世界史に名を残す英雄!ナポレオン・ボナパルトの生涯について語る!!

世界史上で最も評価に悩む人物がナポレオン一世ことナポレオン・ボナパルトだ。

1789年、フランス革命が起きた。にもかかわらず、フランスはその十数年後に王制どころか皇帝制に移行してしまうのである。

民主化の流れをぶったぎり皇帝に就任したナポレオンに対し、時を同じくして活躍していたヴェートーベンは激怒したという。

ナポレオンは偉大な英雄なのかそれとも時代の破壊者に過ぎなかったのか?

今回はナポレオン・ボナパルトの人生について見ていこう。

 ナポレオンの生まれた時代と場所

ナポレオン・ボナパルトは1769年地中海に浮かぶコルシカ島で生まれた。

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コルシカ島はナポレオンが生まれる前年までイタリアのジェノヴァ共和国の領地であり、1729年から住民の独立闘争が始まっており、対処しきれなくなったジェノヴァがフランスに売り渡したのであった。

所有権を手に入れたフランス軍はナポレオンが生まれた1769年に軍を派遣しコルシカ島を占領、ナポレオンは一応フランス国領で生まれたことになる。

この際、コルシカ島の独立闘争を指導していた貴族パスカル・パオリはイギリスに亡命し、その副官であったカルロという男はそのままコルシカに残りフランスの貴族としての地位を受けた。

このカルロの本名はカルロ・ボナパルト、すなわちナポレオン・ボナパルトの父親である。カルロがコルシカ島に残ったのは、妻のレティツィアが身重だったからだと言われており、この時お腹にいたのがナポレオンだったという訳である。

世界中で最も有名なフランス人と言えるナポレオンだが、コルシカ島ではイタリア語風のナポレオーネ・ブオナポルテという表記と発音で過ごしていたようだ。ほんの少しの差でナポレオンはフランス人ではなかったかも知れないというのは不思議な感じもする。

フランス貴族となった父カルロは農園経営などを始めるが、根っからのギャンブル狂であったらしくその暮らし向きはあまりよくなかったらしい。それでもフランス本国から学費が出たためにナポレオンはフランス本国にある陸軍士官学校に入学することになった。

ナポレオン、フランスに上陸

10歳の頃にはワインの産地としても知られるシャトー地方の幼年学校に、15歳になるとパリの士官学校に入学するようになる。

ナポレオンはこの時から数学の成績が特に優秀で、コルシカなまりが消えなかったためかあまり友人はおらず、ひたすらに本を読んで過ごしたという。この頃読んだ本にローマ時代の歴史かであるタキトゥスの本やユスティニアヌス帝の編纂したローマ法大全などがあったという。

この頃読んだ本は後の軍人ナポレオンと政治家ナポレオンの基礎を築いたと言える。

ナポレオンの戦術はアルプス越えや兵力集中の法則などローマを大いに苦しめたカルタゴの将軍ハンニバル=バルカに通じる部分があり、恐らくこの時に吸収したのだろうと思われる。

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幼年学校時代のエピソードとしては、ある教師がイギリスに亡命したコルシカ島独立運動の指導者パオリの悪口を言ったところ「パオリは立派な人です。パオリと運命を共にしかなかった父を許すことはできません」と反論したというものがある。この辺りはナポレオンのねじれとでも言おうか、そういった部分が良く出ているように思う。

陸軍士官学校を出た後のナポレオンは16歳にして少尉となり、フランス南東部の都市ヴァランスの砲兵として赴任した。1785年の話である。この頃も読書ばかりしていたらしく、ルソーやモンテスキューと言った思想家の本を読み漁っていたという。

ナポレオンはマメな性格で、これらの本の内容を一冊ずつノートにまとめ、独自の批評を加えていたという。

この頃に父が死んだ。そのためにナポレオンは頻繁にコルシカ島に帰り、実家の経営状態を立て直そうとしており、しばしば職務を休職している。

フランス革命とナポレオン

フランス革命について語るとそれだけで紙面が埋まってしまうので別記事に任せるとして、1789年フランス革命がおこるとナポレオンが真っ先にコルシカ島に帰っていった。

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革命当時のフランスは非常にややこしいことになっていた。

革命=民主化のイメージが強いかも知れないが、実際はそのような単純な図式ではなく、大きく王党派と穏健革命はと急進革命派に分かれていた。

単純に分けると富める者とそうでない者の対立が激しかった。特に革命の主導者たちに多かった貴族たちは自分たちの特権は維持したいと考えており、コルシカ島で特権を持っているナポレオンもその特権を維持しようと奮闘していたのである。

