前秦に仕えた王猛は中華史上最強の宰相と言っても過言ではないだろう

五胡十六国時代及び魏晋南北朝時代には名将が多い。

陳慶之、楊大眼、高長恭など非常に優れた将軍は多く、その中で最も優れた将軍を選ぶとなると非常に難しい。

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将軍というより宰相だが、王猛という人物もこの最強論議の中に加わる一人であろう。

 壮大な理想主義者と冷徹な実務主義者

五胡と呼ばれる異民族が支配する中国に、漢民族の子として生まれた王猛は、若いころから勉学を好み、立派な容姿をしていたが誰にも仕えず、山奥に隠遁し、真に仕えるべき主が来るのを待ちわびていた。

そんな王猛のもとへ東晋の最高実力者であった桓温という人物がやってきた。東晋は漢民族の王朝で、中国の南半分を領有する巨大国家である。今では言えばTOYOTAや三菱商事が是非うちの幹部にと言って社長か人事部長あたりが頭を下げに来たと思えば近いかも知れない。

桓温は天下国家について熱弁し、王猛のことを大変気に入り、車や配下を贈り物としてささげた。

しかし王猛は桓温のことをあまり気に入らなかったのか、これを固辞する。

ちなみにこの時王猛はボロっちい服を着て頭の虱を取りながら語り合ったのだという。大国の有力者がそのような人物を迎えたいというのも面白い話であるが、それを固辞したというのもまた興味深い話である。

そんな王猛が使えたのはチベット系民族である氐族の王苻堅であった。

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乱れた戦国の世にあって「一視同仁」の夢を掲げる苻堅と王猛は呂婆楼という人物を介して巡り会った。苻堅はこの時「劉備玄徳が諸葛孔明に会った時のようだ!」と言って喜んだという。

王猛もまた、「佐世の志」を持つ者にようやく出会えたと喜んだという。

三流の人間は金で動くが、一流の人間は志で動く。

苻堅の理想主義が王猛の心を動かしたと言える。

歳中五遷

苻堅はやがて前秦の君主である天王の位に就き、王猛を重用した。その優遇ぶりは「歳中五遷」と言われるほどで、つまり一年で五回も昇進をしたということであった。

王猛はある時氐族の有力者を処刑した。

理由は領内における略奪を行ったからである。

これにはさすがに苻堅も王猛を詰問せざるを得なかった。

「政治は徳によらねばならない。それが優先されるべきなのだ。いくらなんでも死刑にするのは酷すぎるのではないか?」

王猛はそれに対して以下のように答えている。

「平和な国をおさめるには礼をもってし、乱れた国をおさめるには法を以てする必要があります。私の役目は悪党どもを一掃することであり、それは未だに万人も存在しています。もしそういった悪人を根絶できなかったことを理由であれば私は罪を受けましょう。しかしそうでないなら私は罰を受けるわけにはいきません」

苻堅は納得し、やがて王猛を宰相の地位に任じた。

これには王族や旧臣たちが大きく反発した。

そりゃあそうだ。王猛にはこの段階では何も実績がなかった訳だから。関羽や張飛でさえ諸葛孔明の厚遇ぶりには嫉妬していたぐらいだ。

だけれども劉備はそういった配下の不満を和らげる才能を持っていた。苻堅には残念ながらそのような才能はなく、それがやがて彼を破滅へと導いてしまう。

苻堅は配下たちの不満を無視し、王猛に次々と権限を与えて行った。それに反対する者があれば苻堅はそのものを容赦なく左遷、あるいは降格、酷い時には無官にまで貶めた。苻堅自ら斬って捨てた人物さえいたほどだ。

「是にいたって群臣、猛を見て皆屏息す」という記述が残っており、そこまでしてようやく表面上は誰も文句を言わなくなった。

しかし、と思う。表面的に文句を言っている時はまだいいのだ。問題なのは内側でくすぶる不満である。王猛の死後の話であるが、苻堅の部下は皆次々に彼のことを裏切ってしまうのであった。

連戦連勝

王猛にはそこまでの価値があったというべきであろう。東晋の桓温が大軍を率いて前燕へ攻め上った際、前秦に助けを求めてきた。多くは援軍の派遣に反対であったが、王猛は断固援軍を派遣すべしと主張した。これによって前燕は虎牢関以西の土地を前秦に渡すと約束したのだ。

しかし前秦が軍を派遣する前に、前燕の将軍慕容垂によって東晋の軍勢は破られていたのだ。なので前燕は約束を実行しようとしない。

王猛は直ちに洛陽に向けて進軍した。

その勢いで前燕の都ギョウに攻め入るとこれを滅ぼし、ここに前秦は河北の大半、中国の約半分をその支配下に置くことに成功した。

なお、この際苻堅は前燕の王族たちを都長安に置き、自らの出自である氐族を洛陽に移住させた。また一つヘイトを増やしてしまった訳である。

そして王猛はその5年後の375年に死んだ。

その死に際して東晋を安易に攻めないこと、鮮卑族や羌族を信用しすぎないことの2点を遺言として残した。

しかし苻堅はこの遺言を守らず、圧倒的な兵力で東晋を攻め、そして淝水の戦いにて歴史的な敗北を味わうのである。

もし王猛がもう少し長生きしていたら、中国の歴史は大きく変わっていたことだろう。

個人的な王猛の評価

日本ではまるで知名度はないが、中国歴代でも最強クラスの宰相であり司令官であろう。

その才は諸葛孔明を遥かに超え、伝説的な指揮官楽毅をも上回ると言えよう。

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事実王猛を失ってからの前秦はそれまでの強勢がウソのように弱体化し、すぐに滅びてしまったほどだ。

苻堅は彼に丞相・中書監・尚書令・太子太傅・司隷校尉・使持節・散騎常侍・車騎大将軍・清河郡侯・都督中外諸軍事とあらゆる官職を兼業させ、厚遇し、王猛もそれによく応えた。

だが、多分働き過ぎたのであろう。当時は過労という概念もなかった時代だったから、無理な日程が寿命を縮めるとは思ってもみなかったのであろう。

この辺りは多くの優秀な人物がそうで、ローマのトラヤヌス帝なども激務過ぎて早死にしているし、諸葛孔明も長生きはしなかった。日本の漫画家手塚治虫や不二子・F・不二夫も長生きしなかったなぁ。

ちなみに王猛は日本ではマイナーだが古来より中国での評価は高くて、唐の時代に編纂された「武廟六十四将」のうちの1人に選ばれていて、戦闘面だけではなく教育の普及、戸籍制度の確立、街道整備や農業奨励など、内政の充実にも功績がある。

内政に戦闘に大活躍しすぎていて、まるでチートを使ったスーパー武将みたいな人物だたったわけだ。