アメリカの初代大統領がジョージ・ワシントンであることは有名だが、ワシントンがどんな人でどんな人生を歩んできたかを知っている人は少ないのではないだろうか?
今回はアメリカ建国の父とでもいうべきジョージ・ワシントンの生涯について見て行こう。
マーサとの結婚
ジョージ・ワシントンは1732年にヴァージニア植民地に生まれた。
ワシントン家は1657年にイギリスよりアメリカに渡った移民の一家で、農園や鉱山開発を行ってはいたものの、指導者的な階級とは言えず、ごく一般的なイギリス系アメリカ人と言っても良かった。
そんなワシントン家が指導者的な地位を得たのは後にアメリカ初代大統領となるジョージが当時莫大な資産を持つマーサと結婚した時からである。
マーサは元々ヴァージニア植民地における名士の娘であり、18歳の時に富豪として有名なダニエルという男と結婚、7年後にダニエルが亡くなるとその莫大な遺産を引き継ぐこととなった。
この時マーサが引き継いだ資産は1万7000エーカー(1エーカー=4046㎡)の土地と300人の黒人奴隷、10万ドルと言われていて、ジョージ・ワシントンがそこに目を付けたかは知らないが、マーサに猛アタックした末に2人は結婚、一躍ヴァージニア植民地における有力者となる。
マーサとの結婚は1759年のことであったが、それ以前のジョージは大佐として1754年にフランス軍と戦うも敗北、フレンチ・インディアン戦争の原因を作ってしまう。
この戦争においてジョージは勝ったり負けたりを繰り返しながら最終的には軍を退役し、しばらくの間農園経営に従事、先述したように大富豪と結婚しその資産を順調に増やしていった。
この間にヴァージニア植民地を中心に母国イギリスへの反発が強まり、アメリカ内において独立の機運が高まっていく。
1758年よりジョージはヴァージニア議会の議員になっており、その後大陸会議議員の1人となる。
とはいえジョージ自身はアメリカの独立に当初賛同していた訳ではなく、1776年にトマス・ペインの書いた「コモンセンス」という本を読んで初めて独立の意思を強めたという。
「君たちは、新しい世界を創りつつあるのだ」
コモンセンスにおけるこの一節は、当時のアメリカに住まう人々の独立心を大いに高揚させた。
アメリカ独立の父
アメリカというのは不思議な国である。
建国から現代にいたるまで、ただの1度として専制君主が存在したことがないのである。昔の日本人はもちろん、ヨーロッパ人でさえもなぜそれが可能になるのかわからなかった。
当初、アメリカは独立を決めた者の誰を指導者とするかを決めていなかった。
イギリスと言えば当時世界最強の国家である。広大な北アメリカやインドを植民地とし、海上の覇権を完全に握ったその国に対抗するには、本来植民地側は不利過ぎた。
歴史上、不利な軍勢が勝利するには大規模な会戦ではなく突発的なゲリラ戦術に頼るしかない。
アメリカ独立戦争最初の戦いであるレキシントン・コンコードの戦いは英国側1700、植民地側4000という小規模な戦闘であった。これは英国側が秘密裏に兵を動かしたのを植民地側が察知し強襲したことで始まった戦いであり、いわばゲリラ戦術的に勝利をしたわけである。
これはかつてまだ大国とまで言えなかったローマが大国カルタゴのハンニバルに対抗した戦いに似ている。
その後も植民地軍はジョージ・ワシントンを大陸軍総司令官としながら「トレントンの戦い」「プリンストンの戦い」「バンカーヒルの戦い」と3000未満の兵力のぶつかりを繰り返し、小規模な勝利を挙げていく。
決定的となったのは名将ベネディクト・アーノルド率いる大陸軍15000と英国軍10000が激突したサラトガの戦いでの勝利で、大規模な戦闘に勝利したことで一気に流れが大陸軍に有利となった。
なお、このベネディクとという人物は後にイギリス側に寝返り大陸軍と戦うことになる。
ジョージ・ワシントンはフランスと結び巧みにイギリス軍の攻撃を刎ね華氏、「ボノムリシャーリ号の戦い」「キャムデンの戦い」「キングズマウンテンの戦い」などの小規模な戦いに勝利すると、1781年ヨークタウンの戦いにも勝利、その後も英国軍はニューヨークを占領し続けるなどしたが、1783年に講和が成立する。
超大国であったイギリスがジョージワシントン率いる大陸軍に勝てなかったのは、アメリカの海岸線が長かったことによる。
後にナポレオンに対し大陸封鎖令を敷くが、フランスの海岸線とアメリカの海岸線ではその長さは比較にならず、大陸軍側を封鎖することができず、常に補給を受けられる状態にしてしまった。
また、ニューヨークの占領こそ完了したものの、それ以外の地域において小規模な攻撃をしかけてこられたため戦線が伸び、兵力が集中できず、またイギリス側は大陸軍側の動きも把握しきれていなかったため、各地での戦いに敗北を招いてしまった。