ナポレオンはその生涯において民主的な人物ではない。それは後に皇帝に就任したことからも明らかであろう。

革命のあおりを受けて、コルシカ島には独立闘争の英雄だったパオリが帰ってきていた。コルシカ島においてはフランス本土と同様に封建的特権身分の廃止を決め、フランス人の官吏を廃しコルシカ人の自治を目指しており、パオリはコルシカ軍総司令官およびコルシカ行政府首長に任命されていた。

しかし身分特権はなくなっても財力や土地は残る。1791年フランスは王領地の民間への払い下げ政策を実施する。いかに安価に払い下げられても購入できるのは貴族を始めとした富裕層のみである。ナポレオン一家はこれを機に払い下げられた土地を購入し、コルシカ島の島民から冷ややかな目で見られ始める。

自分の特権を維持したいナポレオンとパオリは対立するようになり、やがてコルシカ島でデモが起るとナポレオンは軍を率いてこれを鎮圧、死者も出たためナポレオンは批判をかわすためにコルシカ島を後にする。

本国に戻ったナポレオンは大尉に昇進することが出来た。

これは功績を挙げた訳ではなく、革命の余波を受けた貴族たちが大量に亡命したためであり、軍の指揮官たる仕官の約60%がフランス国外に亡命していたからである。

ナポレオンが本国に戻った1792年は世界史でも稀に見る激動の時期であった。8月に王権停止を求めるデモが起ると国王の居城であったティリリュー宮殿に人々がなだれ込み、よく1793年には国王一家が処刑されるという事態に陥るとこれに反発したオーストリアやプロイセンとの間に戦争が勃発、コルシカ島の南にあるサルデーニャ島にも侵攻を開始したのであった。

こうした流れの中でオーストリア、プロイセン、サルデーニャ、スペイン、イギリスが対仏大同盟を結成、フランスは国際社会から孤立してしまう。

こうした流れの中でナポレオンは再びコルシカに戻り、サルデーニャ侵攻軍を組織、もう少しでサルデーニャを占領できるというところでコルシカ軍を当時率いていたパオリの甥が撤退命令を出し、フランス軍は撤退することになってしまう。

このことによりフランス国民公会およびナポレオンとパオリの関係は決裂、パオリはフランス本国に召還命令を受ける。これに反発したコルシカ島の住民はナポレオンの家に火をつける暴挙に出る。扉や窓は壊され、物品は全て持っていかれるほどの略奪ぶりで、ナポレオンは家族を連れ再びフランス本国へと帰還していく。この後、ナポレオンがコルシカ島に上陸したのは2日間のみで、基本的にナポレオンはこの時故郷をなくしたと言ってもよいであろう。

軍隊内部での出世

多くの国との同時戦争を強いられたフランスであったが、国内での闘争も終わりが見えなかった。この頃のフランスは穏健派であるジロンド派と急進派である山岳派が激しい内部闘争を繰り返している時期であり、ナポレオンはこの山岳派の有力者であるオーギュスタン・ロベスピエールとの関係を強めていった。

オーギュスタンは恐怖政治で知られるマクシミリアン・ロベスピエールの弟で、ナポレオンをイタリアとの国境付近にあるトゥーロン砦に派遣し、少佐に昇格させた。

トゥーロンはそのころ王党派と結んだジロンド派及び、フランス王党派と手を結んだイギリス・スペインによって支配されていた拠点であり、ナポレオンはこの非常にややこしいことになっていたトゥーロンの砦の攻略に成功、フランス、いや、ヨーロッパ中にナポレオン・ボナパルトの名前が知れ渡るようになった。

