魏忠賢~九千歳を強要し、堯天舜徳至聖至神を自称した史上最悪の宦官~

中国の歴史はしばしば宦官によってその形を歪めてきた。

有名なのが後漢時代の党錮の禁で、伝統的な漢における官僚登用制度「郷挙里選」で採用された清流派の官僚たちを宦官が弾圧した事件で、多くの有能な官吏が死に、それは黄巾の乱が起こって初めて解除された訳であるが、このように中国の歴史は官僚と宦官の対立がしばしば起る。

宦官の中には司馬遷や蔡倫、鄭和のように優秀な人物もいたが、後漢の中常侍に代表されるように多くは国家に巣食う寄生虫の如く国を蝕んでいく存在であった。

男性機能を失ったが故の残酷性と権力への執着で、しばしば国を滅亡に導く宦官もいたが、中でも秦を滅亡に導いた趙弘と魏を滅亡にいざなった魏忠賢の二人は別格であるというべきであろう。

今回は中国4000年の内でも最悪の宦官、いや、最悪の佞臣である魏忠賢について見て行こう。

 洪武帝が宦官を禁じても意味がなかった

中国の歴代皇帝とて、宦官がしばしば国を滅ぼしてきたことを知っている。

「愚者は経験に学び賢者は歴史に学ぶ」という言葉があるが、その面で言えば洪武帝こと朱元璋は賢者の部類に入る。

彼は官僚も宦官もあまり信用していなかった。どちらも最終的には国を亡ぼす存在だと知っていたのだ。洪武帝はそれゆえに官僚は殿試において自ら選び、宦官を排除することに腐心していた。

もっとも、洪武帝に関しては家族以外誰も信用していなかったとも言えるが。

そんな明王朝がどの王朝よりも宦官を重視したのには訳がある。

洪武帝が死ぬと二代目には健文帝が即位したが、その帝位は同じ一族である人物によって簒奪されてしまう。ご存知永楽帝である。

永楽帝自身は英主であったが、簒奪者としての負い目から官僚を重用しなかった。当時の官僚は洪武帝によって採用された者がほとんだったというのもあるだろう。永楽帝なりの引け目があったという者もいる。

永楽帝は鄭和に代表されるように宦官を重用した。歴史的に見ると、これが明王朝の未来を決めてしまった節はある。

ちなみに歴代中国王朝はなぜ宦官の重用を辞められなかったのかは別記事があるのでよかったら見て欲しい。

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明王朝が滅んだ時、まるでクモの巣を散らしたように重臣たちは宮廷を去り、皇帝の周りには最後宦官だけが残ったという。

中国皇帝は圧倒的な権力者であり、それであるがゆえに孤独なのだ。皇帝に友はなく、ただ宦官だけが生まれた時から自分のそばにいるのだ。

史上最悪の宦官誕生

魏忠賢は河北の貧しい農村に生まれ、無頼の徒として日々大して働きもせずにギャンブルばかりしていたという。ある日ギャンブルに大敗した魏忠賢は自ら去勢し宦官になった。

この辺りの細かい経緯は不明だが、権力を手に入れたくなったのか、あるいは莫大な借金から逃げるためかも知れない。

手先が器用であった魏忠賢は皇子の母親である王夫人の典膳(食事係)に任命される。嫉妬深い中国の歴代皇帝は、女官の代わりに宦官を妃の世話係にした。現代でも中華料理の料理人は男性が多いが、男性を後宮に入れるわけにはいかないため料理人などは宦官である場合が多かったのだ。さらに宦官にはグルメな人間が多い。性欲が別の嗜好に移るのかも知れない。

元来権力欲の権化みたいな魏忠賢は宦官の中でもトップの地位にいた王安という人物に取り入る。魏忠賢はおべっかの天才でもあり、人に取り入るのが大変うまく、さらに皇子の乳母であった客氏とどういう訳かカップルとなる。

客氏もかなり淫蕩かつ権力志向の強い女で、魏忠賢とは気があったのかも知れない。類は友を呼ぶというがあれは本当だ。

皇子はやがて天啓帝として即位した。万暦帝の死から1か月、次代の皇帝は光宗だったが、この人物は媚薬の飲み過ぎという飛んでもない原因で死んでしまい、皇子が即位した訳である。ここまで酷い王朝も珍しい。

しかもこの天啓帝はどうにも脳に障害があったらしく、即位した時は16歳であったが、ほとんど幼児のようでしかなかったようで、乳母である客氏に対してもはや執着ともいえるような依存関係にあった。なにせ即位と同時に客氏を「奉聖夫人」という称号を与えたほどで、もはや皇帝は魏忠賢と客氏の思いのままという状態であった。

陰の内閣(シャドーキャビネット)

シャドーキャビネットというのはイギリスで生まれた概念だが、あらゆる社会のあらゆる時代に見られる形態であり、日本でも実際の総理大臣より力をもった政治家がいることは珍しくない。

