディンバラの住民が反発、暴動にまで発展します。

チャールズ一世はスコットランドの反乱鎮圧のため軍を組織すべく11年ぶりに議会を開くことにしましたが、これに議員たちが賛同する訳もなく、むしろ国王とその悪しき取り巻き達を弾劾する始末。チャールズ一世は招集からわずか3週間で議会を解散。この時の議会は後に「短期議会(ショートパーラメント)」と呼ばれるようになります。

軍の派遣を諦めた国王はスコットランド側に5万ポンドの金を支払うことでなんとか事態の収拾を図ろうとしましたが、当然の如くそのようなお金はどこにもありませn。

こうなるとどうしようもなくなったチャールズ一世は再び議会を招集せざるを得ませんでした。

議会は紛糾します。再びチャールズ一世とその悪しき取り巻き達は弾劾され、最低でも3年に一度は会期50日以上の議会を開くこと、議会の承認なしに解散しないこと、議会の同意のない諸税を禁止することなどが決められ、ここまでは国王も要求を呑んだのですが、話が要職の人事権にまで及ぶと一気に態度が硬化ます。

その状態でさらにスコットランドの議会(当時はイングランドとスコットランドの両方に議会があった)も同様の要求を国王につきつけます。

アイルランドの反乱とシヴィルウォー

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このような状態を期と見たアイルランドがイングランドに対して反乱を起こします。世に言う「三王国戦争」の始まりです。

日本では一連の流れのことを「清教徒革命」あるいは「ピューリタン革命」と呼びますが、イギリスやアメリカなどでは「三王国戦争」と呼ぶことが多く、個人的はこちらの呼び名の方がしっくりきますね。

イングランドがプロテスタントである英国国教会を推進しているのに対しアイルランドはカトリック教徒が大多数であり、実は2019年現在でもこの辺りの問題はまるで解決されていません。

行き詰まったチャールズ一世は部隊を率いて庶民院(当時からイギリスの議会は庶民院と貴族院の二院制)に乗り込み、自身に反発する議員を逮捕しようとします。

 これに議会側は当然のように反発。

しかし議会側も一枚岩にはなれず、国王に融和的な王党派と議会絶対主義を掲げる議会派の二つに分裂してしまします。

アイルランドの反乱、スコットランドの反乱、イングランド議会の分裂とイギリス国内は完全に内戦(シヴィルウォー)の状態に突入していきます。

そのような背景もあり国王軍は議会軍を蹴散らし、オックスフォードの街に新たな議会を作ってしまいました。このためイングランドには2つの議会が並列するようになり、それに対抗するために議会派はスコットランドの反乱軍と手を組むことになるのですが、ここでも議会軍は二つに割れ、国王との和解を目指す長老派と国王の排除を目指す独立派に分かれてしまいます。

こうした内戦の中で力を発揮したのが独立派の代表オリーバー・クロムウェルで、彼は鉄騎隊と呼ばれる軍隊を擁し国王軍との戦いを開始、幾度となく国王軍に勝利を重ね、ネーズビーの戦いで趨勢は決まり、国王軍は降伏。クロムウェルはその後もスコットランドの反乱軍も鎮圧する活躍を見せます。

しかしここで黙って指をくわえているチャールズ一世ではなく、議会の対立を見抜いて長老派と手を組もうとします。しかしこのことが独立派の逆鱗に触れてしまい、独立派のプライド大佐は部隊を率いて独立派を排除、45名を逮捕し、186名の議員を追放してしまいます。このことは「プライドパージ」と呼ばれ、残った議会は独立派60人が取り仕切る「残部会」とイギリスでは呼ぶようになりました。

独立派の暴走と国王の処刑(レジサイド)

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まるで共産主義革命のようですね。議会を一党で独裁し、そして為政者の血を流す。

1649年、独立派はウェストミンスターホールで国王の裁判を始めました。135名が裁判員となり、死刑に票を投じたのは67名、実際に署名したのは59名と過半数には届かなかったのですが、独立派の指導者クロムウェルはチャールズ一世の処刑を断行してしまいます。

この際、クロムウェルは国王の首を見て「残虐さも時には必要だ」と呟いたと言います。

長いヨーロッパの歴史を見ても、庶民が国王を公然と処刑した例はこれが初めてであり、現代までにおいてもこの清教徒革命とフランス革命ぐらいですね。それゆえにこの二つの革命の存在感は大きく、そして世界史上大きな意味を持つともいえるでしょう。

国王の処刑はイングランドの伝統的な国王・貴族院・庶民院という三位一体のバランスを破壊するもので、その意味ではまさにレボリューションでした。

同年には「共和政宣言(コモンウェルス)」が出され、イングランド王国は消滅イングランド共和国が誕生します。

イングランド共和国の政治は残部議会の構成員である41名の議員によって決まり、イングランドにおける内戦は一時的に収束を迎えました。

スコットランドとアイルランドの不満

国王の処刑と共和国の樹立は完全に独立派、もう少し言えばクロムウェルの独断でした。これに対しスコットランド、アイルランド両国は非常に不満を持ち、スコットランド議会はチャールズ一世の息子チャールズ二世をスコットランド王としこれに忠誠を誓います。