これによりイギリス・スペインは撤退し、大量の王党派・ジロンド派が処刑されることになる。

この戦争の功績によりナポレオンは異例の三階級特進を果たし、一気に准将となる。

歴史に名高いナポレオン伝説の始まりである。

翌年の1794年ナポレオンは対イタリア戦線司令官に任命され、徐々にその頭角を現すようになる。

ナポレオン危機一髪

ただ、この頃もまだフランス国内の事情は複雑であった。フランスを支配する国民公会はオーギュタンの兄のマクシミリアン・ロベスピエールのもとで恐怖政治が展開されており、逮捕された者は約50万人、実際に処刑された人数は16000人という有様で、毎日誰かが新開発されたギロチンで処刑されているという有様であった。

ナポレオンはこのマクシミリアン・ロペスピエールのことは心底嫌っており、そのことがナポレオンを助けることになった。

マクシミリアンはナポレオンに対しパリ国民衛兵隊総司令官の任に就くように言うが、それを断っている。代わりにその地位に就いたのがアンリオという人物であったが、その要請があった二か月後、ロベスピエール兄弟とアンリオは断頭台に立つことになった。

断頭台の危機は脱したもののロベスピエール一味としてナポレオンも逮捕されてしまう。それでもナポレオン自体はロベスピエール支持を表明したことがなかったためにすぐに釈放されたが、軍の職を一時休職することにした。

最愛の妻との出会い

失意のどん底にいたナポレオンに新たな出会いが待っていた。ロベスピエール派を一掃した国民公会の有力者ポール・バラスとの出会いである。

彼はバラス派と呼ばれる一派を率いており、その派閥の面々は革命によって財を得た穏健派の貴族たちであった。革命によって国王や教会の領地が払い下げられたために利益を得た人々であり、所謂ブルジョワ階級と呼ばれる階層の領袖をしていた人物である。

ナポレオンは今度はこの穏健共和派についた。これらの人々は王権の復帰や封建的身分の廃止が覆るのを恐れており、王党派と言われる王政復古派を弾圧した。ナポレオンはその先鋒として葡萄弾と呼ばれる殺傷能力の高い兵器を使用、王党派を鎮圧することには成功したが、多くの死者をだし、王党派からは「ヴァンデミエール(葡萄弾)将軍」という綽名をつけられてしまう。

ナポレオンはこの功績により少将に就任、フランスは国民公会から総裁政府に代わり、バラス一派を始めとした5人の総裁による天下となったのであった。

バラスは毎日のようにパーティを開き、そしてナポレオンは最愛の妻となるジョゼフィーヌに出会うことになる。

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ジョゼフィーヌは元々フランスの植民地であったカリブ海の小さな島の出身で、1779年、16歳の時にフランス本土に渡り、大貴族アレクサンドル・ド・ボーアルネ子爵と結婚後一男一女をもうけるも性格的な不一致から別居、夫はその間にロベスピエールによって処刑され、現在はバラスを含め多くの有力者の愛人となっていた。
ナポレオンとは意気投合したのか、二人は1796年結婚、その結婚は両家の人間にすら秘密であったという。実はこの時ナポレオンは両家の令嬢との婚約中であり、結婚を秘密にしていたのはその辺りの事情があったのであないかと言われている。

ナポレオンはよほどこのジョゼフィーヌを愛していたのか、死ぬ間際の最期の言葉が「あぁ、ジョゼフィーヌ」であったという。なお、ナポレオンも多くの愛人を囲い、ジョゼフィーヌもまた多くの愛人を抱えていた。似た者同士やはり気が合ったのだろう。

イタリア戦線での大勝利

結婚の二日後、ナポレオンは対イタリア司令官に再び任命され、イタリアに向かった。

当時のイタリアは「イタリア」として統一されていた訳ではなく、いくつもの国に分かれていた。その中でもいくつかの国、特に北部はオーストリアの王族ハプスブルク家の影響が強かったため、フランスとしてはどうしても叩いておく必要があったのだ。

ナポレオンは南仏の都市ニースで軍団を組織し、海伝いにイタリア侵攻を開始した。対イタリア戦線は圧勝に終わった。オーストリア軍、サルデーニャ軍を次々と破り、サルデーニャとの講和に始まりローマ教皇庁とのトレンティーノ条約、オーストリアとのカンポ・フォルミオ条約などを結び、対仏大同盟を解体させることに成功したのである。

ちなみに、スタンダールの「パルム僧院」はこの頃の時代を舞台にした傑作小説なので、まだ読んでない人は読んでみよう!

