暴君というには無理がある第2代ローマ皇帝ティベリウス

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俺は今困っている。

本来であればこの記事の題名は「ローマのイカれた皇帝ティベリウスの凶行」にでもしようと思っていたのだが、この人物について調べていくうちにただのイカレ野郎ではないのではないかという疑問がもたげてきたのである。

古来よりティベリウスはイカれた狂王として知られてきた。

歴史と言うのは実に難しいものである。日本史においても戦前は徳川慶喜の評価は酷いものであった。二顔将軍などと言われていたし、評価は恐ろしく低かった。

そりゃそうだ。時の政府は明治政府の流れだったわけだし、敵前逃亡する将軍が評価される訳がない。

ところが戦後は評価が一転、なぜか名君になった。もし徳川慶喜が維新志士達と正面から戦っていたら国力は下がり欧米列強の植民地となっていた可能性が高いからだ。

歴史というのは現代史からの評価である。

 偶然皇帝になってしまった男ティベリウス

徳川吉宗が偶然将軍になってしまった話は有名だが、ティベリウスは本来皇帝になる男ではなかった。

初代皇帝と言っても良いアウグストゥスはその後継者に血縁を求めた。あるいはユリウス家からの皇帝輩出を望んだ。

実際アウグストゥスが次代の皇帝に望んだのはティベリウスではなかった。

アウグストゥスには1人の実子と2人の義理の息子がいた。

実子はスクリボニアとの間に生まれた娘、義理の息子は再婚相手であったリヴィアの連れ子であるドルススとティベリウスである。

実子であるユリアの夫はアウグゥストゥスの右腕と言っても良いアグリッパであった。

アグリッパについては別記事で触れたいと思うのだが、軍事が苦手だったアウグストゥスの陣営で軍事担当と言っても良い存在で、アグリッパがいなければアウグストゥスはローマの皇帝にはなれなかったかもしれないとさえ言われている。

2人は臣下と主人の関係であったが、同じ年に生まれ、幼い時から一緒に育った無二の親友でもある。

ただ、アウグストゥスが後継者に考えていたのはドルススであったと言われている。

ドルススはかなり優秀な将軍で、わずか20歳という若さでゲルマンを平定させている。

ただ、ある時落馬で死んでしまう。

次に後継者候補は姉の息子マルケルスで、14歳になった娘ユリアと結婚させたのだが、彼もすぐに死んでしまう。

アウグストゥスはここにきて右腕であるアグリッパとユリアを結婚させる。親子ほどに年が離れているというより実際に父親と同じ年の夫が生まれる訳である。

ユリアとアグリッパは非常に年の離れた夫婦であったが、とても仲の良い夫婦であったらしく、2人の間には5人の子供ができた。

ただしアグリッパはアウグストゥスほどは長生きできず、するとアウグストゥスは娘のユリアともう1人の義理の息子ティベリウスと結婚させることにする。

ここまで父親の思い通りに結婚させられたことにキレたのか、ティベリウスとの仲が純粋に悪かったのか、ユリアはこの後大いに乱れる。

しまいにはアウグストゥスが自ら定めた姦通罪で実の娘を島流しにするしかなくなる始末。

ティベリウスの側も愛妻であるヴィプサーニアと別れさせられるし中々酷い話である。

この間にユリアの息子でありアウグストゥスの孫であるルキウスとガイウスが立て続けに亡くなってしまう。

次々に後継者候補が亡くなったアウグストゥスの次なる後継者候補は姉オクタヴィアとアントニウスの間に生まれたアントニアとお気に入りの義理の息子ドルススの間に生まれたゲルマニクスだった。

とはいえゲルマニクスは皇帝になるには若すぎた。

アウグストゥスはゲルマニウスをティベリウスの養子にした状態で息を引き取った。

ローマ市民や元老院、当のティベリウスの目にもつなぎの皇帝であったことは明らかであっただろう。

このようにしてティベリウスはローマ帝国第2代皇帝となったのである。

なお、ティベリウスの本名は「ティベリウス・ユリウス・カエサル」であるがこれはアウグストゥスの養子に入ってからの名前で、その前は「ティベリウス・クラウディウス・ネロ」である。

