第16代アメリカ大統領アブラハム・リンカーンは果たして言われるほど偉人であったのだろうか?

世界史の教科書はいくつかの出版社から出ているが、その中においてリンカーンの名の載っていない教科書は存在しない。高校の世界史はもちろん、中学校の歴史の教科書にも必ず出てくる上に、初等教育たる小学校の教科書にもリンカーンの名は出てくるほどである。

リンカーンは奴隷を解放した人物。

それが日本人のリンカーン観であり、リンカーンは掛け値なしの偉人としての扱いを常に受け続けている。

それはある意味間違いではないのだが、果たしてリンカーンは日本人の持つイメージ通りの人物なのであろうか?

今回はアブラハム・リンカーンの生涯と共にその辺りを見て行きたいと思う。

初等教育を受けていないアメリカ大統領

アメリカの歴代大統領はそのほとんどが大学を出ているが、リンカーンは大学はおろか学校にはほとんど通っていなかった。

リンカーンが学校に通っていた期間を全部合わせても3か月に満たないほどであるという。しかしリンカーンに学がなかったかというとそうでもなく、姉のサラと、あるいは完全に独学で読み書きなどをマスターしたという。

アメリカやイギリスでは日本やドイツと違って必ずしも公の機関で教育を受ける必要はなく、自学などが出来ればそれが認められているが、それでも後に名スピーチの数々を生み出すことになるリンカーンがほとんど学校に行っていないという事実は特筆に値することであろう。

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 リンカーン自体は決して貧困層の出ではなく、ケンタッキー州の比較的裕福な家に生まれた。リンカーンの生まれた家は農場を経営していたが、奴隷制には反対の考えを持っていたようで、そのことがリンカーンに大きな影響を与えたという意見もある。

リンカーンの幼少期、父が土地を巡るトラブルでその所有権が認められなかったことがあったようで、そのことでインディアナ州、イリノイ州などを転々とすることになる。その際州によって法律が違うこと、あるいは父が土地の所有権を巡る法廷闘争に巻き込まれたことなどから法律に興味を持ったという。

若き日のリンカーンはイリノイ州で職を転々としながら地域の有力者たちと交流し、次第に討論会などに出席、1834年にはホイッグ党員としてイリノイ州議会の議員に当選していた。

政界引退

リンカーンは州議会議員として活動している傍ら独学で法律を治め弁護士資格を取得し、1846年にはイリノイ州選出の連邦下院議員に当選し連邦議会議員となる。

しかしこの時アメリカ・メキシコ戦争(米墨戦争)に反対し、世論の支持を失ってしまう。

当時はジェームズ・ポークの元アメリカ中が戦勝に酔っていた時代であり、リンカーンは非愛国者としてのレッテルを張られてしまい、政界引退を余儀なくされた。

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政界引退後はイリノイ州で弁護士事務所を開業し、企業弁護士として名声を高めていくことになる。

奴隷制を巡る状況

19世紀の前半期において、アメリカ国内は分裂の危機にあった。

当時アメリカは北部と南部と西部がそれぞれ対立しており、特に南北の対立はもはや終わりが見えないほど激化していた。

対立の軸は貿易の関税をめぐるもので、工業が中心の北部は保護貿易を、綿花生産を中心とする南部は綿花を輸出したいために自由貿易を望んでいた。

関税による対立を発端とする南北対立は次第に奴隷制の問題へと移行していく。

奴隷制問題の発端がどこにあったかを考えるのは実に難しい。イギリスが奴隷貿易の中止を主張した時からか、あるいはミズーリ協定が出された時からか。実際には独立宣言に奴隷に関する記載が一切なかったことからこの問題は火種を抱えていたと言えるだろう。

19世紀前半において、北部にはほとんど黒人がいなかった。その人口構成は例えば北部の代表的なニューヨーク州では約1%、南部の代表的なジョージア州では44%と大きく差があった。

南部からすれば奴隷問題は北部からの攻撃であると映ったことであろう。

ちなみに奴隷制を巡ってはヨーロッパ各地でも批判の多い点であり、それを受けてアメリカ国内でも1808年に奴隷貿易を禁止する法案が可決されており、アメリカ大陸諸国においても奴隷制は廃止されているところが多かった。