この際フランス軍はコルシカ島にも軍隊を派遣しており、パオリはイギリスに亡命、ナポレオンも2日間だけ故郷に滞在したという。これ以降、ナポレオンがコルシカの地に足を踏み入れることはなかった。

ナポレオンのイタリア戦線での勝利はフランスに大きな富をもたらした。ナポレオンがこののちに侵略戦争を繰り返すのは戦勝で得られる賠償金と賦課金が目的であり、イタリア戦線での賠償金は現在の円に換算すると800億円ほどであったという。

「戦争は戦争によって賄わなければならない」

後年ナポレオンが遺したこの言葉に、全てが表されているであろう。

エジプト遠征

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オーストリアとの戦争に勝利した次の相手はイギリスであった。

総裁政府はイギリス本土ではなく、オスマン帝国領であったエジプトを次の標的に定めた。

これはイギリスとインドの通商を妨害する目的があり、エジプトを経由できなければアフリカ大陸をまわっていくしかイギリスとインドの交易方法がなかったことによる。

これは奇襲に近い攻撃であった。なにせフランスとオスマン帝国は伝統的に友好国同士で、オスマン帝国最強君主であるスレイマンの時代にはカピュチレーションという通商上の特権を与えられているし、オスマン帝国はフランス領内に大使館を置いていたほどだ。

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 ナポレオンのエジプト遠征と言えば世界史の教科書ではロゼッタストーンを持ち帰ったことぐらいしか言及しないが、その内実はナポレオンの評価を下げるのに十分であろう。

なにせオスマン帝国との間に戦争を起こす大義名分はなく、さらに当時オスマン帝国内でニザーム・ジェディードという近代式軍隊が整備されたばかりで、上陸から二日後に古都アレキサンドリアを占拠し、ピラミッドの戦いで戦勝はしたものの、イギリス艦隊の支援を受けたオスマン軍にアブキール湾では大敗、結果としてエジプトにおける港町はイギリスに支配され、住民からは反仏住民運動を起こされ、その鎮圧のためにナイル川は赤く染まったという。反乱に参加した者たちは次々に処刑され、毎日30名もの人間の首が落とされたという。ナポレオンはこれを見せしめとしてエジプトの人たちに見せていたという。

これらの戦況をナポレオンは本国に対し、味方の損害は実際よりも遥かに小さく、敵の損害は実際よりも遥かに大きく見せていたという。

第二次世界大戦時に日本軍も同様のことを行ったが、その元祖はナポレオンと言えるかも知れない。これらのナポレオンの報告はそのままフランスの新聞に転載され、そのたびにフランス国民は熱狂したという。ナポレオンはプロパガンダの使い手であったのだ。

それにしても、マスコミとはいつの時代も変わらぬものだなぁと思う。

シリア戦役

オスマン帝国はイギリスとの間に同盟を結び、そこにロシア帝国、オーストリア帝国、両シチリア王国が参加し第二回対仏大同盟が結成されたのだ。

オスマン帝国がその宿敵であったロシアとオーストリアと手を結ぶなど前代未聞と言ってもよいほどで、それほどナポレオンの侵略に対し脅威を感じたということだろう。行ってみれば藪をつついて蛇を出した感じで、オスマン側からすれば敵の敵は味方ということなのであろう。

この動きを察知したナポレオンはオスマン帝国に打撃を与えるべくシリアに侵攻する。初戦はフランス軍の勝利であった。フランス軍は次々にオスマン側の都市を制圧していくが、その抵抗が激化するにつれて占領政策を強め、略奪と虐殺を行うようになっていく。中には助命を条件に降伏した捕虜も虐殺の対象となったこともあり、オスマン帝国の人々を兵士も領民も関係なく虐殺し続けた。そういった行動を諫める将軍もいたが、ナポレオンは修道院を指さし「あそこに入ったらどうかね?そして一生出てくるな。それが嫌なら私の命令を執行しろ」とだけ言ったという。実にナポレオンらしい言葉である。

