本当は凄い!魏建国の功臣「楽進文謙」はもっと評価されるべき名将である!!

三国志には実に500人もの登場人物が出てくる。

ではその中でもっとも登場回数が多いのは誰であろうか?

三国志演義においてはやはり主人公の劉備玄徳であろうが、それに次ぐのが実は曹操配下の楽進である。

 曹操の行くところならどこへでも

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曹操が反董卓の旗揚げをした時のこと、楽進という人物が1000人の若者を連れて曹操の所へやってきた。

武将としては小柄であったが、その目の奥底に宿る光を見て曹操はこの若者が気に入った。夏侯惇や夏侯淵、曹仁、曹洪と言った曹操の親戚達が多い初期の曹操陣営の中にあって、その思い切りの良さからか常に曹操軍の先鋒として活躍し、主だった戦には大体参戦している。

  • 呂布との戦い
  • 袁術との戦い
  • 袁紹一族との戦い
  • 劉備との戦い
  • 劉表一族との戦い
  • 馬超との戦い
  • 孫権との戦い

于禁や張遼と共にかわるがわる先陣を切り、撤退が必要な時は殿を務め、曹操の行くところには常に楽進の姿があった。

時は過ぎ、曹操軍は孫権軍との戦いに臨んでいた。

孫権は濡須口に兵を集めており、合肥を守る張遼は早々に援軍を要請、しかしこれが名将甘寧によってわずか数百騎で壊滅させられてしまう。

甘寧の活躍を見て血気に盛る武将がいた。

父を甘寧に殺された凌統だ。

彼の凌操は孫堅の時代から孫呉に仕える武将で、かつて劉表を攻めた時に甘寧に射殺されてしまっていた。それ以来凌統は甘寧を父の仇として復讐を誓っていたわけだが、甘寧はやがて孫権に仕えるようになり、孫権は凌統に仇討ちを禁じた。

さりとてそのわだかまりが消えた訳ではなく、せめて戦功においては甘寧を上回りたい凌統、この機を逃してなる物かと5000の兵を率いて合肥に向けて進軍してきたのだった。

張遼は楽進をして応戦させ、楽進と凌統は激しい一騎打ちを繰り広げる。

それを見た曹操は曹休に命じて凌統の馬を射る。矢は見事にあたり地面に投げ出された凌統の元に楽進の刃が迫る。

もはやこれまで。そう思った凌統が見たのは、宿敵甘寧が楽進を射抜いた瞬間であった。

こうして凌統と甘寧の間には友情が芽生えたのだった。

本当は凄い!正史での楽進の活躍

以上は三国志演義での楽進である。これだけ登場回数が多いのに最後は完全にダシである。個人的に羅漢中の演出力には脱帽するが、それにしてもこれでは楽進が可哀そうすぎる。

日本には最初に三国志演義が伝わり、吉川英治の三国志およびそれを原作とした横山光輝三国志が有名であり、光栄のゲームもそれをもとにしていたため、初期の楽進の評価は散々であった。いくらなんでも武力50はないだろう…

魏の武将は総じて三国志演義で割を食っているが、曹仁と楽進は特にひどい。

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と、言う訳で今回は楽進の名誉を回復したいと思う。

楽進は演義と同様1000人の兵士を引き連れて曹操の陣営に加わる。時期的にははっきりしないが、呂布との戦い以前であることは確実で、曹操が反董卓の兵を挙げた時、大体陳宮と同じぐらいの頃だと言われている。

濮陽での呂布・雍丘での張超・苦での橋蕤との戦いにおいてそれぞれ武功があったと言い、曹操から広昌亭侯に任じられている。いうなればこの時点で「諸侯」と言える地位を得た訳である。

その後も張繍戦、呂布戦において功績をあげ、劉備の軍をも打ち破り、討寇校尉という地位に任命、続く袁紹との戦いでは兵5000を率いて袁紹軍の拠点30か所あまりを焼き払い、天下分け目の合戦である官途の戦いにおいては烏巣を守る敵将淳于瓊を斬って捨てる戦功をあげる。

地味と言えば地味かも知れないが、いずれも戦上手で知られる群雄との戦いに常に勝利し、戦功があるのは凄い。

特に烏巣攻略は曹操軍の勝利を決定的なものとし、中原の覇権を曹操が握る契機にもなった作戦で、それを見事に果たしている。重要な作戦を確実に完遂させる能力はあらゆる組織においてこれ以上ないほど重要な能力だと言えるだろう。

袁紹亡き後の袁紹一族との戦いにおいても活躍し、続く烏桓征伐においても敵の将軍を破る活躍を見せ、その功で折衝将軍に任命されている。

その後は海賊討伐などにも功績があり、荊州の平定の任に就く。

曹操が赤壁の戦いに敗れた後は荊州の首都ともいえる襄陽の守りを任され、関羽の侵攻を撃退してもいる。

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この辺りは三国志演義では完全にカットされている訳だが、戦神ともいえる関羽を撃退できるほど実際の楽進は戦上手だった訳である。実際に劉備が劉璋に向けて「自分が援軍に行かなければ関羽は楽進に負けてしまう」という文章を送っており、実際に負けてしまったのである。

やがて曹操が孫権征伐に乗り出した時には張遼や李典と共に先鋒として戦い、共に孫権軍を破る活躍を見せ、最終的には右将軍の地位を授かる。

これは夏侯一族や曹一族を除けば武将としては最高位で、楽進がいかに曹操から評価されていたかが分かる一事である。

なにせ、あれだけ怪物的な活躍をした張遼よりも楽進の方が地位が上であったのだ。

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勿論士官年数が違うのもあるが、陳寿も楽進を張遼や徐晃と同じ列伝に並べており、実際の楽進が如何に凄かったのかがここからも伺える。

ちなみに楽進は張遼とは仲が悪かったようであるが、戦いにおいては普段のわだかまりを無くし、戦闘に勝利することを優先させたという。

218年、楽進は死んだ。死因は不明だが、少なくとも甘寧の矢に射抜かれた訳ではなく、恐らくは病死であろう。

後に魏国建国の功臣20名を決めた際には当然のように入っており、如何に楽進の活躍が魏国にとって大きかったかということが分かる。

個人的な楽進の評価

純粋な戦闘の能力なら、三国志全体においても実はトップクラスである。

なにせ、あの曹操が最も評価した武将なのだ。

曹操は世界史的に見ても最も人材リクルートに熱心であった人物であり、人材コレクターと言っても差し支えないほど優秀な人材を愛した。

荀彧荀攸、司馬懿などの文官はもちろん、張遼や張郃など敵であっても優秀であれば自陣に加えた。その成果として三国でも最も豊かな国である魏を建国できた訳だが、当然そこには武力的な背景もあった。

三国志全体でも最強の軍隊を率いたのが曹操であり、その先鋒を大体において楽進が務めているというのは如何に楽進が優れた武将であったかをさし示していると言える。

曹操は功は正当に評価するが失敗に対しても厳しく、功無き者を重用したりしない。古代国家には珍しくその陣営では実力主義であった。

楽進はその出自が明らかではなく、恐らく名門の出身ではなかったと思うが、たった一代で右将軍の地位まで得たのは圧巻である。

もし魏国建国まで生き延びていたらその地位はさらに上がっていたことだろう。

そんな人物を羅漢中はよくもまぁ、あんな扱いが出来たものだよ…