カナダ:北部は1793年に廃止、南部は1803年に廃止
アルゼンチン:1813年に廃止
メキシコ:1829年に廃止

まだまだ国際的な世論という概念のない時代であったが、時代が奴隷制度廃止に傾いていたことも事実であったことだろう。

しかしアメリカの奴隷制固持への意志は強かった。

奴隷制国家アメリカ合衆国

民主政と奴隷制は歴史において密接な関係がある。

古代ギリシャも共和政ローマも奴隷制度を前提にしていた。アメリカ合衆国も当初は奴隷制度を前提とした社会であった。

実際にリンカーン以前の15人のアメリカ大統領において黒人奴隷を1人も持たなかったのはジョン・アダムズとその息子ジョン・クインシー・アダムズの2人だけである。

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これは初代大統領ワシントン以来多くが最初の独立州であるヴァージニア州の出身であることと密接に関わっている。

ヴァージニア州は大規模なプランテーションを中心に栄えており、1850年代には人口の約45%が黒人奴隷であった。

それゆえにアメリカの支配者層は初代大統領ジョージ・ワシントンを含め皆奴隷制の支持者であったのだ。

ドレッドスコット事件

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問題をさらに複雑にしたのはフロンティアの開拓であった。

イギリスよる分化したアメリカ合衆国は、インディアンとの戦争においてその土地を収奪していった。収奪した土地が州になる際、奴隷州とするか自由州とするかはアメリカ合衆国を左右する大きな問題となる。

1820年、ミズーリが新たに州になるさい奴隷州になるか自由州になるかが大きな問題となった。結果的にミズーリ州は奴隷州となるが36度線より北の州はこれ以降自由州に、南の州は奴隷州とする「ミズーリ協定」が結ばれることになる。

そのような中、1857年に「ドレッドスコット事件」の判決が出て、ミズーリ協定の内容は違憲であるというアメリカ連邦最高裁の判決が下った。

さらにこの判決では「黒人は合衆国市民ではない」ということが明示された。

最高裁判所が出したこの判決は全米を揺るがす大事件となった。

リンカーン大統領誕生

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1854年、ミズーリ協定を破棄するようなカンザス・ネブラスカ法案に反対する形で「共和党」が生まれた。その政策内容は保護関税の導入と奴隷制の廃止であった。

明らかに北部を代表した政党であり、南部の意志の権化である民主党と真っ向から対立する形になる。

共和党の設立に伴い長い間アメリカの二大政党であったホイッグ党は共和党に吸収される形で消滅していく。

激化する南北対立において、15代アメリカ大統領ジェームズ・ブキャナンは何もしないままであった。

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次代のアメリカ大統領には誰が就任するのか?

これはアメリカ合衆国を決める大事な大統領選であった。

南部の民主党から出るのか、北部の共和党から出るのか。

結果はリンカーンの勝利に終わった。

共和党はリンカーンをいち早く候補にしたのに対し、民主党は北部民主党からはスティーブン・ダグラス、南部民主党からはジョン・ブリンキンブリッジという2人の候補を出したのが敗因であった。民主党も南北で意見が対立し、1枚岩でなかったことがリンカーン大統領誕生の最大の要因であったと言ってよいだろう。

実際にリンカーンは過半数の得票数にいたってはおらず、民主党の2人の得票数を足した場合はリンカーンの票を越えていたのだ。

アメリカの分裂~アメリカ連合国の誕生~

1860年、リンカーンの当選を受けてサウスカロライナが、それに続くようにミシシッピやアラバマ、ジョージアなどの南部の10州がアメリカ合衆国の離脱を発表した。

1861年、南部10州は新たにアメリカ連合国の建国を宣言、独自のアメリカ連合国憲法を制定し「黒人奴隷所有権を否定したり侵害するような法律は決して制定してはならない」ことを旨とし、大統領にはジェファソン・デイヴィスが就任することになった。

アメリカ合衆国の建国以来、初めて大統領が二人誕生したのである。

果たしてリンカーンは本当に偉人であるのか?

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この時期、リンカーンはどのような立場にあったのだろうか?