ナポレオンはアッコという都市を包囲したものの、その抵抗は頑強であり、2か月かかっても攻略できなかったため、シリア撤退を決めた。その際、占領した土地を焦土にする作戦をとり、エジプトまで撤退する。その間にフランス兵の多くがペストにかかったが、ナポレオンはペストにかかって兵士はそのまま見捨ててきたという。

丁度この頃イタリアをオーストリアに取り戻されるという失態を総裁政府は犯し、国民の支持を急速に失っていった。

この時ナポレオンの頭にあったのは、如何に自分がフランスの覇権を握るかであったことであろう。その証拠に、部隊はエジプトに置き去りにし、自分とその側近だけでエジプトを離れ、一路フランスに向かっている。

この裏にはイギリスの巧妙な作戦もあったという。

フランスとイギリスの間で捕虜交換があり、その際敵将シドニー・スミスがナポレオンに数か月分のフランスの新聞を見せ、ヨーロッパでフランスが苦戦しているさまを伝えたという。スミスからすればナポレオンに本国に帰って欲しかったのだろう。これ以上ナポレオンの相手をするのはしんどかったのかも知れない。あるいは、ナポレオンが帰ればインドとイギリスの交易路はつながったままであり、イギリス本国の利益を考えたのかも知れない。

統領政府誕生

シリア遠征及びエジプト遠征はナポレオンの敗北であった。しかしナポレオンはそれを巧妙に隠した。帰国の少し前、アブキール湾にてフランス軍はオスマン帝国の軍に勝利した。それが出回ると同時にフランスに上陸するという演出をし、敗北と言えるような部分を打ち消す作戦に出た訳である。

もはや総裁政府に国民の支持はない。英雄の帰還を演出することで国民の支持を集める作戦である。

そしてそれは成功した。

「栄光に輝く様々な勝利をフランス軍にもたらしてきたボナパルト将軍がオリエントの覇者になって帰ってきた!」

実際のフランスの新聞の見出しである。

人々は常に英雄を求める。ナポレオンはそのことをよく知っていた。

ナポレオンの帰還が報じられると、パリの街には祝砲が鳴らされ、歌やダンス、演奏が止むことはなかったという。

ナポレオンの帰還と同時に、「第三身分とは何か」というフランス革命の発端となった書物の著者であるアベ・シェイエスはクーデターを計画した。そしてナポレオンもそれに乗った。

5人の総裁のうち、シェイエスとデュコはナポレオンの味方であった。バラスはナポレオンによって多額の年金が保証された。残る二人、ゴイエとムーランは監禁した。これで総裁は一時的に誰もいなくなった。そして元老院による臨時政府樹立案が決議される。その後多少のゴタゴタはあったが最終的にはナポレオン、デュコ、シェイエスの3人による統領政府が誕生したのであった。

この際、議会ではナポレオンの部下であるミュラ将軍が軍隊を議場に派遣し、議員を議場の外に出したという。この時点で民主主義は死んでいたというべきであろう。

いつの時代もそうであるが、国民は民主主義を望んでいるのではなく、自分たちに都合の良い政治を求めているのかも知れない。フランス国民は強い指導者を求めた。そして目の前に強い指導者が現れた。統領政府に反対するようなデモも起こらず、パリは静かな朝を迎えたという。

三人の統領のうち、第一統領であるナポレオンに全てが集中した。軍事、外交、人事、シェイエスとナポレオンの意見は対立したが、シェイエスは軍事権を持つナポレオン相手に何も言えなかったという。

新憲法も賛成多数で発布され、ナポレオンは高らかにこう宣言したという。

「革命は終わった」

ナポレオンの大陸制覇

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ナポレオンは統領になるとオーストリアに奪われたイタリアを取り戻すべくアルプスを越えた。

