中国歴代王朝はなぜ宦官の暴走を止められなかったのか?を考えてみた

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中国の歴史を学んでいると、多くの王朝が宦官のやりたい放題によって滅んでいるのが分かります。

戦国時代の覇者であった秦は始皇帝が死んだあと宦官である趙 高の暴政によって反乱が多発し建国からわずか15年で滅亡してしまったように、宦官が好き放題した結果国が滅亡した例は枚挙にいとまがありません。

今回はどうして中国の歴代王朝が宦官の暴走を止められないのかという点について記事にしてみました。

皇帝の嫉妬深さと孤独な生い立ち

ある意味では生物学的とも言えますが、皇帝に嫁いだ皇女達は皇帝以外の男性とは接触禁止になります。

普段の世話は女官たちが行う訳ですが、中国では歴史的に女性が何かを学ぶという文化はなかったため、生まれた王子たちの教育係を男性ではない人物、すなわち宦官が担うことになります。 宦官と聞いてイメージするところは人によって違うと思います。

趙 高や童 貫、魏忠賢のような権力の権化を想像する人が多いと思われますが、製紙法を伝えたと言われる蔡倫や史記の著者司馬遷なども実は宦官です。

竜馬が行くや坂之上の雲などで有名な作家司馬遼太郎が「我司馬遷には及ばず」と言ったことやペンネームの由来にしたことは有名ですね。

さて、次代の皇帝候補の皇子達は母親のいる後宮で育つわけですので、かなり長い間男性と接することなく育つことになります。

そこでいざ政治を始めようとしても、今まで会ったこともない人物が色々なことを言う訳ですので、それを信頼しろという方が難しくなります。

生まれた時から自分のそばにいて自分を育ててくれた人物と科挙試験などの試験を突破してきた知らない大人たち 皇帝がどちらを信用するかと言えば火を見るより明らかですね。

中国の歴史においては宦官が地方からの報告を握りつぶし皇帝にウソの報告を行い、かつ皇帝がそれを信じるという記述が多数存在していますが、皇帝から見ると宦官こそが信頼できる人物である訳です。

事実、明が滅亡した時、最後の皇帝崇禎帝は中国歴代皇帝としては珍しく自害する訳ですが、その際そばにいたのは宦官である王承恩だけだったという記録が残っています。

皇帝の孤独をある意味一番表している話だと言えますね。 「馬鹿」という言葉の語源は秦の時代、二代目の皇帝が鹿を指して趙 高にあれは何かを問うたところ馬でございますというのを信じたところからきていますが、それに異を唱えられる人物はいない訳です。仮に周りの人間がそれは嘘だと言っても皇帝の側が信じない訳ですね。  

歴代宦官がやった国を傾けるレベルでひどいこと

秦王朝

中国初の統一王朝であり、そもそも現在の中華という概念を作り出したのがこの国な訳ですが、わずか15年で滅んでしまいます。 滅亡の理由は色々あるのですが、趙 高の滅茶苦茶ぶりも原因としてあげられるでしょう。  

・始皇帝が死ぬとその遺書を改竄し長男であった扶蘇を自殺に追い込む
・二代目皇帝胡亥への上奏はすべて自分を通させる
・阿保の語源ともいわれる阿房宮の増築をするために重税
・先述の馬鹿事件
・名将蒙恬とその一族をでっちあげで処刑
・胡亥へは常に大日本帝国本営発表のようなウソの報告
・宰相であった李斯を処刑し自ら宰相に
・散々利用した挙句胡亥をも暗殺
・最後は劉邦に保護を求めるも無視される

  ここまで救えない悪党も他にはいないレベルですね。 この無茶苦茶ぶりは平家物語にすら引用されるレベルで、世界史きっての大悪党ともいえるでしょう。

漢の時代

漢の時代もまた宦官が暗躍した時代で、特に宦官集団である十常侍は有名ですね。あるいは中常侍。 中国史の中でも酷い暗君として知られる後漢の霊帝の時代に暗躍した宦官で、やったことは歴史の教科書に載るぐらいひどいことです。  