イメージでは断固として奴隷制廃止を貫いたイメージがあるが、リンカーンにとって奴隷制度廃止は人道的なものではなくあくまで政治的なものであった。

リンカーンは解放した奴隷をアメリカ合衆国内部に留め置くつもりなどなかった。

1847年、アメリカの解放奴隷がアフリカの地にリベリアを建国した。首都はアメリカ大統領モンローの名前をとってモンロビア。

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リンカーンは解放された奴隷を全てリベリアに移住させるつもりであった。

リンカーンの目指していたところは黒人のアメリカ大陸からの排除であり、白人の、白人による、白人のためのアメリカ合衆国を作ることであった。

「私たちは敵ではなく友人である。敵であってはならない、激情が緊張を持っても、我々の間にある愛情の絆を斬ってはならない」

これはリンカーンがアメリカ連合国に向けて出した教書の一節であるが、リンカーンはアメリカの分裂を企図していた訳ではなかったのだ。

しかしこの1月後に南部の攻撃によって南北戦争の火ぶたは切っておろされてしまう。

「私が希望するのは分断が回避されることだけです」

実はリンカーンは南部の奴隷制度存続には反対しなかった。そして白人と黒人が平等な権利を享受することも望まなかった。

実際に1862年の連邦議会においては黒人をリベリアに入植させるための予算60万ドルが組まれ、北部及び西部の絶大なる支持を得ていたのだ。

「奴隷解放」とは、我々日本人が想像するような白人も黒人も平等になることではなく、解放した奴隷をアメリカ国内から排除することが目的であったのである。

南北戦争

リンカーンがなんとか忌避しようとしていた南北戦争は実際に勃発してしまった。

きっかけは南軍によるサムター要塞への砲撃であり、ここにアメリカ合衆国史上最悪の戦争の幕があがった。

我々日本人にとって最低最悪の戦争は恐らく満場一致でアメリカと戦った第二次世界大戦であるがアメリカにとっては南北戦争の方が遥かに悲惨であった。

アメリカにおける戦死者の数は第二次世界大戦時には約40万人であったのに対し南北戦争は約50万人、しかも動員者数は南北戦争は約330万人であったのに対し二次大戦は1600万人と大きな差があったため、死亡割合で言えば南北戦争の方が遥かに悲惨だったのだ。

ちなみに一番の死因は衛生状態の悪さなどからくるはしかなどの伝染病であったという。

この辺りは第一次大戦もそうであったが、直接的な戦争よりも病死などの方が多いのが二次大戦前までの戦争の特徴であった。

南北戦争はアメリカ全土を巻き込んだ戦争となり、その期間は4年にも及んだ。

奴隷解放宣言が出された訳

南北戦争は最終的に北軍が勝利して終わる訳だが、その勝利と奴隷解放宣言には密接な関係がある。

奴隷解放宣言が出されたのは南軍への国外からの支援を断ち切るためである。

元来、南北戦争は関税を巡る戦いであった。しかし奴隷解放宣言を出すことで北軍はそれを奴隷解放を巡る戦いへとすり替えたのだ。

南北戦争が始まった当初、イギリスは南軍を支援していた。イギリスとしては北部の工業製品は競合相手であったことに加え南軍を支援する理由がもう一つあった。

イギリスはインドを植民地化したことによって、綿花の生産量を大きく上げた。そのことにより南部の綿花産業は実は既に瀕死の状態であったのだ。つまりイギリスから見れば南部はまるで自分たちの敵ではなかったのだ。

北軍はこれをなんとか断ち切らせ、さらにほかの諸外国が南北戦争に参加するのを阻止する必要があった。

実はリンカーン自体はこの奴隷解放宣言には消極的であったという。

リンカーンの考え、およびドレッドスコット事件の最高裁判決では黒人奴隷は人ではなく白人が所有する財産であった。よって奴隷解放宣言は私有財産制の侵害であり合衆国憲法違反であった。

ここに共和党内における論争が繰り広げられた。奴隷解放宣言を出すか否かである。

チャールズ・サムナー、サデュース・スティーブンスと言った強硬派がリンカーンに迫った結果、リンカーンはしぶしぶ奴隷解放宣言を出したと言われている。強硬派はリンカーンの推進していた黒人をアフリカに入植させる計画を非人道的、非現実的と言って批判、しかしこの強硬派も人道的な面ではなく解放黒人たちを軍事的に必要な資源として解放するべきという論調であったことは特筆すべき事態であろう。