ダビッドの書いた有名な「ナポレオンのアルプス越え」の画はこの時のナポレオンをモデルとした絵である。 

この絵はグラン・サン・ベルナール峠(セントバーナード峠)を背景にしており、古代カルタゴの将軍ハンニバルやフランク王国のカール大帝もこの地を通ったという。

この時ナポレオンは、カール大帝のように大帝国を作ることを夢見ていたことであろう。ナポレオンには確かにその力があった。

イタリアに侵攻したナポレオンは連戦連勝をし、イタリアからオーストリア軍を追い出すことに成功した。

残る敵対勢力はイギリスだけとなったが、イギリスは国内に多くの問題を抱えるようになり、両国はアミアンの和約において和議を結び、第二回対仏大同盟は崩壊した。

更にローマ教皇ピウス7世との間にコンコルダート(宗教的和約)が成立し、以下の3点が確認された。

  • ローマ教皇はこれまでのフランス王国に代わりフランス共和国を承認する
  • フランス共和国はカトリックがフランス人の大多数の信奉する宗教であることを承認する
  • ローマ教皇は革命の際に没収した教会財産の返還を求めないこと

これらの見返りに教会の神父などはフランス共和国から給与が支払われるようになり、司教、司祭の任命権ももった。

この頃はナポレオン暗殺未遂事件も起きており、警察大臣であったジェゼフ・フーシェの活躍によって一命をとりとめることがあった。このフーシェという人物は秘密警察の走りと言われる人物であり、フランス中に間者を放ちあらゆる情勢に通じていたという。日本の初代警視総監である川路利良はこのフーシェの作った警察機構を真似て警視庁を組織したともいわれている。

このように秘密警察を使って権力の座を確かなものにする方法は歴代の独裁者が真似る部分である。

1802年、ナポレオンは自ら憲法を改正し、終身統領の座につくことになる。

ナポレオンと黒人奴隷とハイチ独立

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受験生の時、よく「トゥサン・ルーベルチュール」という名前を試験で書かされた。黒いジャコバンとも呼ばれ、ハイチ独立戦争を指導した人物である。

繰り返すがナポレオンは決して民主的な人物でも人道的に優れた人物でもなかった。ナポレンは奴隷制支持者であり、植民地化では積極的に奴隷制を推進しようとした人物である。

1802年、ハイチで独立運動が開始されるとスペインと共に3万の軍を派遣する。1804年、ハイチは初の黒人共和国家として独立する。

しかし、ナポレオンは植民地全土に奴隷制度復活を宣言する。

アメリカで奴隷制が国を分裂させるほど大きな問題になっている時代のことであった。

なお、ハイチがなくなったことによってアメリカ大陸にあったルイジアナのフランス側からの価値は著しく落ちたことと戦費調達のためこの頃にナポレオンはルイジアナをトーマス・ジェファーソン下のアメリカ合衆国に譲っている。

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ナポレオン、皇帝に

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ナポレオンは時代の逆行者である。

黒人奴隷を推進し、民主主義的共和制を否定し、自ら皇帝となった。

王ではなく皇帝である。

当時のフランス領は広大であった。ヨーロッパ本国においてはオランダやスペイン、イタリアにドイツの一部などフランク王国に匹敵するほどの領土に多数の人口を抱えていた。

「最後の啓蒙専制君主であるとともに最初の近代的政治家」

ナポレオンを評して言われた言葉である。

後にナポレオン法典と呼ばれる法律は「私有財産の補償」「法の下の平等」「経済活動の自由」などを基調とした民主的な憲法として知られるが、男女平等ではなく、男尊女卑的な内容で、既婚女性には法的な権利が認められていなかった。91年憲法では多少認められていたのにである。また、その権利はフランス国籍取得者でかつ白人のみが享受できるとしていた。先述した通り奴隷制は存続され、ハイチの独立運動は潰そうとした。

自身は皇帝として兄や弟をスペインやオランダの王に任命し、ボナパルト一族をヨーロッパ各国の王に任命する。

ナポレオンはフーシェや外務大臣のタレーランなど実力主義で有能な人物を採用した一方で血族主義で各地域の支配者を決めていた。

進歩的で反動的。

それらの政策はヨーロッパ各国の反発を買い、イギリス、オーストリア、ロシアを中心とした第三回対仏大同盟を結成。

プロイセンを中立におくためハノーヴァーの地をプロイセンに割譲したりしている。なおこのハノーヴァーの土地はイギリス王族の出身地でもある。

ナポレオンは東のオーストリア、ロシアと西のイギリスを同時に敵に回さざるを得なくなった。

イギリスのネルソン提督率いる海軍はトラファルガー沖の戦いにおいてフランス軍を撃破、ただしイギリスにフランス本国に兵を派遣する余力はなく、フランスはそのままオーストリア、ロシアとの戦いに臨む。