ちなみに、独立戦争における敵味方関係は実はかなりややこしく、アメリカ大陸においても独立派と王党派に分裂していたし、ネイティブアメリカンも部族によって味方をする派閥が異なり、さらに王党派にはドイツ傭兵が参戦していたり、大陸軍にはフランス軍が味方をしていたりした。
初代アメリカ大統領
アメリカはアメリカという大きな1つの国であるが、「連邦共和国」の名の通り、いくつかの「邦」である州が集まった国である。
まだ独立宣言が出る以前の1774年、それらの州が集まって「大陸会議」を形成していた。
この時の州の数は13。
1781年にアメリカの独立が認められると大陸会議は「連合会議」となり、これは1789年まで続く。ワシントンはこの連合会議の議長などにはなっていない。
1783年、ジョージは英国からニューヨークを奪還すると連合総司令官の職を辞した。
アメリカの歴史において、この部分は大きな意味を持っている。
アメリカ大統領は、後の歴史を見ても軍人出身者が多い。
ワシントンからしてそうであるが、ノルマンディー上陸作戦指揮官であったアイゼンハワーが大統領になるなど、戦時の英雄が大統領になる例は少なくないのだ。
しかしそれらの人物は、軍人ではなく大統領になっている。
ワシントンが総司令官の職をを保持しないまま大統領になったことで、アメリカ合衆国は建国から「シヴィリアンコントロール」の国として出発したのだ。
1787年、アメリカの合衆国憲法が作成され、1788年より発効、1789年に第一回のアメリカ大統領選挙が始まった。
結果は満場一致で独立戦争の英雄ジョージ・ワシントンが初代大統領となる。
ちなみにワシントンとしては軍役を退いた後には静かに農場経営に精をだすつもりであったらしいが、当時のアメリカをまとめられる人材はワシントンしかいなかったであろう。初代副大統領にはジョン・アダムズ、国務長官にはトマス・ジェファーソン、財務長官にはアレクサンダー・ハミルトンを任命している。
農場経営において資産を形成していたこともあるが、ジョージは大統領報酬を受け取らずに職務を全うしようとしたという。ただし最終的に議会により報酬をうけとる旨の決定を受けてこれは後に受け取っている。
ただ、ヨーロッパの王侯貴族のような派手な服装や生活は避け、4年の任期を終えると再び大統領にえらばれ、3期目にも就任して欲しい旨を打診されるも3度目の出馬は拒否し、これ以降フランクリン・ルーズベルトを除けばアメリカで3期大統領を務めた者はいない。
ワシントンの時代に現在まで続くアメリカの大統領制度が確立されたと言え、後に首都が作られた際には彼の名前を取ってその街を「ワシントン・DC」と呼ぶようになった。
大統領辞任後は農場経営に戻り、1799年に亡くなった。
個人的なジョージ・ワシントンの評価
幼いころ桜の木を切ってしまいそれを素直に父親に話したところ褒められた、というエピソードがあるが、アレは嘘だ。
秀吉の草履の話も嘘だし、世界史にはよく嘘の挿話が成される。
桜の木のエピソードは嘘であったが、ジョージ・ワシントンがそのような性格の持ち主であったのは確かで、彼を始め独立当初のアメリカ人たちはアメリカを共和政ローマのような国にしたかったようである。
大統領はローマ執政官であるコンスルに近いし、合衆国議会は元老院に近く、2019年現在でも上院は元老院を表す「セナトゥス」である。
最も優秀な人物を選挙で選んで国家運営をするというのは最も合理的であり、この後アメリカは空前絶後の繁栄を極め、「パクス・ロマーナ」になぞらえて「パクス・アメリカ」と呼ばれる時代を創出することになる。
この基礎となったのがジョージ・ワシントンだと言え、ある意味アメリカ民主主義の父とさえ言えるだろう。
現在でもアフリカや南米の政情が安定しないが、これは軍属の人物が国家元首となるため武断的な政治がおこりやすいためだと個人的には思っている。
軍部は暴走しやすく、日本においても軍部が政権を握った際には第二次世界大戦における太平洋戦争を起こしているし、あれほど優れていた古代ローマは軍人が皇帝になるようになり、見る影もなく落ちぶれてしまった。
また、ソ連におけるスターリンのように長きに渡って独裁的な地位を占めることもなく、長期的な独裁をしなかったこともアメリカの性格を決定づけたと言えるだろう。
ワシントンなくして現在のアメリカの繁栄はあり得なかったのである。
あえてケチをつけるならば、大規模農場の経営者として黒人奴隷を使役していた部分であろう。
実はジョージ・ワシントンの時代、首都であったフィラデルフィアにおいて、すでに黒人奴隷を解放すべきという考え方を持った人間が全米最初の奴隷解放組織をつくっており、ワシントンはそれに賛同をしてはいない。
見方を変えれば、ジョージ・ワシントンの資産は黒人奴隷を使役することで形成されたのも事実である。
インド独立の父ガンディーもカースト制度には反対していないし、ある面で偉大な人物はある面では偉大ではない人物なのである。
人物の評価というのは誠に難しいものである。