明においては、第5代目の皇帝宣徳帝の時代より「司礼監」と呼ばれる宦官による内閣のシステムが整えられており、影の内閣として科挙出身者の形成する表の内閣以上の力をもつことになった。

「司礼監」は社会主義社会における秘密警察に近い「東廠(とうしょう)」と呼ばれる諜報機関を管轄しており、都から1000km離れた場所で言った悪口を聞き漏らさなかった例もあるほど全中国中にスパイ網を張り巡らせていた。

「司礼監」は歴代皇帝を陰から操る機関となっており、科挙出身の知識人官僚を弾圧、排除していった。

この辺りは党錮の禁の焼き増しと言えるかも知れない。

魏忠賢と客氏は自分たちを引き立ててくれた存在でもある王安を殺害し、司礼監を掌握、東廠を利用してスターリンも真っ青の恐怖政治を行うようになるのであった。

恐怖政治

宮中の実権を握った魏忠賢は科挙試験合格者で形成される官僚グループ「東林党」の弾圧を始める。10万人に1人と呼ばれる国家官僚たちを、文字の読み書きさえできない魏忠賢が粛正していく様は地獄と呼ぶにふさわしかったであろう。

魏忠賢は疾風迅雷の如き速さで東林党のメンバーを逮捕、投獄、処刑した。「三朝要典」という東林党の犯罪をねつ造するような書物を発布し、もはや草の根さえ見逃さない勢いで知識人階級を逮捕していった。

魏忠賢は文字こそ読めなかったものの記憶力に長けており、自分に敵対的な態度を見せた者は決して忘れず、どのように報復しようかを考えるのが楽しみな性格であったという。

恐ろしいのが皇帝さえ魏忠賢を止めず、むしろその行動を称賛したということである。初代の洪武帝以来、明の皇帝権は歴代中国王朝はもちろん世界の歴代のどの王朝よりも強権的であり独裁的であった。皇帝が白と言えば黒も白になるのである。天啓帝は政治には一ミクロンも興味がなく、木工を楽しむだけで満足する性格だったと言い、魏忠賢が何を言っても「よきにはからえ」とだけ答えて再び木工に没頭したという。

魏忠賢はスパイを使って自分に否定的な意見を言ったものは舌を抜いたり体中の皮を剥ぐ刑に処したという。

もはや魏忠賢はやりたい放題、宮中でも馬に乗り、皇帝の前ですら馬を降りないという不敬ぶりに加え、自分の意見にはかならず「九千歳」と言わせ、それが後に「九千九百歳」になったという。これは皇帝が「万歳」なら自分は九千歳という意味らしい。言わなければ当然投獄が待っている。

さらに自ら宦官の軍団を組織すると宮中で軍事訓練を行い重臣たちを威嚇、最終的には「堯天舜徳至聖至神」と称していたという。

これは中国の創始者堯天舜を越えてもはや神の域に達しているという意味らしい。名将の馬鹿らしさは「宇宙大将軍」に匹敵する。

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 侯景もそうだったが、偶然に偶然が重なるとこのような悲劇が起こってしまうのだ。

誰も魏忠賢の言うことには逆らえなかったが、世の中に悪の栄えた試しなし、1627年、天啓帝が突然崩御してしまう。

跡を継いだ崇禎帝は魏忠賢を流罪にし、客氏も棒で殴られて死んだ。

魏忠賢は実際に捕えられる前に首をつって自殺、遺体は磔にされ、首は市中にさらされたという。財産は当然のように没収、彼の部下たちもまとめて捕えられて死亡した。

魏忠賢亡き後の明

魏忠賢の死後、20年足らずで明は滅亡する。天啓帝の時代、明の軍隊は北方よりやってくる後金の創始者ヌルハチの軍隊に敗れ続けたが、魏忠賢はそれを巧妙に隠した。もう少し言うと、敗軍の将が魏忠賢に賄賂を贈りそのことをもみ消し、賄賂を贈ってこない人物の罪はでっち上げられた。

このような暴政によって袁崇煥を始めとした優秀な人材は根こそぎいなくなり、明の国防能力は著しく低下、次代の崇禎帝は決して暗愚ではなかったが、もうどうすることもできないほどに明王朝は崩壊していたのであった。

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やがて李自成の乱が起こり、北からは女真族のヌルハチが攻めてきて、どうにもならなくなった1644年、明は滅亡する。冒頭でも述べた通り、崇禎帝が死んだ時に傍にいたのは少数の宦官たちだけであったという。

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個人的な魏忠賢の評価

もはや評価もクソもない。中国史上においても最悪の佞臣というべきであろう。中国の長い歴史においても、国家をここまで傾けた人物もいない。

「悪辣」という文字がこれほど似合う人物も他にいないであろう。

おおよそ褒めるべき美点が一つも見当たらず、最低以外の言葉が見当たらない。

民衆は、豊かな暮らしを夢見て一様に科挙の合格を目指した。しかし、科挙の合格者は悪辣な宦官によって皆殺しにされた。

人の夢とは実に儚いものである。

あまりにもひどいので最後にかわいい女の子の画像でも貼っておく。

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