かの有名なアウステルリッツの三帝会戦である。ナポレオンはこの戦いに勝利し、多額の賠償金を得ることに成功、そして第三回対仏大同盟は崩壊した。パリにある凱旋門はこの勝利を記念して建設されたものである。

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敗戦したロシア皇帝アレクサンデル一世はプロイセン、イギリスと共に第四回対仏大同盟を組織するもイエナの戦い、アウエルシュタットの戦いで敗北、ベルリンをも占拠することに成功。

この結果ヨーロッパの大半をその勢力下に置き、ライン同盟を組織して神聖ローマ帝国は崩壊、残ったイギリスへの対策は大陸封鎖令を宣言、その地盤は盤石に見えた。

ナポレオンの没落

結果から見ると、大陸封鎖令がナポレオン没落の引き金となった。

これはイギリスとヨーロッパ諸国の貿易を中止した命令であり、イギリス製品の輸入ができなくなった各国の経済は苦しくなり、ロシアなどがこれを破ってイギリスとの通商を秘密裏に行う。この制裁のためにナポレオンはロシアに侵攻を開始する。

ロシア侵攻の際に動員した兵力は44万と言われており、これは会戦としては史上最大レベルである。

これと同等の兵力を動員した例は4世紀に中国で起きた淝水の戦いぐらいである。

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なお、このロシア遠征も淝水の戦いも大兵力を動員した方が圧倒的に敗北している。

歴史上、率いる兵力が多すぎる場合はほぼ例外なく負けている。理由は単純で兵站がもたないのである。それだけの兵力を維持するのにかかる食料や装備は膨大になり、さらに指示が通りにくくなる。

ロシアは徹底的な焦土作戦をとる。これはナポレオン軍に補給をさせない作戦であり、自国の領土を焼き払うという飛んでもない作戦であったが、それは功を奏した。

トルストイの大作「戦争と平和」はこのナポレオンのロシア遠征を背景にした小説であり、フランス軍は勝手に消滅したと記述しているが、フランス軍44万の内フランスに帰れたのは多く見積もっても3万ほどであると言われている。

さらにイベリア半島での消耗戦も国力を大きく落とす結果となった。ナポレオンはブルボン朝の内紛に乗じて兄をスペイン王に据えた。しかしこれはかなり無理矢理であったので、スペインの諸勢力がこぞって反発、さらに隣国のポルトガルと同盟関係にあったイギリスがイベリア半島に上陸、民衆の反乱とポルトガルとイギリスとの戦いという果てしない消耗戦に陥り、これを機と見たオーストリアは再びイギリスと共に第五回対仏大同盟を結成。

フランスは再びオーストリアとの戦争に突入、再びこれを撃破すると第五回対仏大同盟は崩壊する。この時皇后ジョゼフィーヌと離縁しオーストリア皇帝フランツ一世の娘であるマリー・ルイーズと結婚している。

しかしロシア侵攻の失敗をみたプロイセンはこれを機と思い各国を呼びかけ第六次対仏大同盟を結成、それでもフランス軍はいくつかの戦いに勝利するが、1813年のライプツィヒの戦いにおいて大敗を経験してしまう。

オーストリア、プロイセン、スウェーデン、イギリス軍が大挙して押し寄せる中ナポレオンは7万の兵をもってこれを迎え撃つもさすがにこれを防ぐことはできずパリは陥落、連戦における疲労から部下も離反し、1814年、皇帝位を退位させられるとそのままコルシカ島とイタリア本土の間にあるエルバ島に島流しになった。

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ナポレオン退位後のフランスは再びブルボン王朝の支配する王制に復古することになる。