ともあれ1862年9月22日、奴隷解放宣言は全世界に向けて発表された。

ちなみにその内容は1863年1月1日までに連合国家を解散しアメリカ連邦合衆国に戻らなかった場合奴隷は自由となるというものであったので、これまた我々が勝手に想像するような内容とは大きく異なる。

リンカーンはあくまで南部諸州を合衆国に戻したかったのであり、奴隷を解放したかった訳ではないのである。むしろここで南部が合衆国に戻ってきたならば、奴隷制は存続していたことであろう。

さらに言えばヴァージニアやケンタッキー、メリーランドなどはこの宣言の対象外とされた。

しかし今日われわれがその響きだけで「奴隷解放宣言」を解釈するように、当時の人々も同様に北軍は奴隷解放のための戦争をやっていると解釈した。国際世論は完全に北軍に傾いたのであった。

ゲティスバーグの戦い

趨勢はもはや北軍に傾いていた。当初こそ南軍が有利に戦局は進んでいたが、国際的に大義を失った南軍が優勢になる訳もなかった。

なにせ実際に南軍で戦っているのは奴隷を所有するようなプランテーションの主ではなく、財産のない一般的な人間達であったのだ。もはや彼らは自分達が何のために戦っているのかさえ分からなかったであろう。

一方の北軍兵士は大義に溢れていた。

両軍は1863年7月1日、ペンシルヴァニア州ゲティスバーグにて戦闘を開始した。

戦闘は、北軍の圧勝に終わった。この戦闘において合計で50000人を超す死者が出たという。

同年の11月、リンカーンはこのゲティスバーグの地で有名な演説を行う。

「戦死者の死を無駄にしないために、この国に神の下で自由の新しい誕生を迎えさせるために、そして、人民の、人民による、人民のための政治を地上から決して絶滅させないために、私たちはここで固く決意をするのである。」

リンカーンはここであくまでも北軍が勝ったのではなく「国」が勝ったのだと強調した。ある意味この演説が、アメリカ合衆国誕生の産声であったのかも知れない。

リンカーンの最期

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翌1864年、リンカーンは再び大統領選に出馬し、再選した。

そして1865年4月、南軍は降伏した。南北戦争は終結したのである。

南北戦争の事後処理において、南軍の指導者たちはほとんど罰を受けなかった。戦時中に捕虜を虐待していたなどの人物を除いて、南部の体制はほぼそのまま維持された。そのため、黒人は身分的には自由になったが、結局はプランテーションで働くしかなく、結局のところ現状はあまり変わらなかった。

そして南北戦争が終了してからわずか5日後、リンカーンは暗殺されることとなった。犯人は狂信的な南部の支持者であったという。

個人的なリンカーンの評価

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アメリカで偉大な大統領投票が行われる際、投票方式によってはリンカーンがトップになる。リンカーンの評価は実は一般人よりも歴史家の方が高い。

市民はリンカーンが奴隷解放宣言などを出した経緯を知ると失望しやすい傾向になる。実際俺も高校時代リンカーンについて学んだ時には深く失望した。なにが奴隷解放の父だ!となった。

しかしリンカーンがいなかったら世界の歴史はどうなっていただろうか?

あるいは奴隷制はずっと存続していたかも知れない。リンカーンがいなくとも南北戦争はいずれ起きていただろう。そうなればやはりアメリカ合衆国は南北に分断されていた。そして統一はされないままであったかも知れない。

南北に分かれたアメリカを、再び統一できた人物がリンカーンの他にいただろうか?

歴代のアメリカ大統領を見ても、それが出来そうな人物はちょっといそうもない。ケネディや2人のルーズベルトならあるいはという気もするが、ある意味リンカーンなくしてはそれらの大統領も存在しえなかったとさえ言える。

その後のアメリカの発展がなければ一次大戦や二次大戦はあるいはドイツが勝利していたかも知れない。

全てはifだが、アメリカにとってとってリンカーンがいなかった世界線は悲劇でしかない。あるいはアメリカに限らず、世界の歴史にとってそれは悲劇なのかも知れない。

南北戦争という最悪の事態を収拾し、アメリカを再び成長路線に乗せたリンカーンはやはり世界史上有数の偉人であり、アメリカ歴代最高の大統領であると言うべきであろう。

その偉大さはむしろ人々が認識している以上であるというべきであろう。

まさに「偉大な解放者 (the Great Emancipator)」である。