ローマの長い歴史における超名門クラウディウス家の出身で、親族はポエニ戦争の頃に功績のある将軍などもおり、後に「クラウディウス朝ローマ」を形成する一族である。

ユリウス家よりも名門度で言えば上だと言えるだろう。

ちなみにユリアとアグリッパの間にはポストゥムスという男の子が生まれているが、出来がかなり悪かったらしく、血縁にこだわったアウグストゥスでさえもさすがに後継者には選べなかったようである。

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かなり優秀だったティベリウス

ティベリウスはかなり優秀な男であった。

これは皇帝になる前からそうであったし、皇帝になってからも優秀であった。

だが個人的な意見として、ティベリウスには決定的に人気がなかった。カエサルやアウグストゥスが王・長嶋であるならば、ティベリウスは野村と言ったところだろうか。

ティベリウスは終始面白みのない男であった。

カエサルやアウグストゥスは剣闘士をはじめとしたサーカスのスポンサーであり人気者であったが、真面目なティベリウスはコロッセオのスポンサーからは降りてしまった。このせいでローマ市民からの人気はなかった。

日本で言うと国のために借金をしたのに故郷鹿児島の人から嫌われていた大久保利通のようなものかも知れない。ティベリウスの内政においても外征においても実務面で見ればケチのつけようがないと言える。

それどころかローマが後に「パクス=ロマーナ」と呼ばれる時代を享受できたのはティベリウスが帝政ローマの基礎を築いたからだと言っても過言ではないだろうとさえ思う。

彼の政策は簡単に言うとアウグストゥスの政策を引き継ぐというものであった。

これは簡単なようでいて難しい。悪い意味で何もしなかったように見えるが、いい意味では余計なことはしなかったのである。

ティベリウスの時代はほとんど領土を広げていない。これはアウグストゥスの方針通りである。余計な歳出はしないどころか現在価値に換算して約500億円という貸付を行いローマの経済を回した実績もある。

内政に関して言えばアウグストゥスの時代に歳出は増えすぎており、ティベリウスの財政政策がなければローマは割とすぐに破綻していた可能性さえあるだろう。

・・・あれ? なんでティベリウスは暴君みたいな扱いを受けているんだ?

ティベリウスが暴君になってしまった理由

剣闘士による戦いはローマ市民の楽しみだった。市民からすれば内政の充実なんかどうでもよくて、とにかく楽しいのが好きである。だからティベリウスのことは嫌いという下地があったのだろう。

あるいは外征の少なさなども原因であったかも知れない。

特にゲルマン方面においては圧倒的に有利でありながら総督であったゲルマニクスを東方に配置しゲルマン攻略をしない点はローマ市民は大いに不満であったようである。

ティベリウスの政策はとにかく戦わないという一貫性が見られる。例えば東方の大国パルティアとは徹底的に戦わなかった。アルメニア王国の後継者問題でパルティアが介入しそうになった時がティベリウスの治世中に2度あるが、2度とも親ローマの王をアルメニアの王位につけることに成功し、パルティアへのけん制を成功させている。

後のローマ皇帝がササン朝ペルシャとの闘いを行い疲弊したのとは好対照であると言える。

おかげでローマは無駄な出費をしなくて済んだ。

またティベリウスは元老院との関係も良好だった。

後のローマ皇帝の中には、ユリウス=カエサルも含めて元老院議員に暗殺された者も多かったが、ティベリウスはそのようなことはなかった。

ティベリウスは皇帝だが無欲な人間だったようだ。

7月はカエサル、8月はアウグストゥスの月としたので9月はティベリウスにしようという提案も却下している。

「ティベリウスにとっての最大の関心事はローマ帝国の安全維持にあった」

これはティベリウス嫌いの歴史家タキトゥスの言葉であるが、これほどティベリウスを表した言葉はないかも知れない。

そんなティベリウスが暴君と後にされてしまった理由は結構あるのでちょっと列挙したいと思う。

 