100日天下

ナポレオンがエルバ島に流されると、ヨーロッパの状態を元に戻すことを目的としたウィーン会議がオーストリアの宰相メッテルニヒによって開催される。

「会議は踊る、されど進まず」

その言葉が示す通り、何も決まらないまま時は過ぎ、その間にナポレオンはエルバ島を脱出してしまう。

ルイ18世の政治にフランス国民が不満を持っていたこともあり、ナポレオンは再びフランス軍を率い、連合国との戦争に臨む。

しかしイギリス、プロイセン連合軍にワーテルローの戦いで決定的に敗北し、今度はアフリカ沖2000kmの位置にあるセントヘレナ島に流されてそのまま病死してしまう。

享年51歳。まるで嵐のような生涯であった。

ナポレオンに関する諸話

ナポレオンは極端に睡眠時間が短かったという話があるが、癲癇であるため夜眠ることができなかったという説もある。飲酒により夜中まで起きていたという説もあり、いずれにしても昼間によく寝ていたようであり、極端に睡眠時間が短かった訳ではないようだ。

死因は胃癌もしくは胃炎を悪化させたことであると言われており、多大なストレスを抱えていたのは確かで、生前自分が死んだら必ず解剖を行うようにと遺言していたことから毒殺説も根強いが、生前から頭痛やリューマチ、肝機能障害になどに悩まされており、健康面において様々な問題を抱えていたようである。

また、現在でも続くフランスの勲章制度「レジオンドヌール」はナポレオンが始めた制度で、日本では北野武などが受賞している。

ゲーテの書いた若きウェルテルの悩みが好きで、生涯に七度読んでいると言い、それが原因かは分からないが一度自殺未遂を起こしている。なお、ナポレオンは実際にゲーテにあった時「ここに人あり!」と言って喜んだという。

ナポレオンには多数の愛人がいたが、中でもポーランド人貴族のヴァレフスキ伯爵夫人であるマリアはお気に入りで、実際にナポレオンとマリアの間には子供も生まれているほどで、ナポレオンがエルバ島にいた時には正妻であるマリー・ルイーズは一度も訪ねてこなかったが、マリアは訪ねてきたという。

2人の関係は夫である伯爵も知っていたというから中々どうして。なおこの夫婦は年の差がかなりあり、妻が20歳の時夫は66歳であったという。もうなんか、色々すさまじいな。。

個人的なナポレオンの評価

気が付くと12000文字を越えていて、一切休みなしに書いたので非常に疲れた。正直まだまだ書き足りない感じさえするが、これぐらいでも多すぎるぐらいだろう。

さて、冒頭で述べた通りナポレオンの評価ほど難しいものはない。

圧倒的な功績がある一方で失敗も多い。

時代に逆行した各種政策は大体が失敗であったし、結構戦においても負けている。

ただ、イギリス、オーストリア、ロシア、オスマントルコ、プロイセンと強国を悉く敵に回して勝利の方が多いというのは強敵である。

ただ、本当に強い君主とは敵を作らない君主であり、これらの国のどれかを味方につけていたら結果は大きく変わったことであろう。特にオスマントルコに関しては友好関係を自ら破棄しており、敵を自ら増やしてしまった面は否めない。

決定的なのはロシア遠征の失敗であり、これが決定的になったであろう。その大元となった大陸封鎖令がやはり失策であったと言えるが、ここから一気に没落が始まった。

彼は名君とは程遠いが暴君でもない。

名君とはやはり趙匡胤のように人命を尊重し、略奪や虐殺を嫌い、平和な時代を創出できる人物のことを言うのだろう。

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ナポレオンは世界に混乱をもたらした。略奪も虐殺も失政もした。

だがそのダイナミズムは我々日本の歴史上では誰一人発揮できなかったものがあり、世界史上でも稀なほど不思議な魅力を持った人物でもある。

彼は数学的な天才で軍事的な天才で、良い意味でも悪い意味でも人に影響を与える人物であっただろう。

「怖れとは、臆病者の幻想にすぎない。不可能とは卑怯者の言い訳である。よって我が軍団と我がフランス語の辞書に不可能の文字はない」

ナポレオンの遺したこの言葉を聞いただけで、なにがしか心が動く。

彼を評すればやはり、ヴェートーベンが表したように「英雄」という言葉がぴったりくるだろう。