スコットランド、アイルランド両軍はクロムウェル率いるイングランド共和国との戦いに臨みますが、クロムウェルはアイルランドに上陸するとイギリス史上最悪とも言われる大虐殺を行い、アイルランドの40%に及ぶ地域を支配、続いてスコットランド軍をウースターの戦いで完膚なきまでに叩きのめすとチャールズ二世はフランスに亡命、スコットランドはイングランドに吸収されることとなりました。

国王軍、スコットランド軍、アイルランド軍を短期間のうちにクロムウェルの戦闘的能力はかつてないレベルのものだと言えますね。

クロムウェル護国卿に

クロムウェルがアイルランド、スコットランドに勝利すると議会派の内部で権力争いが生じました。人間というのはどうにも、常に戦っていないと済まない生き物であるらしいですね。

事態を重く見たクロムウェルは残部議会を解散し、軍事評議会が指名する140人の議員を構成員とした指名議会を設立、イングランド史上初の憲法とも言われる「統治章典」を編纂し、自身はイングランド、スコットランド、アイルランドからなるコモンウェルスとその付属地帯の首席行政官にして治安官である護国卿(ロードオブプロテクト)に就任します。

護国卿に就任するとクロムウェルは国務議会(10~20人程度で構成される)と議会(イングランドとウェールズで400名、スコットランド30名、アイルランド30名)という三位一体の体制で政治を行った訳でですが、簡単に言えばクロムウェルによる独裁政治ですね。

 見た目は議会制民主主義の形ですが、1655年には全土を11の軍管区に分けるなど軍事色が強い政権であったと言えます。クロムウェルの独裁色は強まっていき、クロムウェルを国王にしようという声が強まりましたが、意外にもクロムウェルはこれを固辞しています。なぜクロムウェルは国王になろうとしなかったのかは現代まで残る謎の一つなのですが、この辺りはナポレオンと異なるところと言えるでしょう。

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クロムウェルは体制を作る上で長老派や国王派など自分と意見を異にする人間達を追放し、やがてオランダやスペインとの戦争に踏み切っていく訳なのですが、1658年、クロムウェルは突然死んでしまいます。

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 王政復古(レストレーション)

オリバー・クロムウェルが死ぬと護国卿の地位は息子のリチャードが継ぐことになりましたが、彼は就任後すぐに辞職、その後は「仮議会」と呼ばれる議会が招集され、伝統的な庶民院と貴族院が復活していきます。

1660年、革命に関わった人間達への大赦、信仰の自由、革命中に所有者が動いた土地の所有権の承認、軍隊への未払い金などを内容としたブレダ宣言が出され、チャールズ二世を国王とする王政復古が完了したことで三王国戦争もしくは清教徒革命と言われた自事象は終わりを迎えることになりました。

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清教徒革命についての評価と思うこと

有名な思想家ジョン・ロックは清教徒革命を「不名誉な事件」としました。

ロックによれば革命とは勤勉で理性的な人によって行われるべきであり、貪欲な暴徒によって行われるべきではないとし、1688年に起こった革命を名誉的であると評価することになります。

後に起こる革命が「名誉革命」と呼ばれるのはここから来ている訳ですね。

清教徒革命に対する評価は時代によって異なると言え、革命そのものは認めても国王を処刑するのはやりすぎたという声も多いですね。流血による革命は以後フランスにおける大革命で行われますが、その後はロシア革命に代表されるような共産主義による革命に引き継がれることになり、暴力による革命が蔓延してしまうことにもなってしまいました。

また、「革命」というのは政体の異変を言う訳であって、清教徒革命の結果再び王制復古したことから果たして一連の流れを「革命」としてよいのか疑問視する声もあります。

個人的にはこの意見に賛同で、後のフランス革命やアメリカ独立戦争などと違って清教徒革命では政体の変更は行われていないため、個人的には革命と呼ぶのが正しいかどうかは疑問があります。

個人的にはイギリスやアメリカでよく使われる「三王国戦争」という呼び名がしっくりきますね。

いずれにせよ、歴史的に見ればこの一連の流れ以降名誉革命を経て議院の力が強くなり、立憲君主制のもとでイギリスが発展していく契機となったのは確かでしょう。

現在でもそのような政体を維持している国はいくつか存在しており、我が国日本も同様の仕組みを取り入れています。

そういった意味で清教徒革命は世界史はもちろん日本の歴史、そして現在の政治制度にも大きな影響を与えた事件と言えるでしょう。