・宦官に批判的な集団をでっちあげの罪で終身禁錮刑にした(党錮の禁)
・親族の多くを要職につけることに成功した
・大将軍である何進(外戚)を誅殺した

  趙 高が無茶苦茶すぎてインパクトに欠けるように見えますが、やっぱり滅茶苦茶ですね。

三国志の始まりはある意味党錮の禁にあるとも言えるんです。

それによって漢の官僚が弾圧され、政治が無茶苦茶になって地方の勢力がそれぞれ独立を果たすようになるわけです。

十常侍は袁紹によって殺害され、混乱を避けて都を逃げ出した皇太子たちは董卓という歴史上最悪クラスの暴君に保護されてしまう。

その董卓に立ち向かうために連合を組んだのが曹操であり劉備であり孫堅であるわけでした。

ちなみにですが魏の事実上の建国者である曹操の父曹嵩は曹騰という宦官の養子になった人物で、元々は後漢の功臣である夏侯嬰の末裔である夏侯氏の出身であったりします。

その魏が宦官を一切重用しなかったことは興味深く、またさらに短命な国であったことも興味深いですね。

宋の時代

唐の時代にも高力士や李林甫(ともに玄宗皇帝時代)なんかもいるんですが、そのころは宦官よりも外戚(皇帝の皇后の親族による勢力。日本では藤原氏などが有名)の方が問題があるのでなんともはや。

宋の時代と言えば徽宗皇帝の時代ですね。水滸伝の舞台ともなり、異民族に王朝が支配されるという事態も招いた時代ですが、この頃暗躍していたのが童 貫という宦官です。水滸伝にも出てきますね。

この童 貫はなぜか軍事的な才能があり、方臘の乱の平定に成功しています。ただし所謂燕雲十六州に国を建てた遼相手には敗戦一方で、ある意味宋の滅亡を速めたと言えますが・・・ 始めの趙 高のインパクトが強すぎましたね(^^;)  

明の時代

北宋は金にやられ、南宋は元にやられ、久方ぶりの漢民族による統一王朝である明王朝ですが、ここでの宦官の暴れっぷりはすさまじいですね。

特にすさまじいのが魏忠賢という人物。

第16代皇帝である天啓帝の食事係にして乳母の愛人だったという彼は政敵を次々と暗殺していきます。 自分にとって味方になるものは優遇し、敵対しそうになる人物は生きたまま顔の皮をはぐなどの拷問の末処刑する暴虐非道ぶりで秘密警察を使って反対派を粛正、当時一大勢力だった官僚集団東林党を弾圧すると暴政を加速させます。

やることなすこと無茶苦茶で、自分を称える祠を全国各地に建てさせたり自らを称える行為を要求し反対すると粛正するといった恐怖政治を行い国力を衰退させ、明の滅亡を加速させました。

天啓帝が死に崇禎帝が即位すると早々に自殺しますが、遺体は磔にされ財産は没収。 一族はすべて処刑され部下たちは殺害もしくは追放されることとなります。

当時の明は国力は大きく衰えていたものの、袁崇煥などの優秀な人材もいたのですが、魏忠賢の勢力によって悉く邪魔をされてしまい、後金のヌルハチの賄賂を受け取り国の滅亡を速めるなど最後は自らの首を絞める結果となりました。

数多くの宦官の中でも魏忠賢と趙 高の存在は抜きんでていますね。 日本には暗君はいても暴君はいないと言われますが、この2人よりひどいことをしようとしても中々できないでしょうね。

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優秀な宦官も紹介

酷い宦官も多いのですが、実は優秀な宦官も数多くいます。  

・前漢:史記の著者「司馬遷」
・後漢:紙の発明者「蔡倫」
・明:大艦隊の提督「鄭和」

  3人とも歴史の教科書に出てくるレベルの有名人で、宦官だからと言って全員ヒドイことをしているという訳でもないですね。

鄭和に関しては大航海時代よりも前の時代の人物で、15世紀には中国からアフリカ大陸までの航海に成功しており、当時の航海技術ではヨーロッパよりも中国の方が優れていたことが分かっています。

明王朝があそこまで無茶苦茶な政治を行わなければ、ヨーロッパによる大航海時代は大きくその内容を変えていた可能性がありますね。