・サーカスのスポンサーを降りた
・ゲルマニクスの不幸な死
・カプリ島への隠遁
・アグリッピナ一族の粛正
・治世中にイエスの処刑があった
・セイアヌスの暴走と粛正

これらの事項に触れながらティベリウスの生涯について詳しく見て行くことにしよう。

ゲルマニクスの不幸な死からカプリ島への隠遁まで

ティベリウスにとって最大の不幸の1つは後継者であったゲルマニクスの死であった。

ティベリウスはアウグトゥスの方針にこの上もなく従順で、実際にゲルマニクスを後継者にするべく動いていた節がある。実子であるドルススを皇帝にしようということもなく、ゲルマニクスとの関係は良好であったようだ。

もちろんゲルマニクスをゲルマンから東方にしたり、ゲルマニクスが皇帝の許可を得ずにエジプトに入ったりもした。そのことが確執となってゲルマニクスをティベリウスが暗殺したのではないかという疑念は当時からあったようだ。

ゲルマニクスの死因はマラリアではないかと言われている。夜中に高熱を出し数日後に亡くなっていたからだ。

だが当時はゲルマニクスはシリア総督ピソが毒殺したという噂が流れていた。その背後にはティベリウスがいるとも。

後世の歴史家タキトゥスもティベリウスによるゲルマニクス暗殺の支持者である。事実はわからない。

どちらにせよティベリウスはゲルマニクスの葬儀には出なかった。ちなみに祖母であるリヴィアおよび実母のアントニアも葬儀には参加していない。

弔辞はティベリウスの実子であるドルススが読んだという。

このことに多くのローマ市民が失望し、疑念を向けたことは想像に難くない。

ローマ市民の間でゲルマニクスは暗殺されたのだという噂は広がりを見せ、ついにシリア総督ピソはゲルマニクス殺害の容疑でローマにおいて裁判にかけられることになる。

 毒殺の証拠は一切出なかったのだが、追い詰められたピソは自死を選ぶことになる。

かくして真相は闇の中になり、ローマ市民の心の中にはティベリウスへの疑念だけが育っていくことになる。

ティベリウスにとってさらに不幸なことに紀元23年実子であるドルススも亡くなってしまうことにあった。

このことで精神的にまいってしまったのか何なのか、ティベリウスはナポリ湾に浮かぶカプリ島へ隠遁してしまう。

ローマ市民からすれば逃げたように映るであろう。ティベリウスに好意的な目を向ける歴史家たちもこのカプリ島への隠遁に関してはかばいきれない様子である。

ローマ皇帝には辞任するという考えは当時にはなかったらしい。共和政の前のローマ王国の時代も思えば誰も引退していない。本当はティベリウスは引退したかったのかも知れない。

ティベリウスは結局のところついぞローマには戻ってこなかった。この辺りが特にローマ市民の反発を買ったことは間違いないであろう。

ゲルマニクスについては以下の記事を参照してくれると嬉しいぜ!

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アグリッピナ一族の粛正とセイアヌスの暴走と粛正

アグリッピナとはゲルマニクスの妻にしてアウグストゥスの娘ユリアとアグリッパの娘である。ティベリウスから見れば義理の娘にあたる人物であるが、この2人は非常に仲が悪かった。

ティベリウスはアグリッパの息子であるネロ=カエサルとドルスス=カエサルを後継者に考えていたようだが、結果的にはアグリッパ一族の粛正に乗り出すことになる。

カプリ島に引っ込んだティベリウスは恐怖政治を行うようになる。プラトリエと言われる近衛隊の隊長のセイアヌスを使って政敵を次々と処刑するようになってしまった。

カエサルによって作られアウグストゥスによって整備された「国家反逆罪」を多用し匠な戦略でネロ=カエサルとドルスス=カエサルを敵対させる。

そのような折アウグストゥスの妻にしてティベリウスの実の母でもあるリヴィアが亡くなった。

にも拘わらずティベリウスはローマに帰らなかった。喪主はゲルマニクスの息子であるガイウスが行うとだけ元老院に書簡を送った。

息子の葬儀にも実母の葬儀にも出ない人間がいたら、現代社会ですら非難の的であろう。

この頃のティベリウスは完全に精神的には病んでいたのだろう。まるで母の死を待っていたかのようにその後すぐアグリッピナ一族の粛正に取り掛かる。

残念ながらその詳細な様子を表す歴史的資料は現存していない。タキトゥスの書物もこの辺りの部分は現存していない。事実としてあるのはアグリッピナ一族が島流しになったことである。

この頃イエス=キリストの処刑が実行される。

イエスの有名な言葉「カイザルのものはカイザルに」という時のカイザルはまさにティベリウスである。後世のティベリウスの評判の悪さにはこの辺りの事情もあると思われる。この数百年後にはキリスト教がヨーロッパ全土を支配する時代になる訳で、その時の皇帝ティベリウスの評判がよくなるわけがない。

この頃のローマは混迷の時代に突っ込んだと言え、元老院議員同士の告発が多くなっていったようである。やられる前にやれの精神で足の引っ張り合いが行われていたようだ。

もっとも、ティベリウスの恐怖政治は市民階級の人々には及ばなかったらしく、粛正の対象になったのは能力の低い元老院議員に限ったという説もある。

どちらにせよ確かなのはティベリウスが近衛隊長だったセイアヌスを粛正したことである。

この理由は諸説ある。

1つは純粋にセイアヌスが邪魔になったという説

もう1つはセイアヌスがティベリウスの意に反して動いていたとする説

さらにはセイアヌスがティベリウスの息子ドルススを毒殺したとする説

どらが正しいのかはわからない。あるいはすべて正しいのかも知れない。

タキトゥスはティベリウスについてこう述べている。

「最初の10年間は善政、次の7年間は善政と悪政が入り乱れ、最後の6年間は悪政しかなかった」

最後の6年間の始まりがセイアヌスの粛正である。

息子ドルススの妻で義理の娘であるリヴィアには自死を強要し、セイアヌスの息子も処刑、セイアヌスに関わった者は奴隷でさえ牢に入れたというから相当な怒りである。

アグリッピナやその息子ドルスス=カエサルが相次いで亡くなった。ティベリウスによるものかどうかはわからない。

この時代は政治家にとっては恐怖政治だったようだが、金融危機やインフレへの対策などには見事な手腕が発揮されたようであり、どうやらティベリウスは頭がおかしくなったわけではないようである。

見方を変えれば彼はただ粛々と、ローマ帝国の不穏分子を排除していただけなのかも知れない。

 紀元37年、ティベリウスは78歳でその天寿を全うする。最後までカプリ島で過ごした彼が亡くなった際、ローマ市民は歓喜の涙を流したという。

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個人的なティベリウスの評価

 ティベリウスの評価ほど難しいものはない。

古来より歴史家の間でもかなり評価が分かれている。

 ローマ史において最も有名な歴史家タキトゥスは徹底的にティベリウスを批判している。

彼は共和国ローマを理想としている部分があり、帝政の基礎を築いたティベリウスにはどうやっても好意を抱けない様子である。

 そのおかげで長らくティベリウスには暴君として評価がされていたが、ヴォルテールがそれに異を唱えた。

 ドイツの歴史家であるモムゼンは残された碑文などを徹底的にチェックした結果「ローマがもった最良の皇帝の一人」という評価をティベリウスに与えている。

 「ユダヤのプラトン」と呼ばれたフィロンという人間はほぼ同時代の人間でありながらティベリウスに対し最大限に近い賛辞を送っている。

実際ティベリウスの後には圧倒的な暴君が次々と誕生する訳だが、それでもローマが滅びなかったのはティベリウスがその基盤を盤石としたからであろう。

恐怖政治においてもティベリウスが私腹を肥やしたような形跡はなく、ただただローマという国の繁栄を願って行った行為であるとも言える。

中国の歴代皇帝やローマの後の皇帝が散在の末国力を衰退させ、意に添わぬものを次々に処刑していったのとは明らかに次元が異なる。

名君とは決して言えないが、暴君というのには無理があると思われる。

コーエー的に能力をつけるとすれば

統率:86

知力:87

政治力:94

魅力:35

と言った感じだろうか。


*数値は適当です。あまり気にしないでください。

 

あらゆる能力がカエサルやアウグストゥスには及ばないが、その治世が対外的には安定し財政も良かったことを考えるとかなり高い評価をするのが妥当ではないかと思う。

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能力値は高かったが魅力に欠ける人物。

ティベリウスからはそんなイメージを受ける。